Insomnia
柔らかく弧を描く眼前の女性のひとみ。見覚えがあった。が、思い出せない。長い睫毛に縁取られた形も、神秘的なその色合いも、確かにどこかで見た憶えがある。握りしめていた爪が手に食い込んで、その痛みで我に返る。
「……どこかで、会いましたか?」
乾いた喉からようやく、声を絞り出す。無意識に身体がこわばっていた。それをなんとかほぐそうと軽く息を吐く。汗をぬぐう仕草で、自分の指先が震えていることを自覚して何を畏れているのかとどこか冷静に考えた。
目の前の女性はわたしの心中を知ってか知らずか柔らかな微笑を崩さない。軽く首を傾げると、それにつられるようにさらりと黒髪が揺れた。頬にかかった髪を梳く白い指は細くしなやかで、どのパーツをとって見てもただただ美しいと思った。
『忘れているのも無理はありませんね』
ふふ、と微笑うその笑みが、美しいのにとてもおそろしい。なにか、思い出してはいけないものを思い出してしまいそうになる。うっかり、底の見えない深い穴を覗き込んでしまったような不安がじわじわと身体の奥からせりあがってくる。
どくりどくりと耳元で鳴っている鼓動が耳障りだ。ぐらりぐらりと世界が揺れている。
『こちらへどうぞ、迷子さん』
優しい声音に引き寄せられるように足が前へ踏み出す。おそろしい。とてもおそろしいと思っているのに、身体は彼女の言葉に抗えない。一歩、あと一歩と歩みを進めて彼女の近くにまで来てしまう。
『そのように緊張しなくても、わたくしは貴女を責めはしませんよ』
大輪の花が開くように美しい微笑。やわらかい声。しなやかな指先が彼女の隣を指さして、促す。
『ただ、貴女に逢いたかっただけです』
その言葉に、ようやく、ほんとうにようやく肩の力が抜ける。そう、わたしは解っていた。何故かはわからないが、解っていたのだ。彼女はわたしの罪を裁くことが出来るのだと。それはもう、本能に近いほどの自然さで、身体の奥底にしみこんでしまっているような。
ふらつく足元を叱咤しながら、促されるままに彼女の隣に座る。柔らかな草とほんのりとあたたかな土の感触が気持ちいい。……赦される、気がする。
「……何故、わたしに?」
背中を樹に預け、目を閉じたまま彼女に問う。身体の震えは止まったけれど、彼女の瞳を正面から覗く勇気はなかった。
『貴女の望みは叶ったのだろうかと』
どくん、と心臓が跳ねる。頭を握りつぶされていくような鈍い痛みが走った。思わず目を開いて、彼女の方を見てしまう。その先にあったのは、神秘的な色合いの紫の瞳。白い肌に黒い髪、桃色の口唇。嗚呼、そうだ。思い出してしまった。わたしは。
―わたしは彼女に逢ったことがある。
†
《世界》が壊れはじめた頃、世界の中心にいた王はひとつの
……わたしに親はいない。いや、いたのだろうが記憶にない。物心ついた頃には森の中だった。捨てられたのか、死別だったのか、それとも逃げ出したのか、わからない。偶然獣人の夫婦に拾われたのはわたしにとって幸運だった。僻地といっても過言ではない山と森と川、集落というには小さな集合体。そんな場所でわたしは育った。森や川で漁をして、空を見上げては星や月、世界の美しさを知った。
穏やかな気性の牛や羊に似た獣人たちに囲まれた生活は、確かに幸せだった。屈強な身体も、鋭い牙や爪もないわたしにも、獣人たちは優しかった。
……その生活が一変したのは王都からの遣いが集落に来てから。集落には術式も科学も殆どなく、原始的で閉鎖的な生活だったから、遣いが遅れたのだと言っていた。
積まれた金銀。下卑た笑み。
親だと思っていたのは幻だったのだろうか。よくわからない。諦めにも似た感情だったような気もする。さようなら、と言ったけど、その声は彼らに届いていただろうか。わたしはその遣いにつれられて王都へ行った。いや、言葉を選ばずに言うなら買われたのだ。そのあと、集落がどうなったかは知らない。調べればよかったのかもしれないけれど、もう遠い昔のことのようで、調べる気にもなれなかった。
王都に着いたわたしは「アカデミー」と呼ばれる学校のようなものに入れられた。恩師のネフラ様はそこの教師のひとりだった。人間たちが集まって、獣人や亜人にはない術式や化学、錬金術などを研究する施設だった。錬金術も科学も、術式もわたしにとっては息をするほど簡単に身に着いた。無理だと言われていた黄金の錬金も意外なほどあっさりと行えてしまったし、それらを術式に組み替えることだって簡単だった。「天才」と言われていたけれど、わたしには意味のない賞賛だった。このくらいできて当たり前だと言われ続けていた。
何も自ら望むことなく、願うこともなく、ただただ生きて術式を組み立てて、理論を当てはめて、味のしない食事をして、疲れたら倒れこむように眠る、その繰り返し。生きていることに意味なんてなかったし、望まれたことを望まれたように行っていただけだった。
その繰り返しがずっとずっと続くと思っていた日に、終止符が打たれる時があった。
アカデミーで優秀な成績を修める人間に、王が手ずから褒美を与えると言い出した。当然のようにわたしが選ばれて王宮へ向かって、王座に跪いて、それから。
王は言った。
『この世界には中心となる神も魔女もいない。神は造れないが魔女は造ることができる』と。
「人類保護計画」はまやかしだった。
保護は単なる体のいい理由付けで、魔女を見つけることがその目的だった。自分に起こっていることが現実かどうかもう判断がつけられないほどの絶望に近いなにかに打ちのめされた。こんなことのために、わたしは売られたのか。錬金術や術式を学ぶ中で既に世界が壊れていることなど理解していた。世界を構築する要素のいくつかが欠如していることは解っていた。世界なんてどうだってよかった。わたしには何の価値も意味もなかった。けれど。
こんな。こんなくだらないことの為にわたしは売られて、何もかもを投げ出して、そして、死ぬのか。
磔にされ、手足を杭で打たれて。視界の全てが赤く染まる。痛みは感じない。ただ、身体が熱かった。奥底から沸き上がってくるような炎にも似た熱が、こみあげてくる。自然と口が開き、わたしは吼えた。生まれて初めての咆哮だった。或いは産声だったのだろうか。
咆哮を上げるたびに見えるものが破壊されていく。玉座も、王も、わたしを教育した教師たちも。何もかもが。わたしはただ、ただ愛されてみたかった。愛してみたかった。心から愛されたことも、愛したこともない。獣人たちに育まれていたころは愛されていたのかもしれない。けれどそれは金で消え去ってしまった。無償の愛というものをわたしは知らない。だから知りたい。できることなら愛されたい。愛してみたい。ただそれだけで世界が完結するほどに、愛というものが欲しい。ただそれだけだった。
でも、もう無理だ。わたしは
…………りぃん。
鈴に近い音がした。世界が止まる。燃え上がる炎も、崩れていく王宮も、何もかもが止まる。
花のような甘い香りがした。
わたしは吼えるのをやめて、それを見上げた。やわらかくてあたたかい光。さらりと流れる黒髪。白い肌。
『こんにちは、迷子さん』
神秘的な輝きを秘めた紫色の瞳を細めて。彼女はわたしをそう呼んだ。
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