後始末とその代償

 彼女の出現で世界が止まった。


 比喩ではない。すべてのものがその動きを止め、こそりとも音を立てなくなった。崩壊していたはずの世界は見えない力で支えられて、動くものは彼女とわたしだけ。


「……貴女、は、」


 痛みも、熱も、もう感じない。天から舞い降りてきた彼女の美しさに何もかもがどうでもよくなった。滑らかな曲線で構成された肢体、さらさらと揺れる艶やかな黒髪、ほっそりした指、白い肌、淡い桃色の口唇。どのパーツを見てもただただ美しい。

 ほぅ、と知らずに息が漏れた。人間、美しいものを見ると思考が止まるんだなぁと変に冷静な自分が他人事のように脳の片隅でつぶやいた。


『わたくしは、』


 彼女の口唇が動くのに見惚れてしまう。柔らかそうな口唇。甘い香り。


『世界の意志を識る者……の後始末の為に此処に参りました』


 逢ったことはないはず。こんなに美しい存在ひとを見たのも初めてのはず。けれど、どこか懐かしく感じた。憂いを帯びたような揺らめく紫色の瞳、その眼差しに既視感を覚える。ずっと、ずっと昔に見たことがあるような。


「愚かな、王?」


 瓦礫でつぶれたあの王のことだろうか。


『……昔話をしましょうか』


 彼女は微笑を深くした。白い手が伸ばされて頬に触れる。花のような淡い、甘い香りがした。










 それは、長い永い時間の話だった。世界が生まれた時のこと。

 最初はただ、靄のようなものが漂っているだけだった。無と有の狭間をゆらゆらと揺らぎながらずっとずぅっと漂っているだけ。


 混沌の海と呼ばれたそれは、どこまでも広く広く広がっていき、いずれ何もかもを飲みこんでいくのだろうと思われた。けれど、なにかの拍子に揺らぎが大きくなり、無と有は分けられてしまった。

 混沌の海を挟んで無は下へ、下へ。そして、有は上へ、上へ。

 魂の輪廻と存在の巡りはいびつながら形成され、それで一旦は世界が安定したかのように思われた。


『どの世界、どの領域でもそれを司る《王》が居ます。

 そしてある《王》はこう言いました』



――誰かや何かを犠牲に成り立つ《世界》は、果たして《正しい》のだろうか。



『そしてその《王》は、当時頂点に在った存在を消し去ってしまったのです。

 そこで話が済めばいいのですが、そうはいきませんでした』



 玉座から落とされ、首を落とされた《王》は呪いを撒き散らかした。その呪詛は世界の根幹に深く深く染み渡り、その世界に根差すすべてのものに浸透していった。


「その……とは?」

『……魔女を生み出さないこと』


 彼女は美しい紫色の瞳を伏せた。長い睫毛がその光に影を落とす。


「魔女は……では?」

『それこそが呪いの本質ですよ、迷子さん。

 魔女は忌むべき存在であるという烙印こそが、その王が吐いた呪いの本質です』

「では、魔女は一体何なのですか」

『……新しい世界を創るための……《種》とでも言いましょうか』


 彼女の言葉はなぜかすんなりと理解できた。わたしがいた世界は既に壊れていたから、ひろく正しいとされていることが果たしてのかどうかなんて誰にも解らないだろう。ただ、漠然と正しいと思い込んでいるだけだ。


『わたくしは貴女に問わなければなりません。

 右手にある鍵と、左手にある鍵のどちらを選ぶのかを』


 彼女の声が掠れて聞こえる。ふと気が付くと掌に冷たいものを握っている。右手には鈍い銀色の鍵。そして、左手にはつやつやと輝く金色の鍵。


 どちらもとても魅力的に見えた。右手の鍵はほんのりと冷たく、手にしっとりとなじむように滑らかな曲線で出来ていた。軽く握りしめると、何の違和もなくずっと昔から使っていたような錯覚を覚える。

 左手の鍵は蠱惑的な黄金色。わずかな光も余すところなく反射する艶のある輝き。豪華というよりも品の良さを感じさせるような花の飾りが宝石で彩られている。

 わたしはそれを見つめた後、彼女を見上げ。そして息を飲んだ。


 彼女は泣いていた。けれど、表情は全く歪んでいない。やわらかな微笑をたたえたまま、神秘的な紫色の瞳からほろりほろりと涙が零れている。哀しんでいるのか、憐れんでいるのか、その美しい顔からはまったく拾うことができない。


『貴女がどちらを択ぶにせよ、苦痛を伴うこともわたくしは理解わかっていて、それでも……』


 ほとりほとりと涙の雫がわたしの膝に落ちる。あたたかなそれが、言葉に乗せられた彼女の慈愛と共に自分に沁み込んでくるような錯覚を覚えて、わたしはうれしくなった。こういう場面では不適切で不適当かもしれないが、本当にうれしかったのだ。

 

 その事実がたまらなくうれしくて、口角が上がるのを止められない。

 初めてかもしれない。わたしのことを慮って、心配して、心を砕いて泣いてくれる存在は。結果的にわたしは死ぬことになるのかもしれないが、ただひとりでもこうやって泣いてくれるのならばそれはそれで満足かもしれない。嗚呼、わたしは決して無駄に生きていたわけではなかった。それが錯覚だとしても、もう、いいや。


「選択って、いましなきゃだめですか」

『……え?』

「この世界が壊れてるのなんて、わたしは知ってましたし理解してました。

 貴女が仰る『選択』は、つまりわたしが魔女になるかならないか、ってことになりますよね。

 その選択、保留にできませんか?」


 わたしの言葉に、彼女の涙が止まる。嗚呼、残念なようなうれしいような微妙な心地だ。でも、やっぱりこんなにきれいなひとには笑っていてほしい。涙を流していても、その美しさはひとつも損なわれないけれど、大輪の華が開くようなこのひとの微笑は、やっぱりとろけるほどきれいだと思うから。


『……できないことも、ないですが』

「じゃあ、保留でお願いします。たぶん、貴女が予想している通りにのでしょうが、どうせならこの身体とこの精神で欲しいものを得てみたいし、その努力をしてみたい。

 足掻いてみて、それでもだめなら、すっぱり諦められるかもしれないし」


 なんとなく、だけれど自分のなかであきらめている部分もある。生まれて、というか自我を持ってから本当に欲しいものを得たことがなかったから余計にそう思うのかもしれないが。でも村で生活していた時も、アカデミーで術式を組んでいた時も、わたしはいなかったのだ。生存はしていても、生きていなかった。感情を表に出すことも、なにかを楽しむことも、着飾ることや、悩むことや、とにかくふつうの人間として生きていなかった。もうこんな世界では望むことすら難しいのかもしれないが、自分から生きてみたいと思ったのは初めてだった。


 わたしはまっすぐに、彼女の瞳を見つめていた。吸い込まれそうなきれいな瞳だ。

 わたしなんかが操る言葉では圧倒的に足りないとおもってしまうくらい、きれいだ。くだらないことを考えていると、彼女は笑みに苦笑をにじませて少しだけ息を吐いた。


『わかりました、ですがそう長くは待つことができません。

 そして……貴女のささやかな願いを叶えるために、貴女の記憶と世界の一部をいただくことになります。

 ……ごめんなさいね、けれどこれがことわりのひとつですから』


 彼女は白い手を静かに持ち上げる。右手の指がしなやかに天を指し、左手は地を指した。


『巻き戻れ世界よ』


 瞬間、ぐらりと眩暈がした。認識できるすべての知覚がぐちゃぐちゃになるような、酷い眩暈だった。磔にされていた手が、落ちる。自分が倒れているのか立っているのかすらわからない。



 ぐにゃりぐにゃりと歪む視界で、そこらに広がっていた瓦礫が消えていくのが見えた。光と闇が交差し、やがてわたしは意識を手放した。




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