8

 生きているのか、死んでいるのか。それすら分からぬ者達の間を、二人は駆け抜ける。

「どうでもいいかと思ってた」

「また要らんところに墜落して、ご近所に迷惑をかけたら住みづらいからな」

 男は息を切らしながら皮肉を返す。

「なら、残念。上手く行けば、貴方はもうこの街には居られないから」

 少女はそう言って笑った。

 大昔の映画で、こんなシーンを見た気がする、と男は思った。所々に十余年前の破壊の跡を抱え、今にも崩れそうな教会の前で。二人は立ち止まった。

「……これが、崩れてない?崩れてない、の間違いじゃなくて?」

「訂正するよ。14年間は崩れてない」

「つまり、今は15年に一度のチャンスってわけね」

 などと、軽口を叩きながら少女は『エンジン』を背中へ固定する。そして、

「はい、これ」

「ん……?」

「紐。何処かに固定しておいて。降りるときに使うから」

 少女が手渡したのは、彼女の身体に結びつけられたワイヤーの端だった。要するに、命綱だった。

「なるほど。命を預けるとは、余程信頼されたかな?」

「ええ。自分の命の責任は、自分で持ちたいでしょう?」

「……は?」

 男は思わず目を白黒させた。この少女、『ブラウニー』は今、なんと言った?

「これから起こることを思えば、上に行った方が、安全だと思うけれど?」

「ああ……ああそうか、畜生」

 此処には今から、あの『天使』が来るのだ。そして、彼女はそれを叩き落そうとしているのだ。

 つまり……あの巨体が、崩れかけの街並み目掛けて降ってくる。何が起こるかは、子供でもわかる。ちょっとした究極の選択というやつだ。

「『近所』の連中はどうなる?」

「死者は蘇らない」

 その一言しか、彼女は言わなかった。

「……確かに、こんな場所に千年王国が来るなんて、俺も思っちゃいない。で、これからどうする?」

「待つわ。天使がこの近くに来るまで」

「なら、少し俺と離れていた方がいい」

「どうして?」

「……ああくそ、『声』が聞こえるんだ。あの天使から」

 言うつもりは無かった。考えてみれば、ひどい話だからだ。

 あの天使から、頭のなかに直接声が聞こえて。彼女と居るときだけ、それが止まるだなんて。他人に話せば爆笑ものだ。

「……信じる。寧ろ、あの惨劇から生き残って、なんの『副作用』も無い方が不自然だもの」

 しかし、少女は笑わなかった。その代わりに、つんと澄ました顔に、一瞬だけ柔らかな笑みを浮かべた。

 まるで、自分の仲間を見つけたような。そして、自分の手に入らないものを見たような。そんな、それでも、聖母のような慈愛に満ちた笑みだった。

 少なくとも、男にはそう見えた。

「ならいい」

 それから二人は、教会の尖塔の上で時が来るのを待った。

 あの『天使』が訪れるのを。崩れかけた塔の上で只管。

「……長丁場になるなら、何か取ってこようか」

「……いい。ここに居て」

 食べ物でも取りに行こうと、立ち上がろうとした男を、少女は服の裾を握って引き留めた。

 そうして彼女は、代わりにロザリオを取り出し、祈り始めた。

「……何に祈っているのやら」

 男は、横目でそれをたまに見ながら。小さく呟いた。が、どうも聞こえていたらしい。

「祈らないと死んでしまうから」

「信心深いことだ」

 少女の答えに、男は、少し考えた。

「なら、俺も一緒に祈ろう」

「……天にまします我らが父よ」

「天に、まします我らが父よ」

 少女に続いて、男は唱える。もう、祈りの作法など忘れてしまった。

「御名があがめられますように」

「御名があがめられますように」

 幾度か、決まり文句を繰り返す。なんのために祈ろうと思ったのか。それとも、ただ逃げたかったのか。

 どうでもよかった。

「みこころが、天に行われるとおり地にも行われますように」

 そして、そう唱えた時。男の頭の中に、『声』が響き始めた。

 輪と翼を持った御使いの似姿が、光る羽根を天より撒き始めた。

「……こんな機能、見たことない」

 そして、祈りを止めた少女が、そう呟いた。

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