第六回 和弓はどのぐらい重いのか。

 今回は和弓の重さについて説明します。なお、和弓で「重さ」と言う時は、和弓自体の重量ではなく、和弓を適切な幅まで引き込むために必要な力の大きさのことを指します。


(追記)ここでは「重い」という表現を使いましたが、正しくは「強い」のようです。しかしながら、個人的にピンとこないので、「重い」のままで残します。


 私が高校生だった頃の同年代が使う和弓の重さは、男子で十八キロ、女子で十五キロぐらいが標準ではなかったかと思います。同じ弓でも大きく引けば引くほど重くなるので、ここではだいたい「九十五センチまで引いた時の重さ」を想定しています。


 これが大学生になると、男性で十五キロ、女性で十三キロが標準になります。どうして年齢が高くなると軽くなるのかといいますと、それは一日に射る矢数が影響するからでして、一日百射するようになると僅かな重さが累積して疲労の度合いも変わってきます。ですから、あえて軽い弓を使うようになります。


 これが武士の話になりますと、次第に化物じみてくる。

 源為朝みなもとのためともになると、もう大変です。


 為朝は平安時代の武将で、『保元物語』に名前が出てくる弓の名手ですが、非常に強い弓を引いていたことで知られており、彼の用いた弓は俗に「五人張り」と言われています。これは、一張の弓を張るために五人が力を併せなければいけなかった、という意味です。

 実際にどれだけ重かったのかは実物が残っていないので分かりませんが、一説に「三人張り」でも六十キロ近かったのではないかと言われています。そこで、一人当たり二十キロと考えると、五人張りは百キロです。


 こんなの絶対無理。手元で少しだけ引くことすら満足に出来ません。


 京都にある蓮華王院、いわゆる三十三間堂で行われていた「通し矢」という競技があります。

 一月になるとよくテレビで「三十三間堂で和服の女性が弓を引いている」姿が紹介されますが、現在でも行われている「通し矢」はただの遠的競技でして、距離は六十メートルしかありません。江戸時代に行われていた「通し矢」は、三十三間堂の軒下で、百メートルの距離を軒や建物に中てずにどれだけ通すことができるか競う競技です。


 これに使われていた弓が、やはり非常に強かった。


 軒があるので高く飛ばすことが出来ませんから、強い弓で出来るだけ低く飛ばす必要があります。平成になって筑波大出身の方がこれに挑んだ時には、確か三十キロの弓を用いましたが、それでも百本射て一割も通すことが出来なかったと記憶しております。

 最高記録は紀州藩の和佐大八郎が打ち立てた「一日一万三千本以上射て、八千射以上を通した」というものですが、これになると確かに「三人張り」の弓が必要だったかもしれません。


 作者が大学生の頃に実際に見た選手では、二十四キロを使っている方がおりました。また、山形の岡崎先生が三十キロを使っていた時代です。まだまだ強弓引きは生き残っていると思いますが、三十キロを使う人はかなり少ないのではないでしょうか。


 最後に、出典不明の伝聞情報を書きます。

 かの有名な源義経は二十四キロの弓を使っていました。これが当時の武士の標準からすると軽すぎてお話にならないもので、バレると笑い者になりかねない。それを戦闘中に海に落としてしまった義経は、泳いでわざわざ取りにいったそうです。

 武士は大変です。


 ( 第六回 終り )

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