天の章 2.始皇余聞
のちに始皇帝を号する秦王
秦の遠祖の姓は嬴であるが、「趙氏は、その祖先を秦と同じくする」と、司馬遷は『史記・趙世家』の冒頭で明言している。
「帝舜は秦の先祖の
悪来の五世の子孫に
「そのむかし、伯翳(大費)は舜のために牧畜を営み、家畜が多く繁殖した。ゆえに土地をいただき、嬴姓を賜った。いまその子孫が、またわしのために馬を殖やしてくれた。わしは土地をあたえて
非子は周孝王の覚えめでたく、秦嬴を号し、嬴氏の
笑わぬ寵妃
前十一世紀、周の建国以来二百五十余年、一介の奴隷集団からスタートした秦は、将軍位にまで立身し、諸侯の附庸を脱却、みずから一国を領有するにいたったのである。
造父より六代目
叔帯の五代目が
のちに覇者となる文公は、流浪の貴公子
燕・斉・楚・秦をくわえ、ひとくちに戦国の七雄というが、そのうち旧晋だけで三国を占めたのである。三晋のうち最北に位置したのが趙国である。北方民族南下の影響を直接こうむる矢面に立っていた。じじつ近隣の遊牧民族は、騎馬射的をよくし、しばしば騎兵で趙国の辺境を侵略、趙国の正常な生産や社会生活に重大な影響をあたえていた。
その後の趙国については、すでに前節で述べた。
ときは、弱肉強食の戦国時代である。これもと同根、同姓の
始皇帝はまた、その出生においても数奇に満ちている。
ところがそれ以前、呂不韋が秦国宮廷で子楚の本国復帰工作を画策中、子楚が呂不韋の美妾をみそめ、無心したのである。
「あの
呂不韋は一瞬ためらったが、顔には出さなかった。
「お気に召したのであれば、さしあげましょう」
じつはこのとき、美妾はすでに呂不韋の子を
『史記・秦始皇本紀』には、こう記されている。
「秦の始皇帝は、秦の荘襄王(子楚)の子である。荘襄王は秦のために人質として趙の都邯鄲にいた。呂不韋の
一方、『十八史略』には、そのものずばりで指摘されている。
「妊娠していた趙姫を子楚に献上した」
生まれたのが、のちの始皇帝、趙政である。妊娠十二ケ月目であったという。薬を使って遅らせたのである。いうまでもなく、子楚にゆずって十ヵ月を超えている。
秦将白起が、趙の降兵四十万人を生き埋めにした長平の戦が終ったばかりのころで、秦趙両国の関係は最悪の状況にあった。
長平の戦の翌年、秦は邯鄲を包囲、その三年目、秦は邯鄲を急襲する。報復手段として、趙は秦の人質子楚を殺そうとした。呂不韋は金を使って趙国の守城の官吏を籠絡し、子楚を脱出させた。秦昭王の太子安国君の寵妃
秦の邯鄲包囲は三年におよんでいた。おりからの大飢饉にもかかわらず、外からの補給路はひらかれなかった。城内の食糧備蓄が底をつくと同時に、飢餓地獄は人を
前二五一年、秦の昭王が没し、安国君が孝文王となって位をついだ。皇妃は義母の華陽夫人である。子楚は太子となった。趙国は秦との講和をはかり、政母子を秦に送りかえした。政は九歳ではじめて秦へ戻された。帰国後、政は嬴政をなのる。嬴が秦の王室の姓であることはすでに述べた。政が秦の正統を認められた
ところが孝文王は、前二五〇年十月、在位わずか三日で急逝した。太子の子楚が荘襄王となり、嬴政は太子となった。前二四九年、荘襄王は約束を違えず、呂不韋を宰相とした。
その二年後、荘襄王が亡くなり、政は秦王に立てられた。十三歳である。呂不韋はまたしても後見役として宰相となり、「仲父」と尊称された。「仲父」とは父に次ぐ人、父の弟、おじを意味する。
昭王の死去(前二五一年)から秦王政の即位(前二四七年)まで、四代であしかけ五年という短さである。偶然にしてはできすぎている。奇跡としかいいようがない。
宰相呂不韋は、少年王政の強力な補佐役であった。当初政王は、この宰相の
――まず力を蓄えることだ。
政は、おのれの微力を自覚していた。幼児期の栄養不足がたたっているともいわれるが、生来の虚弱体質で、薬と医者を手放せなかった。それにくわえ、つねに周囲の大人たちの眼にさらされている。この圧迫に負け、心気までも衰えさせてはならなかった。精神の発揚に心がけた。役立つのは復讐心である。かれは過去に受けた不当な扱いにたいし、つねに報復を忘れず、心身鍛錬の励ましとした。
はたちを越えるまでは、内心を隠し、いちずに学問に没頭した。諸国の有識者を招き、師とあおいだ。口数の少ない、書物好きのおとなしい少年と、人には映った。一方で、ひたすら「帝王術」(政治学)を学んだ。『韓非子』を熟読したのはそのころである。黄老の流れをくむ刑名・法術との出会いは、青年期以降の政を時代離れした天才に育て上げた。
宰相呂不韋は、秦国の政治経済を牛耳っていた。呂不韋は秦の国力を東に向けて伸ばすことに力をつくした。秦の国力増強は、呂不韋自身の商益拡大に直結した。賓客や遊説の士を招聘し、政商あわせた天下取りを夢想した。
この時代、斉の
食客のひとりに
「人の
郷里で小役人をしていたとき、便所の鼠と穀物倉の鼠を見て、そのちがいに感ずるところがあった。便所の鼠はつねにびくびくして糞を喰らっている。一方、穀物倉の鼠は立派な倉のなかで悠々として穀物を
「便所の鼠は、おれも同じさ」
初対面で、政は李斯が気に入った。趙国で人質の子として生まれ育った少年政は、いつ襲撃されて殺されるかわからない不安と恐怖のなかで、つねにおどおどして暮らしてきた。呂不韋からのあてがい扶持の食糧もときに途絶えることがあり、なかば腐ったものを口にすることさえあった。まさに便所の鼠である。
李斯に出会う以前、孤独な少年王政が取りえた唯一の防御法は、じぶんの心を隠すことだった。心に仮面をかぶせ、表情を消すことからはじめた。人にたいし好悪の感情をあらわにしなかった。笑顔を忘れた不気味な少年だった。
その少年が、李斯のまえでは素顔をみせた。「帝王術」の講義が、政の心を開いたのである。講義のたびに、政は率直な反応を示した。政にとって、李斯は恰好の教師といえた。
はたちを越えたころから、秦王政は仮面をはずしにかかった。
学問の習得をつうじて、徐々に自信が芽生えてきたのである。人の考えつかないことを発想した。不可能を可能にすることに快感を覚えた。おのが本分を意識しはじめ、すこしずつ自己主張を表に出しはじめた。「帝王術」は、政の期待にこたえてくれた。
自己主張の手はじめは、執政権を呂不韋からとり戻すことである。
前二三八年、秦王政は二十二歳で冠礼(元服)の儀式をおこない、親政を執りはじめた。もはや呂不韋の後見にたよる歳ではない。傀儡からの自立を企図した。
この儀式で政が都を離れたすきに乗じて、
「主謀者は車裂きにせよ。子はふたりとも殺せ。太后は
秦王政は冷たくいいはなった。一方、呂不韋にたいしては、一命を助け、宰相の職を免じ、隠退を厳命するにとどめている。呂不韋は、黙ってこれにしたがい閑居した。 しかし一世を風靡した権勢家というものは、本人が自粛しても周りが放っておかない。封地のある河南の蟄居先にまで人が押しよせる殷賑振りである。秦王としては、無視するわけにいかなかった。書簡をしたため、さらに遠方の蜀の地への移住を重ねて命じた。
「なんじは、いかなる功労があって河南に封じられ、十万戸を食むのか。また、秦国といかなる関係があって
相手が子楚であれば、呂不韋はいいかえしたにちがいない。
「秦王になれたのは誰のおかげだ。後継者たる太子の座が転がり込んできたのはなにゆえか。わしが家産をかたむけて宮廷工作を成功させたからこそ、実現できたのではないか。ましてや三日やそこらで前王が都合よく急死する偶然が、かってにおこるとお思いか」
あいにく黙契の相手は政ではない。歯軋りする思いだが、ここにいたって呂不韋も覚悟を決め、毒杯をあおったのである。さすがに政にむかって、「おまえは、誰の子だと思っているのか」とまでは、口にしていない。
呂不韋失脚後、丞相には李斯が用いられた。李斯は中原統一方策を積極的に進言した。謀略工作による「六国間の離間策」である。六国に
ぎゃくに秦が謀略の被害にあっていた事実が発覚した。
その年、「
「秦がこんにちの隆盛の基を築いたのは、他国人の登用によるところが大である。
秦王がとくに
「太山は土壌をゆずらず、ゆえによくその大をなす。河海は細流をえらばず、ゆえによくその
泰山や黄河を例にあげて、他国人を排斥すべきでないことを諄々と説き、「逐客令」の誤りを糾弾したのである。秦王政は明敏な頭脳のもち主である。「逐客令」を撤回し、李斯の位を旧に復したうえで、さらにいっそう重用した。
李斯が秦に来たのは、荘襄王が亡くなり、秦王政が即位したばかりのころというから、前二四七年である。当時、李斯は三十三歳であったという。呂不韋が李斯を少年王の教育係として郎に推挙したのは、政を自家薬籠中のものとして自由にあやつりたかったからである。まだこどもと侮り、教育ひとつでどうにでもなると、驕った判断があった。李斯をいいふくめ、李斯もまたこの役柄に甘んじ、呂不韋の側に
李斯の説く「性悪論」は、孤独な少年王の共感を得た。李斯が投げかけた「法家思想」は、孤立無援の政の精神的よりどころとなった。少年王政は、李斯に師事した。李斯は教師の役にはまった。呂不韋の意図に反し、李斯は政の教育に己が人生の
始皇帝は秦帝国十五年のうち十二年間の皇帝であった。それ以前の二十六年間は、秦王である。秦国は、春秋時代の襄公からかぞえ約五百三十年の歴史があり、秦王政は三十二代目である。いうまでもなく始皇帝の治政は、秦国歴代の伝統に裏打ちされていた。
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