贖罪

 音が遠ざかる。炎の熱も、その光も、遠く、遠く。

 アスラはいま何を言った?

 言葉としてはちゃんと耳に届いて、脳がそれを音として認識している。けれど、意味がわからない。


「お前は何を言っているんだ?」


 つい、いつもの調子で返してしまう。アスラの月色の瞳に炎が映りこんで煌いている。嗚呼、どんな時だってお前はこんなにも美しいんだな。……わたしとは大違いだ。


「言葉が必要ならいくらでも言ってやる、態度でと言うならお前のために世界を滅ぼそう、お前が得られるのならばどのようなことでもやってやる、さあ望みを言え!」


 そんな尊大に盛大に物騒なことを言われても、まったく、さっぱり、ちっとも理解わからない。疑問符が浮かんでは消えていくわたしに焦れたように、アスラは地を蹴り距離を詰める。手を伸ばして、わたしの腕を掴む。ぎり、指が食い込む。痛い。


「いた、」


 思わず顔をゆがめて声を漏らすと、ほんの少しだけ力が緩んだ。常とは違うその反応に、わたしは思わずアスラの顔を見上げてしまった。鋭い視線が、わたしの後ろにいる美しい女性ひとを刺し貫いている。全身から立ちのぼる殺気にも似たものに息が詰まる。

 こんなアスラは初めてみた。ということに、わたしは漸く気付いた。いつだって飄々と表情一つ変えずにその大剣を操って立ちふさがるものを薙ぎ払ってきた。表面に浮かぶ表情はほんのわずかで、その大体が嘲笑にも似た美しい笑みだった。

 こんなにも、奔る感情を露わにするアスラを、わたしは知らない。


「貴様が私からナナキを奪うのか」


 大剣がひゅぅ、と鳴ってその切っ先が彼女に向けられる。


「おま……っ、馬鹿!」


 わたしは咄嗟に大剣の刀身を蹴った。


「っ、ナナキ?!」


 わたしの行動は予想外だったらしい。鋭い視線が自分に向く。わたしは慌てて彼女に向き直り、アスラの形の良い頭を掴んで無理矢理それを下げさせた。


「不敬をお赦しください、王、」


 同じようにわたしも深く頭を下げる。が、アスラは抵抗するように頭を持ち上げようとする。それを必死で抑えつけながら、わたしはなおも深く深く頭を下げた。


「何をする、馬鹿め!」


 当然と言えば当然のように、わたしの非力な腕では竜の血をもつアスラを抑えつけることなど出来るはずもなくて。無理矢理持ち上げられた頭につられてわたしはバランスを崩す。尻もちをつきそうになって、不意に掴まれた腕の痛みに顔をしかめる。ぎり、食い込んだ指が痛い。


「私からお前を奪うものは私の敵だ!」


 月色の瞳が敵意と殺意で煌いている。こんな時なのに、わたしはその煌きに見惚れてしまった。なんて綺麗なんだろう。向けられている感情の波は理解できないのに、それでもその熱は皮膚を突き刺すほどに感じる。

 びりびりと鳥肌が全身に立って、わたしは一瞬思考を手放した。という事実がわたしの思考を奪っていく。今までそんなことは一度もなかった。

 いたし、誰にも認められることなんてなかった。できて当然で、在るのが当然で、当たり前で。だから、



「アスラ、」


 わたしは呆然とアスラの名前を呼んだ。今まで当然のように呼んでいた、特別な名前を。


「アスラ、」


 舌が、耳が、口唇が憶えている。どんな記憶をなくしてもこれだけはなくさない。

 嗚呼、だけど、だめなんだ。

 何かが頬を伝った気がした。炎の熱よりももっと熱い雫が。


「王……、我ら魔女の王よ」


 言葉が喉で詰まる。苦しい。じくじくと鼻の奥が痛む。同じくらい、胸が痛んだ。嗚呼、そうか。わたしは漸く、漸く気付いた。自分を人形たらしめていたのは自分自身だった。いつだってわたしは遅すぎる。気付くことも、行動することも、言葉を紡ぐことさえ遅すぎた。

アスラに掴まれたその腕を、わたしは握り返すことが出来ない。わたしは、


「どうか、わたしの願いを、その決断を、その贖罪を、」


 ぼたぼたと涙が零れている。鼻水が流れていくのをみっともないと思いながら、それを拭う余裕なんてない。

 歪む視界に、紅い炎と、熱風に嬲られるきれいな黒髪が見えた。


「どんなに壊れていても、歪んでいても、穢れていても、アスラが生きているこの世界は美しい、どうか、わたしを柱とし、土台とし、この世界の安定を」

「ナナキ!」

「聞け、アスラ!」


 遮ろうとしたアスラの声を、叫び声をあげることで制止する。これ以外の方法がもう見つけられないんだ。わたしはどうなってもいい。例え魔女として迫害され、虐げられ、どんな痛みにさらされたって、いいんだ。お前が生きていてくれるなら。お前が生きて、幸せでいてくれるならそれでいいんだ。ほかには何も望まないんだ。


「わたしはお前の手を取れない、」


 だから、こうして突き放すしかないんだ。

 振り払おうとして、食い込んだままの指をひとつずつひきはがして。


「ナナキ、」

「アスラ、」


 じっと綺麗な瞳を見つめる。涙を浮かべたみっともない顔が、アスラのきれいな月色の瞳に映っている。

 わたしは曖昧に笑んだ。せめて最期くらいは笑って終わらせよう。お前みたいに綺麗に笑うことは出来ないけれど、どうせなら、笑って。

 わたしは哀しくなんてない。苦しくもない。お前が生きていてくれるだけでわたしは幸せだ。




 記憶がお前を苦しめるというなら、その記憶ごとわたしは消えよう。すべてを夢にしてしまおう。

 魔女は無限で夢幻。夢は朝陽に溶けて消えていく。

 それでいい。






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