第十四回 古くからの言い伝え。

 新海誠さんという映像作家の方がおります。


 その作品に『秒速五センチメートル』というのがありまして、先日それを拝見しておりましたところ、主人公が高校で弓道の練習をしているシーンが出てまいりました。

 これがもう、凄いの一言。

 ここまで弓道を忠実にアニメ化したものを、私は他に見たことがありません。押手や離れの瞬間など、あらが出やすい部分を微妙に映像から外して処理していますが、そのことも含めて感心しました。実によく分かっていらっしゃる。中途半端な描写をするぐらいならば、いっそのこと誤魔化してもらったほうがすっきりします。

 同氏の他の作品『雲のむこう、約束の場所』にも弓道が出てくるのですが、こちらも実に噓臭くない描写でした。よほど取材したのだろうなと思っていたら、本人が高校で弓道部に在籍していたとのこと。

 経験者が本気を出すとこうなる、という良い例です。


 *


 さて、今回は弓道に関するちょっとした雑学です。

 今までも気楽に読んで頂いていると思いますが、さらに気楽にお読み下さい。


 < 戌の日の切れ弦 >


 弓道で使われる弦には、昔は麻が主に使われておりました。

 今では合成繊維であるケブラーも使われており、合成繊維のほうが耐久性が高く切れにくくなっています。

 それでは「切れないほうが良い」かというとそうでもありません。

 ある程度使用したところで、自然に切れてくれる弦が一番適切でありまして、全然切れないと弓のほうが駄目になってしまいます。

 なぜなら弦が切れた反動で、弓はリフレッシュされて本来の反発力を取り戻すからです。

 ですから、試合の最中に弦が切れてしまうと意外に大変です。弓の状態が微妙に変わりますので。

 また、前に「弦の高さ――弓把きゅうははサムズアップした時の幅に同じ」という説明を致しましたが、付け替えた直後の弓把は安定していません。

 弦を弓につける時には「弦輪つるわ」という独特の結び方をします。交換直後ですと、その結び目が締まって弓把が低くなってしまうことがあるからです。

 従って、交換用の弦には何本か矢を射た後のものを使用するようにしています。


 さて、この切れた弦について、古くから言い伝えられていることがあります。

 それは「戌の日に切れた弦は、安産のお守りになる」というものです。

 微妙に条件が異なっていることがありますが、私が聞いている限りでは「戌の日に、弦が矢をつがえている部分から切れて、その時に飛んでいった矢が的に中った場合には、安産のお守りになる」でした。

 戌、つまり犬は昔から安産だといわれております。どうして切れた弦がお守りになるのかは、諸説あるようでよく分かりません。矢が飛んでゆくように勢いよく飛び出してくれると嬉しい、ということでしょうか。

 弓道家の間では割とポピュラーな言い伝えなのですが、一般の方にはとんと馴染みがないようですね。

 昔、結婚式でスピーチをお願いされた時に、

「実は、弓道には安産のお守りというのがありまして――」

 と説明しつつ、実際に弦をお渡ししたら喜ばれました。


 はい、そこの方、何でしょうか?

「安産のお守りは良いが、結婚式で切れ弦というのはちょっと……」

 ですか?


 ……あ。


 いやその、そういえば確かに会場から聞こえた笑い声に、苦笑交じりのものがあったような気が――


( 第十四回 終り )

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