理想との出逢い

 世界が揺れた瞬間、アスラは癒使イスラフィルの背に居た。竜の血がその身に流れているとはいえ、流石に空を翔けることは出来ないからだ。


『さあ、往け』


 癒使イスラフィルの声に頷く。理由はともかくとして、自分は行かなければならない。それだけは解っていた。大剣を背負い、空から降りる。眩暈がするほどの高さから躊躇いもなく踏み出した子供に、癒使イスラフィルは満足げに笑んだ。これで自分の役割は果たした。もうこれで思い残すこともない。



 ひゅぅぅ、と耳元で風が鳴る。なぶられた髪が背を打つ。恐怖はない。背に負う大剣の重みに息を吐く。はぁ、吐いた息は白い。眼下に揺れる世界。遠い地平線がゆらりと揺れる。それはある一点を起点にまるで波のように曲線を描きながら揺れている。ゆらり、揺れる度にひとつ、またひとつと壊れていく。

 こんな時でさえ空は美しく晴れあがっていた。透き通るような蒼と、ところどころに空いた緑や黄色の穴。どれもこれもが他世界からの干渉口になりうるその穴。重なり合うには非常に小さく、かといって影響を与えないという程には大きい。

どれもこれもがのだろう。アスラはぼんやりとそんなことを考えた。

 飛んでいく思考を留め、アスラは視線を真下へ落とした。

 がらがらと音を立てて崩れていくものがある。破壊の中心点。悲鳴にも似た音が此処にまで届いてくる。悲痛な声だ。聴くだけで胸を掻き毟りたくなるような、泣きだしてしまいたくなるような心地にさえさせる。


 癒使イスラフィルはただ一言「往け」とだけ行った。往けばすべて解ると。己の生を受けた意味も、生きる存在の証明も、全て。

 だから迷いなく庇護者イスラフィルの手を離れた。彼の元に居るのは心地よかったけれど、それではいけないのだろう。子供はいつか、親の元を去るものだから。












 羽根が地に落ちるように降り立った一人の竜の血を持つ亜人は、そこで見てしまった。

 壁一面に描かれた絵を。

 抱きしめ合う男女の姿。まるで円のように睦み合い、寄り添い、慈しみ合うその姿を。目を閉じ、微笑を浮かべているその表情はなんとも安らかで穏やかだ。


「……………………」


 呼吸を忘れるとはこのことか、とアスラは思い知った。芸術品としては拙い部類に入るのだろう。所々掠れている描線が、これを描いた人物が不慣れであることを証明している。だが、嗚呼、だが。


 なんて、きれいなのだろうか。


 柔らかな色合いが触れている肌のぬくもりさえ感じさせるようだ。男性の胸に埋められた頬の柔らかさ、その女性の頭を包み込む手の強さまで。


 周囲に飛び交う怒号や罵声にも似た声すら遠い。アスラは視線をその絵から離せなかった。それは確かに、であり、だった。

 親同然の癒使イスラフィルは確かに愛情を与えてくれた。竜の身で人間に近い形をもっている自分をここまで育てるのはそれなりに大変だっただろう。

 己の持つ力や流体を注ぎ込み、ある程度大きくなってからは食べるものや着るものを調達し寝床を設え、知識を与え、言葉を教え、世界の理を説いてくれた。

 人間に近い形を取ることが出来るとはいえ、それでも楽な道ではなかっただろう。

 それでも、こうして自分で立って歩いて行けるようになるまで育ててくれた。そのことに対する感謝は忘れていない。だが、だからこそと思った。

 親からの愛情とは全く違う何かだった。目の前に在る絵からはそれが感じられる。

 だからこそ、と思った。

 と思った。


 ほぅ、と口唇から吐息が漏れる。感嘆と羨望の吐息だった。

 荒れる海のような激情が去ってしまうと、残ったのは「これを描いた人物への興味」だった。

 どんな人物がこれを描いたのか。

 どんな気持ちで、どんな感情で、何故この絵を描こうと思ったのか。

 悲哀か、羨望か、渇望か、それとも絶望か。

 アスラは其処まで考えて漸く、と気付いた。このような感情を持ったのはまったくの初めてで、胸の奥がくすぐったいような、気恥ずかしいような心持ちになる。だが、不快ではない。

 



「嗚呼…………、」



 口唇の端が上がる。なるほど、そうなのか。

 嗚呼、ならばもう此処には用はない。


 ―行かなければ。











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