人の章 16.戦火再び
嘆願の使者は三名とも拘束されたままである。呂后は釈明すら拒絶している。趙后をふくむ人質・宗族は真定で惨殺され、墳墓は毀損された。和解の道は閉ざされた。 否、宣戦布告にひとしい。
趙佗は、すべての和解工作を放棄した。決断は早かった。開戦準備に着手した。全土に戒厳令を発し、国境に精鋭部隊を移動した。
前一八三年、趙佗はみずから「南越国武帝」と号し、漢の「経済封鎖」に真っ向から挑戦した。漢と同じ帝政を敷き、同格であることを内外に宣言したのである。
軍の組織編成はすべて中原天子の陣立てにならい、全軍配置のうえで、公然と叛漢を表明した。
趙佗が漢に反抗し帝号をなのるとは、呂太后には思いもよらなかった。膝もとにすりよって、許しを請うてくるものだとばかり思っていた。無理もない。漢の天下はすでに呂氏のものであり、面と向かって異議をとなえるものは、朝廷には皆無だったからである。
対応策がはかどらず、懲罰軍の編成にもてまどっているうちに、派兵はいつしか沙汰止みになってしまった。
危機意識をもって南越膺懲を説くのは、長沙王ひとりだけだった。
一方、趙佗は長沙王呉回の南越国併呑の策略を非とし、長沙国にたいし宣戦布告した。ときを移さず実戦部隊を出動、騎田嶺を越え、長沙国へ侵攻した。南部辺境の桂陽郡と零陵郡の数ヶ所の郡県をまたたくまに劫略したのである。しかし深追いはきつく戒めた。
長沙一国相手の局地戦ならまだしも、総力戦になれば南越軍はとうてい漢軍の相手ではない。趙佗は十分にわきまえていた。日のあるうちにすばやく引き返し、天険に拠って守りをかためた。
長沙王呉回は、呂太后に訴えた。長沙国は漢のうちである。国土を侵犯されては黙認できない。
前一八一年九月、呂太后は「趙佗に封じた南越王の爵号を剥奪する」と命令を下し、隆慮侯
周竈の軍勢はかつての
九月といえば、ときあたかも南方は炎熱猛暑の盛りである。北方からきた漢兵は嶺南の高温多湿の気候に遭遇し、からだが風土に順応できなかった。軍中に疫病がはやり、落伍者が続出した。嶺南の
嶺南は熱帯多雨林で、湿度が極端に高い。野山一面が天に届くほど高くそびえ立っている大樹に覆われ、地面は下草で膝まで埋まる。うっそうたる森林のなか、ときに天蓋が開かれ、直射日光に晒されるところがある。そんな場所にはきまって、煙ともつかず霧ともつかない気体が発生している。この気体こそが瘴気である。
瘴癘が恐ろしいのは伝染するからで、人から人へと次々に移り、ひとつの地区があっという間に全滅する。さらにべつの地区へも蔓延し、勢いは防ぎきれない。瘴癘は現代医学の術語を用いていうと悪性のマラリアである。古代の医療技術には限りがあったから、この病に出くわすと手の施しようがなかった。
瘴気は嗅ぎにくい臭いではない。モクセイの香気に似ている。とりわけモクセイの開花時期には双方重なり合って、あたり一面モクセイの香りで充満する。ただし、ほんの少しでも吸って体内にはいると、たちまち罹病し卒倒する。これが有名な「香花瘴」で、名前こそ美しいが、悪魔の業病だった。越人は幼児のときから雨林のなかで暮らしてきたから、どうやって瘴気を避け、かかったときにはどうすればいいか、勘働きができ、応急処置の基準をもっている。漢軍は、呆れるばかりに無知である。猛暑に南方の険しい山中で戦えば、わりを食うのはとうぜん漢軍である。
趙佗は五嶺の天険に
一方で、趙佗は長期戦になるのを恐れ、ひそかに終戦工作を画策しはじめていた。陸賈や長安の親越人脈に、方策を打診した。
「漢朝は呂太后に専断され、旧劉派は発言権を奪われた。呂派に取り入るか、あるいは呂太后そのものを抹殺する以外に方策はない」
表向き、にべもない回答である。その一方で、
「このところ呂太后は、月ごとに日を決めて、さる祈祷師のもとで
趙佗は標的を呂太后に絞った。戦争を終結させる非常手段である。
「呂太后には死んでいただく。刃は使うな。劉派の面々に嫌疑がかかってはならぬ。わしの恨みを込め、方術で錯乱死させよ」
呂嘉が羅伯に目配せした。羅伯は無言でうなずいた。
おりしも漢軍側に赤痢やコレラなど
呂太后の病死には、怪異説がともなった。犬に咬まれた傷が悪化して亡くなったのだが、戚姫の子、趙王如意の祟りだというのである。如意は劉邦が戚姫に泣きつかれ、太子に立てようかと思案したこともあるほど寵愛した末の子である。激しく憎んだ呂太后が、鴆毒を飲ませ殺害した。鴆は羽毛に猛毒のある鳥で、その羽で酒をかきまわすとたちまち毒酒となる。古来、いくたの暗殺の道具に用いられた。如意は、十歳になるかならずの幼い歳で殺された。祟ってとうぜんと、聞く人は噂を肯定した。
「
呂太后は亡くなる年の三月中旬、厄除けで他出した帰路、長安の郊外にさしかかったあたりで蒼い眼をした犬のようなものに出くわした。その動物は一瞬、腋の下を掠めるやたちまち見えなくなったという。夜陰、供回りのものも確認できない一瞬のできごとである。
ただ呂太后だけが脇を押さえ、
「犬じゃ、犬じゃ、犬が咬みおった」
と興奮して卒倒したのを見て、半信半疑で届け出たのである。
これには、恐水病にかかった犬をけしかけた謀略説と幻覚説の両論が出た。
方士が犬に化け、切っ先に恐水病の毒を塗った短刀で呂太后を襲い皮膚を傷つけた、という人は皆無だった。
それいらい、呂太后は腋の下が痛み出し、やがて傷があらわれ、重病に陥った。
七月、病はますます篤くなり、やがて病死した。
死ぬまでにどんな夢を見たことであろう。呂太后の死に顔は、人の目をそむけさせた。死の恐怖におびえ、祟りの報復におののく、夜叉の面貌であった。
南越国は、漢朝相手に互角で戦った。趙佗がつらぬいた反漢のメッセージは、周辺諸国に自立心を植えつけ、中央からの離脱をうながした。趙佗は、漢王朝に盾突いた反逆者のイメージで一躍、英雄視され、南越国の威望は大いに高まった。周辺諸国のかれを見る眼がかわった。見直したのである。
趙佗はこれを契機に、漢の駐留兵を駆逐し、辺境地域を制圧した。また資金援助で閩越など周辺の小国を籠絡・兼併し、領土を東西一万余里まで拡大、発展させた。
これ以後、趙佗は皇帝の服装を着用し、皇帝の儀仗を使用した。幌の裏に黄色の
この時期、約四年のあいだ、南越は中原との交流を基本的に中断され、周辺諸国としか交易できず、受けた打撃は痛切だった。しかしその痛手をものともせず、南越は大きなリスクを賭けて、新たに北方航路を切り拓いていた。
それは珠江口から
山東に逃れ、南越国の出方をうかがっていた趙始・媚珠らが、山東側の津(みなと)からこの新たな航路開拓に参加した。
三百年まえ呉王夫差・越王勾践の時代、山東に依拠した斉は、呉越とならぶ三大海軍王国のひとつだった。趙始らの時代、なおその伝統は受けつがれていた。趙始らは山東で商船を建造し、地元の海人を募った。海の仲間である。かれらの知識と経験をくわえ、大陸東側の沿岸航路は一本化した。漢越交易が再開されれば、すぐにも利用できる。水面下では、具体的な交易協議がはじまっていた。
生前、漢の高祖劉邦は呂后の問いに答え、宰相の品定めをしたことがある。呂后が、当時の宰相蕭何のあとを問うたのである。劉邦は、曹参、ついで王陵ときて、その補佐役として陳平の名をあげた。そして「劉氏を安泰ならしめるのは
のちに陳平は右丞相となり、周勃は大尉となった。大尉は軍の最高位である。政権は呂氏一族に専断され、幼い皇帝を擁しているだけの劉氏は危うい立場に追い込まれていた。かつて謀士と称えられた気鋭の陳平も、いまは無策の宰相に成り果てていた。
邸宅にこもり鬱々として愉しまぬ陳平を、ぶらりと訪れたのは陸賈である。陸賈は呂后の独断専行いらい官を辞し、無官のご意見番として、悠々自適の日々である。かねてより陳平とは遠慮のないつきあいだったから、陸賈はずかずかと陳平の居室へ上がりこんだ。
「陳平どの、なにをお悩みか」
「おお陸賈先生か。いつまいられた」
「三万戸の食邑をいただき富貴をきわめた大丞相が、これ以上なにを望んで憂慮されるのか。よもや呂氏一族と少帝のことで、悩んでおられるのではありますまいな」
「ご明察。先生にはとてもかないません。どうすればよいのか、策が浮かばないのです」
そこで陸賈は単刀直入、打開策を指摘した。
「平時の相、戦時の将というではありませんか。天下が安泰であれば人びとはみな宰相のおこないに注意し、天下に危機が押し寄せれば人びとはみな将軍の動きに注目するものです。相と将、つまり文武が調和してこそ漢朝の諸士百官はつきしたがい、かれらがしたがえば天下に変動があっても、権力が割れることはないのです。いまこそ丞相と大尉が心をひとつにし、難局にあたるべきときなのです」
劉邦にも説いた陸賈の持論「文武併用論」である。全軍を抑える重鎮、太尉周勃との合作を勧めたのである。陳平も考えないではなかったが、周勃とは気さくに語れるあいだがらではない。ぎゃくに陸賈は、周勃とは気楽なつきあいをしている。ここ一番、陳平は意を決し、周勃への周旋を陸賈に一任した。
陸賈は名にし負う天下のご意見番である。動き回っても怪しまれない。陰に陽に自在に要人を説いて回り、呂氏討伐の布石を打った。やがて丞相陳平は太尉周勃らと気脈をつうじ、呂太后の死に乗じ、反撃に移った。たちまち呂氏一族は皆殺しにあった。
ついで諸大臣は、ひそかに鳩首協議した。次期皇帝の擁立である。劉氏諸王のうちから賢明なひとりを選び、皇位に
『史記』には、選考理由がこう記されている。
「代王は仁孝寛厚なり。太后の薄氏の家も勤良な家である。かつ、長(年長者)を立つるはまことに順なり。仁孝をもって天下に聞こゆるは便(好都合)なり」
劉恒はなんども固辞したが、長安までつれてこられ、帝位についた。危惧する向きもあったが、のち漢代有数の名君といわれた。司馬遷も『孝文本紀』で、「嗚呼、あに仁ならずや」と評している。劉恒は、「仁厚」で知られる漢の文帝である。
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