第22話 私だけの丸い世界(後編・ベルヘア飛翔)

 真っ逆さまに墜ちていく。

 緩やかな黒衣と、黄金色の長髪が天に向かって膨らんで靡く。

 左手には青い弔花の束。右手には枯草色の彼女の魔杖。

 風に飛ばされてないよう、つば広い帽子を指先で押さえながら、彼女は浮遊感に身を預ける。

 満天の星空に身を委ねるような、この一瞬が何よりも好きだった。

 大理石の浴槽に身を浮べるが如き、穏やかな安らぎ。

 しかし、それは須臾の間にも等しい刹那。

 彼女の頭蓋が石畳にぶつかり熟柿の如く砕けるかと思われた瞬間、地に八芒星を基調とした黄金の魔法陣が輝いた。

 地に墜落する寸前だった彼女は、空に向かって落ちる流星があればかくやという勢いで、一直線に天に向かって飛翔した。

 ロックフォールの魔道高層建築ビルディングを飛び越え、空を横切る雁の群を見下ろし、雲海さえ突き抜けて。

 黒衣と同じ色の三角帽。右手に握った魔杖は、魔道女帝という渾名には似つかわしくない、メイドが掃除にでも使うような竹箒そのものである。

 しかし、誰がそれを笑えよう。

 雲海の切れ目から、対岸の漁火のように小さくなった都市の灯火を見下ろすアイスブルーの瞳。

 誰一人真似る事すら出来ない、高々度飛翔魔道――箒星シューティングスター

 これこそが、彼女が

 彼女はゆったりとした仕草で横座りに箒に腰掛けた。

 黒衣と三角帽子に身を包んだ彼女の姿は、友枝や正義が幼い頃に読んだ絵本の魔女そのものである。

 スティルトン魔道七師匠筆頭――ベルヘア=カスティヨンは、その称号の通り、何者も追随出来ぬ高みから、独り世界を睥睨する。

 彼女もまた、孤高の絶対者。


「剣帝、マサヨシ=キリハタ……」


 端正な唇を歪ませて、怨敵の名を口にする。

 ベルヘアは、先のエメンタール侵攻に戦況記録要因として派遣した、忠臣のカノン=シャトーとのレディコルカ軍の戦力分析を回想した。


 ◆◆◆◆◆


「もう少し早送りをお願い。そう、レディコルカの剣士隊が剣奴隊と交戦に入る瞬間ですわ。

 五秒先。そこを拡大して下さる」


 部屋の中央に鎮座するのは、直径3mはあろうかという、巨大な硝子ガラスの半球だ。

 半球の中では、銀色の砂で彫琢されたミニチュアの兵士たちが、先の戦場を再現している。

 

「もう少し先……剣帝が動き出した頃合いで御座いますね」


 小柄な魔道士――カノン=シャトーがコツコツと杖で地を叩くと、硝子ガラス球の中の戦場は渚に攫われる砂の楼閣と崩れ、先より大きな人物像が隆起した。

 コツコツ、と杖音を立てながら、彼女は硝子ガラスの半球の周りをせわしなく歩く。

 粉塵の魔道士、カノン。

 彼女は取り立てて特筆すべき力もない地属性のC級魔道士だった。加えて、彼女は先天的な全盲という障碍を持っていた。先天的な感覚障碍には自己治癒の魔道の発動は難しく、彼女は生涯をスティルトンの社会福祉によって生きていくのだと諦観していた。

 そんな彼女を取り立てたのがベルヘアである。

 視覚障碍者の中には、空間の立体把握能力が際立って優れた人物が存在する。ベルヘアはそこに着目してカノンを訓練した。金属粉末を空間に飛散させることによって世界を感得し、その縮図を硝子ガラスの半球に封入した金属粉に照応させて再現するという手法で、疑似的な立体録画を成さしめたのだ。

 『チャフ』と名付けたカノンの魔道。

 魔道発動時の術者の呼吸、空間の魔力の流れまでを全て精密に録画する魔道は、ベルヘアとカノン、二人きりだけが知る秘術である。

 ベルヘアは単純な撃力の強弱などより、何より情報を重んじる。

 カノンは単身では何の戦力にもならない文弱の魔道士だが、彼女の齎した戦力分析結果により、ライバルとなる魔道士の全てを一方的に掌握している。

 

 その分析は、当然抗魔力に対しても有効だった。

 

 カノンは抗魔圏に向かってチャフを飛散させ、透過率を計測することにより、抗魔力を可視化する。

一般の抗魔剣士を象った砂像は、透かし鬼灯を被せたような、粗いベールを纏って顕現する。レディコルカの誇る破邪の加護、抗魔力だ。

剣士たちの纏うベールには粗密や範囲に個人差があった。より高位の抗魔剣士に近づく程、その姿は霞がかり、丸いノイズが戦場に転がっているようにしか見えない者さえ存在する。


「敵の隊士の抗魔圏の魔力透過率は、一般隊士で平均して概ね50%程度です。

 指揮者や側近は一般隊士とは飛びぬけて高いですね。

 剣帝の隣にいた護衛筆頭のボジョレ=セギュールは10%程度。

 七師匠のバルザックは5%以下。これでは、剣帝でなくても、並みの魔道士の攻撃では致命傷を与えるのは困難です」

「私の魔力なら、1%でも透過すれば致命傷を与えるのには十分ですわ。

 現に、師匠のバルザックはあの愚者の攻撃で消滅したでしょう?」

「でも、問題は……」


 カノンが見つめる硝子の半球の中には、人型ではなく、卵の殻のように滑らかな、前方に伸びた涙滴型の砂の塊が隆起していた。

 透過率0%、絶対の結界として立ちはだかる正義の抗魔圏である。


「これが剣帝の抗魔圏ですわね。……確かに、一部の隙もなく、魔力に対する断絶が存在するのは認めざるを得ません」

 

 ベルヘアはアイスブルーの瞳を細めた。長い金の睫毛が切れ長に伏せる。

 カノンは、再び正義を中心に戦場の全景を投影する。

 

「やはり、射撃型の魔道士を中隊規模に編成し、十字砲火を行い護衛を可能な限り減らした後、戦奴兵を投入するのが堅実な攻略方法でしょうか?」


 ベルヘアの細い背筋から立ち上がった怒気に、カノンは己の失言を悔いた。


「あの愚者と同じ戦法を選ぶなど、恥を知りなさい、カノン。

 いいですか、戦いとは常に過程に於いても勝利しておかなければなりません。

 レディコルカで崇められている、抗魔力なる邪な力を、この第一魔道士が破って見せることこそ価値があるのです」


 彼女は、涙滴状の正義の抗魔圏を眇めに見下ろし、くすりと笑みを浮かべた。

 

「それに、わたくしには少々自信があるんですのよ」

 


 ◆◆◆◆◆




 今、ベルヘアの眼下には、雲間から遥か彼方に地表の明かりが漁火の如く輝いている。

 夜闇の中に散らばる都市の灯火は疎らだが、数多くの燈が集まり一際眩しく輝いている場所がある。

 スティルトンの首都、ロックフォールだ。

 魔道の力は、遂に夜闇さえも祓ったのである。 

 続いて、ベルヘアは視線を前方に向けた。

 遥か彼方、薄紫が僅かに残る空の果てと、赤茶けた大地の狭間。その地平線は、僅かに――だが、確実に緩やかな弧を描いていた。


 ――スティルトンの書では、世界は始祖の創造した平たい大地の上にあるというのが常識である。

 だが、かつてベルヘアが雲海をも越える高高度飛翔に成功した瞬間、眼前に現われた世界は、どうしようもなく、疑いを挟む余地もなくまるい形をしていた。

 ベルヘアは、本の中の常識よりも、己が瞳を信じた。

 独り、古代文献の研究と、水平器と分度器を片手に、世界の測量を続けたのだ。

 その結果――凡そであるが、ベルヘアは己が立つ大地が、メートル法に換算して、10000km程度の球に閉じていることを確信した。

 メートル法はまだ使用が始まって100年に満たないが、交易国であるエメンタールより拡散された単位系で、規矩としての精度の高さから、各国に愛用者は多い。


 ベルヘアは、己が魔道士として真なる覚醒を果たした瞬間を回想する。


 彼女は、測量と並行して、顧みられる事もなくなった古い文献の数々を調査した。後世に創作されたとされ、史料的価値はまるでないと思われていた新史前古スティルトンの歴史書の写本。

 パンゲオン神話体系に於いて語られる、新人代から超人代への転換期は、貴族ではなく力ある魔道士が政治の中枢を担うようになった歴史の流れを戯画的に語ったものであるだろうというのが、最も支持されている解釈だ。

 同書で語られる散らばった大地の時代から、平たい大地の時代への変遷も、部族社会から中央集権的な大国家の構築を指しているものだと、素朴な解釈がなされている。

 だが、その後の平たい大地が球化し、辺境の国々がマレタと呼ばれる地の底に閉じ込められた逸話については、歴史学者は御伽話以上の解釈を行っていない。

 別の文献の一節では、世界は球神ドネルスタンルフの腹の上にあるという記述を発見した。

 きっと、この世界の本当の形に気付いた先人が、神話という体で書き残したものだろう。


 ――それが、真実だ。


 世界は平たいという常識的な価値感が捨てきれず、半信半疑だったベルヘアに開悟エウレカが訪れた瞬間、己の裡に膨大な魔力が湧き上がるのを感じた。

 彼女の飛翔魔術は、元々は鳥のように己を飛翔させる簡素な物に過ぎなかった。

 それを、ベルヘアは概念の根底から覆した。

 己を世界に唯一の固定点として、道化が玉乗りをするように、世界よ転がれと念じたのだ。

 瞬間、世界の全てが音もなく背後へと流れた。


 無論、ベルヘアが現実に世界そのものを回転させている訳ではない。

 あくまで移動しているのはベルヘア本人である事には変わりない。

 だが、驚嘆すべきは、、激烈なまでの自己信仰。

 その精神力は、まさに魔道女帝という称号に相応しい唯一無二である。

 想像する己イメージングの深化は魔道の要である。

 飛行速度は飛躍的に向上し、加えて飛翔に付き纏っていた、体への慣性の重み――それが、全て消え去った。

 初めて音を置き去りにする程の速度で翔んだ際には、流石のベルヘアも吹きすさぶ風で目も開けられず、速度の余り目の前が黒く染まって失神しそうになったものだ。それが、イメージの変更の結果、高度も速度も方向も、譬えるなら脳内でトラックボールを動かすように、全てが自由自在に思うが儘。

 

 飛翔魔道はカスティヨン家でも数代に一人しか継承できない秘術だったが、ベルヘアは魔道女帝と呼ばれるまでの、空の支配者へと変貌を遂げた。




 ベルヘアにとって、誰もがレンネットと呼んでいるこの世界は、拍子抜けする程に小さかった。

 雲海を超えて、各国の上空をくまなく飛翔して探索したが、彼女の世界――亜大陸レンネットは、球に閉じた大地の、僅か2%程度にしか過ぎなかったのだ。

 

 その向こうには、死の大地と呼ばれる、赤い土地が広がっている。

 諸国が開拓フロンティア精神スピリッツに溢れていた時代、幾度も調査隊が派遣がされたが、多くは戻らず、生きて帰ったものも血を吐き、全身の皮膚が剥がれ落ち、自己治癒すら間に合わずに苦しみながら死んで行ったという。

 現在、辺境の多くは魔物の棲家となっており、人が踏み入ることはない。

 ベルヘアも上空からの探索を試みようとしたが、夜に青く輝く死の大地は、底知れぬ不吉を孕んでいた。

 本能的に危険を感じ取ったのみではない。

 数時間滞空しただけで、激しい嘔吐と体調不良を催し、数日間を自己治癒に充てねばならなかった。

 七師匠となったベルヘアさえも、死の大地は拒む。


 ――ベルヘアは、彼女が見出した世界の容を、誰にも伝えなかった。

 ……彼女の妹、ライラ―を除いては。


 頭の古い老人たちは、黴臭く罅割れた羊皮紙の中の、狭く平たい世界で死んでいけばいい。

 彼女は、己の身内以外の全てを、そう切り捨てた。

 己が、新しい世界を開くのだと。


 世界は、丸い。

 この世界の真実を知っているのは、今は己とライラ―だけでいい。

 彼女は、ずっとそう思ってきた。


 妹のライラーを箒に乗せて翔んだ夜空を思い出す。


『すごいすごい! 本当に、世界はこんな丸い形をしていたんですね! こんなこと、夢にも思いつきませんでした』


 未熟で愚かではあったが、誰よりも愛しかった亡き妹のはにかむ顔に泪する。


 青い弔花の束は、風に攫われて黒漆のような夜闇に散っていった。ベルヘアは決意する。

 妹の墓前に剣帝の首を捧げ、魔王を名乗る愚者を吊るし、レディコルカなどという蛮族の国を討ち滅ぼす。

 そして、この私が新たな魔道世界――丸い世界の時代を始めるのだと。



 ・

 ・

 ・

 余談になるが。

 箒に跨り宙を翔けるという、彼女の魔道。

 そもそも、その着想は、幼い頃に露天商から買った、一冊の異国の絵本よりインスピレーションを得て生まれたものだ。

 レンネットのどこの国の公用語とも異なる、異国の文字。もしや、レディコルカの剣帝が記したという神聖文字かとも考えたが、機密文書として保管されていた、ヨシタロウ=キリハタの手記の断片とは文字の形状がまるで違う。


『The Story of a Little Witch』


 絵本の表には、解読不能な文字でそんな表題が記されている。

 これを制作した国の技術力が伺える上質の紙と、丁寧な製本。描かれている絵も、精緻な独創性に満ちていて、ベルヘアは幾度も読みかえしたものだ。

 文字が分からないのでストーリーの仔細こそわからないが、カスティヨン家と同じ、飛翔魔道を使う少女達を描いた喜劇であることだけは理解できた。

 箒に跨り空を飛ぶ少女――それが、幼い頃からのベルヘアの憧れだったのだ。





   ◆



「『私が、丸い世界の時代を始めるのだ、キリッ』な~んて、ベルヘアは考えている頃なのかな。でも残念。丸い世界の時代に君はいらない。剣帝が魔王級を打倒し、扉が開かれた時に疲弊した時に剣帝の首を落とす事が、君の役割だ。


 最初のインサイト・動機付けインディセントは済んだ。

 君は、ボクの期待を遥かに超える魔道士に成長してくれたよ。レンネット全土を俯瞰出来る、史上最高の飛翔魔道士。  

 ベルヘア、君はこの世界がちっぽけであることに、おのずから気付いた。卵の殻を内から割ったんだ。

 上出来だよ。18年前にプレゼントしたイギリスの絵本も役に立ったようで何よりだ」


 地の底の玉座で、エデンはケラケラと笑い声を上げる。


『同じ神国ニッポンから天降られたマレビトが、どうしてこれ程までに異なる力を持つ?』


 ボジョレの問いかけを思い出し、笑みを嚙み殺す。


「ボジョレ、君もまだ、魔の何たるかを分かっていない」


 彼女は、虚空に向かって朗々と謳う。



「――己の裡なる世界観で現実を上書きする営み。それこそが魔だよ」



 エデンの預かり知らぬことではあるが、以前キヌは正義にこう答えた。


 ――『魔』とは、この世の正純ならざる力によって起こる現象の総称です。

 ――無謬なる『魔』の定義を行った者は、スティルトンの魔道士にさえ存在しないのです。

 ――この世界に存在する、有り得ない力、ある筈の無い事物、起こり得ない現象、それらを総称して、ただ『魔』と呼びます。


 エメンタールの魔道士、カベルネはこう言って笑った。


 ――なして魔力が有るかなんて、どうでもええ問題ちゃうか? なして空から風が吹くか考える奴がおるか? なして枯葉に火ぃつけたら燃え上がるか考える奴がおるか?

 ――肝心なのは使い方や。魔力を感じ、扱い、生み出し、思い通りに扱って見せる。それがうちら魔道士や。

 ――なして魔力が有るか、なんて事に頭悩ましとる暇があったら、使い方を考える方が余程建設的や。


 そんな、誰もが分からないと言葉を濁す魔の本質を、エデンは分かりきったことのように言い切った。



「魔道には、そもそも風火地水の属性も詠唱も魔法陣も魔道式も全てが不要だ。

 ただ、心の底から想えばいい――世界のかたち、かくの如きなり、とね。

 詠唱や魔道式は、世界を類型化して共有認識として扱うための手段だ。

 結果、人間は魔道という安定した火を手に入れた。

 だけどこれは、常識ノーマリティという強固な世界観に依存しているが故の安定に過ぎない。

 退屈だよね。

 だけど、稀に現れるんだよ。独力で己の世界観を刷新するベルヘア師匠のような逸材が。

 世界観をワールド・拓いた人間イノベーター。それこそ、真の魔道士だ。

 真実は、隠せば隠すほど、暴こうとする人間の好奇心を掻き立てる。

 レディコルカでは子供でも知っている地動説さえ、隠しておけば秘術になる。

 ベルヘア。きっと君は世界の秘密の一端に気付いている。 

 彼女は限りなく魔道の本質に近い所にいる。世界の向こう側に行けるかもしれない人材だ。

 できれば、死なせたくないよね」


 エデンは、虚空に向かって語りかける。


「マレビトは、そもそも違う世界観を抱いてこの地に降り立った異物だ。

 彼らの多くは抗魔力を持つ――この世界への、拒絶反応だね。

 だけどまあ、住めば都と言うだろう? この世界で月日を過ごせば、抗魔力も薄れ、魔道に親しむ者も何人か現れた。大らかな時代だった、と言えばそれまでだけど。

 それを一転させたのが、あの切畠義太郎だ。

 生涯に亘り強力な抗魔力を保持し、遂には魔道師匠国から独立まで勝ち取った――マレビトの存在級位を跳ね上げたんだ。

 それからのボクは大変だったよ。

 新たなマレビトが訪れる度、役に立つかどうか見定めて、使えないような奴なら殺して埋めて……

 あちらの文化や技術を学んで、使えそうなものはこっそり広めて。

 誰にも労われることもなく、300年だよ!?

 マレビトの価値を値崩れさせないように保ち続けるこの苦労、分からないだろうなあ……。

 でも、苦労の甲斐あって、レディコルカでのマレビトの神秘性と信仰心は極限まで高まった。

 そして今、切畠義太郎に瓜二つの、切畠家の人間が現れた。それも二人も! 魔王級の魔力を持ったおかしな奴も一緒に!

 今こそ、ボクが待ち望んでいた、歴史の事象節だ!」


 誰もいない部屋で、エデンは語り続ける。


「神話に残るイシュテアの大崩壊――遺跡に記されたノースアメリカ・カタストロフが事実なら、世界観は大陸一つを焼く炎だ。

 リョウシリキガクシャというのはどんな研究をしていたかはよく分からないが、世界認識を深化させた人間が魔道を使えば、この星を破滅させる程の力を持つんだろうね。

 ボクたちを作った神様が、人間から知を取り上げ、この狭い箱庭に押し込めたのも納得がいくよ。

 でも、ボクはこの世界の外側を知りたい。

 神様がいるなら、その顔を拝んでみたい。

 ボクがマッチ程度の着火の魔道すら使えないのは、ダークエルフだからじゃない――きっと、この世界の形を、心の底から信じていないからだ。

 分かってくれるだろ? ねえ?」


 返答するものは、ない。

 




   ◆


「どうしたの、エデン。また怖い夢をみたのかい?」


 スティルトンの魔王級魔道士、ヴァインガルトは、枕をぎゅっと抱きしめてもじもじと恥ずかしそうにする少女を、そっと部屋に招き入れた。


「ごめんなさい、ヴァインガルト様。ボク、今日もここで寝てもいいですか……?」


 くい、と袖を引いて、庇護欲をそそる上目遣いで覗き込むと、魔王と呼ばれる男は相好を崩した。

 尊大な自尊心を慰撫するこの少女を、海辺はいたくお気に入りだ。

 

「当たり前だろう。何時でも好きな時に来ていいって言ってるじゃないか、エデン」

 

 ちょろい。

 彼女はするりと、手慣れた足取りでヴァインガルト――海辺良太の布団に潜り込む。

 既に、エデンは海辺が己に最大限の好意を抱くように――それでいて、性欲は抱かないように、感情の誘導は済ませてある。

 海辺は魔王と呼ばれるに足る強力な魔道士だが、エデンにとってその能力は退屈の極みだった。


 勝つためには、盤の中で最強の駒を作ればいいという貧困な発想。

 盤の外に想像を巡らせる能力がまるでないのだ。

 将棋の駒の歩を全部飛車と角に取り換えれば、己が一流の棋士になれると考えているような浅はかさ。

 どこに行けない、何も作れない。


 だが、その出力の激烈さは他に例がない。


 ◆◆◆◆◆


 ――エデンが新たに出現したマレビトを捕獲しようと、繁みに隠れて海辺の様子を伺っていた時に、その変化は起った。

 周囲を見渡し、顔を紅潮させた海辺が湖を覗き込んだ瞬間、ずるりとその肥満体が崩れたのだ。

 髪は変色し、瞳の色は変わり、顔の骨格さえも変わり、肥満体に蓄えた脂肪が皮膚から滲み、氷が解けるように足元から流れ出していく。

 それは、数多のマレビトを確保したエデンをして、初めて見る光景だった。

 認識している自己の形を保持する自己治癒は、魔道の基礎だ。

 逆に言えば、長年付き合ってきた自己の姿を変貌させるのは、長いイメージ修行が必要となる。

 だのに、魔道を知らぬ眼前の男は、自己を崩壊させるでもなく、全くの別人へと変貌を遂げた。

 


「勇者だ、俺は勇者になったんだ……! やっぱり――こっちが本当だったんじゃないか!」


 使用言語は日本語。音韻の変化が殆ど見られないので、前回の転移から時間軸アンカーポイントはそう移動していないとアタリをつける。

 類稀なる力を持ちながら、一歩扱いを間違えば全てを破壊しかねない、危険なマレビト。

 エデンは繁みから姿を現し、恭しく頭を下げた。


「お待ちしておりました、勇者様。どうか、この世界をお救い下さい――」


 ◆◆◆◆◆


 すやすやと寝息を立てる海辺の頬を、エデンはそっと撫でた。

 睡眠中と云えど、並の魔道士に彼を害することはできない。

 障壁と呼ばれる、自動感応パッシブの護身術式を展開させているからだ。

 条件は、耐魔道、耐金属、耐運動エネルギ―、耐熱、耐寒、耐電流、数種類の耐毒素。

 これらの発動条件は、全てエデンの発案である。


 彼女は、懐から小さな黒曜石の刃を取り出し、そっと海辺の首に押し当てた。

 じわりと滲んだ血を、猫のような赤い舌で舐め上げる。

 制御不能になった場合、己がこの手で狂王を始末する――そのための準備は整えてある。

 誰よりも弱く遅い刃だけが、寝首をかけるように。


「愚かな可愛いボクの魔王。君のようなオモチャは二度と手に入らないだろう。

 どうか、役目を果たすまで壊れないでいてくれよ――」

 

 小さな唇をそっと海辺の頬に寄せる。

 彼女は、天井を見上げ、虚空に向けて呟いた。


 ――この世界は、どうせ神々の棄てた楽園ディストピアの跡地だ。なら、ボクのオモチャ箱にしても構わないよね?

 君も、そう思うだろう?

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カタナクション 竹尾 錬二 @orange-kinoko

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