第8話 国王マルゴー
荒野に佇む男が二人。
その手には輝く白刃を携え、互いを鋭い眼光で睨みつつ、じりじりとにじり足で間合いを詰める。
石火が弾けるように二人は駆け出し、一瞬の交錯の間に白刃を交え、敗者はどう、と地に臥せる――。
時代劇などでよく見る剣豪同士の勝負の結末は、概ねそんな形で描かれる。
剣の勝負の決着は、時代劇のように斬り合った結果として訪れるものだと、多くの人々は信じているようだ。
だが、俺は知っている。斬り合いとは、勝負の決着の後に訪れるものだということを。
斬り合いとはあくまで、間合の奪い合いや
丁々発止のちゃんばらの末でしか勝ち負けを決められないのは、二流三流。強者の戦いは、常に対峙した瞬間から始まっている。
姿勢体格重心視線、相手を目にした瞬間に雪崩れ込んでくる情報と、言語化できない直感が告げる。眼前の男は強い。
竹刀を合わせて、一声、二声。相手は挑発的な目付きと、細かな運足でしきりに俺を誘うが全て無視。
肌が粟立つような心地良い時間。猫科の動物の前足のようにゆらりと泳がせる右足はブラフ。
鎌首を
男の身長は、俺より一回り低く、その体は細く引き締まっていた。
長さなら俺に分があり、重さでも俺に分がある。男の狙いは、恐らく後の先。
俺が動いた瞬間に、己の間合いに入った小手の先を打突するか――あるいは、一気に割って入って面まで竹刀を伸ばす気かもしれない。
迂闊に入れば食いつかれる。
遠距離からの跳び込みで勝負を狙おうかとするように、微かに重心を沈め、裂帛の気合を籠めて、僅か三寸ばかり鋭く間合いを詰め、跳びこむ寸前で足を止めた。
――跳び込めば負ける相手なら、跳びこませるのみ。
果たして――相手は跳んだ。脳内で予測していたであろう、俺の未来位置へ向かって竹刀を振るう。だが、遠い。決定的に遠い。跳ぶ寸前に歩を止めた俺には、男の竹刀は三寸届かない。
誘い出すつもりの相手に誘い出された失策に、男は唇を噛む。
俺は今度こそ全身で跳び込み、一気呵成に繰り出した竹刀を男の正面に叩きこんだ。
◆
「これで16人抜きか」「なんだ、あの大男は」「遊歴のエメンタール人だとよ」
「誰か、あいつを止めて見せろよ、レディコルカの
「第三憲兵隊の奴らは最近どうしたんだ?」「特別任務が何とか言ってたな」
「セギュール隊長を連れて来いよ、あの大男をどう畳むのか見てみたい」
「あの大男、セギュール隊長の口利きでここで稽古してるらしいぜ」
遠くで交される雑談の端々が耳に飛び込んでくる。
仔細は判らないが、どうやら俺の噂話をされていることと、あまり歓迎されていない程度のことは理解できた。
どうやら、国王との会談が始まるまでには準備の時間が随分と掛かりそうなので、少し稽古場で汗を流さないかとボジョレに誘われたのが、二時間程前の話だ。
王宮生活で運動不足に参っていたので、一も二も無く飛びついたが、驚いたのは、レディコルカの稽古場が日本の武道場に酷似していたことだ。防具竹刀の類までそっくりだった。防具を身につけ、黒髪のエメンタール人と紹介してもらい、地稽古に潜りこむことにした。まだ言葉の不自由な俺だったが、稽古に参加するだけなら、最低限の言葉さえ判れば足る。
細部に違いは見られるが、この国の剣の稽古は、日本の剣道に酷似していた。
考えてみれば、これは恐るべきことである。
義太郎さんがレディコルカに伝え広めた日本の剣技。スティルトン軍を相手に無双を誇り、数えきれない
レディコルカは軽工業に優れた国である。義太郎さんが再現させたという防具竹刀は、細部に意匠の差異はあるものの、機能としてはほぼ完全に日本の剣道具を再現していた。
しかし、それは最早300年近くも前の話だ。
300年前。日本で言うなら、享保の改革などをやっていた時代だ。
古来から続く伝統芸能、秘伝の古流剣術、などというキャッチフレーズはよく耳にするが、真実300年間も変化せずに伝承を続けられてきた伝統芸能や古流武術が、一体幾つあるだろうか?
現代日本に継承されてきた伝統武術の数々も、長い年月の中で変質したり形骸化したものが数多くある。
300年間の長きに亘って、頑なに義太郎さんの伝えた剣技を継承してきたこの国にとって、剣の訓練とは、軍事教練の一環であると同時に、「神事」であったのだろうと想像すると、そら恐ろしい思いがした。
「あ、セギュール隊長――キヌ大老まで!?」
俄かに稽古場が騷ついた。この道場にキヌが訪れるのは異例のことらしい。上席に案内されるのを軽く辞して、ボジョレは俺に声をかけてきた。
「この道場の者達はいかがですか?」
「いや、全く、見事な道場だ。それにしても、ボジョレ、君達は相手をしてくれないのか?」
「我ら第三憲兵隊は、城の要所とこの道場の警護の任に就いておりますれば。もうじき、正義様にもご満足して頂ける相手をお連れしますので、暫しお待ちを。お手空きならば、お戯れに、我が愚妹にも一手ご指南願えますか?」
馴染みの妖精は、今はキヌに預けてある。妖精――
ボジョレの指差した方を見れば、防具一式を纏ったバルベーラが、恥ずかしげに竹刀を握っていた。白無垢の胴着に、その髪と同じ色の、朱塗りの胴が鮮やかに映えた。
――バルベーラの剣は、先日の彼女とは別人かと思う程に、遅く、鈍く、欠伸が出そうになる程に精彩を欠いていた。
迷いに濁った打ち込みを鎬で流し、戒めを籠めた突きを喉元に叩き込む。
軽く咽ぶバルベーラの耳元で、意地悪げにそっと囁いた。
「俺を殺そうと斬り掛かってきた時の勢いはどうしたんだ?」
面金越しでも、彼女の顔が青褪めるのがありありと見えた。
「あの時は見所のある剣士だと感じたんだけどな~、この様子だと見込み違いかな?」
青褪めていた顔が、
「……もう一手、ご指南をお願い致します」
と頭を下げた。
瞬時に彼女の纏った逡巡混じりの緩みが嘘のように消え去った。剣気総身に満ちた立ち姿は、別人かと見紛う程の凛々しさだ。
笑みを噛み殺す。矢張りこの娘は、感情によって極端にテンションが変化するタイプだ。
軽やかに跳ね上がった彼女の竹刀は、一直線に俺の面へと伸びる。
迷い無く、健やかで、鮮烈な剣。
されど、感情を起爆剤とした技は総て起点が丸見えで、俺は楽々と彼女の胴を薙いで抜けた。
「ほら、気合が入るのはいいが、頭に血が上ると、すぐにそれだ。もう少しどっしり構えろよ」
ぽむぽむと面越しに頭を叩くと、バルベーラは悔しげに唇を噛んだ。
「正義様、もう一本――」
「悪いがバルベーラ、師匠が見えたので、お前が稽古の続きを頂戴するのはまた今度だ」
ボジョレは、
バルベーラは不満そうな顔を見せながらも、師匠、という言葉に素直に剣を引いた。
「師匠?」
「ええ。私達の剣の師です。是非正義様に一手ご指南賜りたいと申しまして。
『師匠』とは、我が剣道師匠国レディコルカに七席しかない剣道家の最高位です。
正義様は、どうもここの者達の技倆には退屈されているご様子ですが、師匠ならば、幾分お暇を紛らわすことも出来るかと」
ボジョレは、実に悪い笑顔を浮かべて、慇懃に頭を下げた。
この男、体裁としての礼こそ欠かさないが、常にこの世界での俺の境遇を
しかし、積み上げてみた16人抜き、ボジョレが語るような容易な勝負は一つとして無かった。この国の剣士は皆戦意旺盛にして、竹刀を真実刀の如く使う。国の威信が籠められた太刀は、熱く、重かった。
それにしても、俺の腕は良くてもボジョレと同程度、その師とは如何なる相手だろうか?
思案しているうちに、師匠なる男がボジョレに連れられて姿を表した。
やや短身の、樽のような印象を受ける小太りの中年男性だった。老熟した気配を感じるが、老人と呼べる程の齢には至らず、脂ぎった好戦的な雰囲気を仄かに残している。
一礼を交わして竹刀を交える。
鋭い掛け声と共に、叩き付けるような剣気が、俺の全身を打ち据えた。
剣先の取り合いを楽しもうともせず、猪のような体躯をのしり、のしりと進ませて、俺の間合いにずかずかと入り込む。
『正義ぃ、間合いの取り合いってのは、陣取り合戦じゃ』
幼い頃、信次郎爺ちゃんは、竹刀の先を交えて、そう語った。
『剣先が互いに一寸交わっていても、それが相手に攻められて交えた一寸なら相手の陣地、お前から攻めて交えた一寸ならお前の陣地じゃ――』
俺の剣先を意にも止めず、こちらの陣地を削りつ攻め進む。
今まで立ち合ってきた幾人もの達人と同じ、紛れもない強者の歩み。
俺は奪われた間合いを取り戻さんと、一寸でも前に出ようと試みるが、床に足指を這わせる寸先に、男は面に跳んだ。
その体躯からは想像も出来ないような軽やかな動きの、
!?
両足が床から離れた。97kgの俺の体躯が体当たりで浮かされるのは、久方ぶりのことである。
浮遊感は一瞬、されど、残響のように尾を引く驚愕の中で、俺は喉元に腰の入った粘りある突きを喰らってたたらを踏んだ。
面金に細切りにされた視界がぶれた。いつの間にか、この道場で稽古していた筈の男たちは姿を消し、上席に残るはキヌとセギュールの兄妹のみ。ボジョレの不敵な笑みが視界の端にちらついた。
何が、『お暇を紛らわすこともできるかも』だ。こんな怪物のような相手を連れてきて。あいつは結構食えない男であるが――本当に、有り難い友だ。
出小手を盗むような小技を使うのが恥ずかしくなるような堂々たる剣風。こんな異世界にも、これ程の剣道家がいるのか。驚愕と歓喜を綯い交ぜにして、先の返礼とばかりに突きを返す。
無論、崩れてもいない相手に不十分な突きが通用する筈もなく、鎬で流され、相撲の如き体当たりを喰らう。この男の使う剣は至極シンプル、面に振り下ろすか突くの二択のみ。されど、その柔らかな剣捌きからは、派生する無限の技をありありと想像できた。
横に捌く。竹刀を巻き上げて小手を盗む。技の選択肢は無限にあった筈だ。しかし、この男の剣は、何とかして真っ直ぐ正面から打ち込んで勝ってみたいという、半ば脅迫観念に近い、抗し難い思いを抱かせるような奇妙な魅力を湛えていた。
簡素にて朴訥、されど男を魅了する、
その剣先に誘われるようにして飛び込めば、俺の竹刀は拍子抜けする程あっさりと男の面を打って抜けた。
【うむ、参りましたぞ。流石は切畠の御血族。何とも素晴らしき御面頂戴、真に光栄に御座りまする】
男は、野太い声でそう叫ぶと、恭しく俺に頭を下げた。
その言葉の意が脳内に響いたのは、肩に座った揚羽の仕業か。キヌも通訳に膝を寄せる。
掌で味わった僅かな達成感と、加減されて一本譲られたという失意と屈辱。
礼式を終えて面を外すと、男は膝を寄せ、黒々とした髭に覆われた顔いっぱいに笑顔を浮かべて見せた。
【いやあ、実に清廉にして実直な剣、感服致しましたぞ。剣帝陛下に稽古を頂戴するという餓鬼の時分のからの夢が叶ったようで、少々粗忽な技を使い過ぎましたな。ご無礼、しかとお詫び申し上げまする】
「いえ、こちらこそ。流石はこの国の剣道師匠。私如き足元にも及ばぬ見事なお手前でした。私の未熟さ故に大叔父義太郎の名を汚したようで、忸怩たる思いです。良ければお名前を伺っても宜しいでしょうか?」
男は、ボジョレ達に頷きを送ると、にっかりと白い歯を見せた。
【あちらの弟子達が御世話になったそうですな。レディコルカの剣道師匠――並びに、国王などをやっております、マルゴー=レディコルカと申しまする】
口をあんぐりと開ける俺に俺に、国王――マルゴーは、不器用な日本語で語りかけた。
「オメニカカレテ、コウエイ、デス、ドウゾ、ヨロシクオネガイ、シマス」
返答に詰まって困惑する俺の肩を、マルゴーはそのぶ厚い掌で叩いた。
【道中で幾らか勉強したのですが、覚えられた神聖言語はこっぽちでしたわ。国王として堅苦しい話もありまするが――ま、おいおいエメンタールへの道中でお話致しましょうか、親王陛下】
マルゴーは、そう言って豪放に笑った。国王という途轍もない地位にまるで似合わぬ、気安な態度で話しかけてくるこの男に、俺は奇妙な親近感を抱いていた。
◆
【レディコルカの王というのは、結構な閑職でしてな。
偉大なる剣帝陛下が身罷られた後、玉座を空のままにしておくのは口惜しいという声が上がりましてな。元々、この国の王位は領主ボルドーより剣帝陛下へ正しく
民が求めたのは、剣帝陛下の如き、貴く強き王でした。剣帝陛下亡き後の最初の王は、陛下の遺影の前で行われた御前試合の優勝者だったと伝えられておりまする。
王を
お陰で、王の代替わりの度に貴族は色めき立って剣の稽古を始め、玉座に就くのはやっとうの腕ばかり達者で
マルゴーは、そう語って深々と頭を下げた。
将軍や王といった名目上の最高権力者と、その国の実務上の統治者が乖離していた例は、俺達の世界の歴史を紐解いてみても、枚挙に暇ない。
剣技に優れたものが王位に就く。それは義太郎さんが目指したという民主政治とは掛け離れた蛮族の志向であるかのようにも思えたが、考えてみれば、俺達の世界で自由主義国家の最先端を気取っていたアメリカ合衆国でさえ、大統領就任者には女性は居らず、つい最近までは黒人大統領は唯の一人さえ存在しなかった。王位は象徴的存在らしいので、存外、この国なりに適正公平な選出が行われているのかもしれない。
しかし、レディコルカの王位について自嘲気味に語ってはいたが、眼前の猪首の男はどう見ても単なるお飾りの暗君とは思えない。この男――マルゴーの顔は、長らく、重責とプライドを背負い続けてきた堂々たる男の顔だった。
どう返したらいいものか。馬車の車窓から街道を覗けば、遠くの農家の庭先で、子供達が庭に打ち立てた棒杭を熱心に左右から打ちつけていた。示現流の立ち木打ちのような稽古か。
「この国の方々は、本当に剣がお好きなのですね」
【当然に御座りますよ。剣帝陛下より賜った剣技を伝え広めております事こそ、我がレディコルカが剣道師匠国たる
この国の男児は御伽噺に剣帝陛下の御偉業を聞き育ち、五つ六つの稚児の時分よりちゃんばら、相撲を競うて遊びまする。
とは言えど――伝説に伝え聞くスティルトンとの
まあ、剣は抜かぬに越したことなし、との陛下のお言葉を思わば、それも
追従して笑いを上げようとしたが、喉から漏れたのは乾いた空笑いだけだった。
この国の、剣に対する執着は、異常だ。如何に剣帝・義太郎の偉業が遺ろうと、この国の暦で既に死後300年を数えている。レディコルカでは、未だ日本刀が本来の用途、戦道具として用いられている。同時に、この国では日本刀とそれを用いる剣技は、一種の宗教的信仰心の対象でもある。勿論、十字軍が剣の柄を好んで十字架状にしたように、武具が宗教的信仰心が籠められることは、全く珍しくは無いが、この国は――どこか、それが、常軌を逸しているようにも感じる。
「正義さま、お顔の色が優れませんが、お気分など悪くされてはいませんか?」
通訳として同席しているキヌが、俺の感情の機微を察して案じるような声をかけた。
「あ、ああ、馬車の旅というのは初めてだからな、少し酔ってしまったかもしれない。
少し、馬車を止めて休憩して貰えないか?」
あからさまなその場凌ぎの嘘だったが、キヌは俺の顔色を察して頭を下げ、馬車の幌を潜った。
マルゴーと二人、街道傍の畦を踏んで、背筋を伸ばす。
【正義親王陛下、この国は、如何ですかな?】
「良い国です。豊かで――こんな田舎でも、子供達が元気に遊んでいます」
【衣食足りて礼節を知る、何より先に民を餓えさせぬことは、慈悲深き剣帝陛下の偉大なる方針に御座りまするよ】
マルゴーを、髯に覆われた頬を吊り上げ、ニッカリと笑った。
【この国の国王は、就任時にキヌ大老より剣帝陛下の遺された
「買いかぶりです」
【御謙遜なさるな。キヌ大老――あの御方が、あのように齢相応の早乙女の如く微笑まれる姿、拝見するのは初めてのことに御座いまする。大老は宮中ではいつもそのお顔に寂しげな笑みを張り付かせるばかりで。
エルフという種族は心の成長も体の成長と等しく、人より遅きものと伝え聞きまする。あのような若き身空で、大老という重責、さぞ窮屈で心苦しいことだろうと、臣下には大老を案ずる者も多かったのですよ。罪悪感、とでも言うのですかな。
本日のキヌ大老の笑顔を拝見して、胸の
マルゴーは、マレビトとしての俺に敬意を払いながらも、世間話でも語るかのような調子で、レディコルカの情勢や宮中の事情などを饒舌に語った。城内の貴族のように無闇に俺を畏れず語りかけてくる様は、流石ボジョレの師匠といった所か。
だが、俺は未だ、己がこの国の王族と言う事実を実感できずにいた。幾ら義太郎さんの日記を読もうと――キヌやマルゴーからその伝記を聞かされようと、それは酷く現実味を欠いた神話のようなものに過ぎない。
俺の迷いを察したのか、マルゴーはその
【戸惑われているようで御座りまするな。エメンタールの首都ステッペンまでには遠回りになり申すが、少しだけ物見遊山、剣帝陛下の遺された偉大なる
俺を安堵させるように力強く頷き、その太く短い指で、エメンタールとの国境沿いにある深い渓谷を指した。
◆
「わあぁ、ここが、かの有名なクータンセの谷ですか……!」
目を輝かせて馬車の車窓の風景を楽しむキヌの姿は、どこか修学旅行の中学生を連想させた。
無理も無いことだろう。外出したのは数十年ぶり、国外に出たのは、義太郎さんに引き取られて以来、初めてのことだという。
この地――クータンセの谷は、赤茶けた大地に地層の縞が駆け抜ける切り立った渓谷で、アメリカのグランドキャニオンを想起させるような威容を空に向かって伸ばしていた。キヌでなくても、歓声を上げたくなるような絶景だ。
黒々とした針葉樹の覆い茂る山々から、何kmも離れていない筈の場所に、これほどの渓谷が存在しようとは。レディコルカの地形の変化は、随分と急激なものらしい。
【もうじきに御座いまする】
もうじき。もうじき、何だと言うのだろうか。ここのところ、キヌ達との会話の練習に時間を割かれて、中々義太郎さんの手記を読み進めることが出来ずにいた。
クータンセの谷。ここは、レディコルカ軍がスティルトン軍に対して歴史的大勝利を収め、講和を成立させた切欠となった地である、とキヌから教えられていた。
曰く、クータンセの谷の最終決戦。
日本で言うなら、桶狭間のようなものだろうか? ここで義太郎さんが如何な采配を揮ったとしても、もう当時の様子を偲ばせるような遺物は残ってはいまい。何しろ、300年は前の戦なのだ。
気軽にそう考えていた俺は、眼前の異様に、言葉を失った。
欠けている。
ほぼ左右対称に続いていた筈の、グランドキャニオンの如き渓谷の右側が、途中から袈裟掛けに斬り落としたかのすっぱりと欠けている。
磨き上げた鏡面の如き水平面が、どこまでもどこまでも彼方まで続いているその地形は、明らかに自然の地形変化では生まれ得ない奇形であった。かと言って、軽く10km以上は続いているだろう水平面を、誰が、どんな目的で作ったのかは見当もつかない。俺達の世界でこれを再現しようとしても巨額の資金と時間が必要だろうし、ましてこの世界の人間達が、この断面を作成するのにどれ程の労力を費やしたのかは見当もつかない。
日本にも奈良の天乃石立神社に、柳生宗巌が修業中に天狗と立ち合い一刀両断したという逸話を伝えられる、一刀石という巨石が存在する。だが、それは割れた自然石が後世信仰の対象になったものと捉えるのが自然だろう。
だが、これは――ナスカの地上絵やピラミッドを遥かに超えた超常の遺跡だった。
「これが……」
キヌが、呆然と渓谷を切り裂く断面を見上げる。
【そうです、これが偉大なる剣帝陛下の遺された
「ちょ、ちょっと待ってくれ! これを、義太郎さんがやったって言うのか!?」
【ええ。それも、刀の一振りで。幾多の詩に詠われてし、クータンセの最終決戦。渓谷での乱戦の
この戦の顛末を耳にしたスティルトンの上層部は畏れ
クータンセの谷の無限斬の跡こそ、剣帝・切畠義太郎様が唯一無二のマレビトにあらせられる証として、レディコルカの聖地として伝えられておるので御座りまするよ】
誇らしげなマルゴーの口調は、御伽噺や伝説を語っているようには見えなかった。この、渓谷に刻まれた巨大な断面――『無限斬』は、疑いようのない史実なのだ。
「キヌ、これは、本当に義太郎さんが……?」
「はい。生前も、無限斬のお話は何度もお聞き致しました。義太郎様の偉業に間違いございません」
「……」
俺は、遥か彼方、霞がかった地平線まで続く無限斬の跡を呆として眺めるしか無かった。
義太郎さんも、俺と同じようにマレビトとしてこの地に流れついた、ただの人間だと思っていた。だが、地に刻まれたこの巨大な傷痕は何だ? 到底、一人の人間が為した仕業とは考えられない。天変地異が如き大災害。
文字通りの、神の業だった。
俺は、無限斬などという、人智を超越した技など知らない。普段使う技といったら剣道の面と小手が精々、時には畳表で試斬も行うが、こんな馬鹿げた現象が起こせる筈も無い。
無限斬は、俺の知る剣とは明らかに隔絶された、魔の領域の何かだった。
キヌは、少し俯き気味でぽつりと漏らした。
「無限斬は、レディコルカを独立に導いた義太郎様の偉業に間違いございません。ですが――義太郎様は、無限斬の偉業を讃えられる度に、苦いお顔をしていらっしゃいました。
ただ一度だけ、義太郎様が、無限斬について語られたのをお聞きしたことがございます。
義太郎様は、仰られていました。『
この話はマルゴーも初耳だったらしく、重苦しい沈黙が車中を支配した。
――義太郎さん、貴方は、一体此処で何をしたんですか?
胸中で問えど、答えがある筈も無く、峡谷を吹き抜ける埃混じりの乾いた風が、耳障りな音を経てて馬車の幌を揺らすばかりだった。
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