地の章 10.秦漢興亡
始皇帝崩御の翌年、前二〇九年七月、陳勝と呉広が中原で叛旗をひるがえした。秦末の農民大一揆である。広範な農民が一揆に加担した。
陳勝は、「
かれらは徴発をうけ漁陽(いまの北京密雲県)まで送られる途中、大沢郷(いまの安徽宿県)というところで豪雨に遭い、足止めを食らってしまった。このままでは期限までに目的地へ着くことは不可能である。秦の厳法では死刑が待っている。
「このまま行っても殺される。逃げてもいずれは捕まり殺される。どうせ殺されるなら、いっそ謀叛をおこし、思いっきりあばれてやろうではないか」
「ああ、おれもそう思っていた。やろうぜ」
陳勝の誘いに呉広がのった。かれらは秦の引率将官を血祭りにあげ、気炎をはいた。
「王侯将相いずくんぞ種あらんや」(王も諸侯も将軍も大臣も、みんな同じ人間だ。おれたちだってなろうと思えば、王侯将相になれるのだ)。アジテーションの歴史的名句である。徴用された九百人の農民は熱狂した。拳を振るって足を踏み鳴らし、感涙にむせんだ。
かれらは大沢郷を手はじめに、
決起のはじめ、かれらは嶺南をめざしたという。いわば逃散同然のにわか軍団である。逃げの一手で嶺南まで、ともかく駆け抜けようとしたのである。まさか秦軍に勝てるとは、夢にも思ってみなかった。それが案に相違して、秦の治所はあっけなく陥落した。かれらのなかで眠っていた野望が、鎌首をもたげはじめた。一揆軍は国を建てた。「張楚」という。楚国を張りひろげるの意である。陳勝は王位にのぼり、呉広には「仮王」(臨時の王)の号をあたえた。ときの勢いがかれらに味方した。
これ以後、各地でわれさきに農民が土地を捨てて、一揆軍に身を投じた。農地は雑草に覆われ、家畜は野生にかえった。
項梁・項羽の叔父甥は、もともと楚の貴族の末裔である。難を逃れ呉(いまの蘇州)に潜んでいたが、秦の会稽郡主を殺害し、陳勝に呼応した。
ほかに英布(
中原一帯で、もとの六国の人民による反秦の大暴動がいたるところで勃発していた。機に乗じて、もとの六国もつぎつぎに復活した。
陳勝・呉広は秦との戦闘の過程で、内紛あるいは寝返りがもとで殺された。終りをまっとうすることはできなかったが、農民蜂起の魁として、中国では高い評価をえている。
十余万に膨れあがった叛秦軍は、項梁のもとに集約された。劉邦もこれに身をよせ、
一方、秦の鎮圧部隊も黙視していたわけではない。秦の将軍
項羽軍の決死を覚悟した勢いは強く、秦軍を逆包囲した。
章邯ひきいる秦の大軍が
九度にわたる大激戦で秦軍を蹴散らし、項羽の勇名は天下にとどろいた。章邯は敗走し、のちに敗残兵二十万とともに項羽の軍門に降る。項羽軍は総勢六、七十万の巨大な軍勢となって西の方、咸陽をめざした。関中入り一番乗りがかかっていたのである。新安まできたとき、降服兵二十万に不穏な動きがみられた。項羽は英布に命じて夜襲をかけ、この二十万の兵をことごとく穴埋めにして屠った。
項羽にはかつて河南の襄城攻めのおり、秦軍の降服兵数千人をやはり穴埋めにして殺した前科があった。生かしておけば飯を食う。
一方、劉邦である。項羽が手間取るこの機に乗じ、劉邦ひきいる一軍が黄河の南岸沿いに、秦の首都咸陽に向かってひた走っていた。結果、劉邦が関中一番乗りを果たしたのである。勝者には、関中王の座がかかっていた。
二世皇帝胡亥は宦官趙高の命によりすでに殺され、三世の帝位は甥の
秦の宮殿のなかには、重宝・財物が山と積まれ、あまたの美女が新来の支配者に流し目をくれたが、劉邦はそしらぬ態で、府庫に封印し、後宮に衛視を配備した。そのじつ裏では、舌なめずりするほど好色な劉邦を、樊噲・張良が必死に諌めていたのである。劉邦は生唾を飲み込み、内心恨めしげに宮殿をあとにした。
関中は飢えていた。遠からず餓死する寸前まで追いつめられていた。そのうえ厳法が人びとを拘束し、家族や隣人を思いやるゆとりを奪っていた。かれらは死生のはざまで、新たな支配者の言動に耳をそばだて、目を凝らした。ことと次第によっては、一揆、打壊し、あるいは逃散も辞さない構えであった。
劉邦は諸県の長老や有識者をあつめ宣言した。威圧的でなく、飄々とした口調である。
「父老たちよ、暴秦の酷法によく耐え忍んだ。われらは秦の悪法を憎むものである。これより秦の法はすべて廃棄する。かわって、つぎの三法をのみ制定する。人を殺したものは死刑。人を傷つけたもの、盗みをしたものは相応の刑に処する。これだけだ」
「法三章」である。劉邦は食糧庫を開放し、住民の歓呼の声にこたえた。各地の父老がこぞって関中王就任を懇請した。
劉邦に遅れること一ヶ月、項羽はようやく函谷関に達した。劉邦の軍が関を閉ざし、入関を拒んだ。
項羽軍は実数四十万。百万の大軍と豪語し、始皇帝陵北側の鴻門に陣を張った。むかえる劉邦軍は実数十万。二十万と誇張したが、戦えばとうてい項羽の敵ではない。
項羽に讒言するものがいた。曰く、劉邦は項羽をさしおいて関中王をなのり、咸陽の財宝と美女を独り占めしたと。これが項羽の怒りに火をつけた。項羽にとっては、劉邦の軍勢など物の数ではない。
「一気に叩き潰してやる」
明後日の朝、総攻撃すると陣触れした。兵士はどっと湧いた。項羽軍は略奪暴行、勝手次第である。咸陽の富貴は天下にきこえ、宮廷には全国から集められたとびきりの美女が待っている。
「あさっては
興奮した兵士が酒に酔い、あちこちで口論や喧嘩がはじまった。篝火が夜を徹して燃えさかった。
項羽のいとこにあたる項伯が、項羽の攻撃計画をひそかに張良に告げた。項伯はかつて張良に救われた恩義がある。張良はこれを劉邦に知らせた。聞いて劉邦は血の気を失い、その場から逃げ出そうとした。これにはさすがの張良も驚いたが腕を抑え、うろたえる劉邦を説得にかかった。戦を避けるには、とにかく弁明あるのみである。ひたすら哀願し、項羽の怒りを解くしかない。張良は和議を申し出ることにした。項伯がなかをとりもった。
この会合が「
総攻撃の前日の朝、劉邦は張良・樊噲らわずかに百余騎の手勢をひきい、項羽が布陣する鴻門に、汗だくになって駆けつけた。項羽のまえに這いつくばると、必死になって言い訳した。傍目を気になどしていられない。命がかかっていた。劉邦は哀れなほど卑屈に命乞いをした。声はふるえ、ともすれば涙でかすれた。
「関中入りは大王(項羽)のために先駆けしたものでございます。関を閉じたのは治安を維持するため。大王にお渡しするために宮廷の府庫は封印し、宮女には一切手を触れておりません。すべては大王の
はなから叩き潰す意気込みだった項羽の気勢が、一気にそがれた。項羽は、強敵にたいしては猛虎の牙をむきだしにするが、弱者にはからきし甘い。劉邦にたいする敵意は、潮の引くように消え失せた。となりで項羽の謀臣・亜父
酒宴がはじまった。項羽は東面し、劉邦は北面した。向かい合う形で范増が南面した。范増は項羽陣営のナンバーツーである。亜父とよばれ一目おかれていた。このころすでに七十を越えていたが、項羽の天下取りに老いの一徹をかけていた。
范増は項羽の最大のライバルは劉邦だと信じ、この場で一気に片をつけようとした。かれは項羽のいとこの項荘に剣舞を命じた。隙をみて劉邦に切りつけるよういいふくめてある。項荘は一剣を抜き放ち、舞いはじめた。これと察した項伯がすかさず席をたち、剣を抜いて項荘のまえに立ちはだかり、これも舞った。丁々発止の
張良は宴席をぬけ、樊噲を招きよせ、劉邦の救出を託した。樊噲は剣を帯び、盾を手にして、さえぎる衛士をはじき飛ばし、宴席に進んだ。頭髪を逆立て、
「そのほう何者か」
項羽は剣に手をかけ、身構えてただした。
「沛公の参乗で樊噲ともうします」
劉邦の車の陪乗者だと、張良が説明した。
「壮士である。杯をとらす」
ひと目で、項羽は気に入った。樊噲は立ったまま、大杯を一気に飲みほした。
「肉をとらせよ」
生の豚肉がひとかたまり与えられた。樊噲は盾を地に伏せ、その上に生肉をおき、剣をふるって肉を切り、たちまち平らげた。
「壮士なり。よくまた飲まんか」
まだ飲めるかと項羽が問うと、樊噲は吼えるようにこたえた。
「臣はいま死さえ避けようとはいたしません。なんで一杯の酒を辞退いたしましょう」
――斗酒なお辞せず
と開き直り、反駁したのである。一斗はいまの一升にあたる。
「そもそも秦王は虎狼の心で、殺人・刑罰をおこなうこと限りなく、そのため天下はみな秦に叛いたのです。大王はその秦王につづくおつもりか。秦を破り、咸陽一番乗りを果たしたものが関中王となる、これがかつての盟約だったはず。にもかかわらず、いま沛公は咸陽に入りましたが、いささかもわがものにしようという気はありません。みな項羽大王のおいでを待ってなしたること。しかるに小人の言説に惑わされ、かく功労に誅罰を下さんとするは、かえって大王の
ふだん武骨で寡黙な樊噲が、堂々の言辞を吐露したのである。満場
「まあ、すわれ」
項羽が沈黙を破った。座がざわめいたすきに劉邦は抜け出し、そのまま遁走した。
張良は献上の品を恭しく差し出した。項羽には
「
――ああ、こんな青二才とはいっしょにやれんわい。天下はかならず劉邦のものになる。
范増が吐きすてるようにいった豎子(小僧・青二才)とは、表向きは劉邦刺殺に失敗した項荘をさしているが、暗に項羽を非難しているのはだれの目にも明らかである。項羽はしだいに范増を疎ましく思うようになる。
咸陽に入った項羽は、城内を血と炎で
のちに北宋のとき、唐宋八大家のひとり
鴻門の玉斗
十万の降兵
咸陽の宮殿
覇業すでに
鴻門の会で劉邦を逃がし、范増は無念の形相で献上された玉杯を粉ごなに砕いた。項羽は投降した秦の兵卒十万人を夜陰にまぎれて皆殺しにした。掠奪のあと、火を放たれた咸陽の宮殿は、三ヶ月にわたって燃えつづけた。秦の始皇帝も項羽も、しょせん覇者のなした事業はもろく、とうの昔に咸陽宮の煙とともに滅びてしまった。
項羽は西楚覇王と号し、劉邦が封印した財宝と宮女をすべて没収して、東へ凱旋しようとした。このとき項羽に進言するものがいた。
「関中は山河によって阻まれた四方要塞の地で、しかも豊饒肥沃の楽土です。ここに都をおけば、天下に覇をとなえるのは、いと易きことでありましょう」
しかし破壊・掠奪のかぎりをつくした項羽の目には、咸陽はもはや焦土と化した廃墟としかうつらなかった。
「富貴にして故郷に帰らざるは、錦を着て夜行くがごとし」
望郷の念が項羽自身、そして楚の兵たちに募っていた。この成功、富貴を故郷の人びとに誇りたい、邪気のない項羽の一念である。
ある遊説家が聞こえよがしに揶揄した。
「世間では、楚人は沐猴にして冠するのみ(大猿が冠をつけているだけ)というが、まさにそのとおりだ」
伝え聞いた項羽は、この遊説家をたちまち煮殺してしまった。
楚漢の争いは、秦の滅んだこの年(前二〇六年)にはじまり、前後五年におよぶ。
項羽の論功行賞が発令された。咸陽一番乗りを果たした劉邦を、盟約どおりに関中王とするのは、さすがに危惧された。「巴・蜀もまた関中の地なり」と強引にこじつけ、「巴・蜀」の地に封じ込めた。牽強付会のきわみである。
「関中」といえばいまの陝西省をさす。東に函谷関・西に隴関・南に武関・北に蕭関があって四方をかこまれているので、文字通り「関中」という。さらにわかりやすくいえば「巴」はいまの直轄市重慶で、「蜀」はいまの四川である。かろうじて陝西省西南部に位置する漢中だけが、基準を満たしていた。ちなみに、都をおいた南鄭は漢中に位置する。
項羽は劉邦を「巴・蜀・漢中」に、封じ込めた。しかし劉邦は、唯々諾々としてこれにしたがった。漢王を拝受したのである。いうまでもなく漢王朝の名は、これに由来する。本来の「関中」は
漢中と長安を南北に配し、これをさえぎるように秦嶺山脈が東西に奔っている。西は甘粛・青海の辺境から、東は河南中部まで、大陸のど真ん中を刺しつらぬいている。最高峰は太白山、海抜三七六七メートルである。
秦嶺をはさんだ南北はまったくの別天地であった。劉邦軍―漢軍は秦の
しかし、その年のうちに漢軍は逆襲に転ずる。桟道を掛けなおし、関中を席捲、東に向かった。軍列に才将韓信がくわわっていた。
元来、劉邦のいくさ下手は定評があり、戦えば負ける体たらくのなか、そのつど部下の諸将に助けられ、からくも命脈を保ってきた経緯がある。逃げ上手にも年季が入っていた。
大勝したはずがあっという間に逆転され、気がつけば数十騎で逃走していたとか、ときには敗走の途中、逃走に不利というのでわが子を馬車から蹴落すということさえあった。この蹴落された子がのちに漢の二代目皇帝となる。また妻や父を捕虜にとられたこともある。このとき父太公のもらいうけに派遣されたのが雄弁家
やがて楚・漢は勝敗を分けつつ、天下二分の盟約を成立させ休戦した。楚軍は兵を引き、東に帰った。漢軍も西に引き返そうとした。このとき張良と陳平が劉邦ににじみより、乾坤一擲の決断を迫った。
「漢、天下の大半をたもち、而して諸侯みなこれに付く。楚、兵つかれ食尽く。これ天、楚を亡ぼすのときなり」
――天命である。いま撃たずしてどうする。
「盟約を破棄して項羽を追撃せよ」と進言したのである。劉邦は無言で顎をしゃくった。
前二〇二年、三十万の大軍をひきいた韓信ら諸侯の加勢をえて、劉邦は項羽麾下の楚軍十万を
力は山を抜き、気は世を
とき利あらず、
騅逝かざるを、いかんせん
虞や虞や、なんじをいかんせん
舞い終わるや虞美人は、舞った剣で喉を刺し自害した。血潮が数滴、大地を染めた。
虞美人をかき抱いた項羽は、涙を流して咆哮した。
死に場所を求め、項羽は騎乗し、包囲網を突破した。江東の壮士八百余騎がこれにしたがった。漢軍五千騎が追尾した。死闘のすえ、配下は二十八騎を残すのみとなった。揚子江岸の
「戦に敗れたは、天のわれを亡ぼすなり。われの非力にあらざるなり。ことここにいたり、なんの面目あって、郷里の父老に顔向けできようか」
項羽は助けの渡し舟をことわり、みずからの首を刎ねた。取り巻いていた軍兵がここぞとばかり屍体に群がり、とりあいになった。屍体は千切れて五つに分断された。 屍体の一部を手にした五人は、恩賞を分けあった。
最期まで項羽にしたがった江南の烈士二十八人も、すべて斬り死にした。項羽の愛馬騅だけが、漢兵の追跡を逃れ、渡し舟で静かに戦場をあとにしていた。
翌年の春、虞美人が自害した地に可憐な花が咲いた。白・紅・紫、美しい色で殺伐な古戦場を彩った。人々は虞美人草と呼び、彼女の死を悼んだ。
別名、「ひなげし」である。
前二〇二年、漢王劉邦は皇帝の位についた。このとき劉邦四十六歳。はじめ洛陽に都したが、同年六月、関中の地、のちの長安に遷都した。陳勝・呉広の決起から、七年の歳月が流れていた。
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