天の章 2.始皇余聞


 のちに始皇帝を号する秦王 嬴政えいせいは、はじめ趙政ちょうせいの名で『史記』に登場する。じつは趙氏は、れっきとした秦の姓である。かれは、秦の昭王四十八年(前二五九年)正月、趙の都邯鄲で生まれた。正月にちなみ政と名づけられた。正と政は、同音である。母は趙姫ちょうき、父は秦の公子 子楚しそ、当時の名は異人いじんという。

 秦の遠祖の姓は嬴であるが、「趙氏は、その祖先を秦と同じくする」と、司馬遷は『史記・趙世家』の冒頭で明言している。

「帝舜は秦の先祖の大費たいひ(別号を柏翳はくえい)が、祖業である鳥獣の馴育じゅんいくに功績があったので、嬴という姓を賜った」。大費の末裔に、悪来おらい季勝きしょうの兄弟がいた。のち悪来の子孫が秦をひらき、季勝の子孫が趙をひらくことになる。季勝の四代後裔に造父ぞうほがいた。造父はよく馬を御したので、周の穆王ぼくおうに寵幸され、趙城(いまの山西西南・臨汾りんふんの北方三八キロ)を賜った。これ以降、造父の一族は趙氏をなのる。

 悪来の五世の子孫に大絡たいらくがあり、その子を非子ひしといった。非子は犬丘けんきゅう咸陽かんようの西方八〇キロにある扶風ふふう)に居住し、馬など家畜をよく飼育した。評判が伝わり、周の孝王に召され、汧水けんすい渭水いすいとのあいだに放牧場をもうけた。狙いはあやまたず、孝王の意に沿って、馬が大いに繁殖した。孝王は喜び、非子に土地をあたえて秦(甘粛・秦州)に住まわせた。いうまでもなくこの地名が秦の国名の起こりである。いまの甘粛・天水市清水県、咸陽から約二三〇キロ西方にある。

「そのむかし、伯翳(大費)は舜のために牧畜を営み、家畜が多く繁殖した。ゆえに土地をいただき、嬴姓を賜った。いまその子孫が、またわしのために馬を殖やしてくれた。わしは土地をあたえて附庸ふよう(諸侯の属国)にしたいと思う」

 非子は周孝王の覚えめでたく、秦嬴を号し、嬴氏のまつりを絶やさなかった。秦嬴のあと数代おいて出たのが襄公じょうこうである。

 笑わぬ寵妃 褒姒ほうじを溺愛し、あげくの果てに諸侯の信を失い、驪山りざん(陝西・臨潼りんどうの麓で殺された周の幽王にかわり、平王が立った。このとき秦の襄公は兵をひきいて平王を援け、大いに戦功があった。平王は犬戎の難を避け洛邑(洛陽)に東遷するが、襄公は兵を出して平王を護衛した。平王は襄公を封じて諸侯とし、岐山以西の地を賜った。そして襄公七年(前七七一年)、秦ははじめて国を建てる。

 前十一世紀、周の建国以来二百五十余年、一介の奴隷集団からスタートした秦は、将軍位にまで立身し、諸侯の附庸を脱却、みずから一国を領有するにいたったのである。


 造父より六代目 奄父えんぽの子 叔帯しゅくたいのとき、周の幽王が無道だったので周を去り、晋の文侯につかえ、ここにはじめて晋の趙氏が興った。

 叔帯の五代目が趙夙ちょうしゅくで、孫が趙衰ちょうしである。趙衰は文公につかえた。

 のちに覇者となる文公は、流浪の貴公子 重耳ちょうじである。重耳は国を追われ、国外に亡命し、ときに乞食公子とあざけられたが十九年後、晋の国王に迎えられた。困難をともにした趙衰ら臣下の献身の賜物である。晋は文公のあと、王家の血統ではない大夫たいふ趙盾ちょうとんが実権をにぎる。趙盾は趙衰の子である。趙簡子のとき邯鄲を領有し、趙襄子のとき代を平定、韓・魏・趙で晋を分けあった。これを三晋という。

 燕・斉・楚・秦をくわえ、ひとくちに戦国の七雄というが、そのうち旧晋だけで三国を占めたのである。三晋のうち最北に位置したのが趙国である。北方民族南下の影響を直接こうむる矢面に立っていた。じじつ近隣の遊牧民族は、騎馬射的をよくし、しばしば騎兵で趙国の辺境を侵略、趙国の正常な生産や社会生活に重大な影響をあたえていた。

 その後の趙国については、すでに前節で述べた。

 

 ときは、弱肉強食の戦国時代である。これもと同根、同姓のよしみは、いったん不和になると、かえって骨肉の異常な憎悪をかもしだし、血で血を洗う凄惨な傷跡を歴史に残す。長平の戦いにおける趙の降伏兵四十万人の穴埋めと、その後三年におよぶ秦の邯鄲包囲は、趙人ちょうひと秦人しんひとにたいする憎しみを、極限にまで増幅した。そのさなか邯鄲で、趙人の憎しみを一身に浴びて誕生したのが趙政、のちの始皇帝その人である。


 始皇帝はまた、その出生においても数奇に満ちている。

 陽翟ようてき(いまの河南省禹県)の大商人 呂不韋りょふいは、趙の都邯鄲で人質に出されていた秦の公子子楚を知り、国盗りの賭けに出た。「奇貨 くべし」、子楚の王位獲得に千金を投じたのである。狙いは的中し、のちに子楚は秦の荘襄王となり、呂不韋を宰相に登用、報恩する。

 ところがそれ以前、呂不韋が秦国宮廷で子楚の本国復帰工作を画策中、子楚が呂不韋の美妾をみそめ、無心したのである。

「あのひめがほしい」

 呂不韋は一瞬ためらったが、顔には出さなかった。

「お気に召したのであれば、さしあげましょう」

 じつはこのとき、美妾はすでに呂不韋の子を身籠みごもっていたという。

『史記・秦始皇本紀』には、こう記されている。

「秦の始皇帝は、秦の荘襄王(子楚)の子である。荘襄王は秦のために人質として趙の都邯鄲にいた。呂不韋のそばめをみかけ、よろこんでこれを娶り、始皇を生む」

 一方、『十八史略』には、そのものずばりで指摘されている。

「妊娠していた趙姫を子楚に献上した」

 生まれたのが、のちの始皇帝、趙政である。妊娠十二ケ月目であったという。薬を使って遅らせたのである。いうまでもなく、子楚にゆずって十ヵ月を超えている。

 秦将白起が、趙の降兵四十万人を生き埋めにした長平の戦が終ったばかりのころで、秦趙両国の関係は最悪の状況にあった。

 長平の戦の翌年、秦は邯鄲を包囲、その三年目、秦は邯鄲を急襲する。報復手段として、趙は秦の人質子楚を殺そうとした。呂不韋は金を使って趙国の守城の官吏を籠絡し、子楚を脱出させた。秦昭王の太子安国君の寵妃 華陽かよう夫人が、養子として迎え入れたのである。

 秦の邯鄲包囲は三年におよんでいた。おりからの大飢饉にもかかわらず、外からの補給路はひらかれなかった。城内の食糧備蓄が底をつくと同時に、飢餓地獄は人を羅刹らせつ(食人鬼)にかえた。そんなさなか趙姫と三歳の政は、邯鄲城内にとり残されたのである。

 にっくき敵国秦のかたわれである。政母子は憎悪の矢面に立たされた。「喰われはせぬか」と逃げ惑う恐怖の体験が、幼い趙政の被虐の記憶に植えつけられ、のちの報復につながる。

 前二五一年、秦の昭王が没し、安国君が孝文王となって位をついだ。皇妃は義母の華陽夫人である。子楚は太子となった。趙国は秦との講和をはかり、政母子を秦に送りかえした。政は九歳ではじめて秦へ戻された。帰国後、政は嬴政をなのる。嬴が秦の王室の姓であることはすでに述べた。政が秦の正統を認められたあかしとみてよい。

 ところが孝文王は、前二五〇年十月、在位わずか三日で急逝した。太子の子楚が荘襄王となり、嬴政は太子となった。前二四九年、荘襄王は約束を違えず、呂不韋を宰相とした。

 その二年後、荘襄王が亡くなり、政は秦王に立てられた。十三歳である。呂不韋はまたしても後見役として宰相となり、「仲父」と尊称された。「仲父」とは父に次ぐ人、父の弟、おじを意味する。

 昭王の死去(前二五一年)から秦王政の即位(前二四七年)まで、四代であしかけ五年という短さである。偶然にしてはできすぎている。奇跡としかいいようがない。


 宰相呂不韋は、少年王政の強力な補佐役であった。当初政王は、この宰相の傀儡かいらいにすぎなかった。呂不韋の前身は豪商であるが、ただの商人上がりとはわけがちがう。学識経験いずれをとってみても、群臣よりはるかに抜きん出ていた。さらに軍事においてもいっこうに引けをとらなかった。大将軍として大軍をひきい、東周を壊滅した。さらに六国を蚕食し、中原の諸侯国を凌駕した。のちに実現する六国併呑のさきがけをはたしていたといって過言でない。王とはいえ年端のゆかない少年に、歯の立つ相手ではなかったのである。

 ――まず力を蓄えることだ。

 政は、おのれの微力を自覚していた。幼児期の栄養不足がたたっているともいわれるが、生来の虚弱体質で、薬と医者を手放せなかった。それにくわえ、つねに周囲の大人たちの眼にさらされている。この圧迫に負け、心気までも衰えさせてはならなかった。精神の発揚に心がけた。役立つのは復讐心である。かれは過去に受けた不当な扱いにたいし、つねに報復を忘れず、心身鍛錬の励ましとした。

 はたちを越えるまでは、内心を隠し、いちずに学問に没頭した。諸国の有識者を招き、師とあおいだ。口数の少ない、書物好きのおとなしい少年と、人には映った。一方で、ひたすら「帝王術」(政治学)を学んだ。『韓非子』を熟読したのはそのころである。黄老の流れをくむ刑名・法術との出会いは、青年期以降の政を時代離れした天才に育て上げた。

 宰相呂不韋は、秦国の政治経済を牛耳っていた。呂不韋は秦の国力を東に向けて伸ばすことに力をつくした。秦の国力増強は、呂不韋自身の商益拡大に直結した。賓客や遊説の士を招聘し、政商あわせた天下取りを夢想した。

 この時代、斉の孟嘗君もうしょうくんなど戦国の四君華やかなりしころで、たがいに食客の数を競った。呂不韋もまた「文信侯」に封じられ、食客三千人と豪語した。かれは食客を総動員して思想体系書『呂氏りょし春秋しゅんじゅう』を編纂する。わが世の春の絶頂期といっていい。

 食客のひとりに李斯りしがいた。楚国上蔡じょうさい(河南上蔡県)の出身である。楚国蘭陵県(山東巷山県付近の蘭陵鎮)で儒学の大家 荀子じゅんしの門に学び、儒学の礼法ではなく帝王術を修めた。呂不韋は李斯を抜擢、郎(王の侍従官)として政王に推挙した。のち呂不韋失脚後、李斯は宰相となり、秦王政の右腕として帝国改革の企画実行に本領を発揮する。郡県制の本格化、焚書ふんしょ坑儒こうじゅの建議、度量衡どりょうこう・文字の統一など、始皇帝の独裁政権の確立に貢献する。

「人のけん不肖ふしょうは、たとえば鼠のごとし。自らるところにるのみ」(人の「賢不肖」とは頭の良し悪しではない。どこに身をおくかでその人の価値がはかられるのだ)

 郷里で小役人をしていたとき、便所の鼠と穀物倉の鼠を見て、そのちがいに感ずるところがあった。便所の鼠はつねにびくびくして糞を喰らっている。一方、穀物倉の鼠は立派な倉のなかで悠々として穀物をんでいる。便所の鼠はいつまでたっても便所の鼠だ。穀物倉に移るにはどうすればよいか。かれは一念発起して郷里を出奔し、荀子の門を叩いた。

「便所の鼠は、おれも同じさ」

 初対面で、政は李斯が気に入った。趙国で人質の子として生まれ育った少年政は、いつ襲撃されて殺されるかわからない不安と恐怖のなかで、つねにおどおどして暮らしてきた。呂不韋からのあてがい扶持の食糧もときに途絶えることがあり、なかば腐ったものを口にすることさえあった。まさに便所の鼠である。

 李斯に出会う以前、孤独な少年王政が取りえた唯一の防御法は、じぶんの心を隠すことだった。心に仮面をかぶせ、表情を消すことからはじめた。人にたいし好悪の感情をあらわにしなかった。笑顔を忘れた不気味な少年だった。

 その少年が、李斯のまえでは素顔をみせた。「帝王術」の講義が、政の心を開いたのである。講義のたびに、政は率直な反応を示した。政にとって、李斯は恰好の教師といえた。

 はたちを越えたころから、秦王政は仮面をはずしにかかった。

 学問の習得をつうじて、徐々に自信が芽生えてきたのである。人の考えつかないことを発想した。不可能を可能にすることに快感を覚えた。おのが本分を意識しはじめ、すこしずつ自己主張を表に出しはじめた。「帝王術」は、政の期待にこたえてくれた。

自己主張の手はじめは、執政権を呂不韋からとり戻すことである。

 前二三八年、秦王政は二十二歳で冠礼(元服)の儀式をおこない、親政を執りはじめた。もはや呂不韋の後見にたよる歳ではない。傀儡からの自立を企図した。

 この儀式で政が都を離れたすきに乗じて、宦官嫪毐ろうあいがクーデターを画策した。しかし事前に発覚し、一味はことごとく捕えられた。この宦官はこともあろうに秦王の母である太后と密通、すでにふたりの子まで生していた。宦官と偽り、太后にとりもったのは、ほかならぬ呂不韋である。この事件に波及してかつての趙姫、いまの太后と呂不韋との醜聞が露見した。

「主謀者は車裂きにせよ。子はふたりとも殺せ。太后は旧都雍ように幽閉させていただく」

 秦王政は冷たくいいはなった。一方、呂不韋にたいしては、一命を助け、宰相の職を免じ、隠退を厳命するにとどめている。呂不韋は、黙ってこれにしたがい閑居した。 しかし一世を風靡した権勢家というものは、本人が自粛しても周りが放っておかない。封地のある河南の蟄居先にまで人が押しよせる殷賑振りである。秦王としては、無視するわけにいかなかった。書簡をしたため、さらに遠方の蜀の地への移住を重ねて命じた。

「なんじは、いかなる功労があって河南に封じられ、十万戸を食むのか。また、秦国といかなる関係があって尚父しょうほと称するのか。一城をあたえるから、一族あげて巴蜀に遷(うつ)り、そこをついの棲家とせよ」

 相手が子楚であれば、呂不韋はいいかえしたにちがいない。

「秦王になれたのは誰のおかげだ。後継者たる太子の座が転がり込んできたのはなにゆえか。わしが家産をかたむけて宮廷工作を成功させたからこそ、実現できたのではないか。ましてや三日やそこらで前王が都合よく急死する偶然が、かってにおこるとお思いか」

 あいにく黙契の相手は政ではない。歯軋りする思いだが、ここにいたって呂不韋も覚悟を決め、毒杯をあおったのである。さすがに政にむかって、「おまえは、誰の子だと思っているのか」とまでは、口にしていない。

 呂不韋失脚後、丞相には李斯が用いられた。李斯は中原統一方策を積極的に進言した。謀略工作による「六国間の離間策」である。六国に間諜スパイを放ち、黄金や玉を餌に買収・離反・デマ・暗殺・クーデターなどあらゆる陰険な手段を用いて六国の内部を撹乱した。各国間に疑心暗鬼をおこさせ、共同戦線をはらせなかった。この方策は功を奏し、李斯は客卿かくけいに任じられる。他国人の大臣である。もっとも謀略工作は、秦だけの専売特許ではない。

 ぎゃくに秦が謀略の被害にあっていた事実が発覚した。鄭国渠ていこくきょの開削である。この水利開発事業は、隣国韓の謀略であることが暴露された。たちまち秦の王室の一族や譜代の重臣に、他国人排斥の口実をあたえることになった。

 その年、「逐客令ちくかくれい」(他国人追放令)が公布された。とうぜん李斯も該当する。李斯はひっしに抗弁した。『史記・李斯列伝』に、このときの上申書の内容が記されている。

「秦がこんにちの隆盛の基を築いたのは、他国人の登用によるところが大である。繆公ぼくこう・孝公・恵王・昭王など歴代の君主は広く天下に人材を求め、他国人を受け入れたからこそ国は富み、秦は強大となった。珠玉や音楽にしても日ごろ好んで目にし耳にするのは、ほとんどが他国産である。秦国の産物にかぎられたら、夜光のへきは朝廷を飾れず、犀角さいかくや象牙の器は賞玩しょうがん物になりえない」

 秦王がとくにでた珍奇な宝物の代表として、夜光の璧と犀角や象牙の器がとりあげられている。犀角・象牙は翡翠・真珠とともに嶺南の特産品である。のちに始皇帝が嶺南を攻略する遠因となる。さらにつづく次の一節は、人口に膾炙かいしゃする名句となった。

「太山は土壌をゆずらず、ゆえによくその大をなす。河海は細流をえらばず、ゆえによくそのしんをなす」(泰山はわずかな土をも捨てないからこそ、あの高さをたもっている。黄河や海はどんなに小さな流れでも受け入れるからこそ、あれだけの水量と深さがある)。

 泰山や黄河を例にあげて、他国人を排斥すべきでないことを諄々と説き、「逐客令」の誤りを糾弾したのである。秦王政は明敏な頭脳のもち主である。「逐客令」を撤回し、李斯の位を旧に復したうえで、さらにいっそう重用した。

 李斯が秦に来たのは、荘襄王が亡くなり、秦王政が即位したばかりのころというから、前二四七年である。当時、李斯は三十三歳であったという。呂不韋が李斯を少年王の教育係として郎に推挙したのは、政を自家薬籠中のものとして自由にあやつりたかったからである。まだこどもと侮り、教育ひとつでどうにでもなると、驕った判断があった。李斯をいいふくめ、李斯もまたこの役柄に甘んじ、呂不韋の側にくみしようとした。穀物倉の鼠に納まる好機とみたからである。しかし、ことは意外な方向に展開した。三十三歳の李斯が十三歳の少年王の「めがねにかなった」のである。

 李斯の説く「性悪論」は、孤独な少年王の共感を得た。李斯が投げかけた「法家思想」は、孤立無援の政の精神的よりどころとなった。少年王政は、李斯に師事した。李斯は教師の役にはまった。呂不韋の意図に反し、李斯は政の教育に己が人生の膏血こうけつを絞ったのである。こののち李斯は、自己の「帝王術」のすべてを政に伝授する。天性の帝王である政は「帝王術」のエキスを存分に吸飲し、秦帝国のあらゆる制度にこれを応用した。


 始皇帝は秦帝国十五年のうち十二年間の皇帝であった。それ以前の二十六年間は、秦王である。秦国は、春秋時代の襄公からかぞえ約五百三十年の歴史があり、秦王政は三十二代目である。いうまでもなく始皇帝の治政は、秦国歴代の伝統に裏打ちされていた。

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