天の章 6.嶺南攻略
前二一八年、秦は総勢五十万の大軍をもって、嶺南への侵攻を開始した。
嶺北側は、五年まえに覆滅したもと楚国の領域である。国境の関所など重要拠点には治安維持のため、当時の王翦軍六十万の大部が、分散して駐留をつづけていた。嶺南侵攻軍五十万の母体は、この駐留軍を集結して再編成したものである。
ただし緒戦で、じっさいに嶺南へ侵攻した主力は八万から十万、ほとんどが新たに徴用した東・南両路の先駆け遠征部隊である。この先駆け軍が突進したあと、本隊は南から東へ五路軍に分かれ、嶺南に向かって移動、あるいは五嶺の要所に拠って駐守した。
東路の先駆け軍は、およそ三万人。陣頭指揮するのは、智将
「おおっ、これが南海か」
軍船の舳先に立って前方を食い入るように見つめていた任囂は、思わず大声を発した。ついに、大海に臨む番禺に到達したのである。
当時、西江などが合流する珠江河口の川面はきわめて広かった。いまの広州海珠区あたりはおろか、番禺・順徳・中山などの大部分は中ノ島のような状態で河口に点在していた。いわば番禺湾ともいうべき広大な湾が現出していたのである。いまでも生粋の広州人の多くは、珠江をわたることを「
『中国歴史地図集』の「戦国時期・楚越地図」によれば、当時の番禺湾は、江門から深圳まで東西に約八〇キロ、広州から
「北は峻岳に守られ、南は大海に臨む。この地は天然の要害だ」
興奮した任囂ではあるが、さすがにつぎのことばは飲み込んだ。
――独立割拠するには、絶好の地勢といえる。
北に屹立する峻岳は、白雲山である。最高峰の摩星嶺で、いま海抜三八二メートル、それほど高い山ではないが、いくつもの山の峰が群がり集まって形成されている。峰の数だけ渓谷が刻み込まれ、青山緑水の間に白雲がゆるやかにたなびいている。山名の由来である。
山域の面積は二八平方キロというから、いまの澳門の領域に匹敵する。この白雲山は遠く五嶺のひとつ、大庾嶺の支脈九連山脈につらなっている。容易に越えられる山岳ではない。難攻不落を絵に描いたような、要害の地であった。
任囂は迷わずこの地に、小さな城を築いた。中国の城は日本とちがい、周りを城壁でかこむ街区である。シティにほかならない。人びとはその城を任囂城とよんだ。これがのちの秦南海郡の郡城、番禺城である。秦代以降では、もっとも初期の広州城市となった。
任囂は番禺城を本拠とし、いまの広東一帯を面で確保することにつとめた。居住する南越族は、早々と任囂軍に投降した。
南路の先駈け部隊は、約五万人。秦の南海尉
屠雎は剛勇の武将であったが、功を急ぐあまり、拙速にことを運びすぎたきらいがある。さしたる抵抗のないまま内奥へ進撃をつづけ、目一杯、戦線を拡大してしまったのである。点と線でつないだ占領地域は、いまのベトナム北部国境付近にまでおよんだ。
迎え撃つ地元の西甌族は族全体としての正規軍をもたず、部落単位の防御兵しかいない。重装備の大軍の侵入をまえにしては、無力にひとしい。かつて小競り合いを演じた、軽装備の視察小隊とはおもむきがちがい、ゲリラ軍には手のだしようがない。沿道の集落の土着居民は山洞に逃れ、自分の山洞が侵犯されさえしなければ、あえて敵対しなかった。服従したわけではない。かれらは山洞にこもり、息をひそめて秦軍の出方をうかがっていた。
しかし南路部隊をひきいた屠雎は、いまのベトナム北部国境付近に進んだとき、たいへんな過ちを犯してしまった。かれは西甌族の大酋長
古代、四川・湖南一帯の少数民族を
「無体なことをいう。なんでわれらが、そのような命令に服さなければならぬ。聞く耳、もたぬわ」
譯朱宋は撥ねつけた。もともと部族同士の闘争経験しかもたず、秦軍の実力を知らない。それ以前に秦帝国の存在さえ理解していたかどうか疑わしい。
ほぼ百年後、漢の武帝の使者に、「漢とじぶんはどちらが大きいか」と真顔で尋ねたという「夜郎自大」の故事を思いあわせれば、理解が早い。
「ほう、たいした度胸だ。ならば命で払ってもらおう」
屠雎は配下のものに目配せした。譯朱宋をその場で捕えて斬殺し、つれだってきた西甌族人を追いだすまえに、次の布令を申しわたしたのである。
「
まさに侵略を絵に描いたような横暴な態度といっていい。説得をはなから困難とみた屠雎は、譯朱宋を叛逆者と一方的にきめつけ、斬殺死体を市中にさらしたのである。西甌族人にたいする見せしめである。こうすればかれらは恐れて、黙っていても服従するだろうとの傲慢な思惑があった。屠雎は戦場生活が長く、神経が荒れていた。戦果をあせったこともあるが、説得という面倒な手続きを省いたにすぎない。明らかな手抜きである。目的のためなら多少のことは許される、戦争の延長線上で占領政策をごり押ししようとした。
ところが、この一件は屠雎の思惑どおりには運ばなかった。かえって西甌族人の反発に火をつけた。かれらは恐れるどころか、ひらきなおった。
「大酋長が秦の隊長にいいがかりをつけられ、だまし討ちにされた。大酋長に罪はない。いったいわれわれがなにをしたというのだ。悪辣なのは秦のほうだ。このまま黙っていれば、根こそぎ秦に奪われる。立ち上がれ。奪われるまえに、やつらを叩き出すのだ」
かれらは怒りの赴くままに、反抗の態度を剥き出しにした。女こどもさえもがこうぜんと、侵略軍の悪行をなじった。
各地の部落ごとに分散してまとまりを欠いていた西甌族が、一体となって立ち向かったのである。憤激した各部の酋長が、連合して屠雎の部隊を包囲した。本隊を離れた小隊はたちまち叩き潰され、武器や食料を奪われた。
当初、無関心をよそおい無抵抗でいた西甌族人に、本来の野生魂が蘇ったかのような変化である。山洞から這い出た人びとは、竹槍や棍棒を手にし、ぞろぞろと市街の広場に向かった。無名のアジテータが群衆を指嗾した。密集した西甌族人は、天に向かって拳を突きだし絶叫し、一丸となって屠雎の本隊を襲撃した。
きのうまでは、ただのおとなしい良民だった。それが一夜で、猛々しい反逆者に変貌した。侵略者にたいする怒りと憎しみが、理性と恐怖心を追いやった。凄まじい武力衝突が、各地に拡大した。勢いに飲み込まれた秦軍は、なすすべなくずるずると後退した。増援部隊が到着し、全滅こそ免れたが、明らかな敗退だった。
譯朱宋だまし討ちの発端となった賦税の強要にみられるように、屠雎以下の秦軍の将官たちは緒戦の快進撃に惑わされ、対応を誤った。かれらは中原の「
秦軍の制圧下、一方的な占領につよい不満をもつものは、山中に潜んで、抵抗活動を組織した。リーダーは譯朱宋の一族で、酋長をついだ
史書には、「倒れ伏す流血の死体があたり一面に散乱した」とある。引くも攻めるもここまで、というプロの手加減を知らない
譯吁宋のゲリラ軍は、たびたび秦軍を撹乱した。秦軍の精鋭部隊が越人部落に報復攻撃すると、越人は命がけで叢林に逃れた。
「禽獣とともに暮らしても、秦の俘虜にはなるな。捕まると身ぐるみ剥がされ、奴隷にされて北に連れてゆかれるぞ」
逃れた越人は武器を手にしゲリラとなって、ふたたび秦軍を逆襲した。勇猛なリーダーにひきいられた西甌族は秦軍を密林に誘い、方向を見失った敵方を集団で包囲し、恨みを込めて屠り殺した。際限のない殺し合いが、人を野獣にかえた。
武器と兵数で圧倒する秦軍であったが、神出鬼没のゲリラ軍に翻弄され、勢力を分散されたうえで奇襲された。平原の戦闘では一歩も引けをとらない秦の古参兵もかってがちがった。進むに進めず、引くに引けない膠着した戦局がつづいた。戦いは三年におよんだ。
上流で豪雨がつづいていた。十日もたつと中流域でも河が氾濫し、洪水が畑を覆い、道路を水で隠した。降りはじめのころ、西甌族ゲリラの根拠地征討のため、山奥まで踏み込んでいた屠雎の本隊五千の兵卒は捜索を打ち切り、部隊を分散して引き返していた。
春先である。気温はまだそれほど上がっていなかったが湿度が高く、ほとんど飽和状態に達していた。秦軍の兵卒は滝のように流れる汗と、おりからの雨になぶられ、全身水浸しになっていた。さながら水中を行軍している態で、のろのろと前進した。やがて目も開けていられないほどの激しい雨になり、となりのひと声さえ聴きとれなくなった。かれらは大木を見つけると、隊列を乱して木の下に群がった。あたかも烏合の集団と化していた。
抗秦ゲリラ軍のリーダー譯吁宋は、この機会を狙っていた。あたえられた厳しい自然条件は同じでも、北からの侵略者にくらべ、現地に生まれ育ったかれらは、環境適応能力をもっている。同じ道を歩いても滑って転ぶことはまれで、巧みに雨をしのぎながら近づき、秦軍の背後にまわったのである。最後尾の兵士から順に犠牲になった。激しい雨音は、撲殺の衝撃音を消してくれた。断末魔の悲鳴が、ようやく屠雎の耳に達したころには、あたり一面が夜の
「首を取れえ」
槍を振いながら、譯吁宋が怒鳴った。ゲリラ戦士は夢中で屠雎の首級を掻き切った。敵味方の見分けも困難な暗闇のなかで、両軍の兵卒は武器をぶつけあった。
払暁、ゲリラ軍の大半が根拠地に引きあげても、譯吁宋は帰らなかった。日が昇るころ、這うように戻ってきたゲリラのひとりが、譯吁宋の最期を告げた。ゲリラ軍の山塞に号泣がこだました。ときならぬ春雷が呼応し、広西の原野は雷の閃光で引き裂かれた。
ゲリラ軍は西甌族人の礼にしたがい譯吁宋を弔い、霊前に屠雎の首級を供えた。
西甌族はこの対秦抵抗戦の渦中で、勇猛果断な首領を失った。しかし、その後の戦闘で逞しいリーダーが入れかわりあらわれ、巧みな指揮をとったから、勢力が衰えることはなかった。秦軍が追撃に倦み疲れたころあいに、防御のすきをついて、しつように反撃した。ゲリラ的戦闘は止むことなく、断続的につづけられたのである。
当初、予想だにしなかった、果てしない消耗戦であった。多くの軍民が犠牲となって、戦場に死体が散乱した。秦越双方の死傷者のからだから出たおびただしい流血が、嶺南の山野を朱に染めた。放置された遺骸が、野生の禽獣や野生にかえった家畜・家禽に喰い散らかされ、戦場は酸鼻をきわめた。
孤立した村落はなお悲惨だった。食糧の蓄えが底をついたのである。飢えた人びとは、野獣の目でたがいに獲物を物色しあった。この世の地獄が現出した。弱者から順に犠牲になった。「易子而食、析骨而炊」(子を
屠雎の戦死が伝えられると、侵略軍は驚愕し、城門をかたく閉じ、首を
この不吉な戦況が咸陽にもたらされたとき、まさに始皇帝は第四次巡幸の帰途にあった。朝廷は、遠征軍東路の指揮官任囂を南海郡尉に任命し、事態の収拾にあたらせた。
任囂は副官に趙佗の起用を打診し、認められた。趙佗は始皇帝のもとを離れ、二万の増援軍をひきつれ戦場に馳せ参じた。ときに趙佗二十五歳、気力の充溢した青年に成長していた。嶺北側に戻っていた任囂が出迎え、ねぎらいのことばをかけた。
「ようまいった。息災であったか」
「はっ」
趙佗は
祖国の滅亡で寄る辺を失い、危うく命を落しかけた少年を救ってくれたのが、ほかならぬこの任囂である。その後、任囂にしたがい各地を転戦した。戦場での実戦をつうじて、学んだものは大きい。成長期の趙佗を育んだ多くは、その過程で培われたといっても過言でない。始皇帝のもとで得たことも貴重だが、それとて任囂あったればこそである。
「このいくさ、かんたんには終らぬ。じっくり腰を落ち着けてもらうことになるが、こころしてくれ」
「もとよりその覚悟にて、
――この人のもとで、生涯を賭けるに
かつて趙の武霊王を憧憬し、つぎに秦の始皇帝に命をあずけてきた趙佗が、いま任囂のもとで生涯を賭けようとしている。趙佗の決意は、任囂に伝わった。
「分かっている」
任囂は力強く趙佗の肩をつかんだ。
六年の空白は一気に消し飛んだ。両者の呼吸は、
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