ある閉鎖世界の話
夜の魔女
幸せの理由
「シアワセだなぁ」と彼女はつぶやいた。わたしは、なにを言ってるんだろうこいつは。とうとう頭がおかしくなったか、と心底哀れみをこめた視線を彼女に向けた。
それもそのはず。此処は平凡な日常にあふれる場所ではない。戦場の最前線、怨嗟と怒りの吹き溜まりだから。
彼女の名前はイヴァリーズという。本名は当然のように知らない。腕利きの傭兵であることと、全身これ武器であるといわれているということしか。彼女が降り立つ戦場は、彼女が笑む先に勝利が訪れるとささやかれるほど。彼女を雇うためにかなりの金を積んだらしいが、わたしにはまったく興味がない。彼女が死神だろうが戦乙女だろうが、わたしは結局のところ、与えられた任務をこなして帰りたいだけだ。
「そんな顔すんなや」
「とうとう頭まで筋肉になったかとおもった」
「しっつれいなやつだな」
屈託のない笑顔を浮かべるイヴァリーズは、死神や戦乙女とも思えない、純朴な印象を与える。
そう、なぜかわたしは彼女に気に入られたようだった。接点や共通点など皆無に等しいとしか思えないが、初対面からなぜか彼女はわたしのそばに寄りたがる。
「ナナキ、あたしらはシアワセもんさ、こうやって戦うことが出来るから」
にこやかな笑みを崩さないまま、彼女は言った。
訳が解らないという表情を浮かべたであろうわたしに、イヴァリーズは笑みを深くした。
「こんな腐った世界で戦うための腕がない奴らもいる、戦うための武器がない奴らもいる、そんな中であたしらは声をあげることができるし、自分の前に立ちふさがるもんを打ち倒すだけの力もある、それになにより、帰る場所がある。
それだけで十分すぎるほどシアワセなのさ、ナナキ、あんたはまだよく解らないだろうけどね」
へへ、と笑い、イヴァリーズは剣を振りかぶると雄たけびを上げて敵陣へ向けて突っ込んでいった。わたしは言われた言葉を、その意味をその時は考えることもなかった。
ただ、与えられた任務をこなすために乾いた大地に数式をえがいた。
数年がたち、あの場所を離れて解ることがあった。
彼女があのあとどうなったのか、わたしは知らない。まだどこかの戦場で「シアワセ」を実感しながら駆けているのかもしれない。
「なにを呆けている、あまりの暑さに脳が溶けたか」
「脳みそまで筋肉のお前よりはましだ」
くだらない日常、さらさらとよどみなく流れていく時間、くだらない会話、そしてなによりも、人間らしい感情。
嗚呼、わたしはあの時まだ「生きて」いなかった。
「生きている」今、生に感謝し、死を畏れ、いつまでもどこまでもあると錯覚させるような穏やかな毎日が『シアワセ』なのだと、おそらく彼女は言いたかったに違いない。
わたしが彼女の言うシアワセを知ることはおそらく、きっと、生きている時間のなかでないに違いない。彼女のシアワセと、わたしのシアワセはきっと違うものだろう。だが、生きてこそ、それでこそ知りえることもあるのだと、そういいたかったのかもしれない。……違うかもしれない。
アカデミーを飛び出す時に壁に殴り描いた絵があった。
支え、支えられ、世界がそれだけで満ちているような、シアワセなひとの絵。
手を伸ばしても届かない理想だけを詰め込んだ絵だった。
わたしが心底欲しくて、けれど手を伸ばすことを諦めた瞬間を閉じ込めた、その絵を。理想と言った、アスラは、いまわたしのすぐ近くにいる。
もしかしてわたしは見逃していただけなのかもしれない。気づかなかっただけかもしれない。
生きているその先に、あまりにも遠くを見つめすぎた故に、目を閉じていた故に見えなかったものがあるかもしれない。
「……しあわせ、だ」
声に出すことを畏れていたひとこと。こわくていえなかった一言を、わたしはようやくつぶやいた。
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