覚悟
白い繊手が頬をなぞる。幾つも幾つも流れていくその雫を優しく受け止めるように。
紅い焔が躍る。ごうごうと燃え上がるそれが、全ての音を消し去っていく。熱風にあおられた黒髪が揺れる。長いそれが小さな姿を隠してしまう。
手を伸ばさなければと思うのに、拒絶された痛みが胸を締め付ける。動きを鈍くさせる。拒否されるなんて思ってもみなかった。自分から離れていくなんて考えたこともなかった。隣にいることが、そばにいることが当たり前で、それは呼吸のように自然だったから。散らかした部屋を小言を言いながら片付ける、依頼が来れば大剣を担いで共に赴く。それが当たり前すぎて。
それなのに。ナナキは私から離れていこうというのか。
最初は興味だった。ナナキが描いたものは確かに私の理想だった。世界の全てがこうなら良いと心からおもった。何も余ることもなく、足りないものもない。それだけで完成している、帰結している。足すものも引くものもない完璧さを感じた。けれど、それを描いた張本人は歪んでいて、いびつで、不格好で、決して美しいともいえなかった。人形であることを己に強いていて、とても正常だとは言えない。感情を極限まで押し殺し、涙すら飲み込むその小さな身体が、傷だらけになっても前に進もうとするその背中が、
「愛していると言っている!」
私は叫んだ。声を荒げるなど滅多にしない私が。声が喉から飛び出したようだ。どんな言葉ならば往こうとするナナキを止められるかだけをずっと考えていた。今までだって何度も何度も好きだと言ってきたのに。それでは伝わらなかったのか?それでは足りなかったのか?私の言葉はそれほどまでに薄っぺらいか。これほど想っていてもお前には伝わらなかったのか?
なめらかに揺れる黒髪の向こうで、ナナキが微笑した。薄い口唇がいびつに歪む。
「わたしもだ、アスラ」
泣きながら笑うナナキは、朝陽に消えていく霧のようにはかなげで、触れたら壊れてしまいそうで、その境界線をぎりぎり立っているように見えた。
「なら、……往くな、」
喉に石が詰まっているようだ。こんな言葉では足りないのに。往こうとしているお前を止めるには足りないのに。
「私を置いて往くな」
独りにするな、いかないでくれ、無様な懇願しか浮かんでこない。
私は強いのではなかったのか。竜の血を持ち、この世界でも最上位の強さを誇るのではなかったのか。そんなもの。
結局、惚れた女一人護れはしないのか。
「私を独りにするな」
ナナキを見つめているのに、視界がゆがむ。見えない。お前が居なければ私はどうやって明日を迎えればいい?どうやって呼吸をすればいい?無為な時間をどうやって費やせと言うのか。
「アスラ、」
やわらかい声がした。ナナキのものとは思えないくらい、穏やかで優しい声だった。
「わたしもお前を愛している、だから、お前のそばにはいられないんだ」
『わたしは魔女だから』
駄々をこねる子供をあやすような慈愛に満ちた声音だった。初めて聴く声だった。
何故だ。
こんな世界でなければ共に居られたのか。
「だめだ」
運命など私は信じない。己の眼に視えるものだけでいい。
私は大剣の柄を握りこんだ。ぎち、鈍い音がする。
「お前が居ないなら、私に生きる意味はない」
迷うことなく、その刃を首へ。
研ぎ澄まされた刃が首の皮膚を切る。痛みは感じない。
これが最期だというのなら、お前が以前やったことをそのまま返してやる。
お前が私の生存を望むのなら、それと同じくらい、いや、それ以上に私はお前の生存を望む。お前が居ない世界なら、どんなに色にあふれていてもそれは、私には視えない。意味がないんだ。
言葉では足りないなら、身をもって解らせてやる。
「アスラ……っ!?」
悲鳴にも似た声を上げても、私は止まらない。
私が
私の首を落とすため。竜の血を持つ私を屠るため。
もしも魂というものがあるなら、お前が独りで往くというのなら。
私の魂を連れていけ。お前を独りにはさせない。たとえ魂というものがなくとも、私の意志でお前と共に在る。
ぢり、漸く痛みが届いたころには私の視界は真っ赤に染まっていた。ひゅぅ、笛のような音がする。どくりどくりと深いところで鳴る鼓動が五月蠅い。ナナキの声が聞こえない。
「おまえ、を、」
ぐ、握った手に力を込めて。
「わたしはおまえをあいしている」
最期に告げる言葉がこんなものしか浮かばない。安っぽい告白しかできない。
口のなかにあふれる血が苦い。げほ、咳き込んで。それでも力は緩めない。
最期に視る顔が、泣き顔だなんて最悪だ。どうせなら笑って欲しかった。
もう、全ては遅いか。
全てが手遅れだというのなら、追いつけないというのなら、それでもかまわない。
私がこうしたいだけだ。お前が居ない世界に興味はない。
お前が居ないなら、私は生きている意味がない。
お前の居ない世界に独り遺されるなど死んでもごめんだ。
ぶつり、確かに切れた音がした。
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