天の章 4.全国巡幸


 趙佗は咸陽の宮殿で、始皇帝に初お目見えした。王翦が帯同した。

 警護は物々しかった。衣服はすべてとり替えられ、髪もていねいに結いなおされた。とうぜん武器もとりあげられている。宮中で、それとひと目でわかる、同じような年恰好の若者に出会った。私語は一切禁じられている。たがいに目配せだけで挨拶を交わし、瞬間的に相手の力量を推し量っている。どれだけの人が推挙の対象になるのかわからないが、すでにライバル意識はめばえている。

 長く待たされた。いつのまにか王翦は席をはなれ、趙佗はひとりだだっ広い控えの間で、所在なく声のかかるのを待っていた。

 やがて宦官があらわれ、うながした。無言である。趙佗は宦官のあとにしたがった。

 目見えの場も大広間だった。始皇帝は一段高い殿上に座していた。

 王翦がややはなれて対座している。宦官はさらにうしろに、趙佗をひかえさせた。

「もと趙国の出自にて、佗でございます。身分卑しきものではありますが、武芸学問、同輩中で引けを取りません。騎馬の術にすぐれ、騎射もまた百にひとつもはずしません。百越攻めの武将任囂なるものの義弟にございます。律儀でかつ無口、陛下のおめがねにかなえば幸いでございます」

 王翦の紹介にはむだがない。騎馬と聞いて、始皇帝は興味をもった。その場で近侍に即決した。もともと王翦の推挙なら、十中八九は、起用が決まっている。信頼度がちがうのである。じつは王翦の後添えは、始皇帝の公主むすめである。楚国攻めのおり、いろいろねだったが、ことのついでに三十六歳の始皇帝は、十八歳の公主を還暦の王翦に賜ったのである。親子ほども歳のちがうこの夫婦は、仲睦まじいことでも評判であった。

「佗とやら、おもてをあげい。そちの出自と、敬愛するものの名を申せ。直答をゆるす」

 始皇帝から声がかかった。あまりないことで、王翦が目配せした。

「はっ、出自はもと趙国の東垣とうえんにて、敬愛するものは、ゆくえの知れぬ父母、それと趙の武霊王にございます」

 面を伏せたまま、趙佗はこたえた。

「東垣とは、遊牧民中山国の故地なるか。父母がことは、こたびの戦によるものか。だとすればわしにもかかわりがある。武霊王と申せば北の草原に覇を称え、胡族をしたがえし英傑である。そちは騎馬に長け、騎射の上手じょうずと聞いておる。武霊王の末裔をもってみずから任じ、朕がため陰日向なくぞんぶんに働いてくれ」

 いいおくと、始皇帝は席をたった。趙佗は平伏して見送った。


 古代にあって、始皇帝ほど全国各地を実地に駆けまわった皇帝はきわめて稀である。しかも時間と競うかのように、短期間に集中している。漢の武帝もよく巡幸したが、こちらの在位期間は長い。

 始皇帝の巡幸は、中原統一の翌年にはじまり、十一年間でつごう五回におよんだ。三回目までは毎年で、二年おいて四回目、四年おいて五回目である。おまけに最後の巡幸には、十ヶ月という長期間を費やした。ほとんど玉座の温まる暇もない忙しさといっていい。


 初回の巡幸は、前二二〇年である。中原統一の翌年、秦の故地をめぐった。先祖の墓に全土統一の報告をし、父祖の地である西北地方を視察した。隴西ろうさい(隴山の西、いまの甘粛東南、渭水の上流地域)、北地ほくち(甘粛東北部、涇水上流、洛水上流地域)をめぐり、甘粛の鶏頭山から回中をまわって咸陽にかえった。北方の匈奴にたいする防備を実地に検分し、北の防衛戦略をかためたのち、南方の百越攻略作戦展開の緒についたのである。

 この年、始皇帝は馳道ちどう(御成り街道)の建設を開始している。

 道幅は五十歩、一歩は一・五五メートルだから約八〇メートルである。三丈の樹木でその外を厚く覆った。樹木は青松である。東は燕・斉(いまの北京・山東)から、南は呉・楚(江蘇・浙江・安徽・河南・湖北・湖南)まで、くまなく全土に植樹されていたという。馳道は嶺南への道に通じており、嶺南出兵にさいし、大きな役割を果たすことになる。


 第二回目は、前二一九年、北回りで旧斉楚の地を巡幸した。山東では、嶧山えきざん泰山たいざんにのぼり、石に秦の徳をたたえる銘文を刻んだ。泰山では天地の神を祭るほうぜんをおこなった。

 巡幸の行列には、一体、どれだけの車駕がならび、どれだけの人々が随行したことであろうか。もともと天下一統の一大デモンストレーションとしての顔見世が目的である。財富と軍事の圧倒的な実力を誇示して、旧六国の士民を威圧しなければならない。見るものの目をそばだたせる威風堂々の大行進を敢行してこそ意義がある。豪華な車駕をつらね、文武百官がつきしたがった。おびただしい数の兵士が鎧兜に身をつつみ、秦の象徴である黒の旌旗を雲のようにたなびかせて、ゆく道を漆黒に塗りつぶした。泰山での封禅のさいには、御駕六台、副車三十六台、近侍の郎中六百、近衛軍の戦車隊六千、それに六万の精鋭部隊が浩々こうこう蕩々とうとう(果てしない)の隊伍を組み、泰山に向かって行進した。

 その後、渤海に沿って東上し、山東半島の北岸の之罘山しふざんにのぼり、さらに南下して琅邪ろうやの山にのぼった。山にのぼると石碑をたて、天下を統一した自分の功績を彫りこませた。

 始皇帝はことのほか琅邪を気に入った。山の麓に黔首けんしゅ三万戸(十五万人)を移住させ、十二年間免税の優待措置をとって、離宮の防人とした。黔首とは民のことである。黔は黒色を表わす。むかし庶民は被り物をせず、黒髪を露出していたことから転じた語である。

 始皇帝は琅邪山からの眺望にとりわけ心を惹かれ、毎日飽かず海を眺め、滞在は三ヶ月におよんだ。徐福じょふくとの邂逅はこのときである。

 方士徐福は当時一流の航海家だったという説がある。少なくとも東海各地の海外事情を語らせれば、かれの右に出るものはいなかった。始皇帝は徐福をかたわらにおき、かれの航海体験談に耳をかたむけつつ、まだ見ぬ東海の異土に夢を馳せた。やがて始皇帝は徐福の提案をうけ、仙薬探しの船を建造させ、かれらの船出を見送ることになる。

 その後、ようやく重い腰をあげて南下し、船で長江沿いに楚の旧領土をさかのぼり、長江中流域から咸陽にもどった。ところがその途中、洞庭湖の南、湘山(湖南岳陽)で大風にあい、進退に窮してしまったのである。

「この湘山には、なんの神が祀ってあるのか」

 始皇帝の問いに同乗の博士がこたえた。

「尭帝のむすめ、つまり舜帝のきさきにございます」

 聞いて始皇帝のまなじりがつりあがった。

「尭帝のむすめがなにほどのものか。わが行く手をはばむとは、おそれを知らぬ不埒なやつ。目にものみせてくれようぞ」

 湘山に着くや、怒りにまかせ徒刑囚三千人を狩りだし、全山の樹木を伐採し、たちまち丸裸にしてしまったのである。もっとも後日談がある。このとき切りとった樹木は、嶺南征伐のさい、木造の軍船の建材に用いられたという。

南方作戦の決行は、すでに翌年(前二一八年)に迫っていた。


 始皇帝の侍臣に抜擢されたのち、第四次巡幸の途中まで、趙佗は毎回欠かさず、随行している。車駕の警護役である。始皇帝につかえる趙佗に、迷いはない。

 生国の趙は秦に滅ぼされたが、投降したのちは秦の一兵卒となり、恨みは捨てた。中原統一の先兵として、槍や刀を振るってきた。きのうの被害者が、きょうの加害者に立場をかえたのである。被侵略者が、侵略者側に立ったのである。

 中原は統一されても、まだ戦はつづいている。戦場で迷っていては生きられない。戦争は勝ったものが正義なのである。理屈ではない。だから、負ける戦は、やってはならない。

 ゆくえの分からない父母の探索と復仇は腹にしまい、ひたすら仕事にうちこんだ。もとから培った素養に使命感がくわわり、武芸や学問にみがきがかかった。ひたむきな姿勢がおもてに滲みでている。そんな趙佗が、始皇帝の眼にとまった。

「はよう子をもて。子をもてば励みになる」

 始皇帝のお声がかりである。激務の間隙をぬって、趙佗は結婚した。結婚を機会に、もとの趙氏をなのった。さいわい咎めはなかった。類似の例がいくらもあったのである。

 やがて子が生まれた。始皇帝より始の一字を賜り、趙始ちょうしとした。さらに、趙始に子が生まれたときは、「上は蘇、下は胡とするように」と、いずれも始皇帝の御子の名より一字ずつあらかじめ賜った。蘇は長子の扶蘇ふそから、胡は末子の胡亥こがいからである。

 新居は、都咸陽にかまえたが、始皇帝に随行するからには、のんきに新婚生活を楽しむ暇はない。全国巡幸のあいまに留守宅をのぞき、次の巡幸にそなえる慌しさである。

「家はできたが、お役目大事にかわりはない。わしの命は陛下におあずけしてある。いつなんどき命を召されても、決してうろたえることなく、家を守り、子を育ててくれ」

 新妻にはきついことばだが、頭のなかは巡幸の警護のことでいっぱいである。妻を娶って職務に支障をきたしたとあっては、本末転倒といわれかねない。しかし、はなから緊張を強いたのでは、新婚家庭の先行きは危うい。

 兄と頼む任囂は楚の地にあり、身動きできない。すでに嶺南作戦は水面下で発動されている。かわって王翦に嫁いだ始皇帝の公主が、緊張をうまく解きほぐしてくれた。なにくれとなく、新妻のよき話し相手になってくれたのである。

 じつはこの結婚話は、王翦からでている。僚友から「よき相手を」と頼まれ、瞬間的に趙佗の顔が脳裏に浮かんだ。王翦の後添えは始皇帝の公主である。始皇帝の肝煎りで話が決まった以上、もと配下の面倒をみるのは理のとうぜんである。


 第三回は、前二一八年の東方巡幸である。三年連続となる。洛陽から泰山方面へ、旧斉の地をまわった。この途次、河南郡陽武県の博狼沙(河南 中牟ちゅうぼう県付近)で、行列に妨害があった。韓の遺臣で、のちに劉邦の謀臣となる張良らが、皇帝の御駕に鉄槌を投げつけた狙撃事件である。

 百二十斤(約三〇キロ)の鉄槌は随伴車を損壊した。随伴車は偽装用に数台つらねてある。そのうちの一台に命中したのである。始皇帝の御駕は、轀涼車である。窓がついており、開閉により室内の温度調整ができる。ただそのときどきの気分ひとつで、始皇帝は随伴車に乗り移ることもあったし、街道の駅ごとに車駕を乗り換えるのも治安対策のひとつであった。趙佗らは行列の行進中、つねに騎馬で車駕の警護にあたっていた。

 皇帝の座す御駕に異状がないことを目で確認したあと、趙佗は鉄槌の飛んできた方角に狙いをつけ、馬を奔らせた。同僚の騎馬武者が三―四騎つづいた。幾人の徒党かわからないが、複数であることは確かである。鉄槌を投げる男と予備の鉄槌を運ぶ男の最低ふたりは必要だった。途中、谷川の付近で、急ぎ足の婦人を追い抜いた。じつは逃走中の張良だったが、「状貌は婦人好女のごとし」(形容貌なりかたちが婦人、それも美女に見紛うばかり)と、司馬遷が太鼓判を押すほどの美貌である。よもや始皇帝襲撃犯の片割れが女装したとは思えない。しかし、追い抜きざまに趙佗は、一瞥した女の表情を、とっさに見てとった。

 ――男だ。

 目を合わせた瞬間が、よみがえった。馬をかえして、いま来た道を振り向いた。同僚の騎馬が追いついた以外、そこにはだれもいなかった。

「あのときは肝を冷やした。駆け抜けた騎馬が急に止まり、振りかえろうとした。とっさに谷川の崖から飛び降りていた」

 のちに留侯張良は、苦笑いしながら陸賈りくかに述懐している。陸賈はまたそれを帰漢した南越王趙佗につたえた。二十年後のことである。

 始皇帝の身に別状はなかったが、晴天の霹靂ともいうべき不意の襲撃が、始皇帝を激怒させた。しかし大捜索網を敷いたにもかかわらず、張良らのゆくえは、ようとして知れなかった。かれらをかくまう反秦勢力が、すでに地下組織を形成していたのである。

 その後も巡幸はつづき、之罘山しふさん)にのぼり記念碑をたて、琅邪台までゆき、河北・山西を経て帰京した。琅邪台では航海からもどっていた徐福を引見し、さらに巨船の建造を指示した。全土を制覇した始皇帝の目は、次なる目標として、東は東海の一角を、南は嶺南と南海をみすえていた。この年、霊渠れいきょが完成し、嶺南侵攻作戦が発動された。


 趙佗が始皇帝の近侍となって五年目のことである。始皇帝は首都咸陽で夜間の微行中、数名の賊にとりかこまれた。始皇帝は日ごろ民意の掌握にも積極的に興味を示し、一日のノルマの執務を終えると、しばしば市中にくりだしていた。

 いわば日常的な微行である。供まわりは少数で、武器もごく簡便なものを身につけているだけである。賊は、事情を知ったうえでの狼藉であろう。蘭池のほとりまできたとき、黒布で面上を覆った一団が闇のなかを流れるように近づき、首魁らしき男が声をかけた。いまの咸陽市内東北、楊家湾のあたりである。

卒爾そつじながら、始皇帝陛下とお見受け申す。余儀なきしだいにて、お命ちょうだいつかまつる。われらが怨讐の刃を受けられよ」

 賊はすでに抜き身の武器を提げ、始皇帝一行をとりかこんでいる。脱出はできない。

趙佗をふくむ警護の武士四名は、いずれも武技に長けたものばかりである。暗黙のうちに防御の隊形を組んだ。始皇帝をなかにして前後左右をかこみ、敵襲にそなえたのである。

 趙佗は始皇帝のまえに立った。

「陛下、ご免こうむります」

小声でことわり、佩刀を抜くや一瞬のうちに、賊の太刀持つ腕を両断した。

 背後に立った武士は、敵の飛刀をからだで受けた。回転しやすいように刃が反った小刀である。スピードがあるので払ったりけたりすると、背後の始皇帝に危害がおよぶ。かれは、とっさに上体を盾にし、おのが胸で飛刀を受けたのである。

 左右の武士は一歩踏み出し、それぞれ二合三合打ち合ったが、みるまに賊を追い払った。始皇帝をなかにしている。いずれも敵の凶刃をかわすわけにはゆかず、深追いもできない。

 敵わずとみて、一味の首魁をふくむ賊の数名は逃走した。飛刀には猛毒がしこまれており、身をもって防いだ武士はまもなく息絶えた。左右の武士は打ち合いで軽い傷を負った。趙佗に腕を切られた賊はのたうちまわっていたが、尋問のあいまに舌を噛んで絶命した。

 始皇帝は怒気もあらわに、賊一味の捕縛を厳命した。

 旬日、咸陽に戒厳令が敷かれ、城門が封鎖された。しかし賊の一党はいずこに潜んだものか、ゆくえは知れなかった。この間、交通が杜絶し、首都の物価は高騰した。

始皇帝は、一身を犠牲にした武士を手厚く葬った。遺子に家門をつがせ、報償を賜った。


 翌、前二一五年の春、北の旧趙燕の地へ、四度目の巡幸である。燕のけっせき山(いまのさん海関かいかん付近)にのぼり、北の辺境地帯を通ってかえった。信認あつい廬生ろせいが仙人探しから帰還し、仙薬のかわりに神のお告げと称し、「秦を滅ぼすものは胡なり」と、奏上した。

「胡とは匈奴か」

 聞いて始皇帝は、ただちに蒙恬に出動を命じた。三十万の軍勢で胡(匈奴)を討たせ、いまの陝西北部のオルドス地域を奪取した。オルドスは内蒙古南部、北と西を黄河に、南を長城に囲まれた一郭である。のち明代に蒙古のオルドス(鄂爾多斯)部が占拠したことからこの名がある。漢字では河套とも書く。

 同時に臨洮りんとうから遼東にいたる万里の長城を完成し、匈奴の侵入にそなえた。もっとも、結果的に秦を滅ぼした「胡」とは、匈奴ではなく、始皇帝をついだ末子の胡亥こがいであった。


 嶺南侵略戦争は、すでに五十万の大軍を投入、全面戦争に移っており、嶺南各地で戦闘が展開されていた。前二一五年、南越攻略作戦の前線指揮官 屠雎としょが戦死し、その後任の現地指揮官として新たに任囂じんごうが任命された。四度目の巡幸の年である。このおり趙佗二十五歳、始皇帝のもとを離れ、任囂の陣営に馳せ参じた。始皇帝にはつごう六年間随従したことになる。以後、趙佗は任囂の副将として南越再攻略に采配をふるう。


 当時、秦はその領土が遠くベトナム中部にまで達していたと豪語したが、そのじつ秦の三十六郡中、最南端は長沙郡と九江郡の二郡であった。当時、秦の南限はいまの湖南永州・郴州ちんしゅうと江西南康までで、実勢支配は五嶺を越えていなかった。

 嶺南は五嶺の南にある。嶺南を征服するためには、五嶺を越えなければならない。

しかし、五嶺越えは難渋をきわめていた。南北の水上交通は、南嶺山脈の峻険に阻まれていたのである。水運にたより順調につないできた輜重補給線は、この地でいったん断ち切られる。五嶺越えの区間は人力にたよらざるをえず、この積替え運搬作業がことのほか難渋したのである。いかにして五嶺を抜くか。これが秦の輜重補給部隊にあたえられた喫緊の重要課題であった。この窮状を脱し、嶺南征服を貫徹するため、つぎに始皇帝がはなった絶妙の一手が、運河「霊渠れいきょ」の開削である。


 匈奴や百越との対外戦争があったため、四年のあいだ巡幸は中断された。この間、五回目の巡幸は綿密に準備され、フィナーレを華々しく彩ることになる。

 第五次巡幸は、前二一〇年におこなわれた。まず洞庭湖方面へゆき、はるか南に九疑山きゅうぎさんを望んで舜帝を祀った。さらに長江をくだっていまの南京付近から浙江に向かい、銭塘江をわたって会稽山(紹興)にのぼった。ここで禹を祀り、記念碑をたてた。

 このとき項羽が行列を見物した。『史記』中のエピソードにある。

 項羽は行列をみて、聞こえよがしにひとりごちた。

「かれ、取りて代わるべきなり」(とってかわりたいものだ)

 滅ぼされた楚一族のうらみもあったろうが、当時、二十三歳だった項羽の若さと豪胆な性格がよく表われている。

 一緒にいた叔父の項梁は、「妄言するなかれ。族せられん」(みだりなことをいうものではない。一族皆殺しにあうぞ)と、あわてて項羽の口をおさえたという。

 一方の劉邦である。賦役で咸陽に徴募されたさい、始皇帝の行列をみる機会があった。

嗟乎ああ、大丈夫、まさにかくのごとくなるべきなり」(ああ、男たるもの、このようになるべきだなあ)。

 大きくため息をついたものである。脚色もあろうが、両者の性格の対比が興をそそる。


 やがて始皇帝の一行は、会稽から呉を経て揚子江を下り、海に出た。そしてまた琅邪台へゆき、徐福を謁見した。すでに盧生は逃亡していたが、徐福は始皇帝の到着を待っていた。謁見ののち、徐福は最後の航海に出る。

 始皇帝は海岸沿いにすすみ、平原津へいげんしん(いまの山東徳県の南にあった黄河の渡し場)で病にかかり、七月、沙丘の平台で崩御した。奇しくも趙武霊王終焉の地である。享年五十歳。

 宦官の趙高が丞相李斯と結託し、始皇帝の死を秘匿した。詔勅を偽造し、長子扶蘇に死を賜った。扶蘇は疑わず自害した。末子の胡亥が二世皇帝に立った。しかし宦官趙高の傀儡にすぎなかった。

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