天の章 5.霊渠開削


 古代の秦に、三大水利事業といわれるものがある。「都江堰とこうえん」「鄭国渠ていこくきょ」そして「霊渠れいきょ」の開発プロジェクトである。

 かつて始皇帝の曽祖父にあたる昭王の時代、蜀郡太守 李冰りひょうは成都市西北六〇キロほどのところに「都江堰」とよばれる堰堤を構築し、治水灌漑を興した。当時、沫水まっすい(いまの岷江びんこう)はたびたび氾濫し、流域の人びとは被害に泣かされてきた。そこで、この川をふたつに分けて水量を調整し、災害の再発を抑えたばかりか、新たな水路による灌漑で、可耕地を飛躍的に増やしたのである。

 工事は前三〇六年から、政が九歳で秦にもどされた前二五一年まで半世紀余を費やし、李冰と李二郎の父子二代にわたって完成にこぎつけた。蜀の地が、飢饉しらずで豊饒の「天府」といわれるようになったのは、始皇帝即位のころからである。

「鄭国渠」は、韓の水工(治水技術者)鄭国がつくった灌漑用水路である。司馬遷は、この「鄭国渠」を評価して、「富強をもって、ついに諸侯をわす」、秦が天下統一をはたした原動力であると、絶賛している。

 渭水の北、涇水けいすい洛水らくすいのあいだに一五〇キロの運河を通じ、その水を灌漑に用いて約二〇〇〇平方キロの広大な不毛の土地を沃野にかえ、秦の富国強兵の弾みにしようというものである。二〇〇〇平方キロといえばいまの東京都の広さに匹敵する。実現すれば農業生産に大きく貢献できる。ところが、これが韓の謀略だったというのである。

 このような大工事がはじまれば、さしもの秦も戦争をつづけるゆとりはなくなる。隣国の韓としてはこの間にひと息つき、国内の立てなおしに注力できる。工事なかばにして、その計略が秦にもれた。しかし、鄭国はたとえ韓人かんひとであっても一流の技術者であった。死刑に処せられる直前、かれは声を振り絞って工事の続行を乞うた。

「いかにもわしは韓の回し者だ。韓は秦の国力を弱めるためにわしを送り込んだのだ。しかし、工事はあらかた完成している。結局、益を得るのは秦のほうである。できることなら、最後まで工事をみとどけてから死にたい」

 秦は死刑の執行を延期し、鄭国に工事を続行させた。やがて運河は開通し、灌漑の効果で、不毛の地は豊饒の地に一変した。その後、秦は食糧に不足することなく、中原統一の道をひた走ることになる。

 謀略の露見を契機に秦は「逐客の令」を告げ、他国人の要職登用を厳禁しようとした。しかし、その排斥対象にあげられた李斯の反論の上書によって秦王は「令」を撤回し、かえって李斯を重用したいきさつは前述した。それが天下統一のほぼ二十年まえというから、政が親政をとりはじめた前二四〇年ころのことである。


「霊渠」はまた、湘桂運河・興安運河ともいう。広西興安県域にある。この運河の下流に、灕江りこう下りで知られる景勝地・桂林がある。

淮南子えなんじ』によれば、嶺南の秦軍の糧道を通じるため、始皇帝は運河の開削工事を命じ、前二一八年に完成したとある。建造に二、三年を要したというから前二二一、二二〇年ころの着工になる。つまり中原統一の直後である。湘江と灕江をつなぎ、長江・珠江二大水系の連絡を可能とした。全長三四キロの運河である。

嶺南攻略にさいし、秦軍の南下を、南嶺山脈の峻険が阻んでいた。当初、南北の交通は五嶺を通過する山越えの陸路しかなかった。陸路の山越えは人力に頼っていたから、きわめて輸送効率が悪かった。

 秦の南方作戦における兵站部門の責任者は史禄である。史禄に運河開削の大命が下った。

 慎重な調査の結果、当時の湘江と灕江の立地と地勢は、運河開削の実現可能性ありと判断された。湖南霊陵から流れいたる湘江を、広西興安で灕江につなぐのである。

嶺北から嶺を越えて灕江にはいれば、下流の広西梧州に通じ、ふたたび西江沿いに下って番禺ばんぐう(いまの広州)まで直行できる。

 しかし嶺北の地勢は低く、嶺南の地勢は高い。水位に差があるのである。この水位差を克服し、舟航可能な運河を築造するには、よほど高度の工夫と技術が必要だった。

 はたして史禄は、古代にあって、この難問を解決した。広西側から迂回しつつ、徐々に水位を高くする工法を用いたのである。全長三四キロ、幅約一〇メートル、深さ約一・五メートルの運河の工事規模は広大である。延べ十万人の工兵・人夫を投入し、あしかけ三年後の始皇帝二十九年(前二一八年)、運河は完成した。

 霊渠の水門の幅は当初、約五・五メートルであった。これだと幅五メートル前後の船なら十分通航できる。幅と長さの比率は一対四から六とみて、最短二〇メートルの長さが可能である。積載重量は、およそ一艘あたり五百斛から六百斛、換算するといまの二〇トンから二五トンである。霊渠の完成により補給ルートが確保され、五十万の大軍による全面的南越攻略が目前に迫った。


 嶺南越えの先駆けは、「尉」の屠雎ひきいる一軍である。『淮南子・人間訓』の記載では、「屠雎は五十万の大軍をもって嶺南に侵入した」とあるが、これは疑わしい。この時期、この地にそれだけ膨大な兵力を投入する必要はまだなかったし、中原統一を目前にした秦朝にそれだけの兵力を移動する余裕はなかったからである。

もっとも秦が南越に侵攻を開始した時期については『淮南子』にも記載がない。霊渠の開通をまち、兵糧の補給線を確保したうえでの侵攻であれば前二一八年であるが、ここでは王翦とのからみから前二二三年説をとる。ただし、いわば前哨戦であり、局地戦にとどまっている。本格的侵攻はやはり前二一八年であろう。

 また『淮南子』の記述によれば、屠雎がひきいる五〇万の軍勢を「五軍にわけ、五方向から嶺南に攻め入った」とある。しかし屠雎は将官の下の一尉官にすぎない。五十万の士卒をひきいる位階にない。せいぜいそのうちの一軍数万人の兵士をひきい、前線で直接陣頭指揮したとみるのが順当である。

 王翦は、蒙恬とならぶ秦の最高位の将軍である。『史記』によれば、「楚を滅ぼしたのち、王翦はなおも楚地にとどまって」いる。史書に明確な記事はないが、始皇帝の百越征伐を奉じて、王翦は五十万の軍勢を統帥し、後方指揮にあたったものとみられる。ただし五十万の軍勢が一気に嶺南を越えたわけではない。

 六十万の大軍をもって楚地を征服した直後である。嶺南に侵攻する五十万の軍勢は、楚国攻略後、占領地の治安確保のため、域内の重要拠点に分散して集結、駐留していた征服軍の大部を包括していたとみるのが自然である。国境は、とうぜん最重要警備拠点となる。

 このうち一部の国境警備軍が南嶺山脈を越え、嶺南に侵入したものと思われる。将来の本格的侵攻にそなえた敵情視察がおもな目的である。しかし現地軍との小競りあいが、局地的な戦闘状態にひろがり、増援部隊がつぎつぎに投入された。

 ただし屠雎はこの戦闘にはまだ参加していない。中原からの新たな遠征軍を指揮して、南下の途次だったのである。

 この時期、嶺南の越人各部族の君長は、相互の連絡も協力もなく、全体の統制に欠け、各個別々に兵力を分散させていたから、すぐれた装備で一丸となって進攻する秦軍には、とうてい歯がたたなかった。前二二二年から前二二一年にかけ、秦軍は嶺南の一部地域を占領した。同時期、燕・斉が滅亡、中原の統一が達成された。しかし秦軍は予期に反し、嶺南侵入直後から現地の民の抵抗に遭い、泥沼の持久戦に引きずり込まれていた。現地側が戦になれ、勇敢な統率者のもと、組織的にゲリラ化していったのである。


 局地戦が勃発した前二二一年前後、中原より蛮地に向け出発した秦の嶺南遠征軍は、東・南両路に分かれてゆっくりと前進していた。

東路軍は長江をわたり、鄱陽湖はようこの東側、余水を経て、贛江から南下した。一方、南路軍の主力部隊は漢水から長江をまたぎ、湘江をさかのぼった。かれらが通過した南蛮地域は抵抗らしい抵抗にあわなかったが、行軍は極端にスローペースだった。

 元来その時代、江西・湖南の広大な地域は一面の未開地で、かれらの選んだ行軍ルートには、城市もなければ、村落もなく、あまつさえ人のゆく道さえもなかったのである。まれに河谷盆地で原住民の住む山洞に行き着くと、ようやく懐かしい人煙を目にすることができたという未開状況である。

 この二隊の秦軍は、川筋に沿って嶺南をめざした。道を切りひらき、橋をかけては、前進した。馳道・嶺南新道などの国道建設も任務の一部である。さらにほどよい地点には城塁を築き、そのまわりに田畑を開墾し、五穀を植えた。そして戍兵と罪人を残して屯田させた。このようにひとつひとつ、国土開発のために新たに交通路を建設し、戦場に送る食糧の生産基地を構築しつつ、一歩また一歩、蝸牛の歩みにも似た鈍重な行軍をつづけ、かれらはようよう五嶺の北の麓にたどり着いたのである。この間、ゆうに三―四年もの時間が費やされていた。

 ほどなく、湘江と灕江をつなぎ、軍事物資や糧食を輸送する霊渠が完成する。満を持してこの機を待っていた始皇帝は、嶺南百越にたいする本格的侵略戦争を発動するのである。

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