誤解が生まれたその後

 ひさびさに訪れた傭兵の集会場で、これまた久しぶりに会った友人が、ひとこと。


「死にそうなツラしてんなぁ」


 その言葉に、思わず苦笑。意識しないように、見破られないようにと張り詰めていたなにかが、ほろりとほどけた気がした。いつものことだが、朝から最悪だった。それはつい先日のこと。アスラの寝言に出てきた知らない名前。それをまた今日も聞いた。発作的に家を飛び出してやったが、またしても遠くへ行かないうちにアスラに捕まってしまい、わたしの家出計画はおじゃんになってしまった。ちくしょう。

 まぁ座れよと言う友人の言葉に甘え、テーブルにつく。ほどなくして注文を取りに来たウェイトレスにコーヒーとだけ告げ、わたしは沈黙を保っていた。


「何があったかとか訊き出すつもりはないけど、おまえ、大丈夫か?」


 たまにしか顔を合わせないというのに、そしてそれほどまでに親しいとは言えない友人の、やさしい言葉に息が詰まる。他人でさえこんなにやさしいのに。はぁ、吐く息は重い。


「ストレス解消って、どうやったらいいんだ?」


 他愛無い話でも、と思った。たとえばこの友人に愚痴をぶつけたとしても物事の根本的な解決にはならない。ただ、なにかの参考になればと思った。当たり障りのない返答でさえ、時には狭まってしまった視野を広げるには必要だ。


「……皿とかグラスを山盛り買ってきて、壁にぶつけるとか。すっげースッキリする」

「却下、ウチ借家だし」


 ついにべもなく却下してやったけれど、友人は気を悪くした様子はうかがえない。優しい奴だなぁ、ほんと。少しだけ、本当に少しだけ頬がゆるむ。こういうひとを好きになったとしたら、きっともっと楽だっただろうに。

 残念なことに、それは無い物ねだりというやつだ。そしてもっと残念なことに、この友人は既婚者。範疇外、というやつ。別に好みとかそういうものでもないけれど。


「酒は?」

「……酒……あんまり飲まないな、たまに付き合いで飲むけど」

「たまには飲めば?悪酔いして吐いたとしても、それはそれでスッキリするさ」

「……そういうものか」

「そうそう。普段やらないことをやってみるってのもひとつの手じゃね?」

「……なるほど」


 嗚呼、その考えはなかった。酒やギャンブルというものはあまりしたことがない。帰りになにか酒を買ってみるか。


「今のおまえの顔、すげーぞ。鏡で見せたいくらい」

「そうか?」

「半分以上死んでる」


 半分以上、ね。どうせなら。



 ぽろり、出てしまった。いいや、もっと正確にいうならば、消えたい。死ぬとか死なないとかそういうのではなく、泡のように消えてなくなってしまいたい。アスラに対する気持ちも、脳内で繰り返し再生される嫌な記憶も全て。思ったことはあった。思考として意識の表層に浮かぶことは幾度となくあった。けれど、口に出したのははじめてだ。


「……なんか、楽になった」

「……俺、すげーびっくりしたんだけど?」

「ああ、ごめんごめん。けど、吐き出すのは案外すっきりするな」

「言わないおまえが悪いんだろ?」

「……それもそうか」

「なんて言ったっけ、今の相棒」

「アスラ」

「そいつとちゃんと話してるか?」

「まぁ、一応は。仕事上必要だしな」

「そうじゃなくて、おまえの正直な気持ちとか、そういうのだって」

「……言っても無駄なことはわかってる」

「ばーか、言って無駄かどうかは、言わなきゃわかんないだろ」


 ……そういうものなのだろうか。よくわからない。言ってもいいことなのだろうか。というか、言えるだろうか。アスラを好きだとか、寝言でさえ他の女の名前を呼ぶのが嫌だとか、そういうこと。言えるだろうか、あの顔を前に。


「言えることから、言ってみたらどうなんだよ。もしそれで駄目だったとしても、それはそれで踏ん切りがつくだろ」


 ああ、やっぱりこの友人はやさしいな。

 だから、素直に言えた。


「ありがとう」




         †







 わたしにしてはめずらしく、酒を買ってみた。ビールはきらいだ、苦いから。甘めの果実酒を一瓶。そしてそれを割るサイダーも。

 帰宅すると、アスラはいないようだった。ある意味好都合だ。今日は休日、急ぎの仕事もない。おそらく明日も依頼は回ってこないだろう。買っておきながらまだ読んでいなかった本をゆっくり読もう。ついでにせっかく買ってきたんだから酒も楽しんでみよう。




 どのくらいたっただろうか。なんだかふわふわする。頭を撫でられている?

 うっすら、眼を開けると白い頬が見えた。


「……アスラ?」

「起きたのか?」

「ん」


 ………努めて冷静に今の状況を説明しよう。なんと。なんと。アスラの膝にわたしの頭が乗っており、その頭に大きな白い手が乗っている。俗に言う、膝枕だ。どうしたらいいのだろうか。どういう反応が正解だろうか。

 なにかを言おうと思ったけど、言葉がうまく浮かんでこない。頭のなかがふわふわしていて、まともに思考が組み立てられない。ぼやけた視界に、1/3程減ったボトルが見えた。ああ、そうか、わたしは酒を飲んでいた。どうやら飲むうちに睡魔に負けたらしい。


「珍しいな」


 ぼそり、アスラの低い声が落ちてくる。


「お前が酒を飲むとは」

「いやなこと、わすれようとおもって」


 舌もよくまわらないな。ぼやけた視界のまま、少しだけ頭を動かしてアスラをにらんでやる。何かわたしに言うことはないか。この野郎。


「嫌なこと?」


 しかしながらやっぱり、というか視線に込めた意図は汲み取れなかったようだ。相変わらず残念な人外め。


「朝っぱらから知らん女の名前を聞かされたら、そりゃ不機嫌にもなるわ」


 くそ。言うつもりはなかったのに。勢いに任せてしまった。酒の力を借りなければこんなことも言えない。なさけないな、本当になさけない。あまりの情けなさに、鼻のおくがじん、と熱くなる。ぼやけていた視界が、さらにぼやけていく。

 くやしい。こんなことで泣いてしまう、弱い自分。ああああああああもう消えたい。こんな情けない姿をアスラの前に晒しているという事実が余計に気持ちに拍車をかける。こんな馬鹿でも、例えばわたしが死んだら少しは悲しんでくれるだろうか。


「……なんのことだ?」

「はぁ?!」






      †



「見ろ、あれがエルデリアだ」


 アスラが指差した先、屋根の上にいっぴきの黒猫。つややかな毛並みと、黄金色の瞳。


「かわいいだろう」

「猫……」

「おお、今日はネスも来ていたのか」


 ネス、と呼んだのは先ほどの黒猫よりも少しだけ大きな三毛猫。


「アスラが猫好きだとは知らなかった」

「聞かれなかったからな。……お前は嫌いなのか」

「猫?」


 こく、と頷かれる。猫を見ている時のアスラの瞳は、とてもやさしかった。


「好きだ」

「そうか」


 満足そうに笑むアスラ。違うんだけど。本当は違うんだけど。まぁ、いいか。




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