犠牲と代償

 あ、声が出た。

 手を伸ばした。


 届かない。


 伸ばした先に、アスラ。

 大剣を首に当てて、それを引くように己の身を切り裂いていく。

 アスラの白い肌に、赤い花が咲く。

 それはとても奇妙なほどに美しくて、きれいで、でも、こわくて。


「わたしはおまえをあいしている」


 濁りながらも告げられた言葉が、

 その意味が、

 その声が、

 見据えられたその瞳が、

 その視線が、


 全ての流れを遅くする。



「……アスラ……っ!」


 遅い。何もかもが遅い。自分の周りだけ時間が止まったようだ。

 届かない。

 踏み出した足が重い。伸ばした手が短い。


 糸が切れた人形のように倒れ込むアスラを受け止めることすらできなくて、わたしは転ぶようにアスラに駆け寄った。

 どくりどくりと噴き出す紅い血。咄嗟に抑えるけれど、それじゃだめなんだと思考の冷静な部分が囁く。


「あ、……あぁ……」


治 癒の、術式を組もうとするけれ、ど、うまくいかない。手が、指が震える。何も考えられない。なんで、なんでアスラが。


 なるのは、私のはずなのに。


 涙が、鼻水が、嗚咽が、止められない。なにもかもが砂のように手からこぼれていく。


 ―


 それはどこまでもアスラの為だった。本当にそれがアスラの為になるかどうかなんて関係なく、わたしの思考も行動も全てアスラの為だと思っていた。

 アスラの為にわたしは自分が魔女であることを認め、アスラの為にわたしはこの世界の存続を望んだ。……はずだったのに。


「あ、ああ、あああああああああ」


 口唇から声が漏れた。言葉にならない悲鳴にも似た声。


「……っ、……王よ、我らが魔女の王よ!」


 叫んだ。


……!」


 愛したものを喪うことも、そのための代償なのか。

 わたしが魔女でなかったら、もしもわたしがただの人間なら?

 くだらない仮定だと解っているけれど、そう思わずにはいられない。

 もしもそうなら、こんな結末も、こんな終わりもなかったのか?


『……愛しい可愛い、迷子さん』


 叫ぶわたしに、優しい声が聞こえた。敬愛すべき、我ら魔女の王の声。

 いたわるような、慰めるようなその声に、わたしはどうしようもなく怒りを覚えた。

 アスラは死んだ。わたしのせいで。

 わたし《魔女》などいなければ良かったのに!


『それは違います、迷子さん』


 細く白い指が見えた。アスラの頬を撫でるその手は、どこまでも綺麗だった。



 白い手が宙を舞う。黒い髪が揺れる。しなやかな肢体が躍る。


なさい、迷える仔よ』


 ふわり、甘い香りがした。

 王が舞うごとに焔がその揺らめきを遅くする。空気も、風も、音も、何もかもが遠い。


『わたくしは貴女に選択肢を与えるだけ……どれを択ぶも貴女の自由』


 ひらりゆらりと舞いながら、そらんじるように告げられる言葉。


『魔女としてそのまま生きるか……』


 さらり、なめらかな黒髪が躍る。


『人間として生きるか……』


 伏せられていた紫色の瞳が、ゆっくりと私を貫く。


『択ぶのは貴女』


 綺麗な瞳がまっすぐにわたしを見つめている。神秘的な紫の瞳。惹き込まれそうな色。


「それ、は……」


 どういう意味なのか、理解出来ない。いや、言葉としては理解できる。このまま魔女として生きるか、人間として生きるか。

 でも、そんなことが果たして出来るのだろうか。

 いいや、それよりも。





 それなのに、生きていかなければならないのか。こんな壊れた、狂った世界で独り、生きて?


 視線を落とす。紅く染まったアスラ。白い肌はその透き通る白さを超えて、もう、青白い。

 熱が冷えていく。


「王よ……」


 わたしは乱れる呼吸の中で喘いだ。


「アスラが居ないなら、わたし、は、」


 ぬるりとした手で顔を覆う。錆びた鉄の匂い。自分のものなら嫌悪感もなかった。それがアスラのものだと思うだけで、何かがちぎれてしまいそうだ。


「わたしは、生きていたくない」


 アスラが居るからこそ、世界は美しかったのに。

 アスラが生きているからこそ、世界は正しかったのに。

 どんなに憎まれ口をたたいても、その美貌がうらやましくても、それでも、わたしはアスラに生きていて欲しかった。そのためになら、わたしは、自分が居なくなっても良かったのに。


ならば?』


 やわらかい声に、顔を上げる。綺麗な紫色の瞳がじっと見返している。蠱惑的な、魔性の色。


『貴女の愛しい人を取り戻し、共に生きられるなら?』


 囁かれる言葉は甘い。毒のようだ。

 ぐらり、眩暈にも似た感覚。罪悪感のような、自己嫌悪のようなそれは、陶酔のような甘さだった。


「……可能、なんですか」


 いつの間にか、嗚咽も涙も止まっていた。世界が遠い。何もかもが遠い。

 五感も、時間も、空間も。何もかもが。

 嗚呼、ただ紫色の瞳が。


『もしも、貴方が人間として生きるのならば』


 耳に沁み込んでくる声が、ただひたすらに甘く蕩けてしまいそうだ。


『貴女の魔女としての能力を全て代償とし、世界を封じ込め、崩壊を止めるのならば、』


 鈴の鳴るような、心地よい声。


『可能です』


 じんわりと沁み込んでくるその声。

 冷静な思考の何処かで警鐘が鳴った。



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