竜と神のこども
竜は天を翔けるもの。天空の支配者であり、人間よりもはるかに上位の存在だ。どちらかというと精霊や神に近い。が、当然、必ずしも人間の味方というわけでもない。
その竜は憂いていた。彼は―彼と呼ぶことが果たして正しいのかはわからないが―そう、彼は憂いていたのだ。世界の中心が欠落したこの世界では、言葉と数字が横行し、その理をゆがめ、徐々に崩落してきている。そしてそれを止める術は……あるにはあるのだが、おそらく砂漠に落とした砂金を探すよりもはるかに困難だろう。欠落してしまった要素があまりに大きすぎる。
彼は優雅に空を翔けながら、静かに下界を見下ろした。人工的な光が都市部を中心に集まっている。それは奇妙なほどに明るく、彼の居る上空にはほの紅く光って見えてどこか不気味な白々しさを感じた。
人間も、亜人も、獣人も、誰も足を踏み入れることが出来ない山の頂上、少しくぼんだそこに、彼はゆっくりと降りた。霊峰と呼ぶにふさわしい岩肌と、冷たい空気。遥か眼下には白く伸びた雲がある。風に揺れる小さな白い花。
岩陰のくぼみにちらりと白銀の光を見つけて、彼はゆるりと頭を動かした。
『アスラ、何をしておる?』
彼の口元は動かない。声を発することなく思念を伝達するのは竜の基本的なコミュニケーション方法だ。
「……なかなか帰ってこないから、心配してた」
さらりと風が白銀の髪をなぶる。彼は、その宝石のような両目を眇めてわずかに微笑んだようだった。
『愛し仔よ、案ずるな』
思い出す。この仔を授かった瞬間を。鋭いつめで触れようものならば傷つけてしまうから柔らかな鱗で触れる。人間のかたちによく似たこの仔は、まさしく神から賜ったおくりもの。空を翔る羽根も、すべてを切り裂くつめも持ち合わせていないこの脆弱さは……なんといとしく、はかないことだろうか。
「……?」
解らないというように首を傾げる子供に、彼はまた笑む。
『アスラよ、昔話をしてやろう』
彼はゆっくりと星空を見上げてそう言った。
†
昔々、といってもそれほど昔のことではない。竜である彼からすれば瞬きよりも少しだけ長い時間、そのくらいだ。
彼はいつものように空を翔けていた。月が下界を照らしている。美しい白銀の光。灼けるような暑さもなく、ただただ静かにやわらかい光が降り注いでいる。そのなかを翔けるのが彼は好きだった。星々と月だけが空を支配する静寂。そのなかを泳ぐように翔けるのはとても心地よい。
ふ、と。月光が陰った気がして速度を緩める。ねぐらにほど近い場所に、誰かがいる。人間ではない。人間には翼はない。白い白い翼だった。艶やかな羽根がきらきらと月光を反射している。
その白い翼に黒髪がたなびいて奇妙なほど美しいコントラストを描いていた。
『こんばんは、良い夜ですね』
彼女は彼に気付くと―いや、もうとっくに気付いていたのだろうけれど―ふわりと微笑ってみせた。細められた瞳と、白い頬。滑らかな曲線で形作られている肢体。月光を一身に浴びて微笑する彼女はおそろしいほど美しく見える。
中空に浮いているその身体がどこまで本物なのか。眩暈のような陶酔感に彼の鱗がさざめく。
『貴女は、』
彼の声に彼女は更に浮かべた笑みを深くした。
「それが、神様なのか?」
『話の途中で口を挟むのはお前の悪い癖だ、アスラ』
「あ、すまん」
『そうだな……神様、という表現はおそらく正しくない。正しくはないが……それに近しい存在であったのは確かだ』
「ふぅん」
相槌にもならない相槌を打つ幼子に、彼は少しだけ苦笑した。この子供はまだ出逢っていないだけなのだ。だからこそ無知なままで、無垢なままでいる。だが、いずれ出逢ってしまう。
彼の宝石のような瞳がまぁるい月を見上げる。黄金色に似た白銀の光。冷たいようで、どこかあたたかなその光は、彼女が自分に触れたあの夜を思い出させる。懐かしいような、切ないような、いとおしいような、狂おしいような、こんな感情を、その渦巻く衝動にも近いものを与えてくれた彼女にはもう逢えない。解っている。嫌という程解っている。彼女に逢えるのは夢のなかだけなのだ。
『アスラよ、お前にもいずれ解る。
そしてそれが解った時……お前がどうするかはお前が択ぶしかないのだ』
「
『今は解らずとも良い、だが、もうすぐ解ってしまう』
「……?」
疑問符を浮かべている子供を、彼―
既に道筋は示されてしまった。これから先を彼はもう識っている。そしてその道筋はどちらに転んでも同じ結果に陥ってしまうということも。
『さぁ、アスラよ選択をしに行こう』
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