地の章 9.巨星墜つ


 秦は嶺南に南海・桂林・象郡の三郡を設置したのち、始皇帝の構想を骨子として、本格的な嶺南経略に着手した。中原から大量の開拓民を組織的に送り込んだのである。

 秦朝は当初、高圧的手段で下層民衆を南越へ強制移住させようとした。しかし中原からみれば、南越は南方の地の果てである。つねに灼熱の太陽が頭上にあり、大地は真っ赤に焼けついている。秦の守備兵は風土になれず、生水にあたり食事をもどす。 従卒で辺境に病臥するもの、運搬人夫で路上に昏倒するものあとを絶たず、といった風聞がまことしやかに流布されていた。人びとにとって、南方役務は、刑場にひかれることを意味した。呼び出しがあろうものなら、かれらは血の気を失い、口から泡を吹いて卒倒した。

 当時の嶺南は、中原人には辺鄙な未開の地である。荒れ果てた瘴癘しょうれいの地にみえた。多くの人が嶺南行きを忌避した。ちなみに「瘴癘」とは、「山や湿地にわきおこる悪性ガスのために発する熱病や皮膚病のたぐいで、マラリア熱に代表される業病」(『大辞林』)である。嶺南送りは、死刑の宣告にひとしかった。そこで、組織的な大型移民はまず、犯罪者の流刑地送りとしてスタートした。

 官職者で告発されることを「謫戍たくじゅ」といった。罪によって辺境の軍役に送られるのは「流謫るたく」である。はじめは罪を犯した官吏が「謫戍」の対象だったが、のちに「逃亡者・奴隷・入り婿・賈人こじんら」(『史記・秦始皇本紀』)もくわえられた。ここでいう賈人とは、商人の総称であるが、かつて商賈の籍にあった人、父母はおろか祖父母が商賈の籍にあったというだけの子や孫までもが、その対象とされた。秦朝は、人民を五等級、すなわち士農工商賈に分けたが、行商人を「商」とし、店舗をかまえたものを「賈」とした。「賈」を最下等においたのである。 入り婿というのは、家が貧しいあまり男の子を、他家へ養子に出したものを罪にしたのである。

 前二一四年、第一次移民団が結成された。かつて逃亡罪を犯したもの・奴隷・入り婿・賈人らを徴発して軍に随行させ、「陸梁の地」を占領したのち、南海・桂林・象三郡の守備と土地の開墾、やがては町の開発に従事させた。

「陸梁の地」とは、嶺南地域の異称である。『史記・秦始皇本紀』中の一節に、「嶺南の人、多く山陸にあり、その性強梁、ゆえに陸梁という」とある。五嶺以南の人びとが自然条件のきびしい山地に多く居住し、性格が強悍であったため、陸梁とよばれ恐れられたのである。移民者はその地に居つき、みずから現地化すると同時に、現地の中原化に後半生を捧げた。資金を懐にした賈人は、さっそく現地で商いに手を染めはじめる。

 ついで前二一三年、獄吏にして不正をはたらいたものを長城建設、あるいは南越の地へ流刑に処した。

 さらにその翌年、前二一二年、辺境の守りのために、より「謫戍」を増強した。いずれも『史記・秦始皇本紀』に記されている。

 その後、具体的な実施時期は不明であるが、嶺南を守護する竜川県令趙佗の上書が始皇帝の目にとまり、駐留軍兵士の嫁として、一万五千人の未婚の女性が嶺南に送られた。

 嶺南地域の最高指揮官は任囂であるが、この提案は趙佗が皇帝へ直接上書したものである。この時期、趙佗はすでに嶺南において任囂に次ぐ威望をかちえていた。また進行中の移民政策は始皇帝から一定の評価をあたえられていた。しかし相手はかの始皇帝である。一見、いかにも無謀な要求にもうつる。当初は、任囂でさえ危ぶんだ。勘気をこうむり、趙佗が罷免されたら、嶺南経略が頓挫する。

「自粛せよ」

 上書の再考をうながしたが、めずらしく趙佗はを張った。

「おことばですが、こればかりは、なんとしてもやり遂げたく思います」

 最後には任囂も趙佗の意をくみ、折れたのである。

 嶺南に新秩序を確立するため、任囂・趙佗はともに大掛りな開発啓蒙工作をおこなっていた。当時、嶺南を攻略した秦軍の将士は、長期間、嶺南の域外に待機し、出撃にそなえていた。出陣はいつ発令されるか予断を許さない。毎日が緊張の連続であった。それが敵地制圧を果たし、極度の緊張状態からは解放されたものの、目的を失った人心はうつろとなり、殺伐とした空気が流れはじめていた。

 趙佗は駐留軍が、占領地で掠奪・暴行などの狼藉をはたらくことなく、身を入れて安心して住み着ける環境構築に意を注いでいた。その対策のひとつが、始皇帝にたいする、

「夫や嫁ぎ先のないむすめを三万人、士卒の衣を繕うために、嶺南へ寄越してはもらえないでしょうか」

 という陳情である。とうとつな願いをうけ、始皇帝は苦笑した。

「あやつ、にのりおって」

 かつて周囲にはみせたことのない慈顔をのぞかせたのである。そこには愛弟子の成長を喜ぶ、師父のおもむきさえ漂っていた。しかし、竹簡の「三万」の文字はばっさりと墨で消し、朱筆で鮮やかに「一万五千」と書きあらためた。要求した人数は半減されたが、それでも一万五千人の女子を嶺南へ嫁がせたのである。しかも始皇帝の肝煎りである。

 かくて嶺南に一万五千戸のささやかな新婚家庭が誕生した。あぶれたその他大勢の秦軍将士は、地元の越人むすめを見初めて通婚し、子孫をもうけた。遣戍けんじゅをうけて中原から嶺南へやってきた「罪人」は、数十万におよんでいたが、かれらも規制はうけなかった。

 嶺南の地に、伴侶を求めあう嬌声がこだました。侵略者の強要による絶叫ではない。

 秦越両民族の通婚は、民族間の相互理解を促進した。民族間の誤解や隔たりを取りのぞいた。秦越両民族が円滑に融合し、自らの意思で未開の地を積極的に開拓するために有利にはたらいた。こののちも辺境地域を併呑するさい、大量の移民を一挙に送り出し、多民族国家組織を融合拡大してゆく政策は、中国のお家芸となり、なかば伝統化された。歴代王朝のみならず現代にもなお、新疆やチベットなどで踏襲されている。

 やがて時間がたつにつれ、自発的に南遷移民する人びとの数がめだって多くなった。あるいは中原での過酷で横暴な秦の政策が、人びとを自由の新天地へ駆りたてたものか、ニューフロンティアにたいする期待が、「瘴癘の地」のイメージを払拭していったのである。

 これら移民の多くが下層であったから、とりわけ高度な文化レベルにはいたらなかったが、かれらが携えてきた中原の先進的な生産技術と日常文化は、越人の習俗よりは優越していた。南越の人びとは向上心を刺激され、徐々に意識を変革していった。

 移民の集中する地域は、またたくまに中原文明を吸収し、浸透した。さらに多くの中原の民は、越人のなかに分け入り定住し、民族の融合を深めていった。

 こうした秦の南越への大規模移民は、集中的、統一的におこなわれたものではない。初期の強制移民はべつにして、いくつかの時期に、いくつかのルートに分かれて民間ベースで実行されたものとみられる。のち客家のルーツにつながる一面も、すでに表出している。

 民間移民のおもな入越ルートは、西江・北江・東江の三江沿いである。西江水系に居住した人びとは、広州語系の主要な地域を形成した。東江水系に散在した人びとは、客家語系の主要な地域になった。北江水系は広州語と客家語を話す人びとの、雑居地域となった。

 始皇帝が望み、二世皇帝も同意した南越移民政策は、中国でもはじめての大規模な南遷事業であったが、当初の計画以上の規模に拡大した。また当初、予想だにされなかった、南越国という独立王国を現実のものにするのである。


 前二一〇年七月、始皇帝は第五次巡幸の途次、崩御した。黄河の下流「平原津にいたりて病み、沙丘の平台に崩ず」と、『史記・秦始皇本紀』に記されている。いわば不慮の死であるが、病死とあるだけで、死因にはふれられていない。

 元来、虚弱体質であるうえ極度の過労がたたった。てんかんの持病があった。不老不死の怪しげな薬、ことに水銀服用による中毒ではないか。趙高に一服盛られた等々、巷では諸説が入り乱れてかまびすしい。

 過労についていえば、勤続疲労の累積というべきか。始皇帝はつねに一日一石の文書を処理していたという。一石といえば百二十斤、いまの重さで三〇キロである。これを巡幸中もふくめて、一日たりと欠かしたことがなかったという。当時の文書は紙ではなく、竹簡か木簡に墨かうるしで書いたものであるから、ずいぶんかさばり、重量は紙よりずっと多かったとはいえ、かなりな量だったことはまちがいない。ときに食事の時間を遅らせ、一日のノルマを終えるまでは休まなかったと伝えられている。さらに、中原統一後、連年にわたる全国巡幸である。長期間の疲労が肉体を蝕んでいたという説には説得力がある。


 第五次巡幸には、宰相の李斯、末子の胡亥、宦官の趙高が随行した。沙丘の平台で崩御した始皇帝の死を、李斯は秘匿して喪を出さなかった。巡幸の途次である。騒乱の誘発をおそれたのである。死に臨み、始皇帝は長子扶蘇に書をしたため、後事を託した。しかし趙高が握りつぶし、かえってかれの主導で遺勅が偽造された。胡亥が後継に指名されたとして太子に立て、長子の扶蘇と蒙恬に死を賜ったのである。始皇帝の屍は轀涼車にのせられ、直道をひた走りに駆けぬけ、咸陽にたち帰った。喪が発せられ、やがて太子胡亥が帝位をついで二世皇帝となる。本来、跡をつぐべき扶蘇は、

「父帝の命とあらば、やむなし。したがうは、子のつとめである」

 従容として自刃した。

 蒙恬は遺勅に疑いをもったが、捕えられ獄中で毒殺された。三十万の国境守備軍は司令官を失い、緊張のたががゆるんだ。漠北に匈奴がふたたび跋扈した。


 始皇帝の死は、喪が発せられるまでは、極秘に取り扱われ、長子の扶蘇ですら勅使が偽の遺勅をもたらすまで知る由もなかった。

 随行した李斯・胡亥・趙高の三名と若干の宦官によって秘匿され、遺体護送の偽装工作がおこなわれたことはすでに述べた。じつはこのとき、始皇帝の警護にあたる近習もまた、事実を知る立場にあった。かれらは無言で、李斯の指示にしたがった。

 始皇帝の近習は、常時十五名が配属されていた。五名ひと組、三交代で二十四時間の不寝番をつとめるのである。同じ始皇帝の側近くに侍っても宦官とはちがう。武装警察、武警(エスピー)(Security Police)である。

 御前でも特別に佩刀を許されていた。学問の素養をそなえ、性格は穏やか、寡黙で沈着、挙措動作に典雅さのある若者が全国から選りすぐられた。なにより身元がたしかで、なおかつ文武に秀でた若者というきびしい条件付である。そのかわり、数年の特殊訓練をほどこされ、始皇帝の身辺警護の任務終了後は、数階級特進で要職につき、全国に配属された。始皇帝の耳目手足として、直近の情報源あるいは執行代理者としての影の役割を担ったのもかれらである。

 趙佗もまたこの一員である。いまは近侍の役をとかれ、嶺南征服後、南海郡竜川県々令の要職にある。趙佗は趙国といういわば敵国の遺児であったが、始皇帝の選考眼は、出自を意に介さなかった。

 韓非の係累がいた。呂不韋の孫も名をかえてくわわっていた。かれらは黙々としてみずからの特殊任務に励んだ。巡幸・微行・謁見の場での警護、毒見、そのときどきに降りかかる鉄槌・凶刃・毒の短剣から、かれらは己が一身を楯にして始皇帝の身を守った。文字通り身命を賭して始皇帝につかえる若者たちであった。

 ときに始皇帝は執務の筆をやすめ、かれらに語りかけることがあった。始皇帝の学識は深く、見聞は広かった。質すというよりは教えるほうが多かった。

「小佗(シャオトゥオ)よ、治世の要諦とはなにか」

「はっ、天下万民の安寧かと存じます」

「その安寧はいかにすればもたらされるか」

「おそれながら、必然の道をおこなうことにございます」

『韓非子』に、「治国の道とは、人民に適然の善を期待せず、人民をして必然の道を歩ませること」とある。法による治世を説いたものである。一人ひとりの民の善意に期待していては、万民を治めることはできない。いやでもしたがわなければならない「道」、かならずそうなる「道」によって一律に万民を治めなければならない。とうぜん違反者にたいしては、あらかじめ罰則を法で定めておく。情実を排斥し、例外はもうけない。厳格な法定主義の実行によってこそ天下の秩序は保たれ、万民の安寧がもたらされる。

始皇帝の私塾の観もある光景が、ときに展開された。かれらにたいするとき、威厳を剥きだしにした始皇帝の傲慢な面貌が消え、慈父の愛情にも似たやわらかな面差しが浮かんでいた。始皇帝自身に自覚があったかどうか、わが子にもついぞみせたことのない、べつの一面をのぞかせていた。

琅邪の私塾には、ときに徐福も参加した。特別講師といったところである。かれもまた若者相手に饒舌をふるった。

「東方の海中に三つの神山がございます。蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう)と申します。いずれも美しい島で、四季があり、冬には雪が積もります。春になると木々が芽生え、夏には花ひらき、山は一面の緑に色づきます。秋には五穀が実ります。民は勤勉で、労を惜しまず、ともに助け合って、刈りいれに精を出します。争いを好まぬ従順な民で、土地の神々を深く信仰しております。そのうち蓬莱には不二の山という、いただきに雪を冠したとりわけ美しい神山がございまして、神仙が住んでおります。神仙は神のことばを解し、里人に伝えます。また神仙は不二の山の清らかな谷川の水辺に自生する薬草を練って、不老長寿の妙薬をつくります。わたしはこの仙薬をいただき、皇帝に献上します。そのお返しにこの秦の偉大なる文化と技術を、かれらに教えたいと思っています。いずれ近いうちに、大勢の若者と百工をともなって、かの地に移住します。これは皇帝陛下の思し召しによるものですが、わたしの念願でもあります」

徐福は若者のようにほおを赤らめ、熱を込めて語った。みなは聞き入った。講義が終ったとたん、かれらは徐福を質問攻めにした。そんなとき始皇帝は、楽しげにかれらのやりとりを見守っていた。

始皇帝は航海に興味を抱いていた。巡幸のさい、なんどか沿海を航行し、みずからも帆を張り、舵を操ることがあった。

始皇帝は、趙佗に航海術を学ばせた。徐福が近海に出るさい同乗させ、実地に研修させた。さらに船の建造にもかかわらせた。木材の伐採から乾燥、加工、組み立てにいたるまで仕切らせた。

「徐福どの、つぎには蓬莱島へも、ぜひお連れください」

大海原に乗りだす航海は、趙佗の夢をかきたてた。

「陛下の思し召しとあらば、いずこなりとお供いたしますが、陛下があなたに期待しておられるのは東海ではなく、南海でございましょう。いずれ任囂どのがご出陣のおりには、あなたも嶺南へまいられることになりましょう」

潮で鍛えられた赤銅色の温顔をほころばせて、徐福は若い趙佗をたしなめた。そんな徐福が、予言めいた観相をしたことがある。

「貴相がある。天子になる相である」

というのである。趙佗は一笑に付した。


 琅邪滞在のある早朝、始皇帝は趙佗を召した。

「遠出じゃ、駒を責める。ともをいたせ」

 例によって、少人数の遠駆けである。趙佗は矢服しふくを負い、弓を手に騎乗した。矢服はえびらとも矢壷しこともいうが、矢を入れて背に負う道具である。ちなみに、「や」は函谷関の東ではといい、西ではせんという。琅邪なら「ゆみや」といえば弓矢きゅうしだが、咸陽では弓箭きゅうせんとなる。

 日輪がゆっくりと浮上している。朝焼けがゆるやかな弧状の水平線を、真紅の色に塗りはじめた。始皇帝は、東海を左に見、海沿いの街道を駆け抜け、波打ち際へ躍り出た。

 興にまかせては、大海に向かって強弓を騎射した。趙佗も負けじと、朝日に向かって矢を射った。矢は天空に吸い込まれ、水平線のかなたに溶け入った。

 ときならぬ攻撃に海鴎かもめがけたたましい声で鳴きたて、仲間に急を告げた。大海原が打っては返し、のったりと永遠のときを刻んでいる。

 馬を止め、しばし馬上で、始皇帝は東海のかなたを見やっていた。始皇帝の思索スタイルである。長考ののち、綸言りんげんを発した。史官は同行させていない。趙佗だけが聴きとった。

わしの天下取りは、四海を制覇してはじめて成就する」

 四海とは、東海・西海・南海・北海をいう。意味するものは世界である。始皇帝はすでに天下一統を成し遂げている。ふつうなら四海一統も同じ表現である。しかし始皇帝には、なおこだわりがあった。

「東海の日いずるさきにいくつも国があるという。朕は、その国々を訪ねてみたい。征服ではない。交易が目的だ。金銀がねむり、仙薬がふんだんに自生しているという。空気の香りが長生をもたらすともいう。その地の民にわが帝国の智恵と技術を移譲し、この世の楽園を現出せしめたい。そのために、まず人を送る」

 この世の楽園は、地下帝国にも試している。

 権謀術数が渦巻き、治乱興亡果てしない中国の大地にあっては、阿房宮・咸陽宮など豪華な宮殿も、しょせんいっときの綺羅を飾る徒花あだばなにすぎぬ。とこしえの楽園は、この世に求むべくもない。かろうじて地下帝国に、栄華の痕跡を託そうと企図するのみである。

「小佗よ。そちにはいずれ嶺南の経略をまかせる。嶺南には古くから犀角・象牙・翡翠・宝珠などすぐれて珍しい異国の財宝が限りなくある。異国との交易によってもたらされたものだ。南海に航路をひらき、さらに多くの国々と溝通ゴォトンし、彼我の力量を競いあうのだ」

「溝通」とはふたつのものを通じさせること、交流させることである。競いあう力量は軍事力ではない。智恵と包容力、いわば文化の力である。中華の範疇をこえて世界との溝通をめざす。始皇帝は、いまのことばで「通商帝国」の建設を構想していたのである。


 始皇帝の近侍は警護だけが仕事でない。趙佗が造船法・航海術を学んだように、始皇帝はそれぞれの個性におうじ、さまざまな特殊任務を課した。次代の「通商帝国」をにらんだ人材養成の一環である。

 韓非かんぴの係累に韓凡かんはんという若者がいた。始皇帝は韓凡に『韓非子』をこえる君主論の著述を命じた。当世、韓非子を論じれば、始皇帝の右に出るものはいない。始皇帝みずからが後継者教育にあたった。

 呂不韋の孫にあたる梁河りょうがには、西方の言語と、いまでいう国際貿易を学ばせた。各地に隠棲する呂不韋の旧番頭が教師をかってでた。

 徐福が蓬莱からふたりの若者を連れ帰った。クスヒコとイヤヒコである。クスヒコには薬物の開発にあたらせ、イヤヒコには医術の研究にあたらせた。この時代、中国の伝統医学はすでに医書『黄帝 内経だいけい』に著される水準にまで達している。「死人を生き返らせた」神医扁鵲へんじゃくこと秦越人しんえつじんの末流が、「漢方」の精髄を直伝した。

 その他、武器・戦車の改良、農業・灌漑の改善工夫など多くの分野の開発・改善のテーマが個別に与えられていた。

 さらにかれらの下に、全国から選抜された十五歳の少年が徒弟として配属された。少年技官見習いである。秦の徴兵制は十五歳からと定められている。徴兵者のなかから、素質を見込んで抜擢し、教育をほどこすのである。学校ともいうべき訓練所は、琅邪においた。山麓に離宮の防人三万戸を移住させてある。工場や農園など実験作業の場と人手を求めるにも、好都合であったことはいうまでもない。

 趙国は古くから天然資源に恵まれていた。鉄が豊富に産出したのである。鋳鉄技法に秀でた卓氏は、趙国滅亡のさい蜀の山中に逃れ、漢初に大鉄商人となって、のち南越国に貢献した。その子弟が、やはり始皇帝の近侍として採用されていた。

 山東は鉱物資源の宝庫である。ことに金の埋蔵量は全国一で、黄金の国の異名をもつ。前代から金・鉄・青銅の精錬所が活発に稼動していた。新都の建設、阿房宮や皇帝陵の築造に必須の鉱物資源がそこにはあった。始皇帝が巡幸のコースに、なんども山東を選んだ理由がここにある。始皇帝は山歩きを好んだというが、じつは鉱山の実地探査や精錬所開設の陣頭指揮にあたっていたのである。

 卓氏の子弟は複数で近侍をつとめ、同時に鉱山探査と採鉱・冶金鋳造技術の実地開発に取り組んでいた。そのひとりが卓跋たくばつである。

近侍ではないが、始皇帝はみずからの子弟にも、技術教育を施していた。扶蘇には長城の土木建設を、胡亥には陵墓の造営工事を命じてあった。教師は蒙恬であり、李斯である。

 こうした特殊技術を身につけ、全国に分配されたかつての仲間を、成長した技官見習いをもふくめ、のちに南越国建国後、趙佗は高級専門技術者として招聘する。

 やがてかれらの技術や知識は、海のシルクロードの航路開拓と対外交易に生かされ、南越国に中原文化と経済発展をもたらすことになる。


「老師はいまおいくつか」

 不老長寿の仙薬の話がでたおり、近侍の若者で、徐福に歳をたずねたものがいる。

「さあ、いくつになりましたやら。百を越えてからは数えるのをやめておりますゆえ、忘れました」

 ふだんの徐福は、せいぜい五、六十にしかみえない。若者は呆気にとられて、二の句がつげなかった。

臥薪嘗胆がしんしょうたん」の故事で知られる越王 勾践こうせんは、呉王 夫差ふさを滅ぼしたのち、山東の琅邪に都を遷した。当時、日本は弥生時代に入る前四世紀の直前である。この琅邪に、江南から先進文化を携えて多くの越の民が移住した。その後、前三三三年、越は楚の威王に滅ぼされる。このとき琅邪にいた越の民は各地に分散し、そのうちの一派が朝鮮経由で日本に渡ったといわれている。前二一九年、始皇帝がはじめて山東に巡幸した百十余年前のことである。

「その時代に、わたしの祖父は蓬莱に渡ったと、父から聞いております。蓬莱には扶桑という国がございます。わたしがはじめて扶桑に参りましたときには、祖父はすでに身罷っておりました。その後、わたしは祖父のお仲間のつてで、蓬莱の各地を訪ね、めずらしい品々のあることを知りました。やがて蓬莱以外にも、方丈・瀛州など東海の島々を航海するようになりました。皇帝陛下の御意をえましたのは、つい最近のことでございます」

 徐福は趙佗らをまえに、東渡(東海渡航)計画を語った。

「いまわたしは、皇帝陛下の思し召しで蓬莱への移住を準備しております。三千人の童男童女と百工(技術者集団)を連れてまいります。五穀の種子、耕作具、牛馬羊豚鶏などをたずさえ、百艘の船に分乗し、蓬莱島の扶桑国をめざします。武器はもちません。必要がないからです」

 直接の目的は、不老不死の仙薬の入手にあるというが、金・銀・銅・鉄など鉱物資源の獲得も視野のうちにあった。植民地開拓にちがいない。稲作・養蚕・捕鯨術などに代表される農業・漁業・手工業・医薬など多方面にわたる科学知識をもたらしたと、東渡の入植地には伝承が残されている。華僑のさきがけである。秦始皇帝にして、はじめてなしうる大事業だといってよい。

 これはのちのはなしだが、始皇帝崩御の前二一〇年、第五次巡幸の途次、始皇帝に見送られ徐福一行は船出した。そして平原広沢を得て定住し、王となって戻らなかったという。

 この時期、始皇帝の夢想的膨張主義は東と南に、さらには地下に向かって拡大し、止まることを知らなかった。それはかれの死後、東は徐福に、そして南は趙佗にひきつがれることになる。さらに地下帝国の建造工事は二代皇帝によってひきつがれ、二十一世紀のこんにちなお未解明のまま眠らせてある。

 徐福は伝説の世界で、東方海上の大八洲おおやしまに大陸文明をもたらし、未開の地を豊饒の国にかえる。趙佗は歴史の世界で、化外・蛮荒の地に広大な南越国を建設し、開拓する。さらには、海のシルクロードの道標をうちたて西方世界に通じ、後世につなぐのである。


 四回目の巡幸中、琅邪における一日いちじつ、かれらは始皇帝のまえで血盟した。「琅邪のちかい」という。始皇帝崩御の五年前である。とうぜん徐福も顧問格でくわわった。

 始皇帝のお側近くで直々に薫陶をうけた、いわば子飼いの家臣が全土から参集した。かれらは始皇帝の特命をうけ、全土に散って、いまも特殊任務についている。国外に出たものもいる。表向き秦の国家組織に属していても、実態は始皇帝の直臣といっていい存在である。かつての戦国の四君や呂不韋の食客といった立場に近い。

 軍事によらず、平和的手段により諸外国と通商交易する過程で、始皇帝の事業を、世界の果てまでもくまなくおよぼそうという壮大なる血盟である。因習をうちやぶり、民族の垣根をとりはらい、広く海外に智識と財貨を求め、同時に秦の文化と技術を伝播し、万世一系の始皇帝王朝の礎をさらに強固にうちかためようという盟約である。

 血盟まもなく、趙佗は嶺南に旅立った。

 嶺南攻略戦争で戦死した指揮官屠雎の後任に任囂がついたとき、趙佗はその副官に抜擢されたのである。それは同時に始皇帝との今生の別れを意味した。


 李斯らが厳しい緘口令を敷いたにかかわらず、始皇帝急逝の知らせは、短時日のうちに趙佗のもとに届けられた。馳道から越の新道伝いに、特殊な通行手形を持った伝令が、早馬を乗り継いでもたらしたのである。血盟の同志の手配である。

嗚呼ああ!」

 趙佗は天を仰いで、涙をこらえた。しかしとめどなくあふれでる涙は顔面を覆って、大地に滴り落ちた。事なかばで果てた始皇帝の無念を想い、趙佗はかつてない感傷の世界に浸っていた。

「陛下のご遺志をいかにせん」

 かれは茫然として嶺南の大地に立ちつくしたまま、中天の太陽を仰ぎ見た。

小佗シァオトゥオよ、かまうな。そちが思うまま、自由に生きよ」

 慈愛に満ちた暖かい太陽がそこにはあった。

 しかし次の瞬間、空気は一変し、灼熱の光線がきびしく趙佗を刺しつらぬいた。

「秦帝国の偉業を万世に伝えよ。普天率土を朕が名のもとにしたがえるのだ。南海に航路をひらき、西方との溝通にあたれ」

 南国の真夏の太陽は、ありあまるエネルギーを大地に降りそそいでいる。趙佗の涙は汗にかわり、逞しい覇者への脱皮を促した。


 始皇帝は子々孫々、万世にいたるまで皇位を永遠にひきつぎたいと願望していたが、秦の二世皇帝の手中にわずか三年あっただけで、あっけなく破綻してしまった。

 かえって始皇帝の命をうけ蓬莱島にわたった徐福が、その地に万世一系の皇国の礎を築いたという歴史の皮肉は、それがたとえ伝説であったとしても、興味深いものがある。

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