第13話 バルベーラの憂鬱(前編)

 バルベーラ=セギュールの朝は早い。

 元第三憲兵隊――現切畠親衛隊の隊舎を陽も昇らぬうちに抜け出し、ランニングを開始する。

 不寝番を終えて寝床に向かう同僚に挨拶を交しながら、修錬場を十数周。

 それが終わると、横木打ちの稽古に入る。

 束ねた木の枝を、腰を落として雑棒で打ち続けるだけの、一見すれば単純な稽古であるが、国父切畠義太郎より伝えられた由緒正しき稽古法の一つである。

 正義ならば、それが薩摩蕃の薬丸自顕流を始めとして、多くの流派に伝わる日本の伝統的な稽古法であることを一目で看破しただろうが、バルベーラにそれを知る由はない。

 しかし、技の名など知らずとも、術理は自ずとその身に宿る。毎日の朝晩、愚直なまでに続けた横木打ちの稽古によって、彼女は並の男では相手にならぬ打ち込みの鋭さと、怖じる事無く相手に立ち向かう旺盛な気力を涵養かんようしてきた。

 二千本もの横木打ちを終え、汗を拭う頃になって、バルベーラはようやく空の端が白むのを目にする。

 稽古の汗を流し、入念に体を清めて身支度を整え、女中メイド服に袖を通す。

 

 即位の儀が滞りなく終了して一週間。

 バルベーラの侍女としての働きも随分と板についてきた。

 実家で母親に小言を浴びていた頃には嫌いで仕方が無かった、掃除も茶汲みも、今ではまるで苦にならない。

 バルベーラは幼い頃から巷間の『女の子らしさ』を嫌い、男子に混じってちゃんばらごっこに勤しんでいた。

 分家とはいえ、名家であるセギュール家の娘の乱行に親族郎党は眉を顰め、父母は彼女を行儀見習いに出そうとしたが、バルベーラは猛反発して家を出奔し、憲兵隊に志願した。

 憲兵隊への入隊を認められたのは彼女の実力だが、ボジョレと同じ第三憲兵隊に配属されたのは、兄と師匠の手回しである。

 女性らしさなど捨て、剣の道に生きる決意をしていたバルベーラだが、紆余曲折あって、現在は正義の侍女である。

 最早このレディコルカには、正義の帝位を疑うものは誰一人として居ない。

 己こそが、剣帝陛下の正統なる後継者にお仕えする、ほまれ高き側女なり。

 バルベーラは、今までの人生で感じたことのない充実感に顔をほころばせる。

 香ばしい湯気を上げるアーリーを載せた銀盆を右手に、彼女は正義に軽く一礼をする。


「おはようございます、正義様」


 キヌの指導の甲斐あって、彼らを隔てていた言葉の壁は既にない。

 敬語を使うなとまでは言わない。だが、せめて私室の中ではフランクに接してくれ、というのは、正義の上意だ。

 作法としては王侯貴族への礼とは到底言えないものだが、バルベーラの一礼には形式だけの最敬礼など比較にならない、心底からの敬意が籠められていた。


「うん、おはよう、バルベーラ」


 何気ない正義の挨拶が、彼女の胸をほのかな温もりで満たしていく。

 そんなバルベーラの充実した朝は、


「そうだ、俺の侍従は今日で外れて貰って構わないから。

 今まで世話になったな」


 思いもかけない正義の一言で、木端微塵に砕け散った。


   ◆


 己の顔から、血の気が引いていくのがわかる。

 バルベーラは、乾いた唇を酸欠の金魚のように開閉させて、掠れた声で問いを発した。


「……正義様、私が、何かお気に障るような粗相を致しましたでしょうか……?

 それとも、やはり私のような者では、正義様の侍女には相応しくないと――」

「どちらでもない、バルベーラ」


 涙目の彼女の問いを、背後からボジョレが鬱陶しげに遮った。

 泣き出しそうな表情から、正義もようやく彼女の勘違いに気付いたようだ。


「違う違う、別に俺がお前に不満がある訳じゃない。

 お前には、友枝付きの侍従として働いて貰おうかと思ってな。

 友枝には別の側女が付いてるが、ほら、やっぱり齢は近い方がいいだろう。お前なら、きっといい話相手になってくれるだろうし……友枝も、きっと喜ぶだろう」


 最悪の予想は免れた――しかし、突然の正義からの下知に、バルベーラは動揺を隠せない。

 今後の正義付きの侍女は、今まで友枝付きとなっていたドメーヌが務めること、会話の練習などには変わらず付き合って欲しい旨などを伝えられたが、それらの言葉は彼女の耳を右から左へと通り抜けた。



   ◆



 容赦ない打擲によって、バルベーラの首が傾いだ。

 彼女の兄、ボジョレは氷のような視線で妹を見下ろしながら、淡々と告げた。


「何だ、今朝の態度は。侍女としての務めは沈着冷静をって行え、と命じた筈だが。

 幾ら陛下が型に縛られぬ奉仕を求めておられるとはいえ、最低限の節度すら守れぬとは。

 陛下の上意に、ただ仰せの儘に従うことが我らの職務。

 その意を問うなど、分を遥かに超えた無礼な詮索だ。 

 己の身分を弁えよ」


 ボジョレの叱責は、バルベーラからしても、何一つ間違ってはいなかった。

 その程度のこと、己も解っていた筈なのに。


「行儀見習いさえ出ていないお前のような野蛮な娘が、陛下の侍女としてお側に置いて頂けること自体、陛下の格別の御計らいなのだ。

 それを、お前は友枝姫殿下のお側仕えでは不満とでも言うつもりか?」

「――それは」

「陛下の御酔狂で少しばかりお膝元にお仕えした程度で、思いあがるな、バルベーラ」

「……はい、兄さん」


 返す言葉もなく、バルベーラは唇を噛んで項垂れた。

 勿論、彼女も友枝に仕えることに何の不満も無いし、身に余る栄誉であることは理解している。

 だが、それでも正義に仕えていたい――。

 それは、名誉欲でもなければ、幼い頃から抱いてきた剣帝への憧れでもない。

 バルベーラ自身、理由の解らない執着心が己の裡から止め処なく溢れ出すことに、戸惑いを感じていた。

 己の不可解な感情の由来を、まだ彼女は知らない。



   ◆



 バルベーラは強い女である。

 精神的には齢相応の未熟さを残しているが、剣の腕は19歳の女性のそれでは到底無い。

 レディコルカに於いて、剣術指南は名誉ある職業である。その最高位である七師匠は、王侯貴族に勝るとも劣らぬ顕職と讃えられる。

 この国で剣を教える者は、軍の教練を行う教官という側面と、聖人の教えを伝える伝道者という二つの側面を併せ持ち、その比率は立場と状況次第で如何様にも変化する。

 柔軟性と言えば聞こえが良いが、義太郎の剣を金科玉条として抱くが故のダブルスタンダードに過ぎない。

 貴族や名家の子息への指導は、激しい組太刀やぶつかり稽古が省かれ、見栄え良い形稽古を中心に行う、文字通りの殿様稽古に成り下がっている一面もある。

 国政に携わる気も無く、安穏な日々の稽古事として剣を嗜むおぼっちゃまには、融通の効かない師匠などより、過去の英雄の剣の逸話を面白おかしく語る弁士の方が余程受けが良いというものだ。

 バルベーラも分家とはいえ良家の子女、そんな辺り障りのない嗜みとしての剣の指導を受けていたが、蛙一匹斬れぬ微温湯ぬるまゆのような稽古に我慢ならず、三日と立たずに飛び出して今に至る。


 そんなバルベーラだが、マレビトたる友枝の剣の稽古相手を仰せつかったのは、余りに予想外の出来事だった。

 剣帝のすえ、生きた剣神として祀り上られた正義達だが、彼らもまだまだ修業は半ば。

 良師に就いて稽古を続けようにも、正義も友枝も、形式上では七師匠をも凌ぐ剣の頂点ということになっている。切畠尚武館での稽古のように、頭を下げて自分から懸かって行くような軽々しい真似は到底できない。自らが元に立ち、稽古相手という体裁をとって格上の相手を迎えねばならないのだ。

 大した違いでは無いかのようにも思えるが、礼式を重んじて稽古を行ってきた正義達には、どうにも尻の据わりが悪い。



 ――裂帛の気合。

 バルベーラに向けて剣気を放つのは、天を指して屹立する友枝の竹刀。

 再び剣を握ることへの喜びからか、友枝の左諸手上段は鍔元から剣先まで張りつめた威容に満ちていた。

 大樹が根を下ろしたが如き足腰と、引き絞られた弓の如く戦意に満ちた太刀。

 堂々たる上段は、火の構えと呼ぶに相応しい見事な仕上がりだった。

 ……と、言っても、「女子高生にしては」の話である。

 

 その喉元に、軽く押えるようにバルベーラの竹刀が突き立った。

 傷つけぬように、痛まぬように。

 細心の注意を払い、加減に加減を重ねた優しい突きが、友枝の喉を正確に射抜く。 


 あくまで学業を本分として、部活と趣味の範疇で剣を握ってきた友枝と、幼い頃に剣で生きることを決意し、昼夜を問わず剣の稽古に勤しんできたバルベーラ。

 齢は殆ど変わらなくても、これまでの人生で剣に捧げてきた熱量が違う。錬度が、純度が、深度が、余りに違い過ぎる。


 剣先を平正眼につけてにじり寄れば、鉄壁に思えた友枝の上段は容易く瓦解した。

 苦し紛れに振り下ろした右籠手打ちを、バルベーラはひょいと片手を外して抜いて見せる。

 初心者ならば無様に床を叩く所だが、友枝は柄尻を支点に、竹刀の軌道と手首の返しを用いて最小限の力で左上段に構えを戻す。

 力の流れを無理なく運び、最小限の動作で刀を御せるのが、友枝の剣の特徴だ。

 バルベーラは、外した右手を戻そうともせず、左手一本で竹刀を振り上げる。

 それを隙と見て、表から割って入ろうとする、友枝の面。

 左片手の一本打ちこそが、現代剣道に於ける上段の構えの真髄である。

 だが、友枝の竹刀は風に吹き散る鉋屑かんなくずのように、簡単にバルベーラの竹刀に弾き飛ばされ、真正面を叩き割られた。

 無論、右手を握らなかったのはバルベーラの手心である。

 左の片手と片手。完全に己の土俵でありながら、友枝の竹刀はバルベーラに触れることさえ適わなかった。


「参りました~」


 鬼遊びで捕まった子供のような顔で、友枝は頭を下げた。

 己が完膚無きまでに敗北したことも、バルベーラに手心を加えられていたことも、友枝はきちんと理解しているだろう。

 それでも彼女は、打たれてなおスッキリした笑顔を浮かべ、バルベーラの調子を乱す。


「やっぱり本当に強いね、バルベーラさん。マサ兄の言う通りだ」

「き、恐縮です……」

「じゃあ、もう一本、もう一本お願いしていい?」

「勿論です! こちらこそ宜しくお願い致します!」


 友枝の剣は、己を動かす歯車を少しずつ狂わせていくことを、バルベーラは徐々に自覚しつつあった。

 正義が鍛えただけあって、友枝の技量は稽古事として剣を振るう貴族の子女など、比べ物にならない。貴人の剣としては規格外と言っても良い。

 繰り返すが、勿論それは素人の範疇の話。

 憲兵隊だったバルベーラの方が強いのはごく当然の話であり、その事に関して彼女は何の感傷もない。

 未熟で稚拙。されど、上段に構える彼女の瞳の鋭さからは、友枝が剣に懸ける情熱は偽り無い本物であることが汲み取れた。  

 そんな瞳をしながら、どうして負けてあんな笑顔を浮かべることができるのか?

 それは、全くバルベーラの理解の範疇の外だった。

 

 バルベーラの剣は、反骨心を執念で磨いた剣である。

 体力腕力の劣る女の身で男達に混じって稽古するには、並大抵ではない努力が必要だった。

 女だから、と馬鹿にされるのが我慢できなかった。負ければ普段の倍の稽古を積んで喰らいついていった。

 打ち負かした敗者の瞳に「どうして俺が女に」とでもいうような屈辱の色を見るたび、暗い喜びが胸に燈った。


 だが、友枝の剣にそんな曇りは微塵も見つからない。

 勝ち負けという結果より――その過程の打ち合いを純粋に楽しむような淸々しい剣。


 友枝と剣を交える度に、バルベーラの胸には上手く言い表せないおりのようなものが溜まる。

 それは分かり易い羨望と嫉妬。

 けれども彼女は認めない。己がマレビトに対し、そんな不敬な感情を抱いているなど、断じて認めることが出来ずに本心から目を逸らす。


「よう、やってるな」


 竹刀片手に道場を訪れた正義は、二人に視線を走らせ、少しだけ顔を曇らせた。

 

「バルベーラ、手加減無用と言っただろう。お前の裁量で好きなだけ鍛えてやって構わない。

 前にも言った通り、遠慮は無用だ」


 軽い叱責に、彼女はしゅんと項垂れた。

 以前正義はバルベーラの眼前で、友枝を容赦無く突き飛ばし、足を絡めて転ばし、挙句に面を剥ぎ取って、「最低限、この程度は鍛えてやってくれ」と言い放ったが、畏れ多くてそんな稽古は到底出来そうもない。

 殿様稽古を嫌っていた彼女だが、いざ稽古をつける側に回ってみれば、貴人を容赦なく叩きのめすような不敬は出来ようもなく、血気に逸るだけだった過去の自分を恥じるばかりである。

 正義は、それ以上口を挟むでもなく、道場の端に座ってボジョレと雑談を始めた。

 バルベーラは友枝との稽古を再開したが、正義の様子が気にかかって、今一つ身が入らない。

 先は容易に避けた友枝の竹刀が、軽快な音を立てて右籠手に喰いついた。

 柄尻を握り、左片手で打ち込む友枝の上段。その長身とリーチを最大限に活用する剣風は、バルベーラが経験したことの無いものだった。

 確かに、はやく、鋭く、恐ろしい。

 だが――。


「ん? 何か言いたそうな顔をしてるな。指導したい所があれば、何でも言ってやれ。

 それが、友枝の為にもなる」


 正義の言葉に、彼女は唇を噛み、胸に手を当てて大きく深呼吸。

 ……言うべきか、言わぬべきか。

 友枝の剣に見つけた、最大の欠陥。

 言うは不敬。されど、正義はそれを笑って許すだろう。

 友枝の剣を指導していたのは正義だ。

 

 ――もし、正鵠を射た指摘が出来れば、正義様はわたしを褒めて下さるだろうか……?

 

 そんな都合の良い想像が、バルベーラの背中を押した。


「お、畏れながら申し上げます!

 友枝様の御剣には、大きな欠点がございます。

 上段より柄尻を握っての片手打ち――あれは、実戦で刀を用いて使える技では御座いません!

 竹刀なら可能でしょうが、友枝様の御御腕おみうでのお力では、柄尻を握って片手で相手を斬ることは不可能です。

 もしお外しにでもなれば、御刀は地へとながれ、その御首級みしるしを敵へと差し出すことになりましょう。

 同じ片手技なら、右手で鍔元を握って打たれる方が、より実戦に近づくのではないでしょうか――?」 

 

  ◆


 暗い部屋に、容赦無い打擲の音が、繰り返し響いた。

 バルベーラは頬を腫らし、流れる鼻血を押さえもせずに、ただ俯いている。

 能面のような無表情で、ボジョレは淡々と告げた。


「身分を弁えよ、と言った筈だが。

 お前のような端女はしため如きが、天上人の剣に意見するとは何事か。

 偉大なる剣帝、切畠義太郎陛下の御血族の剣は、即ち天下の剣。

 レディコルカ全国民の範たる剣だ。何を思い上がって嘴を挾んだのだ?」


 詭弁である。

 マレビトとは言え、友枝の剣は天下に範たるものでは到底有り得ない。

 しかし、ボジョレの言は尤もである。

 身分違いの剣の指南など、不敬甚だしいにも程がある。

 自分は、一体何を勘違いしてあんなことを言ってしまったのだろうか――。

 バルベーラは己の増長を恥じる。

 しかし、それは、身分違いの具申であったという礼法の範疇の話。

 無礼で不敬な発言だったかもしれないが、己の指摘が間違っていたとは、バルベーラは微塵も思っていなかった。

 だが。

 友枝の剣の欠点を告げたた時の、正義の表情。

 あれは、正鵠を射た指摘に感心した顔では有り得なかった。

 そう、例えるなら、初歩の問題に躓いた生徒を見つめる教師のような――。


「お前のあやまちは、身分違いの差し出がましい発言のみではない」


 バルベーラの思考を先読みしたかのように、ボジョレが重い口を開いた。


「友枝様の御稽古の意義――それも分からないようなら、お前は剣士としても、所詮その程度だったということだ」 


 

  ◆


 畳張りの部屋に、向かい合って座る男が二人。

 レディコルカ国王、マルゴーは毛むくじゃらの太い指に小さな五角形の駒を挟み、古めかしい柾目盤に駒音も高らかに叩き付けた。


 ――▲7六歩


 正義は、不精髭の伸び始めた顎をさすりながら、鋭く駒を叩き返す。


 ――△3四歩


 素性の知れぬ草で編まれた目の粗い畳と、厚すぎる紙で張られた障子。

 イミテーションの和室の中を、途切れ途切れの駒音が木霊する。


 ――▲2六歩

 ――△4四歩

 ――▲4八銀

 ――△4二飛

 ――▲5六歩

 ――△6二玉 


「友枝殿下の御稽古の件は、御英断でござりましたな」


 手を止めた熟考がてら、マルゴーが軽い調子で口を開いた。

 人の就いていた王位をマレビトに譲るのは不敬、との正義には理解不能な理屈によって、王位の上に帝位が設けられ、未だマルゴーはこの国の国王である。


「当然の仕儀でしょう。私は友枝を戦場に出すつもりは毛頭ありません。

 マレビトがレディコルカの国威の象徴なら、有事の際に二人揃って命を落とすような事態は絶対に避けなければなりません。

 なにより――」

「左様。もし友枝姫殿下まで御剣みつるぎを抜かれる程に切羽詰まった事態とならば、それはもう、この国の『詰み』と言っても間違いござりませぬ」


 ――▲6八玉

 ――△7二玉

 ――▲7八玉


「……む」


 傍で二人の勝負を眺めていたボジョレが眉を顰めた。

 岡目八目とは良く言われるが、この男、遊び心の無い朴念仁に見えて、囲碁将棋の類の盤上遊戯には異常な程の執着を見せる。

 剣帝が戦の間の戯れに作らせてから約300年、囲碁将棋や丁半博打のような遊戯はレディコルカ中に広がり、現在では、国中に点在する大きな賭場の取り締まりに苦心している始末である。

 

「他人の勝負に口を挟むでないぞ」


 マルゴーに一喝され、ボジョレは当然とばかりに元の仏頂面。


 ――△3二銀

 ――▲2五歩

 ――△3三角


「キヌから今の情勢は概ね聞き及んでいます。

 隣のスティルトンとは休戦のまま250年。

 俺達マレビトがレディコルカに招かれた件が、スティルトンを刺激する可能性もあるそうですね。

 どうやらあちらさんは随分喧嘩っ早い国らしいですが、もし休戦協定が破棄された場合、矢張り俺が先陣を切るべきですか?」


 ――▲5七銀


「前提より有り得ませぬ。

 スティルトンの魔道士共は、神聖なる要石を一歩跨げば、その魔道の加護の一切を失いまする。

 飛車角金銀、ことごとく歩以下の弱兵に成り下がる愚行を、我こそは王なりとの歪んだ矜持を持つハーフエルフ共は行いますまい」


 ――△4三銀


「しかしながら、スティルトンの魔道士共がレディコルカにとって依然脅威であるのは事実です。

 彼奴らは、自陣の中なら文字通りの一歩千金の力を持っています。

 エメンタールの魔道士のカベルネを覚えていますか? あれはSランク――過去に、特級魔道士と呼ばれた最上位の魔道士ですが、スティルトンの国家魔道士隊は、入隊の最低条件がSランクの魔道士であることです――我が国の独立戦争以降、彼の国の魔力の平均値はインフレーションを起こし、その危険性は過日とは比べ物になりません」


 マルゴーの楽観論を、ボジョレが戒める。

 国主とは言え、事実上の食客である正義は、与えれられた情報の正誤を確かめる術はない。


「この国の抗魔剣士隊の持つ抗魔力も、以前より飛躍的に向上していると聞きます。魔力だの抗魔力だのと言った摩訶不思議な力には、何故多寡増減があるのですか?」

「神ならぬ私には分かりかねる所で御座りますな」


 ――▲7七角 


「……私が、この国の中で命を狙われる可能性は?」


 正義の問いに、マルゴーが盤に打ちつけかけた駒をぴたりと止めた。


「――何故そのような問いを? 正義陛下の御命を狙う不届き者など、この城内、いやレディコルカ中を探しても居る訳が御座りますまい。

 仮にそのような邪心を持った曲者が陛下に近寄らば、たちどころにキヌ大老が勘付きましょうぞ」

「この国の教練では、随分と居合の稽古に時間を割いているようですが――アレは、魔道士相手の戦の稽古では無いでしょう。同じ刀を持った者同士が屋内で争そう際の技術です。このレディコルカの300年には、刀と刀で争った歴史がある筈です。

 義太郎さんの死後、幾度と無く。きっと、キヌさえ知らぬ場所でも」


 参った、とばかりに、マルゴーは薄くなり始めた頭を掻いた。


「仰る通りに御座りまする。

 魔道士相手には抜刀してから切りかかるのが基本。

 独立戦争の際には、居合は戦場には無用の術、華技の一種に御座りました。

 しかし、義太郎陛下崩御より15年、乱心した貴族の一人が殿中にて突如抜刀致し、当時の国王重臣十数名を斬殺した忌まわしき事件が起こりまして、殿中の剣術としての居合の必要性を思い知らされたので御座りますよ。

 一揆や内乱も幾度となく御座りました。キヌ大老のお耳に届かぬ事例も多かったことでしょう。

 義太郎陛下より賜った剣技で骨肉の争いを行うなど、不敬極まりなき国の恥、汗顔の至りに御座いまする」

「勿論、現在の城内に勤めているのは人品骨柄間違い無いものばかり。

 有事の際には、我ら近衛隊が一命を賭して陛下を御守り致します」


 マルゴーの告白を、ボジョレが短くフォロー。

 その頼もしさから師弟関係が伺えるようで、正義は口許を緩める。

 自然と言葉が消え、再び駒音ばかりが響き出す。

 

 ――△8二玉

 ――▲8八玉


 マスコットのように正義の肩口に留まっていた妖精のアゲハが、川の飛び石で遊ぶ子供の足取りで、駒の上の爪先立って飛び回る。

 眉根を寄せて熟考に沈んでいた正義は、鬱陶しげにアゲハを手の甲で追い払った。


 ――△9二香

 ――▲9八香

 ――△5四銀


「……結局、レディコルカの国策は要石に頼って、スティルトン相手に穴熊を決め込むということですか」

「身も蓋も有りませぬが、仰る通り。当面は穴熊でござりますよ」

「それは、あまり良い手ではないですね」

「状況の打開に繋がらぬ弥縫策びほうさくには違いませぬが、悪手を避ければ自然と穴熊に落ち着きまする」


 沈黙。

 男達は、言葉少なく、厳しい目付きで八十一枡に区切られた盤面を見つめ続ける。





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