そして少女は人形をやめた

 次にわたしが眼を開けた時、世界はなにも変わっていなかった。と、言いたいところだがちょっと違った。王宮は多少壊れていた。何が起こったのだろうか、わたしがいる謁見の間の壁が所々崩壊している。何か重い、と思ったらネフラ様がわたしをかばうように抱きしめてくれていた。


「……ネフラ様?」

「おお、ナナキ、けがはないかね? 痛むところは?」


 問いかけに、緩く首をふる。特に痛いところも苦しいところもない。至ってだ。

 ネフラ様は高齢だというのに、わたしをかばったのだろうか。逆にわたしがかばうべきだっただろうが、何が起こったのかよくわからないし、この惨状を誰かわたしに説明してくれるとありがたいんだけど。


「地震が起きたのだ、ナナキ。王はもう避難されたが、お前への報償は確約するとおっしゃっておられたぞ」


 よっこいしょ、と立ち上がりながらネフラ様が説明してくれる。……嗚呼、そうだったっけか、アカデミーで主席保持をしてたからそれを王が褒めてくれた、ん、だっけ?なんだか頭にもやがかかっているような気がする。何か忘れているような気が。まぁいいや。


「王の報償って具体的に何ですか」

「お前が望むものを望むだけ、金も名誉も思いのままだ」


 ネフラ様が興奮気味に言うのをわたしは自分でも驚くほど冷めた気持ちで聞いていた。ネフラ様はそのまま何か言葉を続けている。これで研究のための資金が、とか、環境改善がどうとか。くだらない、思わず口からこぼれそうになったけれど生命を助けてくれた恩人に対して聞かせて言い言葉には思えなかったので寸前で飲み込む。


「では、ネフラ様、王にこうお伝えください」


 わたしは立ち上がって服の裾をパンパンと払った。砂埃がいっぱいついていた。別に気に入っている服でもなかったけど、捲きあがる白い煙のような埃にわたしは眉をひそめた。洗濯ってどうやってするんだっけか。洗浄の術式もあるし、嗚呼、いっそ物質除去の術式で鉱石やそれらの元素を排除すればいいか。


 右手を軽く上げる。思い描くものをそこに出現させる。絵筆。変幻自在に色を変える万能の絵筆。ちょうど右側の壁がいい感じに窓がなくて描きやすそうだ、ここにしよう。


 絵筆を壁に勢いよくあてて、線を引く。何度も何度もそれを繰り返してを描く。互いに慈しみ合う、愛し愛された男女の絵。顔はどうでもいい。ただ、幸せそうに微笑している。初めて絵を描くからものすごく下手だ。バランスも良くないし、色味も至って地味だ。……でも、こんな風になりたかった。誰かに愛されてみたかったし、愛してみたかった。今まで蓋をして視ないふりをしていた自分の感情を、わたしはもう無視しないことにする。


「ナナキ、なにをいっておる?」


 不思議そうにネフラ様が訊いてくる。理解できないだろうな、錬金術のためにすべてを投げ出した人だ。親も兄弟も、配偶者も子供も、何もかもを錬金術に差し出して、それでも自分で満足する結果にならなくて、苦悩しているのは知っている。けれどそれとわたしは無関係だ。心行くまで研究に没頭してください。


「わたしは今日、本日を以てアカデミーを去ります。この王都からも去ります。

 これからは自分の好きなように生きて、死にます。

 王にはわたしがそう言っていたとお伝えください」

「な、なにを馬鹿なことを……王宮で地位を確立できる絶好の機会だというのに!」

「興味ないです。というかどうでもいいです」

「ナナキ、お前どうしたというんじゃ、混乱しておるのか?」


 混乱しているのはどう見てもネフラ様の方だと思いますよ。授業の時の厳しさはどこにいったんですか。

 おろおろと落ち着きなく周囲をうろつくネフラ様の姿は、研究に没頭している時の厳しい顔とは全く違う。なんだかおもしろくなって、つい、軽く笑ってしまった。

 ふふ、と口唇から洩れた声に、ネフラ様が驚いたようにわたしを見る。


「……なんですか?」

「いま、笑ったのか?ナナキ」

「うろたえるネフラ様がおもしろかったもので」


 わたしの言葉に更に吃驚したようにネフラ様がまじまじとこちらを見てくる。あっけにとられたような、言葉は悪いが間抜けな顔。思わずくすくすと笑ってしまっていると、ネフラ様は肩の力を抜いたように息を吐いた。


「ナナキ、思い出してみればお前がアカデミーに来てから笑ったことはなかったな」

「……そういえばそうですね」

「お前の才能にばかり目が行って、お前がふつうの人間の子供であることを失念しておった」


 ネフラ様は顎髭を指先でなぞった。そういえばものすごく前に、ネフラ様のひげを引っ張って怒られたことがあったな。


「お前を人形のようにしてしまったのは儂らの罪じゃろう。好きなところへ行って、好きなように生きてみなさい。それがお前の選択ならば儂がどうこう言えることではない」


 穏やかな声と、柔和な表情。まるで好々爺のようだ。初めて見る表情に、わたしはちょっと驚いた。


「そろそろ近衛が戻ってくる。混乱に乗じてお前は出ていったと説明しておく。

捕まれば、もう二度と出られまい。さあ、行くがいい」


 促しに、わたしは頷いた。遠くから足音が聞こえてくる。王の避難が終わったのだろう。わたしを捕まえるために軍兵たちが迫ってくる。

 踵を返して歩き出す。でも、数歩行って振り返る。ネフラ様は厳しくて、自分の研究にわたしを付き合わせる面倒くさいひとで、でも、やさしいひとだった。ほかの教師に怒鳴られて鞭うたれて泣くわたしを慰めてくれたのは一度や二度ではなかった。その分、勉強して見返してやれと発破をかけられたことだってある。


 わたしはネフラ様に向き直り、深く頭を下げた。


「ネフラ様、ありがとうございました。行ってきます」




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