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聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな。
聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな。
「うるせぇぞ!」
と怒鳴りながら、小太りの男はベッドから転げ落ちた。頭のなかに、賛美歌が響き渡っている。インプラントも無いのにだ。
彼が最初に考えたのは、とうとう自分が狂い始めた可能性だった。
荒れ果てた街には歩く死体(リビングデッド)が蔓延り。空にはラッパ吹きの天使が浮いている。こんな有り様で正常で居られる人間など、あるものか。
彼が次に考えたのは、睡眠薬か精神安定剤の在処だった。処方はAI任せだが、幸いにして『飲んでいた経験』のある男には、薬の名前も分量もある程度分かる。
「……面倒だ」
だが、薬を手に入れるには、何時崩落するとも知れぬ市街の中を近場の病院へ辿り着き、薬金庫をぶち割る必要がある。
だから男は、もっと手っ取り早い解決策を採ることにした。つまり、ベッドの下から虎の子のウィスキーボトルを引っ張り出してグラスに注いだのだ。
身体に酔いが回った頃。男は暑苦しくなり、部屋の窓を開けた。此処は店の2階で、死者が迷い込んでくる心配は無い。
頭の中には相変わらず、壊れたラジオの如く賛美歌が鳴り響いている。日曜の礼拝をさぼった罰かとも思ったが、そんな趣味は元から無かった。教会など、親に連れられて行ったきりだった。
同世代の若者(十五年前は彼も若者だった)には、東方のブディズムやイスラームに傾倒する者も居たが。そうでない人間の信心など高が知れている。
「つまみがねぇ……」
しかし、だけ今は神に祈ってもいい気分だった。おお神よ、どうか一切れのチーズをお与えください。パンは今は要りませんから、と。
窓から部屋の中に月光が差し込む。風がカーテンを払い除け。そして、その外に。遠くを飛ぶ機械じかけの天使の姿が現れる。
もしも洞窟に篭っている預言者なら、その神々しい光景に宗教の一つや二つ起こせたのかもしれないが。残念なことに、彼にとってはこの十年で見飽きた光景だった。
しかし、人は慣れる生き物だ。どれ程神々しかろうと。どれ程醜悪であろうと。地獄であろうと、天国であろうと。十年もすれば、慣れてしまう。
ただ、その慣れが、時折恐ろしくなることもある。
今日は、そんな月夜だった。
一瞬、月の光が陰った。
ヒュゥウウウ……という不気味な風切り音が窓の外で鳴った。
そして、次の瞬間。『何かが、窓の外から突っ込んできた』。
窓枠が捻じれ、窓ガラスが月明かりに照らされながら美しく飛び散る様を。男の感覚は、スローモーションのように捉えていた。
部屋の中に転がり込んだのは、巨大な黒い蝙蝠のような物体だった。
異様なまでに光を吸い込む漆黒の翼と、滅茶苦茶に折れ曲がった複雑怪奇な骨組み。 そして、中心に居る、全身を翼と同じ色のプロテクターで覆った、小柄な人型。その全体像を頭の中で組み立て直すならば。
「悪魔だ……」
誰もが、そう考えただろう。それか、蝙蝠人間のヒーローか。
男はグラスを口に運ぼうとしたが、ガラスの破片が入っていることに気づき、机の上に戻そうとして手が滑り、床にぶちまけた。
「いた、たたたたぁ……」
翼に包まれた人型は、ビクビクと蠢きながらそう呻き、這い上がろうとしている。それは確かに、人の声だった。
そう。あの日から、久しく聞くことの無かった生身の人の声だ。
「あ、あんた、誰だ……」
声を聞いた時。男の中で、何かが決壊した。慣れたと思っていた孤独は、好んでいたと思っていた静寂は。結局のところ『慣れただけ』だったのだろう。
誰かと話せるなら。もう、悪魔でも構わなかった。
人型は。背中の翼を『切り離し』、ゆっくりと立ち上がった。
「悪魔でもなんでもいい!答えてくれ!話をしてくれ!」
「よりによって悪魔なんて、失礼な人」
男の前で、小柄な人間はヘルメットを脱いだ。中から、長い青髪がこぼれ落ちる。
悪魔の翼を纏っていたのは。小柄な少女だった。
出会ったことなど、無い筈だった。少女の年頃は、十代の半ば。男の方は、15年前からそもそも人間とほぼ会っていない。
それでも、男は。月の光に照らされた美しい貌を、何処かで見たような気がした。
「じゃあ……あんたは、一体、何なんだ」
その姿に怖じ気付くように、男は問うた。
男の問に。
「
と。少女はただ一言、そう答えた。
男の頭の中の賛美歌は。いつの間にか、止んでいた。
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ブッシャリオンTips J計画(Lv.2)
アジアから輸入したモデル・クーカイ技術の発展応用による、『ユーロ』主導の聖人復活計画の総称。その真の目的は、新人類、救世主の創造であったと囁かれる。徳カリプス直前期には、複数の聖人因子を混合させ、試作体の製造に成功していたようである。
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