慟哭

 ごうごうと燃え上がるものがあった。夜の黒い空を赤い炎が舐めるように踊っている。時折その音に悲鳴が混じる。逃げ惑う姿が炎に照らし出される。燃える。燃えていく。「憤怒」と呼ばれ、金と暴力が支配していた街が。

 賢いものから逃げ出したその場所で、業火に合わせてなにかが響いている。悲鳴とも、歌ともとれる声が。その声が耳に届いた時、アスラは確かに絶望を味わった。


 悲痛な声だ。聴くだけで胸がぎゅぅと締め付けられるような、哀しい声だ。


「ナナキ……!」


 名を呼び、姿を探しても何処にも見えない。崩れかけた家の壁を蹴り、屋根を走り抜けて跳躍する。小高い丘の上で一層燃え上がる教会が不気味なほど黒いシルエットを描いている。聖堂の一番上に作られた十字架の、その上。揺れ躍る炎のなか。


「ナナキ!」


 炎の影で顔が見えない。


「ナナキ!」


 叫ぶ。が、その声が本当に彼女に届いているかは解らない。それでも、叫ばずにはいられない。

 大剣で炎を薙ぐ。勢いを失った隙をついて燃える教会へと飛び込んでいく。ちりちりと頬を焼く熱気が鬱陶しい。吸い込んだ空気は熱い。大剣に仕込まれている防御術式が発動光と同時に自動で展開した。それだけで熱気も、炎もアスラから遮られる。


 「お前はいつも考えナシに突撃するから」と苦笑混じりに言う彼女の、その細い首筋や痩せた頬を思い出して胸が痛む。

 戦闘でもなんでも、自分が守っているつもりだった。それが本当にでしかなかったことを、まさかこんな形で思い知ることになるとは。


 燃え盛る階段を3段飛ばしで駆け上がる。外へ続く扉を蹴り開けて、屋根へと。

 紅い焔が揺れ踊っている。黄や紅、白と色を変えながら。細い肢体が焔に照らし出される。不憫な程に痩せた手足が痛々しい。そういえば彼女が食事を摂っている姿を最近見なかったことを、今更アスラは思い出した。


「ナナキ、」


 吐息と共に彼女の名前が零れ落ちた。自分の声が聴こえているのかいないのか、その姿からは読み取ることが出来ない。

 不意に、ナナキの細い手が持ち上がる。両腕が広げられる。音もなく身体が浮き上がる。炎に照らし出されるその姿はまさに磔にされた犠牲者のようだった。俯いて頬にかかる髪のせいで顔が見えない……。


 焦燥感に駆られた。と、彼女が往ってしまう気がした。だから、


「ナナキ!」


 手を伸ばして、名を呼ぶ。いつだって名前を呼べば皮肉気に、そして不器用に笑いながら応えてくれた。だから、と。


 炎の光に嬲られながら揺れている黒い髪。深い深い闇の影が一層濃くなった。ゆらり、ナナキの肢体が揺れる。と、ふわり、花のような甘い香りがした。

 足元に影が落ちたことに気付いた時にはもう遅く、アスラはナナキの背後に人影が浮かんでいるのに漸く気付いた。長く黒い髪をさらさらと流し、白い頬には幾筋もの涙が流れている。

 白い手がナナキの痩せた頬を慈しむように撫でたところで、アスラは自分がことを自覚した。害意も敵意も感じないのに。その白い横顔は喩えようもなく美しいのに。

 それなのに、身体のなかに冷水を注ぎ込まれたかのように動けない。夜の闇の深さをうっかり覗いたような、果てのない海を観たような、漠然とした不安。恐怖。



 頬を撫でながら彼女がつぶやく。その声は優しさと労わりに満ちている。迷子を庇護するような安らぎが込められているのを感じて、でも、喪われるかもしれない恐怖にアスラは己を叱咤した。


 大剣の柄を握りこみ、その切っ先を彼女へ向ける。


「ナナキから、離れろ、」


 喉から絞り出した声は低い。常人ならば押し殺された殺気で卒倒しているだろう。

 しかし、彼女にその殺気が伝わっているのかいないのかすら解らない。


「…………わたしは、どこで、まちがえたのか、」


 自嘲するような呟きが聴こえた。


『貴女は何も悪くないのですよ』

「いいや……わたしは罪を犯した」

『貴女の罪を識るものは他にはいません』

「貴女が識っている……わたし……わたしが、」

『……………それでも、わたくしは貴女を責めはしません』


 彼女の言葉にゆるくナナキは頭を振った。


「貴女が責めなくても、世界がわたしを責める」

『わたくしは、』

「いいんだ……解ってるから」

『っ、』

「貴女が、してくれたんだろう?だから、今日まで持ちこたえてきたんだ」


 彼女に応えるように、ナナキは彼女の頬に触れた。涙で濡れたその頬を拭って、ことを思い知る。

 自分がしなければならないことを先延ばしにして、現実から目を背けて。壊すことも再生させることも、その全ての決定権を見ないふりをして。もうとっくに出ている答えを保留し続けて。それこそが自分の罪だって解っていたというのに。


「だから……もういいんだ」


 諦めてしまった方がきっと、世界にとっても良いんだ。




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