誤解が生まれた瞬間

 寒い朝だ。窓のそとは白い。雪でも降っているのだろうか。寝起きのぼんやりとした頭で考える。そろそろ起きて朝ごはんの支度をしなくては。ええと、何があったっけ。たしか卵があったはず。買い置きのパンもあった。もうそれでいいか。


 頬がやたらと冷たくて、両手でこすって少しでもあたためようとこする。でもそれは無駄だった。いつの間にか毛布が奪われている。上に掛けていたはずのふかふかのおふとんも。犯人は当然、隣でぐーすか眠りこけているアスラだ。


 造形だけは天下一品、神が与えたに違いない白い肌と、色素の薄い髪、月光を積め込んだ瞳は、今は閉じられている。まばたきしたらきっと音がするほどの長い睫毛だ。くやしい、少しくらい分けてもらいたい。


 ……なんでアスラはこんなに綺麗なんだろう。言動は最悪だし、変態だし、化物だし、人外だ。けれどその欠点を補って余りあるほど、アスラは美しすぎる。その冷たい瞳で見つめられて、落ちない女はいないだろう。


 しばらく見つめていると、視線に気づいたのか寝返りを打った。そのはずみなのか夢でも見ているのか、ぼそりと寝言が聞こえた。


「……エルデリアは、かわいいな」


 にへら、とゆるむ唇。瞬間、目の前がかぁ、と真っ赤に染まった。

 こいつ。こいつは、ほんとうに。

 前から知ってたけど。理解してたけど。

 なんて、なんて。

 最低最悪なんだ!


 当然のことながら、エルデリアというのはわたしの名前ではない。そんな名前は知らない。


 見とれていたはずの美貌が、酷く憎らしくて、いっそその頬に鋏でも突き立ててやれたなら少しはすっとするのかもしれない。が。

 そんなこと、出来るはずもなく。


 わたしはそっとベッドを降りた。わかってたことじゃないか。わたしは綺麗じゃない。美しさなんてない。必要とされるのはこの頭脳と、それに伴う実力だけ。

 朝ごはんを作ろうと思ってたけど、そんな気持ちは萎んでしまった。嗚呼、このまま消えたら楽だろうな。

 殺意というものは案外簡単に生じてしまうもので、その激情に身をゆだねるかゆだねないか、ただそれだけの問題だ。わたしの場合、それができれば苦労はしないだろう。けれど、憎らしいはずの顔を見て、そして。


 嗚呼、やっぱりアスラは綺麗だ、と。そう思ってしまう。きっとわたしは戦う以前から負けていて、そしてそれが悔しくないかと言えばやっぱり悔しくて。嗚呼、頭いたい。偏頭痛は小さい頃からのお友達だ。生涯の伴侶と言ってもいい。空腹時には飲むなと言われていた鎮痛薬を手に取り、水と一緒に飲み下す。動くもののない部屋はこそりとも音がしない。遠くから聞こえてくるのは電車が走る音だけだ。


 窓の外を見る。やはり、雪が降っていた。白い雪。綺麗だ。まるでアスラの肌のよう。

 ……わたしは、何を見ても無意識に比較してしまう癖が付いているに違いない。花を見てもアスラの方が美しいと思うし、月や星、一般的に美しいとされるものが、あの馬鹿を並べても決して負けやしないと、おもってる。


 あああああああ、だめだ、脳みそ腐ってる。こんな物は不毛だ。どうしようもない。持ち続けるには、疲れてしまった。気紛れに愛を囁かれ、触れられることがどれだけつらいかなんて、あいつにはきっとわからないだろう。 遠い遠いどこかの国では、『恋』を『孤悲』と書くのだそうだ。孤独で悲しいもの、きっとわたしが陥っている病はそれだ。

 先に突き放すべきだった。お前なんか好きじゃないと、声高に叫んで、自分でそう思い込めばよかった。そして、構わなければいい。空気のようにアスラを扱って、まるでないものだと暗示をかけて。そうすれば、少しはわたしの有難みがわかるだろう。


 テーブルの上に捨て忘れた空の袋があって、いらだち紛れに握りつぶしてそれをゴミ箱へ放って捨てる。

 捨てる。………………嗚呼、そういう手段もあった。


 そうだ、なにもかも捨ててしまおう。名前も、今の地位も、記憶も、全て捨てて。アスラに出逢ってしまった記憶も消して。そうすれば少しは楽になれるはずだ。きっと今よりは。


 思い立ったが吉日。行動は早い方がいい。

 必要最低限の荷物。財布。身分証明できるものはすべて置いて。

 消えよう、ここから。



 外は、やはり寒かった。

 今のうちに、出来るだけ遠くへ。誰もわたしを知らない場所へ。

 生計はなんとか建てられるはずだ。自慢じゃないがアカデミーで主席を保持していた。必要であれば昔のコネも使える。昔。アスラと出逢う前。どうやってわたしは生きてたっけ。なんだか記憶があいまいだ。毎日呼吸していたのは間違いない。どうやって時間を潰していたのだろうか。つまらないだけの数式を組み立て、展開し、証明し続けてきたような気もする。あまり、おぼえていない。


 足を踏み出す度にざしゅ、と鈍い雪を踏みしだく音がする。それが心地いいような、気持ち悪いような、奇妙な感覚だった。空は灰色をもっと白くしたように光っている。おんなじように、わたしの気分も晴れているのか曇っているのかわからない。脳裏をよぎるのは、甘く漏れた言葉と、ゆるんだ頬。あんな顔、私の前で見せたことない。いつもわたしに見せるのは不遜な笑みだけ。落ちてくる言葉は、冷たさをはらんだ罵声だけ。


 幸せになりたかった。少なくとも、アスラを見ているだけでわたしは幸せな気分だった。

 でもきっと、それ自体が間違っていたのだろう。触れてはいけなかった。わたしなんかが、気安く触れていいものではなかった。そういうことだろう。











 眼が覚めて、やけに寒いことに気づく。


「……ナナキ?」


 シーツをまさぐる。冷たい。答える声も、ない。意識が完全に覚醒した。身を起こす。誰もいない。私を支配したのは、苛立ちだった。常々思っているが、ナナキは思考回路がおかしい。そのくせ行動力だけは抜群だ。ふらりといなくなってみたり、果ては自分などなんの価値もないと容易くその身を切り裂いて見せたりする。呆れにも似た感情が半分、仕方ないという諦めが半分。

 おそらくナナキの思考過程を丸ごと解析できたら、脳神経学者や精神科の医師が涎を垂らして欲しがるだろう。アカデミーでも随一と言われた頭脳の持ち主はその思考過程すらも突飛というやつだった。

 かく言う私も。それに魅せられた。黒曜石を縁取る灰色の瞳、上気した頬、少しだけ低いその声。


「ち、」


 気紛れに家出した猫を探しに行こうか。今日は雪が降っている。出来るだけ早い方がいい。




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