第18話 黒兎は夜に誘う(前編)

 ――真っ赤な死神が、どこまでも追いかけてくる。


 ライラーは、薄暗きエメンタールの山中を必死で駆けていた。

 森からはじわり、じわりと黄昏の残照が消えていき、御伽噺のような闇が広がっていく。

 何処から吹きつける血臭を伴った生臭い風は、耳元で魔物に吐息を吹きかけられているよう。怜悧な容貌は顔は涙と鼻水で崩れ、魔の薫陶無き無辜の血統を睥睨していた傲慢な眼差しは既にない。闇は刻一刻と濃度を増し、スティルトンという光の国に在って忘れていた原始的な恐怖が蘇った。

 幼き頃、世界が未知の薄膜によって隔てられていた時分の、得体の知れない闇夜の恐怖だ。

 ひたひたと己を追いつめてる追跡者の足音は、負の想像を無限に想起させる黒い万華鏡。

 血塗れた掌が、今にも自分の後ろ髪を掴んで背後から心臓に刃を突きたてるかもしれない。野卑た脚が、今にも自分を蹴り倒して上から圧し掛かるかもしれない。

 今にも――。


 その想像は、次の瞬間には現実のものとなっているだろう。

 次の瞬間で無ければ、その次の瞬間に。

 どれだけ必死に駆けても、距離を離さず近づかず、足音は淡々と後ろをつけてくる。

 心が折れ果て、膝をついたその瞬間に首を掻き切るために。

 振り返りたい。振り返れない。背後の恐怖から逃れたい一心で、ライラーは陽の落ちた暗い山をひた走る。

 それは、終わりなき鬼ごっこ。

 


 ライラーの疲弊は限界に達していた。

 スティルトンの魔道師は品格を持ちと礼節を尊ぶべしと幼き頃から厳しい教育を受ける。

 人目を憚らずに室内を駈けるような慎みの無い真似などもってのほか。地を駆けたのは、幼少の頃の姉との鬼ごっこ以来のことか。

 そんな彼女の全力疾走が、長く続く筈もなく。

 永遠にも思えた鬼遊びは、樹根のうねりに足をとられたライラーが無様に地に伏せり、呆気なく終わりを迎えた。


 彼女の半身にも等しき、セコイアの魔杖が転がっていく。

 セコイアの杖は持ち主に幸運を呼び込むとして、彼女の姉が贈ってくれた品だった。

 しかし、その加護を以ってしても背後の死神を祓うことは叶わなかった。

 拾おうと伸ばした右手は、ただ泥濘を爪先を埋めるばかり。やがて、その手の甲を鉄板仕込みの厚い軍靴の靴底が容赦無く踏みにじった。

 杖より重いものを持ち上げたことも無い細い手首は容易く骨折をして、端正な指先がちぐはぐにあらぬ方向を指した。

 絶叫するライラーの背中を、硬い靴底が慈悲無く踏みつける。


「やだ、やだ、やだやだやだ、やめて、助けて、助けてよっ、やだやだやだっっ――」


 べしゃべしゃと子供じみた泣き声を上げながら、ライラーは懸命に助命を乞うた。

 眼前の死神がそんなものを聞き入れる筈がないことを知りながらも、彼女は己の命の危機にあって冷静であれる程強くはなかったのだ。多くの人間がそうであるように。

 

「ベルヘア姉さま、助けて、助けて、姉さま、姉さまっ――」


 最愛の姉が、いつものように空から手を延ばしてくれる光景を幻視した。

 されどそれは、一瞬の幻でしかなく。

 現実に降りてきたのは、最愛の姉の掌ではなく、冷酷な追跡者の刃だった。

 

 ……ごめんなさい、ベルヘア姉さま。

 

 ……魔王級への同行にあんなに反対してくれたのに。私のことを心配してくれていたのに。

 ……口汚い言葉で罵ってしまって、ごめんなさい。本当は、分かっていた。

 ……姉さまがあの男に体を開いたことだって、本当は、私のことを庇うために――。

 

 ライラー=カスティヨンは、喉笛を切り裂かれて己の血で溺れながら、虫螻でも見るような瞳で己を見下ろす赤い死神を見上げた。

 ……こんな、化物と出会わなければ。

 胡乱な頭で、ライラーは死神――ボジョレ=セギュールに遭遇した経緯を悔恨と共に回想した。



   ◆

 

 



 ――骸が、あった。

 巨大な隕石が穿ったが如き爆心地グラウンドゼロの光景。ぽっかりと口を開いた眼前の窪穴には、幾つもの幾つものレディコルカ兵の骸が折り重なっていた。

 ライラーは生粋の魔道選民主義者。

 魔の寵愛を受けぬレディコルカ人に、真っ当な人権など認めてはいない。

 しかし、自分たちの奉じる王を守るため、己の身を盾として投げ出した親衛隊の狂信的な烈誠の姿は、彼女の顔色を失わせるのに足るものだった。

 レディコルカの民の価値観は、個人主義者に近い彼女にはまるで理解できないものだった。

 崇めるものに依存した蛮族の血迷った愚行、と、自分の中で無理矢理結論づけて、上辺だけの平静を取り繕う。


 取り急ぎ確認すべきことは、剣帝の生死だった。


 死んだか。きちんと殺せたか。あれで息の根を止めることが出来たのか。

 大型弩砲バリスタや戦奴の弓兵などを用いることになったのは屈辱の極みだが、あの魔王級がどれだけ規格外の大魔道を連発しても傷つけられなかったあのマレビトを、己が采配で倒したという事実に、ライラーは頬を紅潮させる。

 誰もが己を誉めたたえるに違いない。負け犬のシャルドネなどは、歯軋りをして悔しがるだろう。

 姉さまも、これできっと私の評価を改める――。

 

 口許を緩ませながら、優雅にセコイアの魔杖を一振りし、折り重なった骸に火球を放つ。

 着弾、爆発。

 花開く大輪の焔は、彼女も紛れ無く一流の魔道師である証である。

 だがしかし、地に大穴を穿たんとした爆発は、表層の数人分の骸を散らすのみに留まった。

 その開口部からは、焦げ目一つ無い新鮮な骸が覗いている。


「抗魔力――剣帝はまだ死んでいない!」


彼女の奥歯が低い軋音を上げた。


「殺さないと――止めを、刺さないと」

 

 青い瞳を不安げに揺らしながら、戦奴隊弓兵に更なる追撃の号を飛ばさんと右手を振り上げる。

 その手首を、病人のように白く冷たい掌が握り絞めた。


「お待ちください、ライラー師匠」


 魔王級の従者の娘、エデンだった。少女はルビーのように赤い瞳を爛と輝かせ、ライラーに傅いた。


「畏れながら申し上げます。今すぐに剣帝を始末するのは下策かと存じます。

 あの恐るべき剣帝を下した手管、誠にお見事にごさいます。あの様子では剣帝は刀を握ることはおろか、立つことすらままならないでしょう。なれば、あの僭主は目も開かぬ子猫と一緒。彼奴の抗魔圏に立ち入らぬ限り、何の危険があるでしょう。このまま虜囚として連れ帰り、王都にて晒しものにするのが相応かと存じます。

 レディコルカの愚民共は崇めた剣帝の不様に涙を流して悔しがり、ライラー師匠の武名は大陸中に響きわたることでしょう。

 その上で、大衆の前に引きずり出して公開処刑に致すのが、上策にございますかと。お姉様のベルヘア師匠も、さぞやお喜びになるかと――」


 エデンの口したその名に、ライラーは柳眉を逆立てた。


「軽々しく姉さまの名を口にしないで。エルフの血を継がぬ卑しきエメンタール人如きが」


 侮蔑の眼差しと共にそう吐き捨てたが、正直に言えば、ライラーはこの従者の少女のことが、そう嫌いではなかった。何事に対しても浅慮で自己中心的で、他人とのコミュニケーションをまるで知らない魔王級――その側近を務め、スティルトン上層部との折衝を行っているのが、この少女である。

 エデンが居なければ、スティルトンはヴァインガルトという怪物の稚気によって蹂躙されていたかもしれない。エデンにとっても、幼稚な魔王級の傍に侍るのは尋常ではない重責らしく、主の目の届かない場所では疲れた顔を見せ、嘆息しているのを目にすることもしばしばだった。

 憎い魔王級の従者ではあるが――エデン当人の事は、ライラーは決して嫌いでは無かったのだ。

 加えて、エデンの言葉には、即座に剣帝を殺さなければというライラーの焦燥を宥める、不思議な説得力があった。ライラーは姉からも融通が効かないと良く窘められていたし、自分でも己は他人の言葉に耳を傾けない気性だと自覚していた。だが、その丁寧な語調や気遣いを感じさせる挙動、心底からの誠意を思わせる表情の機微に、つい絆されてしまう。絶対に――絶対に殺さなければいけないと思っていたのに。

 不承ながらも、魔王との仲を荒立てるならば、この場は肯じて退いてもいいかもしれない。

 そもそも、自己顕示欲の激しい彼女にとって、ヴァインガルトと轡を並べて戦うことは、屈辱でしかなかった。魔王級への個人的な嫌悪感も相まって、一刻も早くこの戦場を離れたくて仕方なかったという本音もあったのだ。

 彼女の中の頑固な部分が解れて、ぽろりとエデンに肯ずる言葉が漏れた。


「いいわ。その代わり、責任を持って王都に連行しなさい。レディコルカのやり方に倣って首を落とすわ。この、私だからね」


 厳しい口調で念を押して、ライラーは踵を返した。

 

「エメンタールの山には、得体の知れない魔物が棲むと聞きます。

 帰りの道中、どうかお気をつけて」


 スティルトンの魔道七師匠に数えられるこの私が、今更魔物などに遅れを取ると思うのか。

 ライラーは振り返って睨むが、エデンは柔らかな微笑を浮かべた。


「それではライラー師匠――さようなら」


 その邪気の無い挨拶に毒気を抜かれ、ライラーは狐に頬を抓まれたように、再び踵を返す。

 さようなら。その挨拶を聞いた瞬間の、世界が希薄になったような得体の知れない不安感。

 それを振り払うかのように、待機させたいた侍従達の元へと急いだ。


 

 死んでいた。

 三人のライラーの側近達は、一人残らず首筋から血を流して地に斃れていた。

 周囲には魔道の痕跡はない。

 三人は、七師匠たるライラーが側近にと選びすぐった精鋭達である。それが、抵抗もできず一方的に斬り殺されたのは明らかだった。

 彼らの死体には、共通した特徴があった。

 右耳が無い。ハーフエルフの象徴たる長耳が、無惨にも根元から削ぎ落されているのである。


 ――北の森は、魔物が出るという。

 その名は、耳削ぎ。クアルクの森に近づく魔道師を、残さず殺してその右耳を削ぎ落としてしまう。そんな、噂がスティルトン軍ではまことしやかに囁かれていた。

 勿論、根も葉も無い流言飛語の類である。独立戦争の時代のレディコルカ軍の鬼畜の所業が、御伽噺と化して広まったものだ――魔道師達は、そう信じて疑わなかった。 

 ……真実を知る、一部の者たちを除いて。


 あるとき、レディコルカへの侵入を行ったスティルトンの傭兵部隊が、全員未帰還の行方不明となった。

 要石の向こう側であるレディコルカ国内は、魔道師にとっては死地に等しい。ただの一人も残さず未帰還となったのは口惜しいが、レディコルカの哨戒体制が如何に厳戒なものであるかを知ることができた。

 そして、斥候部隊は方針を侵入から要石の外側からの監視に切り替えた。

 だが、小隊単位で哨戒を行う斥候部隊が、次々と連絡を断ったのだ。捜索の結果、発見されたのは耳を奪われた亡骸のみ。

 魔道師の本陣たる要石の外側で、スティルトン魔道師がレディコルカの剣士に破れるなど、ありえぬ話だった。ならばこれはレディコルカ軍の仕業ではなく、未知なる魔物の仕業ではないかと疑うものすら出る始末。下手に公表するれば犠牲者の名誉を損ない混乱を招くとして、真相が明らかにならぬまま、この事件は闇に葬られた。「耳削ぎ」という魔物の噂話の囁きのみを残して。


 スティルトン魔道師の最高位、七人の師匠の四席に数えられるライラーは、この不名誉な事件の存在を聞き、下手人に如何なる存在にせよ、耳を奪われた魔道師が弱かっただけだと嗤ったものだ。

 けれども、無念の表情で宙を睨む部下達の濁った瞳を覗き込んだ瞬間、得体の知れない不安が百足の群れと化して背筋せすじを上ってきた。

 

「何処だ!? 姿を見せろ!?」


 セコイアの魔杖を当所無く彷徨わせながら、ライラーは虚勢混じりの叫びを上げる。

 ――果たして、忌わしき殺人者は、闇に近い藪の奥から半身を覗かせた。右手にだらりと下げた血塗れの刃。腰のポーチからは滴る赤黒い血液は、戦利品として奪われた右耳の悔し涙だった。 

 ライラーは、その顔を人相書きで目にしたことがあった。

 炎の色の赤い髪の下には、訓練された暴力性を冷静さで包んだジャーマンシェパードの面構え。

 

「貴様が、耳削ぎなのか――? そうなのか、ボジョレ=セギュール!!」


 沈黙は、首肯と同義だった。 


「いいだろう、我が右耳、奪えるものなら奪ってみるがいい! カスティヨン家の誇りに賭けて――」


 怯えた犬のように叫びを上げるライラーに、ボジョレは端的に告げた。


「耳を削ぐ? 冗談を言うな。貴様はスティルトンの七師匠だ。首から上は全て貰っていく」 


 ボジョレは右手の人差指で刃の血糊を拭い、その指で己の左耳下に当てた。

 すっと、逞しい首筋を朱線が横切る。それは何てシンプルな殺意の表明。

 屈辱でライラーの唇が紡ぐ言葉も無く震える。

 傷つけられた自尊心を憤怒の衝動で塗りつぶし、セコイヤの魔杖を突きつけた。


「何を勘違いして思いあがっているのか知らないが、高々憲兵隊の分隊長如きが、この私の肌に傷一つ刻むこと適わぬと、身の程を弁えて散りなさい! ――癇癪持ちの針鼠イリタブル・ヘッジホッグっ!」


 絶叫と共に、燦然と輝くセコイヤの魔杖で地を深く穿った。


 突き立った魔杖から一瞬にして魔法陣が広がり、その周囲に一回り小さな魔法陣が不規則に立ち並び、更に小さな魔法陣を発動をさせる。水面に大石を投げ込んだ瞬間の飛沫の波紋の如く、地面が微細な魔法陣が埋め尽くされていく。

 

「ハリネズミの背中で踊り狂いなさい!」


 ⅢS級の固有魔道、「癇癪持ちの針鼠イリタブル・ヘッジホッグ」が発動した。

 ばら播かれた無数のビー玉大の魔法陣から土砂の棘が一斉に牙を剥き、縦横無尽に空間を埋め尽くしていく。何万年という時をかけて、地中で育つ気高き宝玉の再現。土中の圧力を操作し、ありふれた砂礫を凝集させて、一瞬で宝石並みの硬度の棘を形成する魔道は、土属性の至宝とまで讃えられる。

 無秩序に生成と消滅を繰り返す砂礫の棘は、対峙した敵を鋼鉄の処女アイアン・メイデンに押し込み開閉を一万回繰り返したが如き挽き肉へと変えてしまう。

 ライラーの眼前に広がっていた草藪がシャボン玉のように弾け飛び、木々が根本から形を失い大鋸屑おがくずへと変じて夜闇へと溶けていく。森の天蓋を覆う樹冠の木の葉まで粉雪と散って、青臭い生葉の香りがつんと鼻をついた。

  

 やり過ぎた、とライラーは激怒に任せた己の魔道の行使を恥じた。

 死体は原型を留めてはいまい。部下の右耳を取り戻りして供養してやりたかったが、ここまで徹底的に破壊してしまえば、それも叶わないだろう。

 ――レディコルカの蛮族如きに破れるなんて、元より己の従者には相応しくない弱者だったのだ。

 魔道師らしい冷徹な思考でそう切り捨てて、眼前を埋め尽くす針山への、魔力の供給を解いた。

 砂の城郭のように、眼前を埋め尽くす針山が崩れ落ちていく。


「……これが噂に名高い、七師匠の固有魔道か。なるほど、恐るべき殺傷力だ。正面から相対するのは甲種の抗魔剣士でも不可能だろう」


 その向こう側には、当然のように佇むボジョレの姿が。

 彼の半身を隠していた藪は弾け飛び、木々が粉砕された森の一角には、青褪めた月明かりが差し込んでいた。


「どうして、貴様は――」


 問いかけて、ライラーは口を噤んだ。

 鍛え上げられた屈強なボジョレの体躯。その背には、意識を失った黒髪の少女の姿が。

 頑丈なロープで、少女の体を己の体に幾重も結え上げて背負っている。

 マレビトの抗魔力は、意識を失っている最中にも効力を発揮する。ライラーの魔棘の全ては、彼女の抗魔圏の円周で当然のように消失したのだ。


「それはまさか――マレビト、番匠友枝姫……!?

 貴様、正気か、一介の部隊長が、一国の姫を己の盾として使ったというのか!? 

 そんな不敬が、非道が、レディコルカではまかり通ると言うのか!?」


 吼えて、蛮族と蔑む敵に倫理を説く虚しさに愕然とした。眼前の敵は、一切の常識の通用しない、文字通りの怪物なのだ。

 彼女を見つめる瞳は、昆虫の複眼のように冷たく無機質だった。

 

 その行為が全くの無為であることを理解しながら、ライラーは、セコイヤの魔杖をボジョレに突きつけた。ただ、焦燥と恐怖から。

 先端は輝きは、先の比ではない。全てが消し飛び拓けた森の一角を、真昼の如く照らし出し。

 

 蝋燭の火でも吹き消すように、その明りは不意に途絶えた。

 魔杖の輝きに明順応していたライラーには、周囲の景色が一瞬にして泥沼の底に没したようにも見えただろう。

 一瞬で間合いを詰めた猫科動物の動きは、人一人背負っているとは思えない軽やかさ。

 ボジョレは刀を軽飄に振るって、ライラーの端正な鼻から頬にかけてを、浅く切り裂いた。

 分厚い刃が、薄いチークの乗ったふくよかな頬に朱線を走らせる。


 ここは、既に意識無き友枝の抗魔圏内。遍く全ての魔道師にとっての絶対の死地。 


「ひっ、ひっ、ひぃぃぃ!」


 頬を抑えて、涙を流しながら覚束ない足取りで駆けだす女を、ボジョレは静かな足取りで追い始めた。

 この場で仕留めることも出来たが、死に瀕した人間は窮鼠猫を噛むが如き条理から外れた力を発揮することがある。

 友枝に万が一の累が及ぶ可能性を考えれば、このまま追いまわして、体力の尽き果てた時にその首を狩るのが最適解だと考えたのだ。

 狩人は、静かだが、力強い確かな足取りで点々と続く血痕をなぞるように歩き始めた。

 その瞳に、冷たい輝きを宿して。


  ◆


 ――応報を。

 色鮮やかな深紅の赫怒を手の内の刃に託して、バルベーラは爆心地グラウンドゼロの外周を駆け抜ける。

 大型弩砲バリスタと周辺の戦奴兵の制圧は速やかに完了した。大型弩砲バリスタの土台からロープを伸ばし、クレータの底に向かって衛生兵らによって編成された正義の救出部隊が降下していく。

 救出部隊と同時に、正義搬出の時間を稼ぐための陽動部隊も結成された。

 事実上の、決死隊である。

 バルベーラは即座にこれに志願し、仲間たちと共に左翼からの歩兵突撃を敢行したのだ。

 先行し過ぎるな、という仲間の声は右の耳から左の耳へと通り抜けた。

 あの魔王級の射程ならば、100mも10cmも共に即死圏。

 ならば、歩を躊躇う理由がどこにあろう?

 みんな死んだ。みんな死んでしまった。親衛隊の――第三憲兵隊の仲間たち。彼らは見事に己の職務に殉じた。責務を全うしたのだ。

 私も、耀神の御許へと並ぶ彼らの隊列に加わろう。

 佳き人生だった。短かったけど、この上無き至福の人生だったではないか。剣士気取りの田舎の小娘が、皇統切畠の御血脈のマレビトに侍るという、分不相応の光栄を賜れて。

 素敵な人生だった。素晴らしい人生だった。思い残すことなど。思い残すことなど――。


「何でっ!? 何でっ!? あああぁあああああっ!」


 獣の咆哮じみた叫びと共に、澎湃と涙が溢れた。

 胸中を暴れまわる未練と焦燥を義務感で飲み干し、全ての鬱憤をただ眼前の敵に叩きつけることにだけ己を研ぎ澄ます。

 敵はレディコルカの怨敵、スティルトン最強の魔王級の魔道師だ。

 相手にとって不足無し。派手に散ろう。せめて最期は――あまりにも理不尽な人生の最期であっても、華々しく飾ろう。

 構えは八相。喉元と正中を隠すのが鉄則であるが、人間を一睨みで蒸発させる相手に防御は不要。高く高く切先を屹立させ、生涯最後の一撃を全身全霊で放たんと心気を砥ぎ澄ます。

 ヴァインガルトは、どこか楽しげに背中の黒い大剣を抜き払った。

 魔道師風情がレディコルカの抗魔剣士相手に剣で抜くいう驕慢は、バルベーラの神経を逆撫でしたが、心の底でどこか安堵した。

 ――ああ、これで私は剣士として死ねる……。


 だが、不可視の戒めが一瞬にして彼女を縛り上げ、小魚でも釣りあげるようにバルベーラの体は軽々と宙に舞った。天地がシェイクされる浮遊感。それは地面への墜落死を意識させるには十分な高度だったが、揺り籠に幼子を横たえるように、彼女の体は優しくヴァインガルトの足元に転がされた。

 平衡感覚を取り戻して頭上を仰ぎ見れば、黒い刀身に血管のように赤い光が脈動する奇怪な大剣が。


「そろそろ試してもいい頃合いじゃないかな。この魔剣、黒後家蜘蛛シュバルツ・ウィドウの力を」

「危険です! おやめ下さい、ヴァインガルト様! どうか普段の通りに――」


 従者は制止を叫んでいたが、その声音に含まれた感情に、焦燥ではなく嘲笑が混じっているような錯覚をバルベーラは覚えた。

 周囲をぐるりと取り囲むように、決死隊が斬りかかる。――こんな近距離まで敵を招き入れたのは、ヴァインガルトとっても始めてのことである。

 黒い大剣。不意に、その刀身が消失し、嵐の夜のざわめきに似た甲高い風切り音が響いた。

 次の瞬間。

 畦一面の彼岸花を一斉に吹き散らしたように、数十人の決死隊は全身から血飛沫を上げ、規則正しく格子状に分割サイコロカットされた肉体が、全力疾走の勢いのままボロボロと崩落していった。

 彼らが身命を託した赤い刀身が、寸断されて鏡のように砕け散る。

 その一片の中に、呆けた己の顔が通り過ぎて消えた。

 全ては一瞬。女流剣士の麒麟児と呼ばれたバルベーラにさえ、仲間達を切り裂いた災禍が如何なるものだったのか、その正体の片鱗さえも掴むことが出来なかった。


 不意に、己の肌に食い込む戒めの感触の正体に思い当たった。

 それは、硬く柔軟な特殊な鋼の糸。

 ヴァインガルトの握る大剣の柄からは、蜘蛛の糸のように夕焼けの残照を濤乱に散らしながら、無数の鋼糸が四方八方へと伸びている。

 コイルのように巻き合わせて剣の形に形成しただけの、蚕の繭を思わせる中空の鋼糸の束。それが、魔剣と称する黒い大剣の正体だった。


 ――黒後家蜘蛛シュバルツ・ウィドウ。漆黒の大剣を背負うのが格好いいと思いながらも、鋼糸遣いも暗殺者っぽくて捨て難いという、ヴァインガルトの歪んだ無聊を慰めるためにエデンが設計したオーダーメイドの一品である。ヴァインガルトはこの剣を制御不能に陥いり廃棄された古代の魔剣の試作品だと豪語していた。

 平時に形成している剣の形を、使用時に無数の鋼糸に分解して魔力操作で振り回すだけの単純極まりない機構だが、魔王級の膨大な魔力をもって亜音速で振るえば、万物をバターのように切り裂く不可視の斬撃と化す。


「こんなもの、剣でもなんでもない――」 


 バルベーラの言は全く正しい。魔道師ヴァインガルトがレディコルカの剣士たちが刀に託すストイシズムなど理解する筈もなく、彼はただ欲望の赴くままに自分本位なロマンチズムに酔いしれる。

 しかし、勝利の女神は戦いに赴いた者たちの内面を斟酌しようはずもなく、ただ強者にのみ微笑みかける。

 地に伏せるのは賽の目に切断サイコロカットされたレディコルカ軍であり、それを睥睨するのは魔剣を握るヴァインガルト――状況は余りにもシンプルで、勝敗は問うのも馬鹿らしい程に明らかだった。

 魔王級と畏怖を籠めて讃えられる、最強の魔道師ヴァインガルト。

 この場の全ての人間の生殺与奪を握る絶対強者……だが、その表情に浮かぶのは勝利者の笑みではない。その頬は青褪め、目元は焦点を失って震え、気弱に肩を震わせ、ついには片膝をついて嘔吐した。

 地に胃の内容物を全てぶちまけ、空えずきに呻く魔王級の姿を、バルベーラは信じられない瞳で見つめた。

 一体、何が起こったというのか。

 ヴァインガルトは目元の涙を拭って、口許を歪ませて叫びを上げた。


「何だよこれ! リアルなグラフィックはいいけど無駄に解像度が高すぎなんだよ!

 安易にショッキングなグロシーンを挟んで盛り上げようなんて、ユーザーを馬鹿にしてるとしか思えない! 中二病、中二病の発想だよ!

 そんなにグロが見たいなら頭の悪い洋ゲーのFPSでもやっとけばいいじゃないか! ファンタジーにこういうのは要らないんだよ! 倒されたモブは光の粒子みたいになって消えてくのが常識だろ! なんでこんなグロい死体がいつまでも残ってるんだよ! 最悪だ! キモいし臭いし汚いし、やってられないよ! ――っ、おぇぇっ……」


 バルベーラには一片たりと理解出来ない主張を声高に叫び、魔王級は再び嘔吐した。

 敵の大将、魔王級魔道士の攻撃手段は、専ら遠距離からの超高火力の火属性魔術という情報は伝わっていた。骨の一片すら残さない過剰殺傷オーバーキルは、魔王級の力を見せつける示威行為であり、遠距離からの攻撃はマレビトの接近を警戒しているものと考えられていた。

 しかし、不意にその真意が天啓のようにバルベーラの脳裏に閃き、眼前の魔王級の狂態と縫合された。


「まさか、自分が屠った敵の骸を間近で見るだけの度胸すら無かったから――」


 ヴァインガルトは目を背けながら、無惨を晒す決死隊の骸に指を向けた。

 血に染まった大地は瞬時に赤熱化し、熱力学を完全に無視した灼熱が無念の形相を残す亡骸を影すら残さず消し去った。その熱は間近にいたバルベーラ達に届くことなく沈静化し、舞い上がった土中の珪素は超高温でガラス質に変性され、キラキラと輝く光の粒子となって降り注いだ。

 人を須臾の間に原型すら残さず焼き尽くす魔力の極致。

 そこにヴァインガルトが求めていたのは、1か0のゲームじみたデジタルな生死だった。

 少女の顔を飢狼の如く歪めていた恐怖と敵意が醒めるように胸から消え去り、代わりに軽蔑と嫌悪がその心を支配した。


「……それが、戦った相手に対する礼儀か……? 勝鬨を上げるならまだいい、その手で斬り殺しておいて、骸におもてを向けることすらできずに反吐を吐くなんて……」


 ――スティルトンの魔道士の頂点と言われる、伝説の魔王級魔道士。たった今命を落とした仲間達は、憎むに値する、挑むに値する強大な敵だと信じていたのに。

 

「そもそも、極端なリアル志向も考えものだと思うんだよね。クリエイターの真髄は、正確な写実性じゃなくて、大胆なデフォルメにこそ発揮されるのに、それをこの世界のデザイナーは分かっちゃいないよな。

 ヒロインの女の子がエルフ耳で可愛いのは認めるけどさ、もうちょっと萌え絵風味に出来なかったものかなぁ~。俺が火力職なのはロックヘイムオンラインから慣れっこだからいいけどさ、もうちょっとゲームバランスってものを考えて欲しいよね。雑魚ばっかりでちっとも面白くない。それとも、無双ゲーの一種なのかな、これ。それならもうちょっと大量のMOBをPOPしてくれなきゃおかしいんだけど。

 あ~あ、何か変にシナリオ重視にしたせいで、プレイに爽快感がなくなるパターンだな、こりゃ。

 敵には楽勝だけどキモい思いをするだけなんて、最悪じゃん」


 何を言っているのか、さっぱり理解できない。

 言葉は鈍りもない綺麗なレンネット亜大陸の公用語。だが、悪態混じりに吐き捨てる台詞の意味は、バルベーラにとって完全に理解の外だった。

 正義と遭遇した時には、言葉は通じないながらも、おおよその意思の疎通は出来たというのに。

 

「ほら、君はモブキャラだけど可愛いから助けてあげるよ。それでいいんだろ、エデン」

 

 頬を緩ませながらヴァインガルトが伸ばした指に、バルベーラはつばきを飛ばした。

 

「私に触るな、汚らわしい」


 余りに強い拒絶の意思に、ヴァインガルトがたじろぎながら後ずさる。

 その軽蔑に満ちた瞳を覗いた瞬間――フラッシュバックした。

 

◆◆◆◆◆◆


 ――投げつけられるロケット鉛筆の芯や、小さく千切った消しゴムの切れ端。

 担任の教師は淡々と教科書の解説を続けている。その視線が生徒から黒板に向かって逸れる瞬間に合わせて、得点でも競うかのように、稚気に満ちた悪意が服の襟元や首筋を狙って、次々と良太に投げつけられた。

 平然と正面を向いていれば、まだ周囲の戯心を宥めることが出来たかもしれない。だが、良太は身を震わせて怯えた視線を左右に走らせ、その様子が小学生の幼稚な嗜虐心を加速させた。


(キモっ!)

(今こっち見たよ)

(気色悪いデブ)

 

 良太のおどおどした挙措に合わせて、押し殺したくすくす笑いが広がっていく。

 

「ん? 誰だ? 授業を真面目に聞いていないのは」


 教師が振り向いた瞬間、鮮やかな変わり身の早さで加害者達は鉛筆を握って黒板を見据えた。小器用な真似の苦手な良太は、おろおろと視線を彷徨わせるばかり。


「海辺、お前はちゃんと聞いてるのか? じゃあ、読んでみろ。今の所からだ」


 良太は震えながら立ち上がると、


「そそそ、それから、わかいだだ……だだ、大工さんは言ったのさ。つか、つかうぅぅぅ、使う人のみみ、身になってぇぇ、こ、心をこめてぇ作ったものにわああ……」


 言葉が途切れる。吃音が多く人前で話すのが苦手が良太は、緊張しがちな良太は、背後から好奇と嘲笑の視線が突き刺さってくることを想像しただけで、呂律が回らなくなり、脂汗を流した。


「どうした、続けろ」

「……かか、かみ様が入っているのとおお、お同じこんだ。……そそ、それをづ、作った人も、

かみ、神様とおおんなじだ。お………、お、……おまんがが、き、き来てくれたら、かみ神様みたいにだ、大事にするつもり……だだよ、ってっててね。ど、どうだい、いいい話だろ」


 授業終了のチャイムが鳴り、教師がクラスを出ると、周囲の子供達が良太を取り囲んだ。

 腕白げな少年の一人が、国語の教科書を掲げて隣の少年に手渡した。


「キーンコーンカーンコーン! それでは、2、5時間目の授業の始めます! はい、大内君! 教科書の54ページを海辺語で音読して下さい」

「はい! 先生!」 


 少年――大内君は、表情に冷笑を貼りつかせ、肩を丸め、体を震わせながら読み上げた。


「みみみみぃみぃぃになってぇぇぇ!、ここここ、こころをこめて作ったものにわぁぁぁ、わぁぁぁぁ! わぁぁぁぁ!」


 殊更に大袈裟な道化じみた仕草での良太の音読の物真似に、周囲の子供達が一斉に笑い声を上げる。

 少年の一人が、良太にぶつかり床に転がった消しゴムの切れ端を、鉛筆を箸のように使って拾い上げた。


「ほら、海辺菌でべったりな消しゴムだぜ、海辺菌っ! 海辺菌っ!」

「ははっ、孝介、や~め~ろ~よ~」


 軽快な笑い声を上げて、鬼遊びのように良太に触れた消しゴムから周囲の子供達が逃げ回る。少年は気を大きくしたのか、良太弄りには加わらず、独り静かにノートを纏めていた少女に消しゴムの滓を突きつけた。


「ほら、円藤さん、海辺菌付きの消しゴム~~」


 少女――円藤さんは、良太が密かに心寄せていた少女だった。可憐な顔立ちな少女だったし、何より、他の子達のように良太を弄って遊ぶことも無く、いつも一人で真面目に本を読んでいるような子だったからだ。


「海辺菌だぜ! 触ると毛穴からカンセンして、海辺みたいなキモいデブになっちゃうんだぜ!」


 周囲ではやす少年達の空気に当てられたのか、元々気弱な性格だったのか。――それとも、本当に心底から良太を嫌悪していたのか、それは、今となっては分からない。

 だが、その時の円藤さんの表情の変化を、良太は今も克明に覚えている。

 円藤さんは端正な顔を引き攣らせ、鉛筆に挟まれた海辺菌付きの消しゴムから逃げるように後ずさって、眼に涙を浮かべたのだ。


「嫌ぁ、やめてぇ……」


 流石の男子達も、調子に乗り過ぎた事に気付き、無言で消しゴムを投げ捨てた。

 どこか、気まずい空気が少年達の間に流れた。それを破るかのように、傍にいた少年が渾身の力で良太の背中を蹴りつけた。


「おい海辺ェ! テメーがキモいせいで円藤さんが泣いただろうが! 謝れよ!」


 少年のまなこには、悪意ではなく義憤の色が燈っていた。

 良太はあまりに理不尽な少年の言葉にも抗弁することなく、のろのろと床に這いつくばるように頭を下げた。その時の良太の胸中にあったのは、屈辱よりも困惑だった。

 円藤さんを泣かせたのはあの子なのに、どうして僕が謝らなくちゃいけないんだろう、と。

 泣かせた子はサッカークラブのキャプテンであり、良太を蹴りつけた子は副キャプテンだったことを考えれば、その理由にも大まかな想像は出来たのだろうが、良太は人の行動原理を人間関係から類推する能力を決定的に欠いていて、それが虐めに拍車をかける原因にもなっていた。

 頭を上げた卑屈げな良太の瞳が、淡い思いを抱いていた円藤さんの視線と交わった。周囲の女子から、災難だったねー、とハンカチで目元を拭われていた円藤さんは、嫌悪と軽蔑の入り混じった視線で、床に這いつくばる良太を冷たく睥睨した。

 ――それが、一体どういう事情なのか、自分の行動にどんな瑕疵があったのかは、まるで理解出来ない。

 だが、良太はその時に悟ったのだ。自分は、ワルモノなのだと。誰から見ても気持ちの悪い、虫螻蛄のような存在なのだと。

 元々内向的だった海辺良太という少年は、日一日と、己を内へと閉ざしていった。


 ――だが、家の中にさえ安息など有りはしなかった。


「ほら、お友達がプリントを届けてくれたわよ」


 プリントと一緒に挟まれていた、クラスメイト達からの寄せ書きの紙。


『がんばってね』

『本当にがん張ってってね』

『がんばってください』

『ガンバって元気になってね!』

『一生けんめいがんばってね!』


 担任に強制されて書いたことが一目で分かる、空虚で無関心な激励の言葉が、呪いの文字のようにびっしりと寄せ書きの紙を埋め尽くしていた。

 母が心底からの慈愛に満ちた表情で、良太に微笑みかける。


「ほら、お友達がこんなに心配してくれてるんだから――。 

 良太も、頑張らなくちゃ駄目よ」


 世間体を気にする親族や、周囲の同調圧力が、幾度となく良太を学校に引き戻し、良太はその度に孤独と挫折を味わった。

 家では、ゲームやインターネットに没頭する時間が増えた。

 中学、高校と学校が進むにつれて、小学生時代のように無思慮で痙攣的な暴力を振るわれることは減っていったが、人間関係からの疎外は一層強まった。


「……だってさ、お前いつも挙動不審なんだもん。喋る前にあーうー言うしさ。何言ってるかよく分かんないし。困ってるのは俺達の方なんだぜ? うちの班が成績最下位なの、お前が班にいてみんなの足を引っ張るからじゃん。申し訳ないとか思わないわけ?」


 良太はいつもクラスのカーストの最下位だった。冷静沈着な口調で、巧みに良太に石を投げた者が株を上げ、良太は更なる嘲罵と冷笑に晒されるという、人間関係の搾取構造。その円環には果てが無かった。常に正義面せいぎづらした人気者が高い所から正論を投げ、良太はその言葉に俯いて耐えることしか出来なかった。どんな時も、正しきマジョリティ達の輪に入れない良太は醜い悪者で。

 根拠なきを気取る人間の群れは、いつだって良太の敵でしかなかった。  


◆◆◆◆◆◆




「……やっぱり殺そう」


 ヴァインガルトはそう呟くと、黒後家蜘蛛シュバルツ・ウィドウを振り上げた。

 あの視線。バルベーラが彼に向けた視線は、あの日の円藤さんの視線を想起させた。

 あれから幾度、あの視線を身に浴びただろう。週刊少年漫画の話題で盛り上がる同級生達に、ライトノベルのコミカライズの漫画を取り上げられて教壇から晒されたあの日。蛍光色の頭髪をしたアニメキャラの痴態を描いた薄い冊子を、高々と掴み上げられたあの日。

 魔道師ヴァインガルトは、何よりも己を軽蔑するものを許さない。認めない。魔王と崇められ肥大しきった彼の自尊心の世界には、己を侮蔑するような存在はあってはならないのだ。蔑意を向けてくる相手を消し去ることは、肌の痒みに爪を立てるような快感があった。

 彼の裡には、長年蓄えられた敗北感と劣等感に倍する優越感と支配欲が薪として積み上げられている。

 『前世』で抑圧されてきた防衛機制の堰が破壊され、荒れ狂う海嘯の如き奔流となって溢れ出しているのだ。

 

 ……最初から、良太一人だけが正しかったのだ。良太を蔑んだ多数の人間達こそ、取る足らない卑小な存在だったのだ。――従者エデンはヴァインガルトに、幾度も甘く甘く囁いた。

 忌わしき過去は改竄された。

 全ては過ぎ去った前世の話。絶対強者として君臨する己を、ヴァインガルトは肯定する。

 その世界観を汚すものは絶対に許さない。

 黒後家蜘蛛シュバルツ・ウィドウが魔力に紅く脈打ち、

 

「お待ち下さい、ヴァインガルト様」


 エデンは柔弱な笑みを浮かべて、細い指をそっと装飾過多の黒い籠手ガントレット)に包まれた彼の指に絡ませた。


「殺らせろよエデン! コイツは――俺をあの目で、あの目で見やがった――!」

「哀れな少女兵に、どうぞご慈悲を。彼女はレディコルカで非人道的な洗脳を受け、意に沿わぬ戦いを強いられているのです。

 その中で疲弊し、歪んてしまった彼女の不憫な魂に、お情けをかけて放免するのも勇者の器というものでしょう」


 あんまりな言草いいぐさに、バルベーラは目を剥いた。


「――何を言う、私は心底から正義陛下の御為おんために、私の意思で剣を握り、私の意思で戦った! 私の――私達の戦いを、侮辱するのか……!」


 困ったように眉根を寄せて、哀切な瞳でエデンは懇願する。


「こうして必死に庇いたてるのがその証拠です。洗脳は強固で簡単に解けそうにはありません。ですが、彼女もいつか真実を知った日には、心の底からヴァインガルト様に感謝と敬愛の念を抱くことでしょう」

「エデン、前にもお前はそんな事を言って、シャルドネとかいうツンデレエルフを逃がしたよな。でもコイツは最初から敵だし……」

「ご心配ありません。戦力的には何の価値もない、只の雑魚です。逃がしても何の問題も無いでしょう」


 バルベーラの奥歯が、軋音を上げた。


「ね、ヴァインガルト様。この娘も、貴方好みの可愛らしい顔立ちをしてるじゃありませんか。きっと、洗脳が説ければ何でも言うことを聞いてくれる、さぞや素直な良い子になることでしょう。今殺してしまうのは勿体ありません。どうぞ懐の深いところをお見せ下さい」

「う、うん、そうだな、敵味方に引き裂かれた男女――そんな恋の始まりも有りかもしれない! 

 この子も僕のハーレムの一員に加えてあげよう!」


 先ほどまでの怒りはどこへやら。エデンに諭されているうちにヴァインガルトの表情から険が洗い落され、だらしの無い軽薄な笑みが戻ってきた。

 話術、というより、彼女の言葉に自分の判断を預けきっているような有り様。

 それは説得というより、調教師が聞きわけの悪い駄馬を躾けているような光景だった。

 

「そうまで――そうまでして、私を辱めるのか――」


 怒りよりも、血液が汚泥に変わったような倦怠感と疲労感が、バルベーラの全身を膿み浸していった。


「もういい。殺せ。貴様の情婦になるなんて、死んでもごめんだ」


 どこか投げやりな彼女の言葉に、魔王級は場違いな笑い声を上げた。


「あはははっ! 『殺せっ、』だなんて、そんな台詞を本気で言っちゃうんだ!

 でも、折角のシチュなのに自衛隊みたいな色気のない服で言われてもなぁ……。

 オークに弱そうな巨乳でビキニアーマーの金髪エルフの台詞なら興奮するんだけど。

 そうだ! 帰ったらビキニアーマーを作らせてベルヘアに着せて、オークと囚われの姫騎士プレイをやってやろう! きっと盛り上がるぞぅ。ふひひっ」


 手を叩きながら口にする言葉は、やっぱりバルベーラにとっては理解不可能で。

 

「殺せっ、殺せっよぉぉぉぉっ」

 

 死にかけた芋虫のように、縛られたままもがいて叫ぶバルベーラに、ヴァインガルトは優しげに歩み寄って、芝居がかった仕草でおとがいを指で持ちあげ、


「大丈夫。心配しなくても、俺が君を助けてあげるからね」


 猫撫で声で囁きかけて、蛭が吸い付くような、無遠慮で下品な口づけを額に落とした。

 不快感の余りに、頬にまで鳥肌が立った。


「――っっ、ぇ……うぇ、うぇぇぇ……」


 叫ぶ気力すら泣く、さめざめと涙を流すバルベーラを横目に、エデンは颯爽と身を翻し、黒竜の手綱ハーネスを引いた。


「もう、勝敗の趨勢は決したも同然です。レディコルカの蛮族達も、充分にヴァインガルト様のお力を思い知ったことでしょう。お役目、お疲れさまでした。

 どうぞ、一足先にスティルトンに戻っておくつろぎ下さい。

 ベルヘア師匠やアブリル師匠もヴァインガルト様のお帰りを心待ちにしていますよ」

「……エデン、お前は一緒に帰らないの?」

「ボクはまだライラー師匠の後片づけがありますし……それから、会いたい人も居るんで、少しだけ遅れて後を追いかけますよ」

「会いたい人?」


 紅眼の従者は、会心の笑みを浮かべた。


「ボクの、古い友人たちですよ」


 後には、鋼糸で縛り上げられたバルベーラが独り残された。

 彼女は暫く呆けたように宙を眺めていたが、やがて、戒めを解くことも出来ないまま、不格好な虫のように、ずるり、と地を這った。

 虚ろな瞳から銀糸のように涙を垂らし、頬や肘を地面で擦り剥きながら、彼女は緩慢な速度で這い進む。

 辿りついたのは、黒後家蜘蛛シュバルツ・ウィドウによって仲間達が斬り殺された荒野。

 灼熱で焼き清められたそこには、何も残ってはいなかった。亡骸の燃え滓も、砕けた剣の一欠片さえ。

 冷え切った焦土に額を押し当て、バルベーラは一人、無念の嗚咽を漏らした。

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