南越王伝奇

ははそ しげき

天の章 1.草原伝説


 前漢初期、中国南方の嶺南れいなんとよばれる地域に独立国を建て、王として君臨した男がいた。国は南越なんえつ国、男は趙佗ちょうたである。その国都は珠江しゅこう三角州北側の番禺ばんぐう、いまの広州においた。

 嶺南は五嶺の南、いまの広東カントン広西カンシー両省区と香港・マカオ一帯および海南省をいう。前漢時代には、さらにベトナム中北部をもふくむ広大な地域の総称だった。古来、中国大陸と海外との経済・文化が合流する地域で、のちに海のシルクロードの発着点ともなる。

 五嶺は、広東・広西北部と湖南・江西を南北にわけて東西にそびえる大庾嶺だいゆれい騎田きでん嶺・都龐とほう嶺・萌渚ほうしょ嶺・越城えつじょう嶺の南嶺山脈をさす。いずれも標高二〇〇〇メートルには満たないが、長江水系と珠江しゅこう水系を隔てる分水嶺で、嶺南を中原ちゅうげんにむすぶ交通の要衝である。

 珠江は、西江・北江・東江の三江が合流する広州から河口までの下流域をいうが、水系全体を珠江と総称すれば、黄河・長江とともに中国三大河のひとつにならび称される。


 趙佗は戦国時代末期、趙国 真定しんていに生まれた。いまの河北省 石家荘せっかそう市正定県の南にあたる。もっとも真定は、趙佗が生まれたころの地名にはない。もとの地名は東垣とうえんである。

 石家荘市趙陵舗村の東南に「趙佗先人墓」がある。いちど呂后によって徹底破壊されたが、のちに文帝が修復、歴代の王朝によって祀られた。かつては三十余の塚があり、「煙樹蒼茫趙陵をとざす」(霞につつまれた樹林が青々とひろがり趙一族の陵墓をおおう)というほど広壮な景観を呈し、「獲鹿八景」のひとつに挙げられていた。いまは、長さ一〇〇余メートル、幅五〇メートル、高さ約六メートルの南北につらなるふたつの塚を残すのみである。

 石家荘の東北約二七〇キロさきに北京がある。真南に約一六〇キロ下れば趙の都 邯鄲かんたんにつく。石家荘から広州、当時の南越国の都番禺までは、いまの鉄道路線で二〇〇〇余キロある。安易な比較であるが、日本でいえば青森―熊本間に匹敵しよう。

 趙佗の没年については、漢武帝建元四年(前一三七年)と、『史記』『漢書』とも明確に記されているが、生年についての記録は史書にない。享年は「百歳をこえる」とあるのみで、生年は不明である。巷説に、秦の中原統一の年(前二二一年)、同じ趙国人 任囂じんごうの推挙により、趙佗は十九歳で始皇帝の近侍に抜擢されたというものがある。これによれば、生年は前二三九年になる。また享年は百三歳である。ついでながら、始皇帝が五十歳で崩御する前二一〇年には、劉邦三十八歳、劉邦と天下を争う項羽は二十三歳で、趙佗は三十歳。始皇帝とは、ちょうど二十歳ちがいである(いずれも数え年による)。

 とまれ秦の攻略で趙国は亡び、趙佗は祖国を失うことになる。ときに趙佗十二歳。爾来、全土を経回へめぐったすえ、二十五歳で嶺南越えを果たす。南越建国は前二〇四年、三十六歳のときである。


 趙佗には、戦国時代の趙 武霊王ぶれいおう四代の子孫であるとの説がある。むろん根拠はない。おそらくのちの、ためにする付会であろう。趙武霊王は中華の風俗をあらため、国人に「胡服こふく騎射きしゃ」を奨励して趙国を強盛にした、青史に名を留める英傑である。

 趙佗の生まれる五十数年まえまで、邯鄲の北方一五〇キロさきに、中山国ちゅうざんこくという北狄ほくてきの一部族、白狄はくてきの建てた国があった。いまの石家荘を包括する地域である。春秋時代には鮮虞せんぐといったというから、数百年規模の歴史をもつ。もと遊牧民族の末裔であるが、そのころには定着していたと思われる。いちど亡んで再興した。そして武霊王がしつように攻め、ついにはこれを壊滅したのである。

 金縷きんる玉衣ぎょくいの出土で有名な満城漢墓の中山靖王劉勝は、武霊王の時代から二百年後のべつの中山国である。よけいな話だが、三国志の劉備玄徳は、この中山靖王劉勝の後裔であると自称している。


 さて、武霊王のことである。武霊王は趙佗にとって祖国の英雄、大先達であるにとどまらず、のちのち秦の始皇帝にも比せられる、歴史上の大人物である。

 武霊王が十二歳で王位をついだ当時、趙国は四方を強敵にかこまれていた。斉・燕・秦・韓・魏の中原列強にくわえ、北方の遊牧民族がおりかさなって包囲していた。遊牧民族は、三胡とよばれる林胡りんこ楼煩ろうはん東胡とうこと中山国である。かれらは巧みに馬を乗りこなし、騎乗で弓を射ることに長けていた。しばしば騎兵をくりだし、趙の辺境を襲った。財物を劫略し、人畜を虜奪したのである。ことに中山国は、趙の咽喉を扼する地といっていい。国境沿いの望台に立てば、嬉々として引きあげる略奪兵の得意気な笑みさえ見てとれる近さである。趙が北に活路を見出そうとすれば、まず中山国を抜かなければならない。

「いつの日か、かならず誅滅してくれる」

 略奪された村を見舞った少年王は、かたく心に復仇を誓った。

「騎兵に対抗するには、騎兵をもってあたることだ」

 年少にしてかれは、すでに道理をわきまえていた。

 この時代、秦が国力を増し、西から東に向かって進出しはじめていた。商鞅の変法による大胆な改革で、軍事力と経済力を増強した結果である。他の六国は、戦々恐々として対応に追われた。連合して秦を迎え撃つべきか(合従がっしょう策)、秦と協調して自国の温存を図るべきか(連衡れんこう策)、各国入り乱れての武力闘争のかたわら、活発な謀略外交が展開されていた。ことに秦と直接国境を接する韓・趙・楚は、他の国々を巻き込み、戦国時代は佳境に達していた。

 趙の課題も富国強兵にある。西に秦、東に中山をはさんで斉、南に魏、いずれも強国がつけいる隙を狙っていた。武霊王は、まず北に版図を伸ばそうと考えた。

 即位から十九年目(前三〇七年)、武霊王は北方遠征を敢行した。まだ三十歳の男盛りである。北に中山の地を攻略し、房子ぼうしからだいにいたり、北上して無窮むきゅうに進む。その後、さらに西行して河水かすい(黄河)に達し、黄華山に登ったと、『史記・趙世家』にある。

『中国歴史地図集』の「戦国、趙・中山地図」によれば、房子は邯鄲の北約七〇キロ、中山国の一邑で趙との国境に近い。代はいまの北京の西方一五〇キロさき、うつ県の東にある。同じ地図上で、代からさらに北方約一四〇キロ、いまの張家口の長城外側に「無窮之門」という地名がみえる。内蒙古 察哈児チャハルの東部である。ここを通過しひたすら西行すれば、たしかに西から流れてくる黄河の、南に大きく湾曲するあたりに出る。邯鄲―代―無窮―黄河を地図上で単純に直線でむすんでも、片道一〇〇〇キロを超える距離である。往復二〇〇〇余キロ、かなりの強行軍で突破したものであろう。しかしのちの歴史からみて、実地踏査のもつ戦略的価値は高い。

 そもそも「中山の地を攻略した」とはいうものの、かんじんの戦果の記載がない。遠征といっても、敵情視察が目的だったと思われる。行程の過半、無人の草原は馬で駆けぬけたのだろう。いずれにせよ、その西方向、かれらが通過したあたりは当時、楼煩・林胡が居住していた地域である。さらにその北、いまの内蒙古の外側には匈奴がひかえ、虎視眈々、出番をうかがっていた。東胡は東側、燕の北方(旧満洲)を居処としていた。

 武霊王一行は胡服に着替え、騎馬で行進した。中華風のゆったりした長袖のワンピースでは、馬にも乗れない。胡服は細身の上着に太目のズボンをはき、帯を締めた。帯に止め金(帯鉤バックル)を用いるようになったのは武霊王かららしい。革製の靴も必需品である。

「これでなくてはいかん」

 武霊王は得心し、褲子クーズ(ズボン)のひざを叩いたことであろう。

 中原においても、馬は軍事上、重要な役割を担っていた。兵車を牽かせたのである。しかし兵車は平原での大会戦でこそ威力を発揮できるが、河川・丘陵・山林では立ち往生せざるをえない。いかんせん、騎馬の機動性にはおよぶべくもない。しかも騎馬は、疾駆して矢を射るのである。加速度をつけると、威力は倍加する。

 騎乗はもとより、騎射に胡服は必須である。ところが中原では、この服装をとりいれるというだけで、蜂の巣をつついたような騒ぎとなる。因循守旧は、趙国においても例外ではない。武霊王ら一行は、長期の遠征をつうじて、すでに胡服を常用し、騎乗・騎射をマスターしていた。効果のほどは身をもって実証済みである。胡服騎射の制度導入こそ、騎馬民族に対抗しうる最強にして唯一の策である。しかも中原においてもなお、他国を圧倒するに十分な破壊力を有している。趙国が北に版図をひろげ、中原に覇を称えるには、これをもって富国強兵策を実行に移す以外にない。

 武霊王は確信し、遠征帰国後、楼緩ろうかん肥義ひぎなど重臣を集め、軍制の変革を説いた。しかしけっして無理強いはせず、理をもって根気よく説得した。国人の自発的な意識の改変、これに期待したのである。楼緩・肥義とも、のちに一国の宰相の要職を担う実力者である。

「百年前わが先王 趙襄子ちょうじょうしは、時世の変遷により、南に藩屏の地を増し、漳水しょうすい滏水ふすいの険阻を利用し、長城を築いた。西にはりん郭狼かくろう(山西中西部・黄河の東側)を取り、林人りんじん(林胡)をじん戎狄じゅうてきの地)で破ったが、それでも万全ではなかった。ところが、いま中山はわが眼前に立ちはだかり、東に斉、北に燕、そのさきに東胡があり、西に林胡・楼煩・秦・韓があって、わが趙国をとりまいているというのに、頼るべき強兵の助けがない。自力で守る以外、社稷を保つことはできないのだ。おのおのがたはどうお考えか。軍制改革の手はじめに、わしは胡服を採用したいと思う」

「よろしゅうございましょう」

 楼緩は賛意を示した。しかし群臣は容易に肯じない。

 武霊王はかたわらに侍る肥義をみて、さらに言葉をついだ。

「世俗に反し胡服を着用すれば、夷狄の風をまねるものよと非難され、蔑まれよう。しかし国を失っては元も子もない。わしは胡服を着、馬に乗り、弓を射って、百姓ひゃくせい(たみ)を教導したい。そちはどう思うか」

 肥義は、正面をみすえて明言した。

「半信半疑でおこなっても、成果は得られません。王がすでに決心されたのなら、もはや世間の思惑など顧慮されますな。むかししゅんは、びょうの民と舞楽し、は南蛮の裸族のなかで肌脱ぎになりました。みずから蛮族のなかに溶けこみ、徳を行動で示して、かれらを従属させたのです。胡服の採用が国を利し民を潤すなら、決然としておこなうべきです。王はなにをためらわれるか」

「わしは天下のもの笑いになるかと危惧するだけで、胡服の着用に迷いはない。笑いたいものは笑うがよい。胡服にきりかえ、胡の地中山を、かならずこの手で掴んでみせる」

 群臣は、武霊王の迫力ある説得に押され、ようやく納得した。胡服の導入を是としたのである。しかし、なお抗うものがいた。叔父の公子 せいである。かれは病気と称して参内しなかった。はなから説得におうじる気はなかったのである。代人をつうじて言い分は伝えられている。胡服の採用に、真っ向から反対する意見である。

「中国は聡明叡智の人士がおり、仁義のおこなわれるところである。未開の蛮夷はこれを範とし、見習ってこそ道理というべきものを、なにを血迷うて蛮夷の風をとりいれようとされるか。いま王には、この中国を捨てるお考えか。わが古の教えに背き、蛮族になびくなど、中国を離れて胡地へでも移られるおつもりか」

 罵倒に近い反対だが、武霊王は冷静に聞き流した。

「病とあらば、わしが見舞おう」

みずから出向き、考えをあらためるよう説得したのである。

「服装というものは、使って便利で、邪魔にならないことが大事だ。礼というものも同じである。いにしえの聖人はその時代の土地柄におうじて服装を決め、礼を定めた。それが民を利し、国を豊かにするために必要だったからだ。短髪で、からだや腕に刺青いれずみをするのが瓯越おうえつの民なら、歯を黒く塗り、額に彩りするのは大呉の国だ。礼制も服装も国や地域、時代によってさまざまな形があってとうぜんである。もとの理由を忘れ、ただただ古の風俗に縛られるのは、滅びゆくものの戯言たわごとでしかない。いまわしはこの趙国の再興を考え、強兵策をとろうとしている。胡服は騎乗騎射の便宜のために採用するので、もっと適切な服装があればいつでも変更する。衣服や道具は、使い勝手がよいに越したことはない」

 この間の経緯は、『史記』に詳しく述べられている。例として示されている瓯越・大呉の国は、いまの温州を中心とする浙江沿岸部と、蘇州を中心とする江蘇南部の地域で、呉・越の前身にあたる。

 服装をひとつ替えるだけでなにを大げさな、といまのわれわれは思いがちである。しかし当時の趙人ちょうひとにとっては、驚天動地のできごとだったにちがいない。誇りたかい中華文明を象徴する伝統衣装を捨てて、文明の名に値しない夷狄の習俗をとりいれるのである。のちの歴史で、辮髪べんぱつを強制されたときの心情に似たものがあったであろう。首をかけて反対する抵抗勢力が存在しても、不思議はない。

 武霊王は、この抵抗勢力にたいし、根気よく丁寧に説得している。

 中原諸国の蔑視と反発は必至である。かれらは同盟をむすんで、中華文明の看板に泥を塗った趙国に、懲罰の聖戦をしかけてくる。武霊王が強権発動でなく、説得によって兵制の改革を断行しようとした理由はここにある。国内にすこしでも不満分子を残しておいてはならない。後顧の憂いは、前線の士気に影響する。四周を外敵にかこまれた趙国にとっては、全国人が一丸となって変革にあたることが必須条件だった。意識の変革が先行したゆえんである。

 公子成が折れ、国人すべて合意のもと「胡服令」が発せられた。実施後の動きは速かった。全軍あげて、服装の改変にしたがった。胡服に着替えた兵士に騎馬を指導し、騎射を訓練した。全国に尚武の気がみなぎり、兵士の顔は緊張感で引き締まった。

 ちなみにここでいう「中国」とは、国家概念ではない。中華文明のおよぶ世界の中央を意味する地理概念で、中原と読み替えてよい。戦国諸侯国の領有する地域の総称でもある。時代が下り、領土が拡大するにつれ、中華の範囲はさらに拡大し、こんにちにいたる。

「中国」のそとは「外国」である。そこには未開の外国人えびすが棲む。東南西北それぞれに、未開人にふさわしい侮蔑語、「夷蛮いばん戎狄じゅうてき」があてられる。東夷・南蛮・西戎・北狄である。


 北方遠征の翌年(前三〇六年)、武霊王は軍を発動した。これまでの歩兵主体の軍編成にかえ、騎馬部隊が主力である。たちまち中山に侵攻し、寧葭ねいか(いまの石家荘の西北一八キロ)を突破、西行して楡中ゆちゅうに達した。石家荘から約三〇〇キロさき、黄河の西側にひろがる林胡の拠点である。林胡王は馬を献じ、胡兵の徴募におうじた。

 その後、毎年のように兵を出し、中山の各邑を蚕食、胡地を侵略した。原陽(いまの内蒙古フホホト東南・黒水河南岸)攻略後、「騎邑きゆう」を設置する。「騎馬の里」である。内蒙古の草原は、絶好の放牧地で、馬を育て、騎兵を訓練する最適の環境に恵まれていた。ここで鍛えられた馬と騎兵は、中原の北方周辺を蹂躙し、趙の領土を拡大した。

 前二九九年、武霊王は外征に専念するため、国政から身を引く。太子 に王位をゆずり、みずからは主父しゅほと称したのである。主父とは国君の父を意味する。まだ三十八歳の若さである。隠居する歳ではない。肥義を幼王恵文王の丞相とし、師傅しふ守役もりやく)を兼ねさせた。

「馬に乗り、北方辺疆の草原を思うぞんぶん疾駆したい」

本音を問えば、そう答えたかもしれない。事実これ以後も、主父こと武霊王は北の大草原を自由奔放に駆けまわる。ただし代償は高くついた。のちに命と引きかえることになる。

 この時期、武霊王の北方雄飛事業は、最盛期を迎えたといっていい。いまの北京西方一帯に、代・雁門・雲中の三郡を設置し、実勢支配したのである。(雁門はいまの大同の西方約八十キロ地点)。趙国は上下士・新旧人(以前からの趙人と新たに徴募された胡人)一体となり、中原で唯一、独力で秦に対抗しうる勢力を保持した。北方に自前の長城を築造し、のちに万里といわれる長城のいしずえを構築した。北方の開拓をすすめ、多くの遊牧民族を啓蒙し、中国の版図を北の東西に拡大したのである。

 最盛時の疆域は、「地は方二千里」といわれた。当時の一里は四〇五メートルだから、約八〇〇キロ四方である。東西の距離は、いまの北京から西に、山西を抜け、寧夏・銀川の手前、北上する黄河のあたりまでと思えばわかりやすい。さらに「帯甲(武装兵力)数十万、兵車千乗、軍馬一万匹にくわえ、粟支数年ぞくすうねんをささえる(軍糧は数年を支える)」と、軍事力の背景に経済的実力も蓄えていたことが、『史記・蘇秦列伝』で強調されている。当時、趙国の農業生産には、すでに鉄製の農工具が使用され、牛耕も広範に普及していた。石家荘の戦国時代遺跡の出土品が、「粟支数年」を証明している。養蚕・畜牧・冶金鋳鉄・治水灌漑の技術など、のちに趙佗の南越国が急速に発展するために必要な経済基盤は、すべて趙国にそなわっていた。

 恵文王の三年(前二九六年)、中山国は滅亡する。胡服騎射の導入いらい十年、ここに武霊王の悲願は達成された。しかしその翌年、主父武霊王はあっけなく急逝する。餓死という異常な死であった。享年四十一歳、惜しまれる若さである。

 こののち趙国には、廉頗れんぱ蔺相如りんしょうじょなどの賢臣が輩出し、かろうじて盛時の国威を維持していたが、衰勢の流れには抗しきれなかった。前二六〇年、長平(山西南部、晋城高平)の戦いにおいて、白起はくきひきいる秦軍に破られ、全軍降伏、四十万の兵士が穴埋めになった。

「趙人は震えあがった」が、一方で秦人にたいする憎悪を募らせた。この戦いで趙軍は、合計四十五万人の兵卒を失った。趙国全体で三百万人といわれる当時の人口である。一五パーセントの消耗はいかにも大きい。ついに武霊王の栄光を回復できないまま、前二二八年の滅亡を迎えることになる。


 胡服騎射・雄才大略・気魄宏大、さまざまに形容される趙武霊王の騎馬部隊による北方草原制覇の事歴は、少年趙佗の時代には、まだ生々しく語られたことであろう。少年たちの夢を育んだ武霊王在りし日の趙国の雄々しい昔がたりは、やがて不朽の伝説となった。

 こののち趙佗ら趙国遺臣の脳裏に残り、南越建国をつうじて嶺南に受けつがれることになるのである。

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