第19話 黒兎は夜に誘う(後編)

 絶望の表情が刻みこまれたライラーの髪を引いて持ち上げ、喉元から脇差を差し込み、手慣れた様子で頸骨の継ぎ目から首を切り離す。

 ボジョレの一連の所作は流れるように淀みなく、彼の辿ってきた壮絶な戦歴を想像させるものだった。

 黄昏の藍は空から消え失せ、森はインクに浸したような闇一色。

 ボジョレが落とした首の髪を掴んで持ち上げたとき、背後から、パチ、パチ、と場違いな拍手の音が響いた。


「やあ、耳削ぎボジョレ。相変わらずの見事な手並みだね」

 

 一体、何時から見ていたのか。ボジョレは眉一つ動かさず、振り返ることすらなく、背後の声に応えた。


「黒兎、やはりあれはお前だったか」

「うん。久しぶり。今日も耳よりな情報を持って来たよ」


 親愛の情の籠った声に返答にするボジョレの声音は、氷よりも冷たい。


「確認のために聞いておく。あの魔王級――あれは貴様の手引きか?」

「あはは。こっわいなあ。そんなに怒らなくてもいいじゃないか。

 友達だろう、ボク達」


 フードを目深に被った黒髪紅眼の少女――ヴァインガルトの従者エデンは、くすくすと含み笑いを漏らした。


「貴様を友と呼んだ憶えはないが」

「悲しいこと言わないでよ。君のエメンタールでの修行時代には、一緒にパーティまで組んだ仲じゃないか!

 第三憲兵隊時代には、スティルトン斥候隊の位置情報や兵力、構成メンバーの情報を何度も君に売ってあげただろう!

 スティルトン国内に耳削ぎ伝説を怪談に仕立てて流してあげたのもボクじゃないか! そのお陰でどれだけ後の仕事が楽に運んだか、考えてみなよ。

 だから、そんなに邪険にしないで欲しいなあ」

「貴様と行動を共にしたのは、利害の一致があってのことだ」

「それから、君の妹のバルベーラだけど――魔王級あのバカの不興を買って殺されそうになってたからさ、とりあえず助けといてあげたよ。本当に、危ないところだったんだからね!」

「アレは特筆すべき力もない一兵卒だ。助けて対価を要求するだけの価値はない」

「またまたそんな捻くれたこと言っちゃって。内心じゃほっとしてる癖に」

「……仮にどれだけの恩義があったとしても、レディコルカに弓引き、あれ程の血を流したのだ。よもや応報を免れるなどと思ってはおるまいな?」


 底冷えする瞳で振り向いたボジョレに、従者は芝居がかった仕草で手を振ってみせる。


「おお怖い。ほら、ボクは無所属フリーランスだからさ、そりゃ味方になることもあれば、君の敵に与することだってあるさ」

「違う。今回の貴様の行動は、今までとは明らかに違う。意思を持って、貴様自身の目的で以って戦況を操っている。……一体何を企んでいる?

 あの魔王級、あれは一体何者だ?」


問いに対して少女が真実を答えるとは、ボショレは欠片も期待していない。だが、この少女の言葉は嘘であっても必ず嘘なりの意味がある。少しでも多くの情報が欲しいこの状況。ボショレは戦いを剣ではなく言葉に委ねる。

従者は問いには応えず、ボジョレの背中で眠る友枝の姿に目を細めた。


「それが、マレビトの姫、番匠友枝かい。可愛い娘だね。ほっぺた突っついてみてもいいかい?」


ボショレは諧謔には応じなかった。

少女は小鳥のように首を傾げると、レディコルカにとって余りに致命的な言葉を口にした。


「君にも想像ついてるんじゃないかな? 魔王級アレはスティルトン正純の魔道士なんかじゃない。そちらの剣帝親王サマと同じ、マレビトの一種だよ。それにあの様子じゃ、あれはどうやら知り合い同士だね。ヴァインガルトと名乗っているけど、それも多分偽名だ。ひょっとして君、本名に心当たりとかないかい?」


 それは、概ねボジョレも予想していた内容だった。


「マレビト、海辺良太」


 当たり障りの無い札として、捜索中のマレビトの男の本名を告げた。


「ウミベ、リョウタ……」


 少女はその名前を口の中で繰り返し、不吉な紅眼を細めた。


「同じ神国ニッポンから天降られたマレビトが、どうしてこれ程までに異なる力を持つ? あのマレビトを肥えた豚のような人間に仕立てたのは、エデン、貴様の手管か?」

「さあ。詳しいことはボクも知らないよ。それに、アレは最初からあんな人間さ。ボクはちょっとだけ背中を押してあげただけさ。

 どうして剣帝サマのようなご立派な人間にならなかったかは……う~ん、本人の努力が足りなかったとか、そういう問題じゃないのかな?

 まっ、碌な人生経験積んで無くて、小っちゃな物差しでしか世の中見れない奴だからさ、小っちゃな対価で何でも言うことを聞いてくれる、扱い易い馬鹿の典型さ」


 彼女は心底興味無さそうに、その話題を打ち切った。


「そんなことより、君に一つ朗報をあげよう。君達が帝に祀り上げた剣帝親王、切畠正義は生きてるよ。多分、今頃は君の仲間達が救出に向かってると思う」

「当然だ。正義陛下は、あの程度で亡くなられるような方ではない」

「嘘ばっかり。君ならもう、あの剣帝がどんな存在なのかを正しく把握している筈だ。

 解ってるだろう? あれは魔道士には天敵に等しい抗魔力を持ってはいるが、傷つきもすれば、死にもする、ただの人間だよ」


 形の良い唇が三日月に吊りあがった。

 ボジョレはほんの少しだけ、眉根を寄せて不快感を顕にして見せる。


「だから君は、彼が魔王級あのバカの攻撃で転落した時、仲間達と一緒に穴底に身を投げたりせずに、真っ先に予備を確保に走った。正義の死という最悪の状況まで考慮に入れ、単身では戦力にならない友枝姫を使って、自分が魔王級あのバカを殺せるのかを検証実験シミュレートしたんだ。

 だから君は、友枝姫の身を危険に晒してまで、ライラー師匠の首を獲りに来た。魔王級には遥かに劣るとはいえ、七師匠クラスは実験台にするには十分な強さだ。

 全く、大した忠臣もいたもんだね。自分の主すら代替可能な駒の一枚として運用するなんて。

 でも、ボクは君のそんな所を凄く評価しているよ」

「無駄口が過ぎるぞ、道化」

「あはは。折角だからもうちょっと喋らせてよ。阿呆におべんちゃらばかりの毎日で、ちょっとストレスが溜ってるんだ。

 君の方針はあの状況なら正解に近いよ。こちらの要人の首を獲れて、体裁も立つ。それに――魔道士狩りなら、あの正義より君の方が余程上手だろう? 

 正直、あの切畠の末裔よりも、姫を背負った今の君の方が余程怖いよ。

 それとも――最初から、正義は魔王級あのバカの力量を計るためにぶつけて、君が手を下すつもりだったのかな?」


 バルベーラなら、激昂の余りに刀を抜いて即座に斬りかかっていただろう。だが、ボジョレは刀の柄に触れさえもせず、冷ややかな視線を向けるだけだ。

 挑発的な言葉や侮蔑的な台詞で相手を煽り、感情的な言動を引き出すのは少女の常套手段だ。そして、相手の感情の揺らぎに乗じて情報を盗み取る駆け引きの妙。

 だが、付き合いも長く、この程度で揺らぐ筈も無いボジョレを軽口で煽るのは、少女にとっては挨拶代わりの歪んだ冗句に過ぎない。


「おお怖い、そんな目で睨まないでよ。

 ボクは斬った張ったは弱いからさ、君に狙われたら命が幾つあっても足りやしない。

 でも、友枝姫を背負った今の君じゃ、ボクの逃げ足には着いてこれないだろう?

 ボク達が落ち着いて話が出来るのも、これが最後かもしれないんだ。

 折角の機会だからさ、もっと楽しくお喋りしようよ!」


 ボジョレは、視線だけで次を促した。

 不用意に間合いに入るなら腕足を切り落とすつもりではあるが、この少女がそんな迂闊なことをする相手では無いのは知悉している。


「君はさ、本当にあの剣帝親王、切畠正義に国を託せると思っているのかい?

 ボクの間近で見た感想だけどね、彼は道徳家モラリストの小市民だよ。人望もあるし、将器もあるようだけど……王器があるとは、到底思えないよ。マルゴーの古狸の方が、余程王様らしく清濁併せ呑む器量の持ち主さ。

 剣は随分遣えるようだけど、あれ位の技倆の剣士なら、レディコルカにゴロゴロいるだろう。君と違って、人を斬るのにも慣れていないみたいだし。

 だってさ、ほら、彼が魔王級あのバカを斬るのを躊躇ったせいで、君の部下達は全滅しちゃったじゃないか。

 ボクとしてはそれで助かったんだけど、君としてはその辺り、どう考えてるのかな~って、聞いてみたかったんだよね」 


 少女は残忍な問いかけを無邪気な笑顔で口にする。ボジョレはそれに顔色一つ変えずに答えた。


「構わん。主の短慮をお諌めするのは家臣の務めだ。

 親王陛下は、神国へのご帰還をお考えになっていた。

 だが、陛下はあのご気性だ。これで、彼らの忠信に報いるためにご尽力下さることだろう。

 部下達は、レディコルカの礎として見事に散って見せたのだ」


 一瞬、きょとんとした顔をしたエデンは、その言葉の意味を吟味すると、軽快な笑い声を上げた。


「あっははは、君らしい答えだね!

 成る程、あの正義ならきっと死ぬまで罪悪感に苦しみ、さぞレディコルカに尽くしてくれることだろう! それは君にとっては、『都合のいいこと』なんだね!

 部下の命をみてぐらに神の魂を贖い、国に縛りつけることが出来たわけだ!

 なら、背中の友枝姫も大切にしてあげた方がいい。汚したくもない手を汚した彼は、きっとその子の手を清らかに守る為なら、どんなことにも手を染めてくれるだろうさ! 

 本当に君は素敵だ、ボジョレ! 理性を感情と完全に切り離して運用できる人間、目的の為には手段は選ばない人間、なんてのは時々いるけどさ、君みたいに――どんな汚いことをしても、それを善行と信じて疑わない人間、なんてのは滅多にいないよ!

 今までにあれだけ手を汚してるのに、悪意に敏感なキヌ大老に罪悪感や引け目の片鱗さえ悟らせずに、正義の側近を務めるなんて、君以外の一体誰にできるんだい!」


 ボジョレは答えない。

 主の号令の一声で獲物を狩り殺す最高の猟犬は、いらえに動じることなく、闇の中で赤く尾を引いて揺れる少女の凶眼を見定めていた。


「これは、取引だよ」


 少女は、長すぎる前置きを終えて、漸く本題に入った。


「マレビトを一人、ボクに売り渡して欲しいんだ。

 勿論、すぐにとは言わない。

 この戦争、レディコルカは負けるよ。ボクにも、スティルトンにも、充分な勝算がある。

 負ければ、レディコルカがどうなるかは予想がつくだろう? スティルトンの属国に逆戻りさ。300年前のように――いや、二度と蜂起など出来ないように、徹底的に叩き潰される。剣は奪われ、マレビトは吊るされ、国民は最下層の農奴に貶められる。

 でも、ボクならそれを救ってあげられる。レディコルカの敗北への流れを変えることは出来ないけど、最低限の自治を認めるギリギリの線で講和を結ぶことができる。

 その条件が、マレビト一人の身柄さ。勿論、スティルトンにはマレビトを武力で奪うことも出来るが、彼らが戦死してしまう可能性もあるし、こちらの被害も大き過ぎるからね。互いに利のある話と思わないかい?」


 少女が差し出した手を、ボジョレは白眼で見下げた。


「話にならん。レディコルカが勝てばいい話だ」

「うん、君ならそう答えると思ったよ。立場的に、他に応じようが無いもんね。だから、今はまだ何もしなくてもいい。

 ただ、いよいよレディコルカが劣勢に立った時にはボクの言葉を思い出して欲しいんだ。

 ボジョレ、君が真に国の事を思う忠士ならば」

 

長話の割には、存外下らない話だった。そんな落胆を見せつけるように、ボショレは嘆息する。


「話はそれで終わりか。ならば去ね。何時までも貴様の相手をしている暇はない」 

「うん、そうさせて貰うよ。ボクにも次の待ち人がいることだしね。

それじゃあ、最後にもう一つだけ耳よりの情報をあげるよ。君たちはマレビトの胤を受け、抗魔の力を持った世継ぎを作ろうとしてるけど、それ、全くの無駄だからね。

 抗魔力は、この世界の『外』から来た存在だけが持つ一代限りの特異能力。

 例えマレビト同士――正義帝と友枝姫の間に子供を授かったとしても、この世界で生まれたその子には、何の力も有りはしないよ。その辺のエメンタール人と見分けもつかないさ。

 出鱈目を言ってる訳じゃないよ。これは、ちゃんと検証実験も済ませての結論だからね」


 ボジョレは、答えない。

 数秒間無言で見詰め合い、今度こそ話題が尽きたことを互いに確信し、少女は闇夜の蝶のように軽やかに身を翻す。

 彼女が背中を向けた瞬間を、ボジョレは逃さなかった。

 袖口から両掌に落とし込んだ暗器を、音も無く延髄目がけて直打法で投擲。

 心理的にも物理的にも完全に死角である筈のその攻撃を、


「よっ! ほっ!」


 少女は振り返りもせず、軽飄な動作で上体を左右に振って回避して見せた。


「その手の技は、ボクには通じないって解ってる癖に。

 もう、これで5回目だよ! 君がボクを殺そうとするのは。

 『ならば去ね』なんて言っちゃって、背中を見せたら即座に飛び道具で狙うなんて。

 ホント、いい性格してるよね、君」

「何、お前の軽口と同じ、挨拶代わりだ」


 少女は、樹に突き立って震える飛鏢に、病的な白い指をそっと添えた。


「ああ、熱い」


 うっとりした顔で、彼女はひりりと指を灼く暗器の残剄を愛おしむ。


「君は、そんな壊れた機械のような人間でありながら、けっして情を失ってはいないんだね。

 部下達の死を心の底から悼んでいるのに、きちんと分別をつけている。

 伝わってくるよ。君の哀切、君の憎悪。相変わらず、涼しい顔して胸中は熱いようだね」


「魔王気取りの愚者と共に待っているがいい。貴様たちには、必ず然るべき報いを受けさせる」

「待っているよ、耳削ぎボジョレ。君と本気で戦うのも面白そうだ。

 ……ああそうだ、何時かの将棋の10番勝負もまだ中断したままだったね。ボクの五勝二敗だったっけ?

 最後の勝負は戦場でつけるのも楽しそうだ。強い駒を沢山集めといてよね」


 バイバイ、と無邪気に手を振って黒兎は闇夜に溶けた。

 耳削ぎと呼ばれた男は、ハシバミ色の瞳でじっと夜を見据える。



  ◆

 

 胡乱に揺れる意識の中、キヌは正義に続いて友枝の意識までが途絶えたのを感得した。渦巻く苦痛と戦意の負の感情を取り込んでしまうのを承知で、キヌは周囲の感情の流れの糸をたぐる。そこには、温かい正義の赤銅色も、穏やかな友枝の浅葱色も、どこにも見つからない。何があったのか、バルベーラの茜色は、酷く不安定に揺れ動き、そのまま千々に乱れてしまいそう。半透明のボジョレは、どこに居るかも分からない。

 小さな身体が引き裂かれるような不安に耐え切れず、御用馬車を飛び出ようとして、正義付きの侍従のドメーヌに制止を受けた。

 キヌは彼女に正義と友枝の捜索を命じた。友枝の意識が途切れたのは、御用馬車からそう離れていない場所だ。

 キヌも大老職にあるレディコルカの重鎮であるが、マレビトである友枝の安全確保がまず第一。――そう強弁して、ドメーヌに友枝の捜索を命じた。

 そして、キヌは馬車に独り残された。彼女程の身分の者が、側近も護衛も無しに独り馬車に残されるなど、本来有り得ないことだ。だが、何か大きな流れに運ばれてきたように、彼女はたった一人きり。孤独に耐えるように膝を抱える。

 長らく忘れていた、原始的な不安と恐怖が蘇ってきた。

 

 ……黴臭く狭い地下室。鎖に繋がれた手足。

 ……いたい、いたい、と叫ぶ誰かの心の声。

 ……おとうさんと、おかあさんを、ぐちゃぐちゃにしてしまった、兎のような赤い瞳の――。


 心の奥底の封印が解かれて、真っ黒な記憶が濁流となって溢れ出す。

 思い出してはだめ。忘れるんだ。楽しいことだけを――。

 逃避に成功しない。


 不意に、馬車の扉が音を立てて開いた。

 人の心を感得できるキヌは、人間の接近には著しく敏感だ。

 風で扉が開いたのかと振り返り、


「やあ、セルラ。久しぶりだね。元気にしてたかい?」


 封印してきた悪夢からそのまま抜け出たような自然な立ち姿で、赤い瞳の悪魔は嫋やかに手を振って久闊を叙した。

 その瞬間、心という鏡が軋みを上げて亀裂が走る音を、キヌは明瞭はっきりと聞いた。

 呆然としたキヌの細い太腿を、生温い感触が伝った。己が失禁していることにじいる余裕すらなく、歯の根が合わない口元を震わせ、彼女は禁忌の名を呼んだ。


「どうして、どうして貴方がまだ生きているの、エデン!」


目深く被ったフードの下で、禿かぶろに切り揃えた黒髪が揺れた。少女はキヌの記憶の中の姿と、何一つ変わっていなかった。彼女が自分の正気を疑うほどに。


「そりゃあ生きているさ。だって、あれからまだ295年じゃないか。幸せそうで何よりだよ。セルラ=テリス」

「その名前でわたしを呼ばないで! わたしはもうセルラじゃない!」


キヌは悲痛な声を張り上げた。


「その名前は、とうの昔に葬った! 貴方に殺された――わたしが殺めた父母の墓前に!」

「あはは、そんなこともあったね。でもさ、親にとっては子供は幾つになっても自分の子供であるように、レディコルカの大老になっても君はボクにとって、小さな可愛いセルラ=テリスさ」


親愛に溢れた無邪気な語り口に、キヌの心が痙攣した。

エデンは赤い瞳をすっと細めて、ブルソー要塞の地下室に幽閉されていた頃よりも遥かに成長したキヌの肢体を、愛でるようにじっとりと視線を走らせた。


「ほら、お座りして口を開けて。あ~んしてごらん」


 エデンの指示に、キヌは意思とはまるで違う強制力に突き動かされ、躾られた犬のように薄い唇をひらいた。エデンは無遠慮に指を差し入れ、歯科医のような手つきで細いあぎとを下げて覗くと、満足げに頷いた。


「うん、剥がした爪も、穴を開けた歯も綺麗に治ったようだね。セルラ、君は可愛い女の子だから、傷痕でも残ってたらどうしようかと心配してたんだよ。君がちゃんと立ち直ってくれて、ボクも嬉しいよ。遊び過ぎて壊しちゃった玩具おもちゃをお父さんに修理してもらった子供というのは、こんな気持ちなのかな。

 兎に角、何もかも元通りになって、本当に良かったよ」


 その口が語る邪悪の所業には到底似つかぬ、無垢な幼児のような笑みをエデンは浮かべてみせた。

 ……この少女は、いつもそうだった。どんな残忍な行いも、世間の汚れを知らぬ少女のような――あるいは、浮世の辛苦から解放された痴呆の老婆のような、あどけない笑みを浮かべながら行うのだった。

 キヌは、小さな拳を固く固く握り締めた。


「何が……一体、何が元通りに戻ったと言うの! 

 貴方に心を壊された人、貴方に命を奪われた人――もう、二度と元には戻らない!

 わたしのお父さんも、お母さんも、もう帰ってこない――。

 だのに、貴方は一体、何が元に戻ったと言うの!」


 翠玉の瞳を恐怖の泪で濡らしながら。内股を粗相の名残で汚しながら。

 それでも、キヌは叫んだ。

 己の中の、恐怖のイメージの具現そのもの相手に対峙して、赤い凶眼を見据えて見事に吼えてみせた。

 だが、決死の覚悟の彼女の言葉を、従者は鼻先で嘲笑った。


「そりゃあ、過去に不幸なことも色々だろうけどさ、今、幸せなんだろう、君。

 だったら良かったじゃないか!

 300年前に君の敬愛する義太郎に会えたのも、今新しいマレビト達と仲良くやってるのも、元を辿ればボクのお陰だろう。だから、君からしたら悲しい過去かもしれないけれど、それも全部『あって良かったこと』だったんだよ!

 君があんまり過去に縛られてくよくよしてたら、天国のご両親も悲しむさ。

 ほら、笑ってごらん。ニコニコぉ~!」


 内蔵の中で毒蛇が暴れ回るような激情を、キヌは努めて冷静に呑み下した。

 

 エデンの感情は、ノイズがかったようにぼやけていて読み取ることは出来ないが、それでもこの黒髪の従者の危険性は、はだを震わせる程に伝わってくる。

 眼前の少女との対話は全くの無為だ。自分と対等に会話する気すら無い。それでも、キヌは問うことを止められなかった。


「どうして、わたし達があんな惨い仕打ちを受けなければならなかったの? 貴方は、わたし達に何の怨みがあって、あんな非道いことを……?」

「うん? どうして、どうして、か……」


 その疑問には、初めて思い当たったとばかりに、エデンは首を傾げる。


「確か、あの日はいつものように仲間の拷問官たちと小銭で賭けをしていたんだよ。君が泣きながら『お父さんとお母さんを助けてっ!』って叫んでいたのが、何日目で『可哀想だからもう死なせてあげて』ってお願いに変わるのかね」


 噛みしめたキヌの唇から、一筋の赤い雫が伝った。


「仲間達は三日と保たないと賭けたよ。でもボクは君が我慢強い子だと知ってたからね。二週間は耐えられると賭けたんだ。事実、君は1ヶ月近くも耐え抜いた。偉かったね、セルラ! お陰でボクの一人勝ちさ。

 尤も、儲けは全部その日のうちに飲んじゃったんだけどね」


 テヘッ、と舌を出す悪気ない笑顔に、キヌの感情は冷え切っていた。胸中を掻き混ぜる激情は、いつまで経っても怒りと呼べるだけの熱さに至らない。代わりに、魂が凍傷で壊死するような冷気が、小さな胸を充たしていた。


「君のご両親には、本当に気の毒なことをしたよね。体のどこを見ても人間らしい形なんて残っちゃいなかったし、心の中は苦痛に塗りつぶされて君の事なんて考えちゃいなかった。

 でもね、君も悪いんだよ。あれだけ苦しませる前に、もっと早く死なせてあげれば良かったのに。お父さんとお母さんが君の思い出のままの姿でいるうちに、少しは君の事を気に掛けてくれているうちに、綺麗な思い出としてバイバイしようとは思わなかったかい?

 それとも――君って、ご両親の苦しみなんてどうでもいいような、自分勝手で意地悪な子なのかな?」


 キヌは恐怖の化身に正面から瞳を向けて、唇を戦慄わななかせながら、ゆっくりと告げた。


「わたしは、貴方を、許さない」


 黒兎の貌には、道端でこと切れんとする貧者を見送る聖者の微笑。


「いいや、嘘だね。君は赦すよ。どれほどの悲哀がその胸を貫こうと、どれほどの憤りがその胸を焦がそうと、君は必ずボクを許すよ。

 ボクが、心の底から己の罪を悔い改めれば、君はボクの差し出した手を喜んで握るだろう」

「そんなこと、あるはずない! わたしは一生貴方を……」

「もう、中途半端な人間の真似はやめようよ、セルラ。自分の胸に手を当てて聞いてごらん。ボクを八つ裂きにしたいという憎悪はあるかい? 一秒でも早く刺し殺してやりたいという殺意はあるかい?」


 キヌは、返答に、詰まった。


「バルベーラの赤く燃え上がるような殺意も、ボジョレの冷たい鋼のような殺意も、すごく、綺麗だったよ。でも、君の――君たちエルフの中には、そんな衝動は存在しないだろう?」

「それは……」


 言い繕うことも、感情に任せて言い返すことも出来ただろうに、キヌは言葉に出来ず口ごもる。

 彼女は、嘘がつけない。

 それは誠実さや潔癖さに基づいた行動選択ではなく、ある種の本能じみた性質だった。


「君たちは互いの苦痛に過ぎて敏感過ぎる。誰か一人でも傷つけば、互いの感覚を感得しあって、合わせ鏡のように無限に苦痛が広がっていく。非合理で理不尽な精神構造だとは思わないかい。

君の爪を一枚剥ぐたび、君のご両親は我が事のように苦痛に涙していたね。そして君は自分の苦痛にご両親の悲哀を加算して一層泣き叫ぶ」


 これぞ、文字通りの負の連鎖だよ。

 鬼畜にも劣る所業を語る声は、あくまで涼やかだ。


 キヌにとって、エデンの語る過去は思い出すことも忌わしい地獄そのものだった。

 ――あの日。彼女がついに父母の命を諦めたあの瞬間。胸中には、もはや被害者意識すらなく、鈍摩した絶望と倦怠感だけがあった。錆ついた機械がゆっくりと動きを止めるように、セルラ=テリスという少女は脈動を止めたのだ。それ以来、義太郎にキヌという名を授かるまで、彼女はずっとがらんどうで。


「あれは、実に有益な実験だったよ。

 君も、君のご両親も、人間では味わえない究極の苦しみを味わった。

 苦しみ、怒り、悲しんだ。それでも――どれだけの非道を行おうと、露悪的な態度で接してみせようと、君もご両親も、最後までボクのことを怨みも憎みもしなかったよね。

 今、君がどれだけの不条理を感じようとボクを憎むことが出来ないように」


 確かに、彼女の胸中には殺意も憎しみも無い。彼女達エルフは、他人の感情を感得し、共感することが出来る。他人の喜びも悲しみも、自分のものとして身を浸すことが出来る。

 だが――殺意や憎しみといった、他人への害意は理解不能な、ただ恐ろしいだけのものだった。

 

「随分、勇敢な目をするようになったね。そりゃあ、300年もあれば少しは成長もするか。

 それとも、好きな人でもできたのかな?」

 

 赤い瞳は、キヌの心の底をどこまでも見透かしているように欄と輝いていた。

 ブルソー要塞の地下室で出会った頃と何一つ変わらない、エデンの凶眼。


「でもさ、無価値だよ。君たちエルフの愛なんて。

 君たちは憎悪に対しては鈍感だけど、好意に対しては敏感過ぎる。

 誰かに少し好意を向けられたら、反射的に好意を返すだろう? 相手の自分への好意と、自分の相手への好意の区別がまるでついていないんだ。

 要するに、君たちは、ただ自分を愛してくれる相手なら、誰でもいいという安上がりな愛しか持っていないんだ。

 惚れるだけで愛してくれる女なんて、都合のいい人形と変わらない。まるで、あの男の語る『ぎゃるげぇ』のヒロインみたいじゃないか!」


 エデンの非難は、キヌには良く理解出来なかった。

 好意を向けられたら好意を返すのは当然のこと。愛されたら愛すのは当然のこと。 

 そこに、どんな瑕疵があるのか見当もつかない。


「君たちエルフの憎悪も、愛も、イミテーションさ。

 はらわたが捻じくれる程の怨毒を抱えながら、それを呑んで許すからこそ、贖宥しょくゆうには価値があるのというのに。目に見えない相手の感情を信じて歩み寄ろうとするからこそ、真実の愛は育まれるというのに。

 ……いや、詰らない説教をしてごめんよ、これは全部読んだ本の受け売りなんだけどね。

 でもさ、君は改心して頭を下げれば、目の前でご両親をハンバーグみたいにした相手でも許せるっていうのかい? 残念だが、そんな高潔な人間性はヒトの社会では尊ばれはしない。普通の人間は、君たちエルフの高潔さを、こう思うのさ。

 ――気持ち悪い、ってね。

『いかに美しいものでも行為によっては醜怪になる。腐った百合は雑草よりひどい臭いを天地に放つ』

 シェイクスピアだってソネットの94の中でそう言ってるじゃないか!」


 正義が高貴なる純性ノーブル・イノセンスと呼んだ、キヌたちエルフの無垢そのものの特質を、エデンは無価値と一言で断ずる。 

 しかし――キヌの胸中を、次第に疑念が浸していった。エデンが物語師さながらに朗々と紡ぐその言葉。そのボキャブラリーは、300年の時を書物と共に過ごしたキヌを明らかに凌駕している。

 キヌに確信めいた直感が閃いた。エデンの語る耳慣れない言葉。それはきっと義太郎や正義達の故郷、神国の言葉だ。


「貴方は……一体、何者なの?」

「本当は、分かってる癖に。最初から自分で答えに辿りついているのに、改めて口に出して尋ねるのは感心しないなあ」


 生徒を窘める教師の口ぶりで、エデンはそっと頭を覆うフードを、頬を撫でるようにはだけて見せた。

 血の気の無い、病的なまでに白い肌の上を、黒絹のような髪が滑っていく。

 禿かぶろに揃えた黒髪の中に指をいれ、ついと引っ張ると、幾つもピアスが輝く長耳が頭を出した。


「――ダークエルフ……」


 畏怖と絶望の混じった声で、キヌはその名を呼んだ。

 エルフの忌み子、ダークエルフ。

 ――黒き髪と赤き瞳のエルフは、この世に災厄を呼ぶ。もしも生まれたならば、人の手に託して間引かねばならぬ。

 そんな掟が里に伝わっていたのは覚えているが、実際に産まれたという話は聞いたことすらない。

 お伽噺の一種のようなものだと、幼いキヌは理解していた。

 ――悪い子は、赤い目のダークエルフに食べられてしまうよ。

 そんな、子脅しの文句に時折現れるが、誰もその存在を信じてなどはいなかった筈だ。


「うん、正解。ボクはダークエルフだ。エルフの里から追放され、間引くためにヒトの手に委ねられたエルフの変異体さ。彼らにとっての誤算は、目につかない所で殺してくれと依頼した男が、情に絆されボクを育ててしまったことだろうね。

 エルフは只でさえヒトに忌まれる種族なんだ。赤い目の変異体なんて、悪魔の化身としか思われないだろう。だからこうして、正体を隠してこそこそとヒトの世に隠れ棲んでるのさ」

 

 ダークエルフは災いを呼ぶ、と呼ばれる。だが、具体的に何を呼ぶのかまでは、里のお伽噺にも伝わってはいなかった。


「……貴方は、一体……?」

「君が聞きたいのは、そもそもダークエルフとは何なのか、ということだろう?

 それを説明するには……何処まで話したかな? ああ、そうだ、君たちエルフの感情の話だった」


 エデンの喋り方は、エルフにしては人間臭さが染みついている。エルフは決して忘却しない。話順を間違えることなく、相手が最も理解しやすい形で理路整然と筋道立てて喋るのが、エルフの常だ。

 彼女の話術は人間らしく共感が持て、それでいて相手が興味を持つようなキーワードを各所に織り交ぜ、聞く者を引きつけて離さない。それは、ヒトには不可能な魔の領域の話術だった。

 

「君たちの共感できる感情には、種類があることはもう説明したよね。

 エルフのもつ、感覚・感情の共有能力。これは一つの纏まった力だと思われているけど、実は違うんだ。

 君たちエルフは自覚していないだろうけど、これは二種類の力の複合した力なんだよ。

 一つは、他人の感情や感覚を感得する、テレパシストとしての能力。

 もう一つは、それを自分のものと同一視する、共感者、シンパシストの能力。

 君たちはただ心が読めるだけではなく、途轍もなく共感能力が高いんだ。昔、君の前でお人形の腕を千切って見せたら、君は自分の腕が千切られたように泣き喚いたよね。

 他人に対する共感性は普通の人間も持っている能力だけど、君たちはそれが桁違いに高い。

 その上、恣意的な検閲まで設けられているんだ――憎悪や殺意のような他害的な感情には、一切の共感をしないようにね。

 だけど、稀に、本当に稀にだけど、検閲機能が過剰に働いて、他人への一切の共感性を持たない個体が発生することがあるんだ。

 そして、共感性を持たない個体は、どんな遺伝子の作用だろう、決まって黒髪赤眼で産まれることを宿命付けられている。

 ……もう、分かっただろう。それがボクたち、ダークエルフさ」


 キヌはエデンの言葉を吟味しながら、その危険性に身震いした。

 人の心が、あらゆる感情が読めるというのに……感得わかるというのに、共感わからないなんて。

 エデン自身には、人間らしい喜怒哀楽が存在するのだろう。だがそれは、他人の感情とは決して交わらないのだ。

 人形でも解体するように、両親を寸刻みにしたエデンの姿を覚えている。

 彼女にとって、他人の感情はどれだけ感得したとしても、自分とは全く関わりの無い、無価値なものに過ぎないのだ。

 他人の感情に一切の共感を示さないダークエルフが、利己の為に己の能力を最大限発揮して生きるだろうことは、容易に想像がついた。

 殺人行為を極度に厭うエルフの里に於いて、間引かねばならぬと断言された理由も理解できる。

 高い知能と完全な記憶能力、そして無限の寿命を持つダークエルフは、共感を重んじるエルフの社会で生きることも出来ず、そして他人の感情感覚を客観的に把握して管理出来る彼らは、一度ひとたび人の世に交われば、コミュニケーションゲームの社会の中で、マレビトも、魔王級をも遥かに凌駕する最凶最悪の反則者チートプレイヤーとして振舞うことが可能だからだ。


「それにしても。そもそも君は、君たちは、自分たちエルフというものが、一体何なのか考えたことはあるのかな?」


 キヌとっては、予想外の質問だった。


「ボクも昔は、自分がダークエルフとして生まれたから、ただ自分に可能なやり方で世界を生きようとしてきただけだった。でもね、様々なものと出会いを重ねるうちに、沢山の不思議に気付いたんだ。

 君がレディコルカの王城に閉じこもっていた300年の間に、ボクはかなり世界の中心に近づけたと思っているよ」

「……世界の、中心?」

「うん。魔王級あのバカも時には鋭いことを言うよね。

 この世界には、きっとデザイナーがいるんだよ。

 ヒトを作った神がどんな姿をしてるかは、ボクは知らない。でもね、君たちエルフを作った神がどんな姿をしてるのか、どんな思想をしてたかは、君たちを見ればありありと想像できるんだ。

 そうだね。君たちエルフを作った神は、天にます抽象的な存在なんかじゃない。両腕に五本の指を揃え、頭に目鼻を一式備えて両の足で地を踏む、肉の体を持った存在だ。

 有り体に言えば、空想的な理想論者で極めつけに頭のイカれた、只の人間だよ」

 

 キヌは、理解できないと言った顔で、己自身の体を見下ろした。

 齢400に近づきながらも、未成熟な肢体。翠の瞳。透けるような金髪。

 明らかに、人間では有り得ない特質の数々。


「まず、君たちの精神構造と肉体構造は、あまりに恣意的に設計されているんだ。好意や苦痛には強い共感を示し、闘争逃走反応の類にはまるで共感を示さないのはさっき言った通り。これを、『共感の選択透過性』とボクは呼んでいるんだ。

 だけど、こんな性質、生物としては明らかに不自然だ。弱すぎるんだよ、戦いに。そんなことだから、先天的な魔道の才がありながも、戦いでハーフエルフや人間にまで遅れをとるんだ。

 ボクのように共感性を排除してしまった方が、生物としては明らかに強い。

 君たちは、絶対に争わない生物、という生き物として矛盾したあり方を生まれながらに強いられているんだ。


 おかしいと思わないのかい? 忘却という機能が存在しない高い知性、老化が進行しない肉体、如何なる疾病にも対応可能な免疫力。

 魔王級あのバカが言うところの、ちーとおぷしょんばかりの特異な生き物さ。

 そして、感情を共有できるテレパス能力――明らかな超常の力なのに、君がマレビトたちの傍にいても、抗魔力で停止することは無かっただろう? 魔の領域の力ではなく、生き物としての生得的な力なんだよ。きっと。

 君たちから想像できる創造主は、歪んだ優生思想と選民思想の権化のような存在だ。 

 知ってるかい。君たちエルフは大人になると、身体の各所に黄金比が顕れるように成長するんだ。普遍的な美のイデアに漸近する体の構成さ。

 モナリザじゃあるまいし……正直、狂ってるとしか言いようが無いよ。

 君たちを――ボクたちを作った神様は。 


 ヒトは君たちを亜人類デミヒューマンと呼ぶけど、とんでもない。君たちエルフこそ、人間の完全上位互換種族、真人類ポストヒューマンさ。

 どうして、神様が君たちのような存在を作ったのか、ボクなりに想像してみたんだ。

 ――きっと、神様は、君たち設計された子供デザイナーベビーにこの世界の管理を委託しようと思ったんだ。

 人が動物のように自然に世界と調和して暮らせるように、神様は知恵の実を人間から取り上げ、隠した金庫の鍵をエルフに預けたんだね。

 真・善・美を兼ね備え、博愛に満ち溢れた不老不死の完全なエルフが、永遠に見守り歌い上げる美しい世界。永遠の楽園ユートピアだ。

 それは、素晴らしい、なんて素晴らしいんだろう!」


 エデンは、そこで一端言葉を切って、睫毛の長い瞳をそっと伏せた。

 地を見つめる彼女の口から、笑みが漏れた。

 それは、道端の物乞いを嗤うかのような、酷薄な笑みだった。


「だけど、そう都合良くは行かなかったのは、君も知ってる通りだよ。 

 エルフは迫害され、本来の己の務めを忘れて、ただ悠久の時を揺り籠のような隠れ里の中でまどろんでいる。

 エルフとは外見ばかりの半端なハーフエルフは地に溢れ、ヒトとヒトは何時までも争いを繰り返す。

 そして、エルフからもボクのような変異個体が生まれて世を乱す始末だ。

 気取って言うなら、ボクは壊れた楽園の使徒だよ。

 世界各地の遺跡ダンジョンを調査して、ボクは神様の存在を確信した。

 そして、神様がまだこの世界に居るのなら、一度会って聞いてみたいんだ。

 ねえ、どんな気分? 今どんな気分? ってね」


 キヌの眼前に、エデンの手が差し出された。


「ねえ、セルラ=テリス。ボクと一緒に来ないかい。

 神様に向かう扉は、世界の狭間にあるという、ハイエルフの隠れ里にあるらしい。

 でも、里を追放されたボクには立ち入ることができないんだ。

 だから、駒を集めている。尽きない燃料や、魔道に対する盾。

 まだあの里へのアクセス権を抹消されていない君は、きっと最高の鍵になれる」


 キヌは差し出された手を見つめ、目を伏せ、理解できないとばかりに首を振った。

 

「わたしが、その手を取ることは無いと、分かっているはず」

「勿論。だから、君を勧誘するための殺し文句ぐらい、当然用意はしているさ。

 隠れ里に棲むハイエルフ。彼らはスティルトンのハーフエルフなどとは比較にならない高位の魔道士だ。人間の魔道士は、ニュートン力学か――せいぜいが、電磁気力や熱力学の範疇でしか世界に干渉できない。

 魔王級あのバカの言うところの、単純火力だね。

 でも、ハイエルフは違う。彼らは時間や空間、形而上の抽象概念をも対象にして魔道を扱えるんだ。彼らならきっと、穴を開けられる――この世界から、彼らが来た神国ニッポンへと繋がる穴を。

 帰りたがっているんだろう、彼らは」


 キヌの瞳が、隠しきれない衝撃に揺らめいたのを見て、エデンは満足げに頷いた。


「ゆっくり考えてくれればいいよ。時間は沢山あるからさ。 

 それとも、単純に脅迫した方が良いのかな?

 ねえ、君とお父さんとお母さんでやったアレ――今度は君と正義親王と友枝姫の三人で、もう一度やってみようか?」


「やめてっっ!」

 

 金切り声のような悲鳴がキヌの喉から迸った。


「セルラ、セルラ、ねえセルラ。

 君は自分の名前の由来を知っているかい?

 鉄願神セラティス。その昔レディコルカが奉じていた、自助を尊ぶ武の神様の名前さ。

 セラティスはより大きな力を求め、強い武具を探して彷徨う少女神だ。

 切畠義太郎も、最初はセラティスの使い、セラティスが現世に呼び寄せたワザモノとして崇められていたけど、何時の間にか義太郎自身が信仰対象になり、セラティス正教は敢え無く零落して消えちゃったんだよ。

 その辺りの事情、君も知ってるかな?」


 知らない筈は無かった。

 だからこそ、キヌはその名前を禁忌として封じているのだ。


 ――隣の国には、自分の名前の由来になった神様が祀られている。

 そんな話を聞いて、セルラは見に行きたいとお父さんとお母さんにお願いした――愚かにも、ねだってしまったのだ。

 スティルトン領ブンツの道端には、セラティス神の祠として、ささやかな金庫が祀られていた。

 道端を通りがかった人が祈りを捧げ、ささやかなお金や干菓子を投げ込むのを見て、我がことのように誇らしく思ったものだった。

 だが、気付かぬ間に、セルラたちは人間の兵士に、感得力テレパスの届かぬ範囲から何重にも取り囲まれ――あの、地獄の日々が始まったのだ。


「やめて……やめて、下さい、お願いだから。わたしは、何でもしますから……」


 条件反射のように、懇願の言葉が薄い唇から零れ落ちた。

 だが、キヌは知っている。自分の哀願など、眼前の少女は寸分たりと斟酌しないだろうことを。

 どれだけお願いしても駄目だった。床に擦れて血が滲むまで額を擦りつけても、どうするかは結局彼女の気分次第。だが、彼女の命令を聞かない限り、状況はより悪くなるばかりなのだ。自分の意に沿わぬ行為をした罰を、エデンは当人ではなく、両親に与えた。両親の咎は、キヌに背負わせた。

 悪い子だから。良い子になるための、お仕置きだから。笑いながらそう言って、彼女はただ自分の心の赴くままに、キヌと両親の精神と肉体を凌辱し解体し尽くしたのだ。

 アレがもう一度繰り返される。

 それを想像しただけで、これまでエデンと会話を続けてきたキヌの虚勢は消し飛んだ。

 レディコルカの大老と、正義の傍仕えとしての覚悟とプライドなど、脳髄の奥底に刻印された恐怖と苦痛の前では容易に砕け散った。

 今すぐに、正義に抱きついて泣き喚きたかった。

 エデンがキヌに刻み込んだ心的外傷トラウマは、ほんの僅かな言葉で、知性に満ちた誇り高き少女を、地下室に繋がれていた幼児へと貶めてしまう程の力を持っていた。


「う~ん、どうしようかなぁ」


 エデンはちらちらと、意地悪げな流し目をキヌへを送った。


「やめて欲しい?」


 コクコクと、幼い子供のようにキヌは必死に頷く。

 エデンはその頭を優しく撫でて、その手に銀に輝くナイフを握らせた。


「それなら、魂の自由意思に基づき、選択の機会を与えてあげよう。

 さあ、そのナイフでボクの胸を刺してごらん。本当に、君が心底からあの二人を助けたいならば、今ここでボクを殺せるはずだ。

 お父さんとお母さんの仇も討てて、全部丸く収まるじゃないか。

 さあ、証明してごらん。君たちエルフの魂が、本物であることを」


 額が触れ合いそうな程に顔を近づけ、エデンは赤い瞳でキヌの翠眼を覗き込む。

 凶器を握って震えるキヌの手をたおやかに包み、それを容赦なく己の胸に突きいれた。

 薄い乳房を裂いて、肋骨の間に刺しこまれる冷たい銀の刃。

 キヌの細腕でも力を籠めれば、充分に心臓を貫けるだろう。

 だが、額と額が触れ合った瞬間、エデンの苦痛がキヌの胸にシンメトリーを描いて突き刺さった。


「ひっ……」


 恐怖と苦痛に呻きを上げ、キヌの手から銀のナイフが零れ落ちる。

 音を立てて転がるナイフを、エデンは胸から血を流しながら、退屈そうな目を見つめた。


「……イジメてごめんね。君たちの魂が偽物だなんて、最初から分かっていたのに」


 千載一遇のチャンスを逃してしまったことに自覚しながらも、キヌにはどうすることも出来なかった。

 ナイフを拾って切りかかることも出来ず、馬車の床に蹲ってさめざめと涙を流すだけだった。


「君たちの魂は偽物だ。君たちの愛憎は空虚だ。

 だけど――、今の君の、苦痛と悲哀だけは、紛れも無い本物だね。

 ねえ、セルラ。君は、哀しみにくれている姿が一番美しいよ。

 その綺麗な涙を、もっと沢山みせて欲しいな」


 エデンは囁くようにそう告げて、蛇のような赤い舌で、頬に伝う大粒の涙の雫を舐め上げた。

 最後に、黒兎は艶やかな仕草で、頭を覆っていたフードをゆっくりとはだけて見せた。


「ボクは、本気だよ。

 これは、自分の感情をエルフに読まれないように遮蔽する魔道則品マジックアイテムを織り込んであるんだ。

 いや、原理は単純な魔道的な電波暗室なんだけどね。

 ボクの心が見えなくて不安なら、一度心ゆくまで覗いてみるかい」


 キヌたちエルフの読心能力は、受動的パッシブに発動する。 

 改めて問うまでもなく、暴力的な勢いでエデンの感情感覚がキヌの胸中に流れ込み、蹂躙した。

  

 キヌが予想したのは、貧窮し悪事に身を浸した人間のような、黒く粘つく汚泥のような心の流れだ。

 しかし、彼女の脳裏に広がったのは、澄み切った黒曜石のような、濁りなく硬質なエゴイズムの輝き。

 ……人は誰しも、心に欠落を抱き、それを埋める他者を求めながら生きている。

 それは、エルフだって同じことだ。

 だが、彼女は違う。

 隔絶された世界の中でも、自分自身の主となれる、綻びなき無欠の魂。

 孤高の絶対者。

 

 有り得ないことだと思った。有ってはならないことだと思った。

 けれども、キヌは不意に思ってしまったのだ。エデンの心が、美しいと。

 その魂の在り方が、羨ましいと。

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