第七回 外せない最低限の「引き方」とは。

 第六回は少々経験者向けの話になってしまいました。

 今回は再び「外せない最低限の描写」を説明したいと思います。取り上げるのは「弓を引く動作」です。

 ただ、弓道愛好家向けに細かいことを言い出すときりがないため、ここでは「だいたいあっているように見える」ことを目指しました。


 *


「弓道を知らない方がよくやってしまう弓の引き方」というのがあります。

 引き終りだけ見ると、前述した東京国立美術館のヘラクレスの姿がそうですが、引き始めのところから順を追って見ていきましょう。

 実際に身体を動かしながらお読み頂けますと助かります。言葉だけでは分かり難いかもしれませんので。


 大抵の方は身体の正面で矢をつがえると、まずは左腕で弓を押し、右腕で弦を引きながら、的に対して右斜め上までいきなり弓と矢を持ち上げるのではないでしょうか。

 その際、矢の先端は右斜め上を向いている場合が多く、右の拳は頭のすぐ近くにあることでしょう。

 それから腕の力だけで引き分けて、唇の下あたり、人によっては顎の下まで降ろします。

 その際も、矢の先端は右斜め上を向いている場合が多いと思います。

 弓を持つ左拳は完全に握り込まれており、左の親指が第一関節から曲がっています。

 左手首は押し負けて下に折れており、左肩が詰まって前に出ているか、上がっているはずです。

 右の人差し指と中指は、親指を完全に抑え込んでおり、手首が折れています。

 右肩は後ろに逃げて、両肩を線で繋ぐと的よりも右方向を向いたものになります。    

 そして、矢を覗き込んで的に向けようとしますが、どこを狙えばよいか分からないはずです。

 口の下にある棒の向いている方向ですから、覗き込んでも分かりません。

 だいたいこんなもんだろうと思われる方向に矢が向いた時、右の拳を大きく開いて弦を離すはずです。


 和弓をまともに引いているように見せるためには、要するに以上のことを決してしなければよいのです。


 まず、身体の正面にある弓と弦をいきなり右斜め前まで押し引きしながら持ち上げる姿ですが、実は完全に間違いとは言い難いところがあります。

 弓道に『日置流尾州竹林派』という流派がありまして、言葉だけで表現するとその流派の引き方に似ているからです。もちろん「文字にすると」という前提つきであって、細かいところは全然違いますが。

 昔の武士の場合はぎりぎりセーフです。テレビの時代劇でこの引き方をされても、頭から「間違っている」と、私は言いません。

 ただ、現代においては特定の流派の引き方ですから、その流派に所属する人しかしないのです。

 いきなり横に逸れて恐縮ですが、森博嗣さんの小説に出てくる主人公の『西之園萌絵』さんは那古野市にある国立N大学弓道部に所属している設定になっていました。

 実在する名古屋大学弓道部は尾州竹林派ですから、西之園さんは恐らく尾州竹林派でしょう。

 ちなみに作家の堀田あけみさんも名古屋大学弓道部に在籍していましたから、大学時代は尾州竹林派だったと思います。

 従って、森博嗣さんや堀田あけみさんの小説で前述のように大学生が右斜め上に弓を引く描写が出てきても、間違いではありません。

 ただ、現代の高校生や大学生を主人公とする場合、多数派は「全日本弓道連盟の正面打ち起こし」ですから、そちらを参考にしたほうが無難です。

 そこで、以下は全日本弓道連盟の正面打ち起こしらしく見える表現を目指します。


 まず、身体の正面で矢を番えます。

 それを、両腕を緩やかに曲げて保持します。「大木を抱きかかえる」つもりで、腕を曲げて下さい。

 ここまでを弓道では『弓構ゆがまえ』と呼びます。


 顔を的の方向に向け、両腕を身体の正面に持ち上げます。上げた腕が地面から見て四十五度になったところで止めます。三十度ではありませんし、六十度でもありません。

 両腕を上げる際、矢の先端を僅かに下に向けます。弓道では、矢の先端は決して、どんなに僅かであっても、上には向けません。矢の先端は常に僅かに下がり、的のほうを向いています。

 この状態を弓道では『打ち起こし』と呼びます。


 正面四十五度の位置から、左腕を的の方向に伸ばします。押す訳ではありません。肩を起点として伸ばすだけです。

 右腕も積極的に引くことはしません。左腕が伸びて位置が下がるため、それにあわせて右ひじが曲がるだけです。  

 左の拳は強く握りません。弓道には『握卵あくらん』という言葉がありまして、左拳には「卵を握り潰さない程度の力」しか入れないのを理想とします。

『握卵』は右の拳も同じです。右拳は弦に引かれて、額の前方、拳一つ分離れたところに落ち着きます。

 この姿は『大三』と呼ばれています。

  

 次に、矢を口元まで降ろします。

 弓道では『引き分け』と呼びますが、その際、常に左拳が右拳よりも優先されます。力のかけ方もそうですし、動きもそうです。

 両拳は『握卵』ですから、基本的に力を入れません。従って、手首が折れる様なことはありません。

 左拳は、親指の付け根の部分と指しか弓には触れておらず、掌底は空間が開いたままとなります。

 肩を起点として、両腕の骨格のかみ合わせと、手首以降の腕の筋肉を使って押し引きします。右と左の肩は、常に同じ高さであり、的に向かった線上に並んでいます。


 引き込んだ矢は、ちょうど唇の位置で止めます。

 左腕は棒状に伸ばさず、僅かに湾曲した状態で保持されます。右腕は右肩前方か、それよりも後方にあります。

 これが『かい』です。

 この状態は短くて五秒、長くて十五秒ほど続きます。その間、両拳と両腕は伸び続けています。


 次に来るのは『離れ』ですが、これが言葉では上手く説明できません。  

 ある人は「葉の先に溜まった露が、重さに耐えかねて落ちるように」と表現します。

 ある人は「金属同士が衝突して火花が散るように」と表現します。

 全く違う現象に思われるかもしれませんが、離れを表現する言葉としてはいずれも間違いではないのです。

 私自身は「弦を引く右拳の、親指と薬指(私は四本指の道具を使っていますので、こうなります)の接点で摩擦係数がゼロ以下になった瞬間」と考えていますが、物理的にはそういうことです。

 では、そのためにはどうしたらよいか。ここが非常に難しい。今回はそこまで深入りせず、「ともかく右の拳は絶対に緩めない。大きく開いてもいけない」とだけ説明しておきます。


 弦は矢を的に向かって押し出し、両腕は解き放たれて力がかかっていた方向に伸びます。理想だけ言えば「肩の高さから拳一個分の範囲内」で、拳の高さが下がります。

 特に、右腕は真っ直ぐではなく、緩やかに湾曲した状態まで伸びます。

 矢を押し出した弦は左拳の周囲を回り、左腕の外側で停止します。

 この状態が『残身』です。


 弓道では、前動作であるところの『足踏み』『胴作り』、弓構え、打ち起こし、引き分け、会、離れ、残身の八つを総称して、『射法八節』と呼称します。


 *


 少々細かくなりすぎたので、最低限の事項のみおさらいしておきましょう。

 ・流派を知らない人には「全日本弓道連盟方式」をお勧めします。

 ・動作の途中、矢は決して先端が上向きになりません。

 ・両拳は強く握りません。両手首は折りません。

 ・肩は両方とも同じ高さです。

 ・弦は自然に離れるもので、意図して離したりはしません。

 ・くれぐれも『弓返ゆがえり』はお忘れなきよう。

 以上の点に注意すれば、だいたい真面に見えるはずです。


 的に中るかどうかは別問題ですが。


 ( 第七回 終り )

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