第五回 どのくらい中るものなのか。

 前に「和弓は射手が何もしないと中らないように出来ている」と申し上げましたが、それでは具体的にどのぐらい中るものなのかお話し致します。


 日本の弓道で一番よく中る階層といえば、まずは暇な大学生でしょう。弓道は瞬間の技の冴えが的中を左右しますから、練習の数が物を言います。短距離選手のスタート練習のようなものです。

 東京都にある大学弓道部をまとめている団体に東京都学生弓道連盟、通称『都学連』というのがあり、ここでしのぎを削る選手達は普通に一日百射します。(伝聞ですが多分事実)

 一射にかかる時間は速くて三十秒、丁寧にやって一分。射た矢は取りに行かないといけませんので、もろもろ加味して二分とします。百射すると二百分ですから、三時間二十分です。

 しかも一日休むと感覚が鈍るので、ほぼ休みなく毎日やります。こんなことは学生じゃないと出来ません。

 その結果、大学生の上位クラスになると二十射皆中(二十本を射て、すべて的に中ること)をする人がごろごろしています。

 私が現役の頃の最高峰は日大と法政大でしたが、都学連の上位校はインターハイの入賞選手を選抜して入学させますので、試合で二十射皆中クラスを五人揃えてきます。

 弓道の試合は一回の出場で四本射るのが標準ですから、五人いると二十射になります。

 それで五人揃って四本全部、的に普通に中ててきますので、こうなるともう何本中るかではなく、何本外すかで勝負が決まります。


 大学生の場合、さらに不思議な仕様の大会があります。


 秋に伊勢神宮で全日本学生弓道王座決定戦という、事実上日本一の大学を決める大会があり、その大会終了後に東西学生弓道選抜対抗試合、別名『東西対抗』という余興の試合が行なわれます。

 これは各地区学生弓道連盟の的中上位者が、東で十三人、西で十三人だけ出場できるという鬼のような大会でして、これになるともう全国から妖怪か機械のような連中がぞろぞろ出てきます。

 東軍であれば、前立(先に射る人々)が五人、後立(後に射る人々)が五人の合計十人が正式選手で、交代要員が三名いる訳ですが、いきなり四射三中を二回続けると容赦なく交代させられます。

 全部無事に射ると二十射。それで十七中しようものなら非常に目立ち、周りから「お前、何やってんの」という目で見られるという貴重な経験ができます。

 十七中は的中率にすると八割五分ですから、つまり学生の上位クラスは九割当たり前、八割台は普通の人扱いです。


 小説で弓道を扱う場合、間違っても「八割も中るのか!」と言わせてはいけません。九割が驚いてよい最低ラインです。


 この時点で使っている的の大きさは、直径が一尺ニ寸(約三十六センチ)。

 これは人間の胴体の幅を想定した大きさで、射場(弓を射る場所)から見た時の大きさが、大体弓に貼り付けた五百円玉ぐらいの大きさに見えます。それに九割、平気で中てるのです。

 武士はさらにすごかったと聞きます。伝聞ですが、武士の練習記録ではさらに小さい八寸(約二十四センチ)の的で、九割は当たり前だったらしい。これは人間の脇腹ぐらいの大きさです。


 こうなると「継矢つぎや」というのが結構頻繁に起こる。


 継矢というのは、言葉通り先に飛ばした矢の筈(弦をつける部分)に、次に引いた矢が中ってしまうことです。

 特に、先の矢に次の矢が完全に食い込んで、あたかも一本の矢であるかのように的に真っ直ぐに刺さった状態を最上とします。しかし、流石にこれは珍しく、私も実物は一度しか見たことがありません。

 ただし、前の矢の筈が欠けてしまうぐらいの継矢は結構あります。そうすると大変です。ひどい時には矢が一本使えなくなるのですから。

 弓道競技では二本あるいは四本の矢を用いて、的中を争います。そのため、弓道の矢も四本セットか六本セットで販売しています。

 学生の場合、金がないのでケチって四本セットで買ってしまいそうになりますが、そうすると継矢をした時には大変に痛い。三本残っていても意味はありませんので。

 継矢は、やると周囲からは驚かれますが、自分としては嬉しいような悲しいような気分になります。


 さて、この継矢の記録で日本で最も有名なものが、岩波文庫の中で一番ページ数が少ないと思われる『日本の弓術』という本に記載されています。


 本の作者はドイツ人のオイゲン・ヘリゲルさん。東北帝国大学に哲学の先生としてやってきた方です。その方が日本の武道を知るために、大学で弓術を始めました。

 そしてその当時、東北帝国大学の弓術師範をされていたのは、『弓聖』の名で呼ばれた阿波研造先生でした。

 いろいろ紆余曲折ありますが、ヘリゲルさんが頭でっかちな弓ばかりすることに業を煮やした阿波先生は、

「夜中に弓道場に来い」

 と呼びだします。

 ヘリゲルさんが指示通りに弓道場にいってみると、道場は真っ暗で、明かりは的の前に一つだけ灯された線香だけでした。その中で阿波先生が弓を射た。

 一本目が的に中る音が響く。ところが二本目はおかしな音がした。的に矢を確かめに行ったヘリゲルさんが暫く戻ってこないので、阿波先生が的のところまで行ってみると――


 一本目の矢の筈のところに、見事に二本目が刺さっていました。


 ヘリゲルさんはその前で「おう、これこそ東洋の神秘!」と項垂れており、その結果、別な世界に目覚めてしまう訳ですが、これが実話だというから驚きです。

 ただ、後日、阿波先生本人は、

「中るとは思っていたが、継矢するとは思っていなかった。あっはっは」

 と、弟子の桜井さんに語っておられましたので、単なる偶然です。

 それにしても出来過ぎな話ですが、ここまでは小説でやっても嘘にはなりません。

 ちなみにこの阿波先生は結構無茶な方でして、的の前に人を立たせてその股下にある的に中てたことがあります。その時に的前に立っていたのは、全日本弓道連盟の副会長をされていた菊地先生のお父さんでした。


 良い子は決して真似をしてはいけません。『弓聖』だから許されることです。


 最後に都学連の話をご紹介します。伝聞です。

 昔、とんでもなく中る選手がおりまして、ほぼ的のど真ん中に矢を集めてくる。あまりに精密なので、他の大学の選手が、

「継矢しないのですか?」

 と訊ねたところ、彼はこう答えました。


「大丈夫です。ちゃんと狙ってますから」

 

 ( 第五回 終り )

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