第21話 私だけの丸い世界(前編・魔道女帝)



「無理だ。俺たちが居る程度では、到底スティルトンには敵わない」


 それが、急ごしらえの陣小屋で正義の出した結論だった。

 何度考えても、どれだけ考えても――それ以外の結論は出なかった。

 レディコルカの民の抱いている剣帝信仰への冒涜とならないだろうか、という迷いもあった。だが、精神論に因って破滅への流れが始まらないだろうか、という惧れが勝った。

 己が言葉がどう受け取られたのか、不安げに同席した面々を見回せば、最も衝撃を顕わにしたのはバルベーラだった。

 彼女は、正義の言葉が理解できない、と言うように頭を振って、畏まった口調で奏上した。


「畏れながら申し上げます。剣帝親王であらせられる正義殿下は、原初の抗魔力をお持ちです。殿下は――正義様なら、あの魔王級を打倒することなど、いとも容易いはずです! 敵わないなどと仰らずに、どうか、かたきを……!」


 青白い顔で、緋毛氈ひもうせんに頭を擦りつけるようにして懇願する彼女の姿に、正義は奥歯を噛む。

 その表情に忖度してか、ボジョレがバルベーラのポニーテールを掴み、そのこうべを床から剥がした。


「見苦しい真似は止せ、バルベーラ。

 正義様が仰っていることは、端的な、事実だ」


 腕を組むマルゴーも、その他の面々も、ボジョレの言葉に眉根を寄せながらも、異は挾まなかった。


「そんな……邪なる魔道の力では、正義様のお身体に傷一つ付けられないというのに、」


「あの魔王級と俺たちでは、力の絶対値が違う。世界への干渉能力が桁外れに違い過ぎるんだよ」


 正義は、なるべくバルベーラを傷つけないように、努めて言葉を選んで言い聞かせた。


「仮に一対一で勝てたとしても、軍と軍の勝負では相手にならない。

 俺たちの抗魔圏の中だけが無傷でも、他の全てが焼き払われてしまえば、それはレディコルカの負けだ。

 いや、今回も、ほぼ一対一で、無為無策の相手に、単純な力押しで惨敗したんだ。次回からスティルトンは確実に対策を練ってくる。魔王級じゃなくても、俺たちを害することが出来るような策を張ってくるだろう」


「私たちには、魔法は通じないのに?」


 正義と同じ原初の抗魔力の持ち主、友枝が首を傾げた。

 

「キャンプに行った時、教えなかったか? 潰し罠フォールトラップ


 友枝が見逃していたごく単純な陥穽を告げると、あ、と彼女は顔色を変えた。


「魔道であれだけの事が出来るんだ。空高くに岩でも浮かせておけば、抗魔力を持った俺たちが通った瞬間にペチャンコにする即席罠の出来上がりだ。地面を抉って落とし穴を作り、魔力で蓋をしておけば、落とし穴の出来上がりだ。俺たち専用のな。

 抗魔力が魔力を打ち消す仕組みなら、魔力が途切れる事で発動する絡繰りを用意すればいい。俺が少し考えただけで、こんな事を思いつくんだ。あちらさんは、もっと悪辣で精密な策を、山ほど用意してくるだろう。

 正直、抗魔力を持っているの俺たちに、対処できるとは思えない」

「じゃあ、じゃあどうすれば……」


 問う友枝も、もう完全に理解していた。 

 もう一度戦となれば、レディコルカには、スティルトンに対抗するビジョンは存在しない。

 要石の外の世界の戦力差は、絶望的とも言える程だった。

 眉根を寄せ、瞳を揺らしているバルベーラを見るに堪えず、正義は勇気付けるように微笑んでみせる。

 だが、それは逆効果だったようだ。バルベーラは己が忖度べき主に、忖度を強いた事に深く羞じ入り、おもてを伏せた。ボジョレは、今更ながらに己の過ちを理解した妹の愚昧さに嘆息をつく。


 正義は、マルゴーとボジョレに意味ありげに視線を送った。


「でもまあ、あちらさんに諸手を挙げて白旗を振るつもりは更々無いんだろう?

 今後のレディコルカの方針は、何となく予想できる。

 スティルトンに講和を持ちかける――違うか?」


 ボジョレは、眉一つ動かさなかった。

 マルゴーのむっちりとした髯面の頬が、僅かに吊り上がる。


「そんな……不可能です、不可能です! かの暴国が自国の優位を放棄して講和に応じる筈はございません。魔王級の力を手にしたこの機を逃さず、一気呵成に侵攻を進めてくるに違いありません!

 講和を持ちかけるなど……自殺行為です」


 狼狽する妹と、理解できないという顔をしている友枝を見比べて、ボジョレは少し表情を柔らかくする。


「愚かな妹ですが――話を噛み砕いて進めるには、良い相槌ですね。

 正義様、友枝様。我が国では、以前より幾度もスティルトンに対して内偵を進めて参りました。

 実際にスティルトン国内に潜入し、内情を探ったのは私の直属の部下達になります」


 正義は、視線で先を促した。

 ボジョレが、単なる憲兵の分隊長などではなく、国王マルゴーの下で濡れ仕事ウェットワークに就いていた人物だろうことは正義にも想像できていた。だが、その内容を詳細に聞くのはこれが初めてとなる。


「スティルトンはある意味とても強烈な貴族主義で、国政に関わる議会も、議会が後ろ盾とする七師匠と呼ばれる魔道師達も、概ね爵位を持つ伝統的な貴族家より輩出されて参りました」


「七師匠って、レディコルカの剣道七師匠みたいな?」


「我が国の昔の恥を晒すようでお羞ずかしゅう御座いまするが、我ら剣道七師匠は、かつて暴虐を振るったスティルトンの魔道七師匠を真似るが如く作られた称号に御座いまする」


 友枝の問いに答えたのは、七師匠の筆頭の国王マルゴーだった。レディコルカは、ボジョレが魔道七師匠の四席であるライラ―を討ち取っているが、魔王級との交戦により、七席のバルザック師匠を失っている。

 

「スティルトンは強烈な魔道選民意識を持つ国家です。しかし、それ以上に貴族主義のハーフエルフの国家でという色の方が遥かに濃い。あの魔王級は確かに超常の魔力の持ち主でしたが、。魔王級がこの地に現出したのが正義様達と同時期と推測するなら、長くて数ヶ月。到底スティルトンの首脳陣に受け入れられるとは思いません」


「だろうな。スティルトンは貴族による安定した保守政権を維持してきた国だ。レディコルカと違って、マレビトを崇拝する伝統も無い。あの男が、ただ強力な魔力を持つというだけで、最強の魔道師の称号である魔王級を名乗り、軍権を手にし、エメンタール侵攻を行うような横車を押せる道理は絶対に無いんだよ。俺はあの男を知ってる。――絶対に、己からそのような行為を始める人間ではない。

 あいつを神輿として担ぎ上げた連中がいる。恐らくは、急進的な改革を望む勢力だ。

 そして、結果として――あいつの侵攻は失敗した。七師匠も含めて、スティルトンにも甚大な被害が出た。いまあちらの国内では不満の嵐が吹き荒れているはずだ。

 スティルトンの政権の中枢に存在する保守派の人間にとって、魔王ヴァインガルトは排除したくて堪らない存在の筈だ。

 だから、スティルトン上層部は魔王級の打倒を条件に持ち掛ければ、頷く公算が高い。

 マレビトである俺が、あの魔王ヴァインガルトを、海辺良太を殺してやるから――そう、持ち掛けるんだろう?」


 正義は己が推測を一気に並べ、喉の渇きを覚えて手元の茶を啜った。

 マルゴーが莞爾とした笑みを浮かべる。


「これは驚きました。流石は皇統の御血筋。全てご賢察の通りに御座いまする」


 友枝は、不安げに正義の袖をぎゅっと引いた。

 正義が彼女の前で海辺良太に対する、明確な殺意を口にしたのはこれが初めてだ。

 こんなこと、できれば友枝に聞かせたくは無かった。それでも、口にせねばならなかった。

 あの戦いで、魔王級に殺された数多の仲間たちの為にも。


「それにしても――あいつを、魔王級に祭り上げ、エメンタール侵攻の駒として使ったのは、一体誰だ?」


 この問いには、答えるものは居なかった。


『今です、ヴァインガルト様!』


 一瞬、正義の瞼の裏に、従者の少女が振るったナイフの銀弧が蘇った。

 フードの下の、白兎のような赤い瞳。

 ……まさか、とかぶりを振る。


「――それが、正義様のお考えなら、わたくしには、何の異存も御座いません」


 沈黙の満ちた陣小屋の中で、黙りこくっていたキヌが、呟やくように告げた。

 短い軍議の終わりだった。



  ◆


 陣小屋の帳の外に出る。正義の鼻腔の奥には、まだ血と臓物の香りがへばりついていた。

 不意に、竹刀が振りたくなった。

 腰に携えた刀ではなく、いつも道場で振っていた三尺九寸の竹刀を。

 正義は、己の感情の捌け口を、いつも竹刀に頼っていた。

 父母の余りにも急な訃報を耳にした時、第二の師とも言える番匠鉄也を見送った時。正義はいつも竹刀を振った。柄皮が手汗で緩み、四ツ割の竹の形が手指をなぞるまで。

 我執妄念を振り切りながら数息三昧に竹刀を振り、己が透き通っていく感覚を正義は愛している。

 今は、子供のようにしりっぺたに当たるまで大きく竹刀を振りかぶり、頭の中が真っ白になるまで、竹刀に己を預けたかった。

 されど、この戦場には、竹刀はない。

 

 己の為に命を擲った兵たち。

 そして、己が斬った敵兵の顔を、ひ、ふ、み、と数える。

 剣の原初の目的とも言える人斬り。それを果たしたというのに、正義には己の業に、自分で驚く程に何の違いも感じられなかった。

 祖父、信二郎は戦後帰国を果たした帰還兵に、兄義太郎の消息を尋ねて回ったそうだ。

 その折に、壮絶な戦地の話を耳にしたが、戦地で軍刀を振るって人を斬った話は稀であったという。

 分かりきったことではあった。とうに、刀は戦場での武器としての価値を失っていたのである。


 幾つか、有名な逸話がある。

 昭和の剣聖と呼ばれた羽賀純一は、戦地で憲兵に捕虜を斬首してみないかと持ち掛けられ、これを無益と断ったという。

 幕末明治の名人、渡辺昇は生涯己が斬った相手が夢枕に立つと悩まされた逸話は、当時から有名であった。

 尚、羽賀の剣は、人間より遥か硬い頚骨を持つ豚の頭を一刀にして落としたという業前が伝えられている。


『人を斬ったとて、業が進むとは限らぬ』


 とは、信二郎の言だ。

 正義が昔読んだ書には、鳥羽伏見の戦いに乗じて腕試しで辻斬りを行った、野村利三郎という男の名が残っている。

 利三郎は凡そ剣と呼べるものは学んでいなかったが、気で先んじて相手に斬りかかるだけの剣法で、三十六遍の真剣勝負を行い、三十五回の勝ちを得たという。

 野村利三郎の名は、今日幕末の剣豪譚として語られることは殆どない。

 正義は、苦々しい思いで、狂奔にてられて斬りかかってきた男たちの顔を思い出す。

 あれは、正に書に記された利三郎が如き剣であった、と。


 空を見上げれば満天の星々が輝いている。

 ふと、東の空の山際に、見慣れた星々が並んでいるのを正義は目に止めた。

 べデルギウスとリゲルの特徴的な輝き。


「オリオンだ。ボジョレ達に会う前は、あんなに探しても見つからなかったのに」


 呟いた瞬間、眼前の星の並びが示唆する意味の重大さが、羽虫の群れに覆われるような悪寒となって正義を飲み込んだ。


「――そんな、馬鹿な。なら、ここは……」



  ◆ 


 ――失敗した。

 男の頭を埋め尽くしてたいるのは、悔悟と焦燥だった。

 ――大失敗だった。

 

 そんな流れだったのだ。そんな空気だったのだ。誰かが、この流れに乗れば間違いないと囁いていたのだ。誰もが、成功すると信じて疑わなかったのだ。

 男は、スティルトンの有力貴族の一角だった。主流の保守派からは、魔王派という蔑称で呼ばれている、急進的な派閥に属していた。

 彼は魔王級、ヴァインガルトのエメンタール侵攻成功という賭けに乗り、そして敗れた。

 多くの魔道士の犠牲を出し、七師匠のライラ―まで討たれてヴァインガルトが撤退したという急報を受け、男は目の前が眩むかのような衝撃を受けた。

 これまでの人生、彼もまた、政治的には穏健な保守派に属する人物だった。無理無駄無法を避け、無謀な侵攻論などに賛成したことは一度たりとてなかった。

 それが、何故だろう。あの魔王級ヴァインガルトで出会った瞬間、これまでの人生で一度も行わなかった冒険に挑みたくなるような高揚を感じたのだ。

 男は既に齢五十を過ぎている。丁半博打で身を持ち崩す下町の破落戸や、高級娼婦に入れあげて破産するような若い男ではない。だのに、熱に憑かれてヴァインガルトを支援してしまった。

 

 今思い返してみても、何故自分がこんな異邦人の化物に、己の政治人生の全てを賭けたのかが、さっぱり分からない。

 強い――それは、間違いない。スティルトンの魔道七師匠と対立し、決闘を挑んだ二位と五位を瞬殺した実力は、正しく現世に蘇った魔王と呼ぶに相応しい。

 しかし、だ。

 七師匠のような、国政に対する理解も援助もなく、精神は自己顕示欲の塊という幼稚な男だ。

 何故、己があのような力を振りかざすだけの男に賭けてしまったか。

 悔めども、あの時の男の中には、ヴァインガルトを援助すれば、莫大なリターンが望めるという空算用で塗りつぶされていたのだ。

 ――誰かに頭の中に『今乗るしかない』と

 もうじき、第一次エメンタール進攻の報告会議が始まる。

 この、大失敗のツケを払うのは一体誰になるのか。醜い責任のなすり合いが始まるのは必定だ。

 政治生命を賭けたババ抜きが、恐ろしくて堪らない。

 男はただ、子供のように震え続ける。

 瀟洒な窓枠の外に、疾風と共に黒い影が落ちた。飛竜が悠々と膜翼を羽ばたかせながら、城塞中央の噴水の隣に身を下す。

 魔王級――ヴァインガルトがスティルトンに舞い戻ったのだ。

 

 

 同時に、大理石の床に、固いヒールを叩きつける音が響いた。

 声を殺した密談が、一斉に止む。

 メトロノームのように乱れない硬質な足音。

 ウェーブの金髪と蒼い瞳。砂時計型の美しい体を鎧うは黒衣のドレス。

 美形揃いのハーフエルフの中で、尚一際美しい、魔道の女帝。

 魔道七師匠、第一席。ベルヘア・カスティヨンが姿を現したのだ。

 彼女は溺愛していた妹、七師匠四席、ライラ―を討たれたとの報を耳にしたばかりだった。

 しかし、睫毛の長い流し目は穏やかに伏せられ、美しい鼻梁の根には縦皺一つない。

 それでも、真っ直ぐ伸びたベルヘアの背中からは、魔力が嚇怒によって青き焔の如く立ち上り、その場の全ての人間を威圧した。

 一同、びくりと身を固くする。

 あるいは、マンステール広場の変の再来か――。

 魔王級の礼を失した振舞いに耐え兼ね、第二席と五席の師匠が決闘を挑み、秒殺された事件が頭を過る。

 あの瞬間から、スティルトンの政治勢力は魔王派と保守派に割れた。日和見を決め込む中立派も多く、表だっての闘争は無いが、このわだかまりは解消のしようがない。

 純血の最強魔道士ザ・クイーンたるベルヘア師匠まで魔王級に挑んで散れば、もはや彼の狼藉者を掣肘できる存在はいなくなる――そんな恐怖に保守派は恐れ慄くが、刃の如き殺気を放つ彼女を取りなそうとできるものなど、居りはしない。


「あら皆様、ごきげんよう」


 ベルヘアは固くなる面々に目もくれず、扇で口許を隠して優雅に一礼をする。

 上品に椅子に腰かけ、ティーカップを口に運ぶ柔らかなその仕草。保守派が魔道女帝と仰ぐに相応しい、気品ある振舞いである。されど、ベルヘアを知る多くの者達は彼女の察するに余りある彼女の怒りの恐ろしさに、震える手をそっと懐に隠した。


 薄氷の沈黙を破るように、作法の一つも知らぬ品の無い足音が響く。


「やあやあ、ただいま! あの剣帝親王?だっけ、相手のボスは僕が倒しといたよ。

 攻撃無効化属性持ってる変な奴だったけどさ、大した事ない相手だったよ!」


 挨拶の一つすらなく、子供が捕まえた虫を自慢する如く己の手柄を語る魔王に、周囲の人間は阿諛追従の賛辞で答えた。

 そんな稚気を嗤うことなく、ベルヘアは目を細めて微笑むと魔王の首筋に腕をまわし、その赤い唇で大胆不敵に口付けた。

 彼女が、この男と枕を共にしている事実は、宮中の多くの者が知り及んでいる。

 保身の為に得体の知れない化け物に股を開いた淫婦、とまで彼女を蔑む声は当然だろう。


 しかし、真にベルヘアを知るものは心の底から畏れている。

 彼女は屈しない。曲がらない。目的の為には己が身を炎に投じる事すら微塵の躊躇もしない鋼の意志を持った女帝が、魔王モドキの褥で愛玩されるだけの妾に成り下がるなど有り得ないと、確信している。信仰している。

 頬に朱を交え、うっとりした表情で瞳を閉じて魔王と口付けを交わしていたベルヘアの瞳が、すっと開いた。

 切れ長の瞼と伏せ気味の睫の下から覗く蒼い虹彩は、氷より尚冷たい。

 魔王の肩越しにその瞳を直視してしまった男たちは、視線の鋭さに耐えきれず視線を逸らした。

 公衆の面前での接吻。しかし、その様子に淫靡な香りは伴わず、獣が抑えつけた獲物の肉を喰い千切るが如き緊張感さえあった。

 つ、と唾液の糸まで引きながら唇が離れる。


「ところで、私の妹のライラーが剣帝と戦って戦死したという報を受けたのだけど、ご存知かしら?」


 今接吻を終えたばかりの紅色の花弁は、情事の後の睦言とまるで変わらぬ語調で問うた。

 笑顔で言葉の刃を突き立てるベルヘアに、そこかしこで唾を飲み込む音が響いた。


「あ~……」


 ヴァインガルト――海辺は、返答に詰まった。

 気まずそうにベルヘアから目を逸らし、右に左へと視線をあてどなく彷徨わせると、己の側に控えていた黒髪の従者に、縋るような視線を向けた。

 従者は、助けを求める視線に赤い瞳を細め、好意と親愛を籠めて黙殺した。

 気まずい、沈黙。


「えっと、その、妹さんの事は、……気の毒だったね」


 沈黙。

 続く言葉は、ない。

 

 ――それだけ? たった、それだけなのか?


 話の転がっていく先を、息を飲んで見守っていたスティルトンの貴族たちの間に、失望と蔑意が広まっていく。

 妹を討たれたベルヘアに言葉をかけるなら。

 心底からの悔みを伝え、最愛の妹を失ったベルヘアの心痛をおもんばかり、スティルトンの為に戦って果てた師匠ライラ―の生前の功績を思いを馳せ、その魂に安らぎ有らん事を祈り、レディコルカのマレビトへの応報の志を共に誓い、死せるライラ―に、願わくば護国の英霊の一柱として祖国スティルトンに助力賜らんと奉る。

 ――その程度は、デビュタントを済ませたばかりの子供でも弁えている、最低限の礼儀だろう。

 魔王級魔道士、ヴァインガルト。

 その無比無類の魔力は万人をひれ伏させれる畏怖の対象であるが、その幼稚な人間性には貴族の誰もが辟易としていた。

 おおよそ社交と呼べるものを、何一つ経験していない。

 派手な装いと対して、その内面は自己顕示欲すら隠せない子供も同然。

 魔王派と呼ばれるヴァインガルトの支援者たちからさえ、その人格は侮蔑の対象である。

 そんな現状は誰もが知悉していたが、それでも――妹を失ったベルヘアに対してヴァインガルトがかけた言葉には、礼を失するという一言では済まされない、共感不能の断絶があった。


「……ふふっ」


 果たして、ベルヘアは笑った。

 朱色の唇を吊り上げ、アイスブルーの瞳を細めて。

 ベルヘアの配下は知っている。それは、軽蔑する価値すら無いものに向ける憐みの笑顔だ。


「ごめんなさいね。お返事に困るような事を言ってしまって。

 妹の事は、もう。後でゆっくり、ご活躍のお話を聞かせて下さる?

 お疲れでしょうから、シャワーを浴びて、まずはゆっくりお休みになって下さいな」


 そっと、唇を魔王の耳元に寄せる。ハーフエルフとはまるで形の違う、高貴ノーブルの証を持たない、丸い人の耳に。


「もう、ベッドではアブリルが待っていますわ」


 億劫な夜伽の相手を師匠級の三席に押し付け、ベルヘアは会話の相手を、小さな従者へと見定めた。



  ◆ 


 

 海辺良太の背中には、いつも「あの目」が張り付いていた。

 蔑み、見下し、嘲る視線だ。

 高校への進学を契機に、周囲からの痙攣的な暴力は止んだ。

 しかし、それで良太が学校という共同体に受容されたかと言えば、そんな事はまるでなかった。

 誰も、海辺良太という人間を相手にすることはなくなった。良太は疎外され続けた。

 暴力的な虐めが止んだのだから、それで良しとして得た平穏を甘受しよう――思考をそう切り替えようとした事は幾度もある。

 だが、心に刻まれた傷跡が度々フラッシュバックする。


『おい海辺ェ! テメーがキモいせいで円藤さんが泣いただろうが! 謝れよ!』


 あの日の円籐さんの蔑むような視線が忘れられない。

 そして、クラスの中も決して安息の地とは成りえなかった。

 クラスのカーストで中位を浮動し、人気者にはなり切れないないが、笑いを取って存在感は示したいという中途半端な男子のグループに良太は目をつけられたのだ。

 彼らは、良太をいじって笑いを取るのを自分たちの持ちネタとした。

 ――良かったじゃねえか、俺らのグループにはいれて。

 良太を笑い物にした彼らは、親密さを強調するかのように腕を首を回して囁いてきた。

 有無を言わさぬ腕力と、近づけられた口の煙草の臭い。

 吃音が強く会話が苦手な良太は、曖昧な笑みでその言葉に頷くしかなかった。

 学校の誰もが、良太を最底辺の人間だと蔑みの目で見つめていた。

 ……いや、実際には良太には無関心だったクラスメイトが大多数だろう。

 けれども、その頃の良太には全ての人間の目が自分を嘲笑しているようにしか思えなくなって、殊更に肥満体を小さく丸めて廊下を歩くようになり、その様子が輪をかけて嘲りの対象となった。

 

 ――あの頃は、誰もが自分を「あの目」で見ていた。

 良太――ヴァインガルトは、苦い記憶を回想する。

 だが、今はもう違う。俺は勇者だ。誰もに称えられる、最強の魔道士なんだ。

 見たか。俺を褒め称える貴族たちの顔を。

 俺を心から信頼して愛する、エルフ耳の美しい彼女たちの微笑みを。

 この世界では、俺は無敵だ――。

 

 ――だのに、背中には、ずっと「あの目」が張り付いている。

 もし今振り向けば、つい今さっきまで俺を褒め称えていた貴族たちが、じっとりと昏い「あの目」で俺を見つめているのではないか――

 そんな事を思い浮かべ、考え過ぎだと良太は笑い飛ばす。

 きっと、振り向いても、誰も「あの目」を浮かべてなんていない筈だ。尊敬の瞳で俺を見つめてくれる筈だ。

 そうだよね?



   ◆

 

 

 従者エデンは、アイスブルーの瞳で睥睨へいげいするベルヘアの表情をちらりちらりと伺うと、眉根を寄せて顔を歪め、膝を震わせた。白く幼いかんばせには魔道女帝ザ・クイーンを前にした恐怖ではなく、深い悔悟と悲哀が滲み出ている。赤い瞳から、ぽろぽろと澄んだ涙が零れ落ちた。

 エデンは唸りのような小さな嗚咽を漏らしていたが、やがて堪えることが出来ないとばかりに膝をつき、ベルヘアの前に顔を伏せて号泣して詫びた。


「ベルヘア師匠、も、申し訳ございませんでしたっ、わ、私の力が足りないばかりにっ!」

「どうしたの? 泣いているだけでは分かりませんわ。順序立てて話してごらんなさい」


 エデンの醜態に眉一つ動かさず、ベルヘアは先を促した。


「私がライラ―師匠がお諫めすることができれば、こんな痛ましい事態には……っ!

 ヴァインガルト様が魔の鉢に封じた剣帝を、ライラ―様は見事な采配でバリスタと弓兵隊を指揮されて地の底に貶め、己が主を救わんと群がったレディコルカの剣士隊諸共に壊滅せしめたのでございます!

 終始我がスティルトン軍の優勢は揺るがず、後は剣帝を王都に虜囚として連行し、晒して首を刎ねるだけというまでに追い詰めた時にございました……」


 とても顔向けできない、とばかりに地に面を伏せたエデンの口元から、小さな歯ぎしりが響く。


「ヴァインガルト様も、最早スティルトン軍の勝利は揺るがぬとして戦場を去られました。

 あと一歩、ほんのあと一歩という所で……っ!

 ライラ―師匠は、戦場で魔道士が剣帝の首を刎ねてこそ、と仰られ、剣帝を討とうと手勢を引き連れ、本陣を離れられたのでございます。

 そして――卑劣極まりない剣帝の刃にかかり、お命とあの美しい御首級みしるしを奪われたので御座いますっ!

 あの時、私がもっときちんとお諫めしていればっ……!」


 勿論、この供述は後半は殆ど全て嘘である。

 ライラ―に撤退を具申したのはエデン自身であり、ライラ―を討ったのは正義ではなく、背なに友枝を負ったボジョレである。

 しかし、細かな言動や行動の前後関係は当事者しか知り得ぬ事柄であり、加えてエデンは、肉親の死に意味を見出したいという人間の普遍的な感情に付け込み、ライラ―が一兵卒ではなく剣帝に討たれたというカバーストーリーを、するりとベルヘアの胸中へと滑り込ませた。


「全て……全ては、ライラ―師匠をお諫め出来なかった私の責にございます。

 私の命ではライラ―師匠のお命の価値の万分の一にも及びませんが、どうぞ――どうぞお手打ちにっ」


 冷えきっていたベルヘアの感情が、ようやく怒気と呼べる温度にまで燃え上がってきた。


 ――どうやら、ベルヘア師匠の中ではボクは魔王級あのバカと違って憎しみを抱くだけの価値があるらしい。


 この城の全ての人間の感情を聞いているエデンでも、その内心の奥底まで通暁しているわけではない。

 ソナーのように言葉や仕草で、政治力の中枢たる人物の指向や感情傾向については、直接採集する必要があった。


「……そうですわね」


 ベルヘア師匠の怒りの色は、その瞳に似た青白き炎だ。

 通常の人間の怒りは、紙屑を燃やした炎のように赤く燃え上がり、すぐに灰と散ってしまう。

 だが、エデンは知っている。真に強い精神力の持ち主の怒りは、静かに青白く揺れるのだと。

 ちらり、とベルヘアの怒りの色に、殺意が混じった。

 己を殺す大義名分を与えたのは拙かったか。エデンの首筋に汗が流れる。

 エデンは憎悪の矢印が己に向かないように人間達の感情を御してはいるが、エデンがヴァインガルトと城との実質的な折衝を行っている以上、エデンを排除すればヴァインガルトを孤立させることが出来ると考える人間が現れるのは抗えない流れだった。ベルヘアもその一人だ。勿論、利用価値というより大きな流れによって相殺させてはいるのだが。

 ベルヘアの指先に、僅かな魔力の焔が灯る。

 アクションを間違えば――次の瞬間にも命は無い。


「ぅうっ、ライラ―師匠――」


 エデンは子供のように肩を竦め、泣き腫らした目元を擦って三度しばたかせると、ひっく、ひっく、と子供のように二度しゃくり上げて見せた。

 その仕草は、ライラ―の幼い頃の泣き方と寸分違わず、ベルヘアに懐かしい記憶を想起させしめた。

 ――それは、些細な喧嘩の記憶だった。

 泣かせてしまったライラ―が、己に非が無いにも関わらずベルヘアに『姉さま、ごめんなさい』と謝ってきたのだ。自分が悪いと言い出せず、その謝罪を受け入れてしまった時の罪悪感。

 瞬間、ベルヘアの怒りが嘘のよう解け、指先に灯っていた魔力の焔が霧散した。

 青白い怒りの色は、ペリドットの悲哀の色へと傾いている。


「貴方如きがライラ―の死に関与したなんて思い上がった考えは、妹への侮辱ですわよ。

 すべては、妹とあの愚者ヴァインガルトに任せて送り出した私の責。

 過ちは、この手で贖いますわ。妹の首を取り返し、墓前に剣帝の首を捧げることで」


 ベルヘアは視線でエデンに退出を促した。

 彼女は命からがらの思いで死地を後にする。


「あー、危なかった、ドキドキした。死んじゃう所だったよ」


 服の手首に仕込んでいた、小さな小瓶を掌に転がす。

 それは、生前にライラ―の部屋から盗み出した香水の瓶であった。

 ベルヘアの怒りの針があとほんの僅かに振れればエデンの命は無かっただろう。

 それを押しとどめたのが、意識出来ない程薄く漂わせたライラーの香水だった。


「人間の記憶は、本人は自覚できないけど、驚く程強く嗅覚と紐づけらえているからね。

 ベルヘア師匠がこれで止められなければボクもお仕舞だったよ。

 でも、これで益々面白いことになってきた。

 ベルヘア師匠が剣帝と戦う強力な動機が出来たぞ。何て楽しそうなカードなんだ」


 全てを繰る彼女は、自分自身もまた一個の駒として盤上で遊ばせている。

 己が命を賭けて挑むからこそ、世界は楽しいのだと。 


 

 

   ◆

 


 眼下には、スティルトンの首都、ロックフォールの眩い光が夜を照らし上げている。

 これ程夜の明るい都市は、世界広しと言えど魔道師匠国であるスティルトンにしかあり得ない。

 スティルトンはハーフエルフによる単一民族国家。

 この土地に住まう人間の全てが魔道士であるからこそ成し遂げられた奇跡だ。

 窓々から溢れる明かりは、そこに住まう人々の営みの証だ。

 ベルヘアはロックフォールで一番高い尖塔の天辺で、それをつまらなさげに眺めていた。

 砂時計型の身体を黒衣で包み、左手には抱えきれない程の弔花の束を。 

 ベルヘアは、首を奪われて帰ってきた妹の亡骸を思った。

 

 ――ライラーは愚かな妹だった。

 魔道七師匠の四席に居たが、それは筆頭に自分が居たからに過ぎない。

 純然たる魔道の実力では、あの負け犬のシャルドネ=メドックにさえ及びもつかない。

 あの子はプライドが高い癖に、いつもコンプレックスに悩まされていた。

 単身で剣帝で挑もうとしたというのも、短慮なライラ―には如何にもありそうな話だ。

 分不相応な賞賛を欲しがり、出来もしない事をしたがり、いつも私に追いつきたがり――


 ――本当に、可愛い妹だった。


 ベルヘアは、妹のライラ―を守る為には何だってやった。

 権力を濫用してでも妹の地位を守り、魔王級が夜伽を要求した時には、馬鹿のふりをして寝床を共にしてやった。

 ライラ―こそが、ベルヘアの唯一の弱点。彼女を魔道七師匠筆頭という、窮屈な枠に捕らえていた鎖だったのだ。


 ベルヘアは、不安定な尖塔の端で立ち上がり、体の傾ぐままに身を任せた。

 柔らかい毛布のような浮遊感が彼女の全身を包む。

 魔道七師匠ベルヘア=カスティヨンは、人知れず真っ逆さまに地へと落ちて行った。


 

 

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