第20話 玉座と牢獄

 正義の記憶に残る最初の葬式は、五歳の頃の母方の祖父のものだった。


『正義ちゃんは、小さいのに長い間きちんと正座ができて偉いのね』


 親戚の叔母さんがそう褒めてくれたことを朧げに覚えている。物心ついた頃から切畠道場に入り浸っていた正義にとって、既に一時間程度の正座は何の苦でもなかったので、その時は何に対して褒められたのか解らず首を捻ったものだった。

 少子高齢化が進んでいた正義達の故郷では、葬式はありふれた儀式だった。大家族同士の結束の固い、地縁社会だったから尚更である。どこぞの家の古老が大往生を迎えたというのはよくある話で、黒いネクタイを締めた正義が決まって持ち帰る土産の葬式饅頭には、友枝もうんざりするほどだった。

 高齢化の進む集落にあっては、葬式や年忌法要は死者を送る儀式というより、残された者達が歯抜けになっていく仲間の面子を確認するための集会だった。法要の酒席では次は誰の番か、という不謹慎な冗句に老人達は一斉にしゃがれた笑い声を上げ、禿頭を叩いて葬式の順番待ちの列にならぶ同志達と久闊を叙すのだ。

 祖父信次郎が地元の名士だったこともあり、正義は地元の老人達の信頼も篤く、四十五十は洟垂れ小僧と意気込む彼らにとっての格好の話相手として、地元の飲み事の度にお決まりの説教に付き合わされたものだった。いい齢なんだから、そろそろ結婚相手を探さにゃいかん云々、男は親の葬式の喪主を務めて一人前云々。古今東西、酒席の話題なんて似たり寄ったりの堂々巡りなのが世の常だが、正義はそんな老人達との酒の付き合いが嫌いでは無かったし、一人、また一人と彼らを見送り、遺されたものを背負ってきた。

 人は死に行くのが世の定め。

 両親の早逝や、第二の師とも言える番匠鉄也の死など、正義にとって身を切られるような別れも多かった。

 そして正義は、一番の師である祖父信次郎を見送り、立派に喪主を務め上げた。

 託されたもの、受け継いだもの。正義は、死者達の築いた道程を歩き、次に繋げる事こそ人生だという達観を若くして得ていた。

 それでも――。


「これは……これは、違うだろっ!」


 エメンタールの地で、むしろの上に並べられた死者達を前に、正義は跪いてその大きな拳で地を叩いた。

 正義を救うべく、己が命を惜しまず魔王級の開いたクレーターの中に身を投じた勇敢なる兵士達。

 シグロ。ロラメル。イエルマン。ゼド。ロゼ。ムートン。

 一緒に鍋を囲んで、猪肉を突いた。酒を飲んだ。

 あまり話す機会は無かったとはいえ、ただの他人と切り捨てるには、交わした言葉と杯の数が多すぎた。

 

 死者の列には、順序がある。


 そんな正義を哲学を、土足で踏みにじって掻き雑ぜた、混沌の地獄が眼下に広がっている。人は不条理に死ぬもの。解っている。そんなことは身に染みて解かっている。

 だからこそ、死者の列を長幼の序に従って正しく並べたい――ずっと、そんな願いを抱いて、警察に奉職してきたのに。

 濁った左の一つ目玉が正義を睨んでいた。

 零れかけていた右の眼球は既に無い。ぽっかりと空いた眼窩の黒洞は、空しく風に晒されている。


『忍従と忠誠を……忠誠を持って君国に報ぜんことを……

 剣帝親王陛下に……この身命を捧げんことを……この身命を捧げ……』

 

 壊れかけたラジオのように、親衛隊入隊誓詞を繰り返していたコート=ブール二等兵。明るい陽の下でその骸を検分すると、その損壊具合に目を背けたくなる。複数の飛礫による、頭部損壊。右足膝下の欠損。左上腕から先の欠損。腹部損壊。拇指以外の右手指欠損……あの時、誓詞を口にしていたことが、信じられない程の重傷だった。

 正義は、コートの左の瞳に指を添え、あなぐらの底で見つめあっていた時間を少しだけ想い、乾いた眼球を傷だらけの指でそっと閉じた。

 見知った顔ばかりだったが、顔と名前が一致したのは死者たちのうちほんの一握りに過ぎなかった。

 猪鍋を囲んだ酒席で、頬を上気させてこちらに語りかけてきた青年。幾つか言葉を交わした筈だった。


「お前の名前、なんだっけ……」


 血の気の引いた青い頬の亡骸の、瞳をまた一つ閉じる。詫びる言葉など、持ち合わせよう筈もなかった。

 この場の死者たちは、全て正義の為に命を散らしたのだ。

 褒め称えるべきだろう。礼を陳べるべきだろう。

 だのに――正義自身が、未だ、彼らが命を懸けるだけの価値を、己に見出せていない――それが、死者たちへの何よりの背信に思えて、正義は眩暈を覚えて膝をついた。


「これは――これは、違う。俺には、そんな価値は無かった。身命を捧げるだけの、どんな価値が、俺にあったと云うんだ……!」

 

 そんな空しい正義の問いかけに答えるかのように、背後から乾いた柏手の音が。

 

「切畠正義様、流石は剣帝の裔。魔王級の撃退、並びにエメンタール防衛戦の成功、誠におめでとうございます。どうぞ高らかに勝鬨をお上げ下さい」

 

 目を剥いて振り返ると、微笑を浮かべて手を叩くボジョレの姿が。その背中には、意識を失った友枝がいた。


「ご心配なく。友枝姫はお気を失われているだけですよ。お身体には傷一つございません」

「キヌ大老もご無事にございます」


 ボジョレと歩を合わせるかのように、キヌを乗せた馬を牽くマルゴーも歩み寄った。馬上のキヌは、虚ろな瞳を地に彷徨わせている。


「さあ、この戦、我らの勝利です。正義様、勝鬨を」

「待てよ、お前ら、この惨状で一体何を……」


 ボジョレの瞳が、駄々っ子を見つめる父親のような陰りを帯びた。

 正義は、衝動的にその胸倉を掴み上げた。


「お前らに人の心は無いのか!? 一体何を勝ち誇れというんだ―― この、惨敗戦で!」


 魔王級には一太刀とて報いることが出来なかった。率いてきた兵力の三割近くを失った。壊滅的打撃を受け、敵の主力はほぼ無傷で逃した。正義は戦場での戦の常識は分からない。常識に照らせば、これは惨敗戦であり、正義は責を負うべき敗軍の将だった。


「何を言うとんのや、大勝利やないか」


 眼帯で片目を隠した女が、鋼糸でぐるぐる巻きにされたバルベーラを、肩から下ろした。大蜘蛛に捕食されるかのような姿となったバルベーラは、悄然として地に転がった。その恰好を滑稽だけだと笑えるだけの心の余裕を持ったものは、誰も居なかった。女はバルベーラを軽く蹴飛ばすと、駄賃を要求するように掌を広げた。


「ああ重かった。貸し、これでまた一つやで」

「——お前は、エメンタールのカベルネ」

「エメンタールの国家魔道士隊は壊滅したと聞いたが、息災だったか」


 ボジョレの問いに、彼女は残された右目を寂しげに伏せた。


「目ん玉一個で、命だけは辛うじて拾って帰ったわ。まあ、うち以外の隊員は、全員もうあかんやろうな。ピノも——あかんやったわ」


 彼女は、こちらを見て乾いた笑みを浮かべた。


「正直、エメンタールも、もうあかんと思うたわ。それがこうして、魔王級も撃退できて国境線も引き直さずに済んだ、これが、大勝利やなくて何なんや?

 あんたも友枝も、ほんまに何も知らんままここに来たんやなあ。ほんま、マルゴーはんもボジョレはんも人が悪いで」


 嘆息すると、カベルネはニッパーのような工具を背嚢から取り出し、パチパチとバルベーラを戒める鋼線を切断しながら、続けた。


「ああも大々的にマレビトの帰還を宣言されれば、スティルトンは掣肘を加えんことには面子が立たん。何らかの武力行使で示威表明するのは、皆予想しとった。

 エメンタールの国境線で軽く小競り合ってこちらは撤退、スティルトン軍は要石手前の抗魔結界圏手前まで進攻して、派手に花火上げて、引き上げて。

 どんちゃん騒ぎが終わったら、エメンタールが両国に謝罪と賠償を請求して、そこそこの銭を貰ろうて――そりゃ、多少の人死には出るやろうけど、大戦にはせずに三方丸く収める絵図やったんけどな……魔王級、なんて化け物が出てきたら、しゃあないわ」


 正義は掌で顔面を押さえ、己を中心とした情勢を再計算する。

 無論、正義とて何も考えず漫然と日々を過ごしてきたわけではない。マレビトの政治的価値や影響力は、常に意識してきた。

 それでも、甘かった。キヌやバルベーラらの交流から、己の根底に流れる現代日本の価値観が大枠で適用できるという慢心を、捨てきれていなかった。

 己が手で人を斬り倒して尚、血は血で贖うことを当然とするこの地の人間の価値観の根底を、理解しきれていなかったのだ。


「最初からか――試の儀のあの日から、俺たちを火種として死人がでるのを承知で、レディコルカに迎え入れたのか」


 ボジョレとマルゴーは、この惨劇の場に立ってなお力強い瞳で正義を見据える。

 その視線には、マレビトに対する間違いない尊敬と忠義が籠められていた。

 しかし――その忠誠が、切畠正義という人間に向けられた、属人的なものではないことを、正義は改めて思い知った。

 二人は、利用価値で正義を測っているだけではない。確かに、切畠正義という人間に対しても、間違いなく好意と敬意を向けていた。

 だが、彼らが捧げていた忠誠は、正義の人間性に対するものでは無かった。

 レディコルカという国を回す、巨大な歯車システムとしてのマレビトとしての正義だったのだ。

 

 自惚れていた。マレビトと持ち上げられ、饗応を受けてのぼせ上がっていた。

 自分は、冷静で客観的に状況を判断していけるという慢心があった。

 あるいは――その慢心さえも、ボジョレによって誘導されたものかもしれないという疑念が脳裏に揺れる。ボジョレ=セギュール。最も信を置ける臣下には違いない。だが同時に、最も油断できない男だった。

 正義は、レディコルカの形式上の頂点に立った――だが、レディコルカの国内に渦巻く謀略の世界では、底辺に近い場所にいる。


「……あれ、ここは……正義様、ご無事でしたか!」


 カベルネに気付けを受けたバルベーラが、跳ね起きるように身を乗り出した。


「ここは……私は――」


 戒めの痕が残る両腕を、納まるべき刀身を欠いた鯉口を、地に散乱した鋼糸の切れ端を――偽りの魔剣の成れ果てを目にし、バルベーラの脳裏に、魔王級と遭遇戦の記憶がフラッシュバックした。

 彼女は昏い瞳で左右を見回し、筵の上に並ぶ死者達の亡骸を見つめ、亡骸さえ残す事が出来なかった仲間たちの事を想い、砂塵舞う地に膝を屈した。


「申し訳、ございません――」


 震える声で、ただ、詫びる。


「私ごときが、唯独り、おめおめと生き残って。

 一緒に……私も、みんなと一緒に死にたかった――」


 正義は引き攣らせるように顔を歪めると、唾をのみ込み、威風堂々たる将の顔を整えて、低い声色で、ゆっくりとバルベーラに告げた。


「本当に良かったよ。お前だけでも、生き残ってくれて。

 バルベーラ――大儀だった」


 地に伏せた赤い癖毛の頭の下から、悲鳴のような嗚咽が漏れた。

 ボジョレは、話は済んだか?とばかりに会釈をすると、装飾を凝らした一振りの刀を差しだした。


「この戦は剣帝親王殿下の御親征なれば、

 さあ、勝鬨を上げに向かいましょう」

 

 その言葉は、正義の臓腑の底に重く落ちた。

 正義にとって、勝負とは文字通り勝つか負けるかを競うもの。

 だが、剣帝の裔とは、レディコルカに在っては不敗の戦神。負けはない、如何な境遇に陥ろうとも、負けを宣言することは許されない存在なのだ。

 そんなモノに、己が成ってしまった事を、今やっと、心底から理解した。


 玉座の形をした牢獄で、正義は凱歌を謳う。振り上げた刀に、雁字搦めに巻き付いた鎖を幻視しながら。



 ◆

 

 

 ――キヌ、あの後、何があった?


 問う声に、黒兎の姿が鮮やかに蘇った。


『しぃーっ!』


 脳裏の黒兎は、人差し指を唇に立てて、いたずらな瞳でキヌを見据えている。

 赤い、赤い、黒兎の瞳が、キヌを捉える。


 ――誰か、敵方の重要人物と接触できたなら、教えて欲しい。


 正義に問いに、キヌの心が悲鳴を上げる。伝えなければ!

 魔王級の後ろに潜む、あの最低最悪の危険な悪鬼のことを! 全てを手繰るあの黒兎のことを!

 だが、声に出そうとした瞬間、キヌの中で黒兎を表す言葉が朧に崩れる。唇はぱくぱくと空しく開閉を繰り返し、喉から胸を締め上げるような痛みが走った。

 呼吸が、できない。

 鎖の音が、響く。足元を見下ろすと、細い足首は赤錆にまみれた鉄枷が。

 見回せば、周囲に正義の姿も友枝の姿もなく、四方はあの忌まわしいブルソー要塞の拷問室の石壁だ。

 眼前には唯一人、黒兎が立っている。カチカチとハサミを鳴らしながら立っている。


『じゃあ、さよならだね、セルラ。覚えておいて。誰かにボクの事を喋ろうとしたら、君はとっても苦しい思いをすることになる』


 あの日だ。ブルソー要塞に破竹の勢いで進軍していたレディコルカ軍が接近し、ついに黒兎が去ることになった日の事だ。

 あの時も、キヌは、呼吸も出来ずにひゅうひゅうと喉を鳴らしながら石の床に這いずっていた。


『セルラ、苦しいよね、苦しいのは嫌だよね?』

 

 涙を浮かべて、キヌは苦しみから逃れたいが一心に頷いた。

 あのあと、黒兎は何と言っただろうか。


『苦しい時は、こう思うんだ。

 君は、何も見なかった。

 君は、何も聞かなかった。

 君は――とても眠くなる』


 黒兎の姿が、ぼやけていく。

 キヌの唇から、意図せずに誓わされた言葉が漏れた。


「私は、何も見なかった――眠い――」


 視界が傾ぐ。正義と友枝の慌てた声が聞こえる。


 ――ああ、ごめんね、キヌさん。キヌさんも疲れてるのにね。

 ――もう、マサ兄、だめだよ! いつも言ってるよね、女の子は大事に扱わないと!

 ――おやすみなさい、キヌさん、いい夢を見てね。


 黒兎が振り返る。赤い瞳が、喜色を湛えて横に細まる。



 ◆


 スティルトンの牢番の間で、昔から密やかに囁かれている噂がある。

 曰く――王城の地下牢には、開かずの牢獄があるという。

 ある凶悪な魔道犯の存在を葬り去るために、鉄格子を石壁で覆い、出入りが不能になった部屋があるというのだ。百年以上前に忘れ去られ、中にはその魔道士の白骨と、死に際に地で描いた禍々しい魔法陣が残されているのだとか。


「出してくれよぉ! 俺は何もしてねえんだよぉ! 奴らに騙されたんだ!」


 牢番は嘆息する。

 先任から聞いた時には、一顧だにする価値もない馬鹿馬鹿しい話だと一笑に付したものだが、目の前で鉄格子を揺さぶり泣き叫ぶ男の顔を見ると、そんなお伽噺に浸りたくなった過去の牢番達の気持ちが良く分かる。

 ここは、最悪の職場だ。鉄格子越しに喚く囚人の顔を蹴りつけ、どんな悲鳴を上げるかを楽しむ以外に、娯楽がない。

 王城の地下牢と言っても、大物の政治犯などが囚われることもない。いつからの慣習か。ここに入っているのは、政治や経済の不始末を幾重にも押し付けられた、一応の下手人ばかりだ。

 囚人が叫ぶ、何も知らないという言葉も、騙されたという言葉も本当だろう。貴族や大臣の尻ぬぐいの果てにぶち込まれた連中なのだ。

 この仕事を続けて数年。憐憫すら浮かばなくなった。

 ――不意に、牢番の頭を、痺れるような眠気が襲った。

 無理もない、と牢番は頭を振って、上司と職場のストレスを言い訳に、時間外だが仮眠をとる事に決めた。咎める同僚も無ければ、逃げて困るほどの囚人も居ないのだから。


 ◆


 牢番が腕枕で寝息を立てる地下牢に、小さな足音が響いた。

 

「出してくれ、せめて飯だけでももうちょっとマシなものを――」


 瞬間、鉄格子の向こうで狂態を見せていた囚人たちが、一斉に黙った。

 黒いフードを被った小さな影が、静かに端の牢まで歩み寄ると、先ほどまで狂騒を見せていた囚人の一人静かにが跪き、訓練された仕草で己が牢の合い鍵を差し出した。


「お待ちしておりました、エデン様、どうぞ、お入り下さい」


 黒髪紅眼のダークエルフ、エデンは跪く囚人を一顧だにせず牢に入ると、垢と屎尿の悪臭の染みついた敷き藁に大の字になって転がった。


「ああ、やっぱりここは落ち着くねえ――おっと、時間がないんだった」

 

 彼女は、石壁を構成している煉瓦を数本抜き取り、丁度子供一人が通れる程の隙間を作ると、その中に小さな身体を押し込んだ。

 穴の向こうは、牢番に伝えられる開かずの牢獄だった。200年程前から、ここはエデンの私的空間パーソナルスペースとして改造されている。

 エデンは設えられた長椅子に体を預けると、少しだけキヌの事を想った。

 キヌの口から自分の存在が露見する心配は、万に一つも無いだろう。

 キヌに施しているのは、人間に対する洗脳――例えば、ここの囚人達に施しているもの――のような、生温い心的な刷り込みではない。

 エルフの心の機序モジュールは、明らかに人間とは異なっている。余程の事がない限り陰に落ち込まない、心的な恒常性の維持力は明らかに人間を超えている。

 エデンの知識では預かり知らぬことだが、内分泌系統が人間とは明らかに異なっているのだ。

 原理メカニズムに対する理解こそないものの、エデンはその機能システムについては、恐ろしく高い精度で理解している。

 同朋との接触を保つことによって、精神の安定を保つことや、『共感の選択透過性』と名付けた共感構造の違い。エデンは、度重なる非人道的な実験によって、エルフという種の精神構造のリバースエンジニアリングを重ねてきた。

 その中で発見したのが、強制命令に対する、絶対的な遵守意識だ。意に添わぬ――エルフのモラルに添わぬものを強制しようとすると、呼吸困難や全身痙攣を起こして苦しみ、最悪では死に至るのだ。これはアルドステロンの分泌異常による高カリウム血症であるが、それを人為的な刷り込みで再現可能であることを発見して、エデンは一つの結論に至った。


『エルフは、より上位の管理者の下で働くことを想定して作られた、人造種族だ』


 あまりに管理が容易に設計された精神性。そして、これはエルフの管理者が仕込んだ、個体の緊急停止システムに違いない、と。

 不意に、ボジョレの事が脳裏を過ったが、彼はエデンの存在を暴露するような悪手には至るまい、という確信がある。自分しか使えない隠しカードとして伏せておくことを選ぶはずだ。

 エデンの予想は概ね正しい。それが、結果的にキヌの命を救った。ボジョレがキヌにエデンの存在を詳細に語り、尋ねたならば、自己矛盾が暗示で修正できる許容限界値を超え、呼吸困難で死亡していただろう。


 エデンは、鼻歌でも口ずさみたくなるような上機嫌を、努めて抑えた。

 棚から、お気にいりの標本おもちゃを取り出す。

 液体が充填された小瓶。中には小魚程の大きさの、葉脈標本のようなものが沈んでいる。

 それは、エデンの研究の成果の中で、一番のお気に入りの品だ。


 キヌの母親の、外耳の神経標本だった。

 

 保存のためのホルムアルデヒドの精製には、エデンも苦心したものだ。

 エルフとハーフエルフの違い。尽きぬ寿命と、精神感応能力。

 機能的な差異が存在するなら、そこには確固とした器質的な差異があるに違いない、というのがエデンの仮説だ。

 キヌ達三体のエルフ親子の捕獲に成功したと報告があった時、彼女は踊り上がって喜んだものだ。精神的、遺伝的繋がりのある男女親子三体のエルフのサンプルが手に入るのは、長いエデンの人生でも初めてのことだった。

 彼女は徹底的な解剖学的検証を行った。その末に発見したのが、人間とは違う、エルフのシンボルとも言える特徴的な耳介に走る、神経網だった。

 入念な生体解剖の結果、脳から視神経に匹敵する太い神経が、人間よりも大きな頭蓋の外耳孔を通って伸び、植物が根を張るように、耳介に神経を巡らせていることが分かった。

 外見的な形状の差異しかない、ハーフエルフの耳とは、全く異なっている。

 この外耳を切り落とす事で、エルフ特有の精神感応能力が失われることからも、人間とは異なるこの長く尖った耳が、精神を感得する特異な感覚器官であることは明かだった。


 この耳でエルフは――ボクは――人々の頭の中をいるんだ。


 そのことを発見した時の、感動と興奮が忘れられない。……元より、エルフに忘れる機能は無いのだけれど。

 金属箔で厳重に覆う、強い天然磁石を耳に近づけるなどしても、精神感応能力が乱れることから、磁界や微小電位などを感知しているものと考えられるが、詳細は不明だった。次なる実験の課題としたい。

 白兎の赤眼のように、雑種で失われる形質が、孫世代で約四分の一で再び発現するという観察結果は多数あるが、ハーフエルフ同士の交配で、この神経網が発現することは無かった。一度交雑して失われると、二度と回復しない形質と考えられる。原因はまだ不明。 

 

「――と、あんまり長々と考えこんでいる時間はないんだった」


 新しい真理の発見と探求こそが、エデンの生きがいだ。

 観察し、仮説を立て、論理立てて演繹的に検証するという、科学的なアプローチで、彼女は確かに世界の中心へと近づきつつあった。

 彼女の現在の最大の課題は、精神感応に並ぶ大きな特徴である、エルフの不老長寿の解明だ。

 キヌが切畠義太郎の元にいながら、成長と老化が進行しなかったことから、これも精神感応と同じ器質的な特徴であることは間違いないだろう。

 エデンは、不老長寿を司るエルフ特有の臓器――『命臓』があるのではないか、と仮説を立て、解剖学的な検証を行ったが、こちらはハズレだった。

 肝臓、胸腺、副腎皮質、甲状腺など、幾つかの臓器で人間との差異が発見できたが、命臓であると断言するにはエビデンスが足りない。脳も念入りに解剖し、松果体や海馬などの構造に大きな差異があることを発見したが、こちらは記憶能力の差異と関係する部分だろうと推察される。

 手詰まりだった。

 しかし、彼女を無能とそしるには当たるまい。彼女の設備では、電子顕微鏡による観察も、塩基配列の分析も出来ない。解剖器具と光学顕微鏡だけで、エルフの肉体の神秘に挑んでいるのだから。細胞分裂の際のテロメアの挙措を突き止めるには、あまりに手札が足りなかった。

 

 エデンは、名残り惜しげに神経標本を棚に戻すと、息を吐いて気分を整えた。

 これから行う作業は、彼女をして極度の集中を必要とする。


 彼女が向かったのは、壁際に置かれた古い安楽椅子だ。スラムに捨てられていても誰も拾わない程に薄汚れた椅子であるが、奇妙なのは、その周囲だった。

 五月雨のように、幾本もの金属糸が椅子の周囲に垂れ下がり、その先には釣り針のような小さな鉤がついている。椅子に座るものを釣りあげようとしているかのようだった。

 エデンは安楽椅子に背を預けると、被っていた黒いフードをはだけた。

 エルフ特有の長耳に、幾つもの銀色のリングピアスが輝く。 

 彼女は慣れた手つきで、周囲から下がる金属糸を、先端の鉤を使って耳のピアスへと接続していく。

  

 エデンのピアスは、成人の儀として耳に幾つものピアスを通す、というハイエルフの伝統を、自らの肉体で再現したものだ。この無意味に思えた伝統も、エルフの解剖によって合点がいった。

 これは、耳介の感覚神経の傍に金属製のピアスを通すことによって、感覚網を人為的に拡大する施術なのだ。

 エデンは、それを一歩先に進めた。

 スティルトンの城中の、絨毯や天井の各所に細い細い銅線を網のように巡らせ、総延長数十㎞にまで敷設した銅線網を、ピアスを通じて、己の耳介の感覚神経に、そして脳に接続しているのだ。

 他のエルフが知れば、負担で脳を焼き切りかねない狂気の所業と慄くだろう。


 だが、エデンはそれを御した。彼女は今、スティルトン王城で飛び交う、

 義太郎によってブルソー要塞が陥落した300年前から、エデンはこのハーフエルフ国家、スティルトンに寄生虫のように入り込んだ。

 料理人に、清掃婦に、庭師に、幾度も名と立場を変えながら王城に居座り、寄生虫が脳に達するように、ついにスティルトンの意思決定を実質的に支配する立場に至った。

 とは言っても、誰も彼女が支配者であることを知らない。エデンはただ、王城全ての人間の感情を掌握し、その人物が他人に抱く感情を読み取り、誘導しているだけだ。

 王城の全ての人間の、感情的な人物相関図を把握し、操作する。

 誰一人、エデンに操作されていることを自覚している者はいない。彼女は黒子に徹し、誰もが見知らぬ誰かの流した噂や、どこからか聞こえた言葉の断片に導かれ、自発的にエデンの望む方向に舵をとる。


 波と風を読む船頭のように、エデンはスティルトンという国そのものを乗り熟し、流れを作り出している。

 

 ――これから、第一次エメンタール進攻の報告会議が行われる。

 ――その前に、現在の城の内情を完全に掌握しなければ。

 人間が時折見せる激昂や不条理な行いは、度々エデンの予想さえも上回るのだ。

 だから人間は面白い、と彼女は楽しんでいるのだが。


 頭が痺れる程の非言語的な情報量が、エデンの脳内を蹂躙する。

 王城のあちこちで、魔王級の強引な進攻に対する、不安や期待が渦を巻いている。

 今回進攻に賛成した大臣、行政の実務に携わる役人たちは気が気でない様相だ。


「問題は、ベルヘア師匠だね。彼女をどうやって宥めようか。 

 折角のマレビトを、殺し尽くされちゃ、たまらないからね」


 スティルトン魔道七師匠筆頭、ベルヘア=カスティヨン。彼女は、妹のライラーがボジョレによって討たれたことをまだ知らない。妹を溺愛していた彼女が知れば、どれ程激昂するだろうか。

 エルフには、人間の感情の流れが見える。ベルヘアの感情の流れの色は、高潔を好む澄んだ金だ。それが赫怒の朱に染まるのだろう。

 ベルヘアは、現在スティルトンで最も有能な人材だ。魔道士としてより――というより、人間として特別に優秀なのだ。彼女の聡明さの一割でも持ち合わせていれば、ライラーは命を落とさずに済んだのに、とエデンは嗤う。

 それでも、ベルヘアは絶対に失ってはならない優秀な人材だ。単純な魔力量では魔王級に劣るが、力量では遥かに上を行っている。恐らくは、あの剣帝親王を仕留める事すら可能だろう。


「さあ、今度はどう転がして遊ぼうか」

 

 エデンの足を進めるのは、純真無垢な知識欲だ。

 彼女は、まだ己の知らぬ何かを求めて突き進む。

 人も、国も、全てを道具として踏み台にしながら、ただ、世界の真理だけを求めて。

 魔王級、マレビト。二つのあり得ざる駒が、この世界に現出した。

 一瞬一瞬が、世界の分岐点、事象節になりうる激動の時代だ。

 一体、これからどれ程の未知と出会えるのだろうか。

 『神様』のいる世界の中心には、どれだけ近づけるのだろうか。


 エデンは、興奮に胸を高鳴らせる。


「さあ、新しい冒険の始まりだ。きっと、素敵な出会いがボクを待っている」


 垢とカビの臭気立ち込める牢獄の底。

 その玉座で、エデンは期待に瞳を輝かせた。

 




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