天の章 3.趙佗亡国


 前二二八年、将軍 王翦おうせんひきいる秦軍のまえに邯鄲が陥落し、「趙」が滅亡した。

 邯鄲は秦王政の出生地である。父 子楚が太子に立てられ、秦に帰還される九歳まで、人質の子として育った地でもある。

 政は邯鄲に凱旋した。こども時代、母やじぶんにつらくあたったり、害をあたえたりした人々を探しだし、生き埋めにした。『史記』にいう、「趙に生まれしときの母の家と仇怨あるものは、みなこれをあなにす」である。 亡くなったものは墓をあばかれた。二十三年の歳月を経て、なおあえてなす、しつような報復であった。


 この前年、韓を滅ぼした余勢を駆って、秦による趙への攻勢が本格化した。趙の都邯鄲が包囲されたのである。

 趙佗ちょうたは、まだ数えで十一歳の少年だった。

 河北省に隣接する山西五台山の学堂で、学問と武術の修行にうちこんでいた。おりしも国家危急存亡のときである。少年の身ながら敵に一矢報いんものと、学堂仲間とともに五台山を抜け出し、邯鄲めざして馬を奔らせた。邯鄲城内には、父母をはじめ一族の主だったものが詰めていた。母は無事か、父や兄に大事はないか。心が急いた。「少年のじぶんになにができるか」までは考えおよばない。ひたすら駆けた。

 五台山はいまの山西北部、大同と太原の中間あたり、忻州きんしゅう市五台県にある。五つの山峰をもち、峰はいずれも台のように平らであるところから五台山という。

 邯鄲までは直線距離で二八〇キロある。郷里の石家荘ならその約半分でつく。趙佗を乗せた馬は邯鄲をめざし、さながら空を駆けた。趙佗は歯を食いしばって両脚で馬の腹をおさえ、夢中で手綱を握りしめていた。十数名で出立したが、一騎また一騎と落伍者があいつぎ、いつのまにか趙佗はたった一騎で駆けていた。どのあたりまできているのだろうか、まわりを見渡す余裕はなかった。疲労で知覚が薄れていた。咽喉のどがからからに渇いていた。

 とつぜん馬がいななき、棒立ちになった。趙佗は空に放りあげられた。前方から槍を突き出されたらしい。転げ落ち、立とうとするところを蹴り飛ばされた。抵抗するいとまもなく、いくどとなく地上を転がされた。頭上でほこが振り下ろされた。

 ――夢だ。

 趙佗は思った。記憶が途絶えた。

 意識が戻ったとき、からだがひどく重かった。むしろ一枚で土間に寝かされていた。

 ――水がほしい。

 趙佗は起き上がろうとした。

 暗がりのなかで酒を飲んでいた男が声をかけてきた。

「気丈なものだ。いのちを拾ったな、小童こわっぱ

 ――生きていた。

 そう思った瞬間、安心からか、ふたたび深い眠りに陥っていた。

 ――いのちを拾ったのか。

 薄れてゆく意識のなかで、そのことばが印象に残った。

 男は任囂じんごうという。趙国の武将である。趙佗は矛で首を刎ねられる寸前、任囂に救われた。

 回復後、問われるままに趙佗は語った。父母や一族の安否が知りたかった。しかし任囂は首を横に振った。邯鄲はすでに落ちていた。

「秦王政が邯鄲に入城した。落人狩りがはじまっている。かつて邯鄲で生まれ育ったおり、母とじぶんに冷たくあたった、むかしの仇をしらみつぶしに捜している。見つかれば、拷問のすえ穴埋めだともっぱらの噂だ。趙佗よ、おまえの一族は王家につながる。逆恨みの対象になりかねない。生きのびたかったら、まず趙姓を捨てろ」

 少年の趙佗に選択の余地はない。いわれるまま、出自を消して任囂につきしたがった。五十人ほどの落ち武者集団が秦の検問をのがれ、その日の糧を求めて、荒野を彷徨した。

 翌年、趙の全土が制圧された。

「国が滅んだ。わしらの抵抗もこれまでだ。王翦軍に投降する。小佗(シャオトゥオ)よ、おまえはどうする。じぶんで決めてよい」

 小佗の小は、目下のものにたいする愛称である。さしずめ「ターチャン」といったところか。

 秦の趙国攻めにさいし、趙側で一方の旗頭をつとめた任囂は、一党もろとも潔く王翦の軍門に下った。投降したとはいえ悪びれることなく、従容としたさまが神妙であるとして、王翦に見出された。

 趙佗を救った偶然の出会いは、寄る辺ない趙の残党を糾合し、かなわぬまでも最後の一戦をと、死に場所を模索のさなかであった。まだ少年の趙佗は任囂につきしたがい、ともに王翦軍に投降した。

 彷徨の途次、石家荘の家郷に立ち寄った。一族のうち、邯鄲に住まいするもので隠れ戻ったものはひとりもなく、父母のゆくえを知るものはいなかった。趙佗は後事を、帰農した近親の長老に託し、任囂のあとを追った。任囂だけが頼りだった。

 戦国の末期、趙佗は秦軍に属し各地を転戦、任囂の身近で兵法と武術を肌で学んだ。任囂は学問にも造詣が深かった。戦場が趙佗の活ける修行の場となった。

「趙は、なぜ滅びたのでしょう」

 趙佗は任囂に問うたことがある。

「そうさなあ」

 あごの髭をなでながら、任囂はこたえた。

「武霊王のころ、趙の勢威は秦に匹敵した。武霊王は胡服騎射をとりいれ、北方の胡地を制圧した。その勢力で南下すれば、中原の制覇もなかば夢ではなかった。しかし武霊王は情の人で、外の攻めには強かったが、内の守りを怠った。それが趙の習い性となって、こんにちの亡国につながった」

 後継の恵文王を立てるとき非情になれず、長子の章と弟の何太子(恵文王)とのあいだに確執を残したのである。これがのちに沙丘の乱を引き起こす原因となり、みずからも包囲のなかで餓死することになった。

 包囲したのは公子成と李兌りたいで、一族の長老と腹心だったから、ふつうなら乱を治めたのちに、包囲を解いている。ふたりは乱を防ぐため、章が逃げ込んだ主父(武霊王)の宮をとりかこんだのだが、章を殺したあとも兵を引かず、かこみを解かなかった。

 主父の性格を知りつくしている。主父を解放すれば、返す刃でじぶんたちが殺される。結果、食糧を断たれた主父こと武霊王は餓死した。雀の子をとるなどして飢えをしのいでいたが、三月あまりで亡くなったという。

「亡くなる直前、最期を看取った側近が、己の腿の肉を切りとり、武霊王に食させようとした。しかし武霊王は、『われら禽獣にあらず』といって、その行為をやめさせた。『痛快トォンコヮイ』、これが臨終のことばだったという。草原を馬で駆ける夢でも見ていたものか」

 任囂ら趙の遺臣の、武霊王にたいする思い入れは深い。祖国を失ったいま、その思い入れは伝説となって美化されていた。

「情に生きるか、理に徹するか。あるいは情理を兼ねるもよし。人さまざまだが、小佗ならどちらを選ぶ」

小弟わたしは、情に生きます」

 間髪をいれず、趙佗は即答した。

「たとえ国が亡んでもか」

「小弟は国だけでなく、すでに父母も亡くしております。理において納得できるなら、あきらめるほかありません。しかし情においては、あきらめきれません。復仇を考えます」

 父母のゆくえは不明のままで、詮索するすべもない。真相は勝者の手の内にある。理不尽と思う行為があっても、糾問は許されない。泣き寝入りするほかないのである。納得できなければ、個人的に仇を討つよりない。情に生きるのは、損得勘定ではない。

「あいてはだれだ。個人の争いにせよ、やるからには勝たねばならぬ。情で勝てるか」

「あいては秦です。国があいてです。勝ってみせます」

 趙佗の目に涙が浮かんだ。

 ――まだ理屈のつうじないこども相手に、むきになりすぎた。

 任囂は後悔しかけたが、趙佗の一途さには、目をみはった。


 紀元前二二一年、秦王政は、わずか十年のあいだに韓・趙・魏・楚・燕・斉の六国を滅ぼし、中原を統一する。六国のうち最初の犠牲者は「韓」である。秦に境界を接しているうえ、六国中もっとも弱小だった。「趙」攻撃の前年のことである。

 この国に韓非かんぴという公子がいた。『韓非子かんぴし』はかれの著作である。

 青年時代の秦王政をして、「この著者に会えたら死んでも思いのこすことはない」といわせたほどの大きな影響をあたえた。

 韓非は「刑名」と「法術」の理論で知られる法家の思想家である。ひとことでいうと、「刑名」とは名実一致をさし、「法術」とは行政技術を示す。 君主は、臣下の評価にさいしては、ことば(主張)と実績をつきあわせ、言行一致の有無を重視すべきだと主張し、政治においては、国家統治の根本原則を法と賞罰においた。

 韓非は、孟子の「性善説」にたいする「性悪説」を唱えた儒学者荀子のもとで学んだ。のちに秦の宰相となる李斯は、同門である。

 政は天下統一と統一後の支配の仕組みを説く韓非の法術の書、『孤憤こふん』『五蠧ごと』をむさぼるように読み、しばしば驚嘆を口にした。ちなみに『五蠧』では、国を害する五つの虫として儒家・遊説家・侠客・側近・商工業者をあげている。のちにかれらは、秦王政(あるいは秦始皇帝)の排斥対象になる。

 韓にたいする出兵は、その韓非を秦にむかえるための挑発であった。予想にたがわず、韓はかれを和睦の使者として秦に派遣した。

「治世の要諦ようていを知りたい」

 かねて憧憬する韓非をまえに、二十七歳の政の質問は単刀直入である。

 韓非のこたえはふるっている。

「太上不知有之」(太上あるを知らず)

 君臨するものはいても、人民はその存在を知らず、名も知らない。治世の道はそこにおいてきわまる。老子のいう「無為にして化す」である。

 韓非の生年は不明だが、入秦時、四十九歳だったという説がある。すでに円熟の境地に達している。かれは一生かけて完成した「支配体制論」の集大成を、この気力の横溢した秦王政に伝授した。

「天下統一と制度変革の大事業をなしうるのは、この若者をおいてほかにいない」

 そうと見込んだ韓非の御前講義である。

 韓非はどもる癖があったが、苦にせず訥々として講じた。

「不為自成」(為さずしておのずから成る)

 政治は仕組みできまる。はじめに仕組みを作り、その仕組みにまかせれば、自然にことは為し遂げられる。仕組みとは、組織・機構・制度のことである。新しい統一国家はまず仕組みの構築からすすめるべきである。仕組みがあれば、天才でなくとも天下は治まる。

 中原統一後、矢継ぎ早に新政策を連発してゆく始皇帝の思想の根源は、韓非の理論にもとづいている。政は日ごろの冷静さを忘れ、興奮して韓非の論に聞きいった。内容は、すでに書物でおおかた読了している。砂が水を吸い込む勢いで、政は渇きを癒した。

 しかし政の韓非への私淑が度を越していたため、李斯ら秦の重臣らの危惧をまねき、結局、冤罪をもって韓非を獄死させる破目においやった。讒言したうえ、獄中にあって悲嘆にくれる韓非に毒薬をおくり、止めを刺したのは李斯である。その三年後、「韓」は滅ぶ。


「趙」滅亡の三年後、黄河から水を引き、魏都大梁(いまの開封)を水攻めにした。大梁は洪水で崩壊し、「魏」は降服した。秦の攻城将軍は王翦の子王賁おうほんである。


 さらにその翌年、秦の青年将軍李信が二十万の軍をくりだし、「楚」にあたった。李信は秦王政が見込んだ若手のホープである。しかし緒戦の勝利でゆだんし、戦局を見誤った。結果、楚の大軍に反撃され、ほうほうのていで逃げ帰った。その後、秦王の要請により、隠居中の宿将王翦の再出馬となる。王翦は秦王に李信の三倍、六十万の大軍を乞い、さらに恩賞として子孫のために美田を賜りたいとねだった。かつて政の曽祖父昭王の時代に白起はくきの例がある。戦功歴々たる大将軍といっても権勢が強まれば、君主とその側近から妬まれる。白起といえば、「戦えば勝ち、攻めれば取り、城を破り、くにくずすこと、その数知らず」と恐れられた戦国の常勝将軍である。韓・魏・楚・趙をあいてに七十数城を攻め落した。あまつさえ前二六〇年の長平の戦いで、大虐殺者の汚名を歴史に残した張本人でもある。のち、権勢を危ぶんだ昭王によって死を賜った。しかし白起亡きあとも、秦は王翦・王賁の父子、蒙驁もうごう蒙武もうぶ蒙恬もうてんの三代、そして李信と名将がつづけて輩出し、天下統一につながった。そんなかれらにしてなお「前車のくつがえるは、後車の戒め」である。王翦が反面教師としてこの白起に学んだことは、想像に難くない。王翦が指揮する秦軍六十万は、紛れもなく大軍である。逆心の疑いがあればたちまち取りあげられ、命を召される可能性は十分存在する。そこで王翦は機先を制し、みずから韜晦とうかいしてみせたのである。

「王翦もまた老いたり」

 猜疑心の強い秦王政であったが、くどくどと恩賞にこだわる王翦のまえに緊張を解き、笑って聞きとどけた。王翦は内心、冷や汗をぬぐったことである。

 この戦に趙佗は、任囂とともに参戦した。趙佗、十六歳の初陣である。いやしくも趙武霊王の末裔である。戦場を一騎駆けし、一番槍を振りかざして初戦を飾りたいと願った。


 李信が二十万の軍勢で攻めたときの戦場は、いまの河南省南部が中心だった。李信は平輿へいよ(いまの汝南)を攻め、副将の蒙恬は寝丘しんきゅう(いまの固始)を討ち、大いに楚軍を打破した。順調な展開が、将兵の心にゆるみをもたらした。快進撃に酔い、勝ちに奢った。両軍が城父(いまの宝豊)で合流したとき、指揮系統に乱れがでた。

 一方、楚軍は自国の領内でいちどは敗走させられている。祖国の防衛に命が懸かっているから、覚悟がちがう。兵をまとめ、三日三晩宿営もせず秦軍を追尾し、とつぜん秦軍のまえにあらわれた。李信軍はあわてふためき、堰を切ったように崩壊した。軍紀もあらばこそ、驚きのあまり、われさきに逃げ出したのである。


 大敗の直後である。六十万の大軍は、東に向かってゆっくりと前進した。 王翦は、函谷関についてからもなお使者を秦王のもとに遣わし、「子孫のために美田を」と、ねだること五度におよんだ。

「しつようにすぎるのではありませんか」

 軍中にも噂は立つ。若い趙佗には未練に思え、任囂に質した。

「六十万といえば一国を動かすほどの大きな軍勢だ。秦王に二心を疑われないためにも、小さな私欲をくどいほどみせつけておく。外の敵にあたるまえに、内に敵をつくらないこと。これも兵法だ」

 任囂は冷静に分析してみせた。

 王翦軍来たる。楚軍は国中の兵を集め、合戦にそなえていた。しかし王翦は、城砦を確保するや塁壁をかため、籠城の構えで一兵たりと出撃させなかった。

 糧食は十分ある。出陣の前祝いだといって、酒をふるまい、鐘太鼓を打ち鳴らし、連日、謡え踊れのどんちゃん騒ぎをくりひろげた。初陣の趙佗は、恰好の酒のつまみである。

「どこから来た、人を切ったことがあるか、女はいるか」

 問う人ごとに酒を酌みかわし、相手の自慢話や教訓めいた説教を聞かされた。

「戦場は命のやり取りをする場で、なにが起こるかわからない。いざというとき頼りになるのは、見知りの仲間だ。多くの人に見知ってもらえ」

 任囂は、戦にはやる趙佗を抑え、諭した。趙佗は憮然としながらも、人の輪のなかへはいりこみ、飲みかつ謡った。

 王翦もまた士卒のなかにくわわり、かれらの心気を大いに鼓舞した。ときに趙佗に気構えを教える機会もあった。

「兵と苦楽をともにしてこそ、心が通う。将といえども超然としていては、兵はついてこない。戦場の勝敗は総兵で決する。一騎駆けは、いわば景気づけにおこなうもので、正攻法ではない」

 数日後、王翦は任囂に、陣営の士気を問うた。

「陣中は戯れておるか」

「投石、超距に興じております」

 石投げ競技や跳躍競技に興じ、戦の開始にそなえている。いまや気力は充実し、放たれるのを待つ矢のごとき入れ込みようである。

 一方、楚軍は、秦軍が城砦にこもったままで、挑発しても応戦してこないため、すっかり拍子抜けし、兵をまとめ、東へ向かった。有利な地に大軍を布陣し、秦軍を迎え撃つ作戦である。秦軍の陣営から享楽の声が風に乗って、楚軍を見送った。最後尾が通りぬけるまでやりすごし、一刻いっときおいて、王翦は出撃の陣触れをした。秦の大軍は、満を持して進撃を開始した。 追う形になった。追うものと追われるものとでは、気力に雲泥の差が生じる。先行して迎え撃つはずの楚軍は、いまや追われる身と化し、兵卒の気は動転した。

 主決戦場は、いまの安徽省北部を流れる蘄水きすいの南である。

 楚の将軍 項燕こうえんは乱戦のなか討ち取られ、楚軍は木っ端微塵に四散した。

 趙佗は、楚との戦いでは「総軍であたれ」という王翦の教えを守り、抜駆けを戒めたため、戦功を挙げることはできなかった。

「それでいい。初陣で一騎駆けなどやったら、つぎの戦ではうしろから矢を射られる」

 任囂もまた王翦の作戦の信奉者で、

「戦は定石どおりの総力戦で決するもので、大軍であたればそれだけ将兵の損耗も少なくてすむ。よほどのことがないかぎり、不意打ちや奇襲などの奇兵を用いるべきでない」

 と、つねづね若い趙佗らを指導していた。

 翌、前二二三年、「楚」は滅亡した。ちなみに敗将項燕の一子項梁こうりょうの甥 項羽こううは、のち始皇帝亡きあとの秦を滅ぼすことになる。


 この四年前といえば、趙が滅亡した翌年である。「燕」の太子丹は、秦王暗殺の刺客として荊軻けいかを咸陽へおくった。


  風、蕭々しょうしょうとして易水寒し

  壮士、ひとたび去ってまたかえらず


『史記・刺客列伝』にある易水の別れである。

 荊軻はあわやというところまで秦王を追いつめたが、果たせなかった。秦王は燕の陰謀に激怒し、燕討伐の復仇軍を増派した。

 王翦ひきいる秦軍が易水の西に燕軍を破り、燕都 薊城けいじょうを攻略した。いまの北京である。この燕討伐戦には、趙佗は兵卒ではなく任囂配下の荷役として、王翦軍にしたがった。話は前後したが、この当時、趙佗はまだ十四歳である。初陣にはあと二、三年ほしい。輜重隊など食糧や武器の輸送をする裏方の部隊に配属され、前線に立つことはなかった。

 すべて任囂の気配りである。趙佗の初陣が二年後の楚との一戦だったことは、すでに述べた。

「戦は表だけでは動かない。裏の働きと一体となって、はじめて敵にあたることができる」

 燕王と太子丹は遼東に逃れた。燕王は丹を斬首し、秦に渡した。

 荊軻事件の五年後(楚滅亡の翌年)、王賁ひきいる秦の大軍が遼東を攻めた。燕王喜は拉致され、「燕」の亡命政権は幕を閉じた。


 残るは「斉」、一国のみである。前二二一年、王賁ひきいる秦軍が、北方の燕から逆襲し、斉都 臨淄りんしを陥れた。斉王建は生け捕られ、斉は滅亡した。

 ここに前後五百五十年におよぶ春秋戦国時代が終焉し、中原七ヶ国を結集した新たな中央集権国家、秦帝国が誕生した。秦王政、よわい三十九にしての偉業達成である。


 趙佗は任囂にしたがい、楚地で占領統治の任務についていた。任囂が情報をもたらした。

「秦王が、新たに始皇帝をなのられる」

「皇帝とは聞きなれませんが」

「徳は三皇をえ、功は五帝をおおう、と自負する命名だそうな。いずれにしても新しい時代がはじまる。心して戦わなければならぬ」

「戦は終ったのではありませんか」

「たしかに、中原の戦は終ったが、国の北と南で北胡南越といわれる異民族が台頭し、脅威となっている。遠からず両地に征伐軍が出動する。北胡は北彊の匈奴で、蒙恬将軍があたる。南越は楚地の南方、嶺南の百越だ。王翦将軍が指揮をとる。われらは王翦将軍の指揮下で、嶺南に侵攻することになる」

 北胡の地は、かつて趙の武霊王が制覇した地域である。しかし、いまはより強力な匈奴が南下し、かれらの制圧下におかれている。匈奴はさらに長城を越えて、ときに中原の地を蹂躙している。征伐軍を出動してとうぜんである。

「匈奴征伐であれば、むしろわれらのつとめでしょう」

 失地回復の戦は、趙人にこそ似つかわしい。切歯扼腕する思いで、趙佗は任囂に思いをぶつけた。

「それは無理だ。趙武霊王の末裔だと、匈奴と組んで中原を逆襲しかねない。そう思われるくらい、われら趙の遺臣は恐れられているのだ。誇っていい」

 任囂は趙佗の思いを一蹴した。自負心をもてと諭したのである。


 中原統一後まもなく、軍の再編制があった。趙佗は任囂につれられ、王翦のまえに立った。平時の王翦は、戦時とはまるでちがう。好々爺然としたおもむきで、世間話に興ずるように趙佗にたずねた。

「幾歳に相成ったか」

「はっ、十九歳にございます」

「皇帝陛下におかれては、明年より全国を巡幸される。ついては供回りのものを推挙せよとのお達しじゃ。学問の素養があり、武芸十八般に通じ、寡黙で機転の利く若者がお望みである。わしは小佗(シャオトゥオ)を推そうと思うておるが、任囂、おぬしの存念はどうじゃ」

 始皇帝の近侍に登用される機会など、めったにあるものではない。任囂は謹んで承った。

「小佗の父は、さきの戦にて行く方知れず。なれど、それがしの先代よりわが家につかえる一族同様の忠義者でございました。小佗は、苗字こそいただいておりませんが、幼少より武芸学問をおさめ、武人一般のほどきはうけてございます。義兄弟の契りを交わしておりますれば、わが弟も同じこと。それがしの命を担保と思し召し、ご推挙を賜りますようお願い申し上げます」

 趙国敗戦のおり、連累をおそれ、趙佗に国姓の趙氏を捨てさせたいきさつがある。いざとなれば、じぶんが責任をもつ。任囂はあえて趙佗の姓氏を秘匿した。

「よくぞ申した。四六時中、陛下のおそばに侍るので気苦労も並大抵ではないが、なにより命を張った栄誉あるお役目である。陛下の盾となり、影のようになっておつかえいたせ」

 王翦は、任囂に随従する趙佗の一挙一動をつぶさに実見している。

 趙佗の人となりは王翦からみても、始皇帝への推挙に異存はない。やがて趙佗は任囂に別れを告げ、始皇帝のもとで独り立ちする。

 任囂は、ひきつづき楚地にとどまり、嶺南侵攻作戦に参与する。

 このころ嶺南作戦は、すでに水面下で動きはじめていたのである。

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