地の章 8.竜川県令


 前二一四年、秦朝は嶺南地域を統一後、ただちに郡県制を基礎とする中央集権制を導入し、嶺南の全面的経営を開始した。嶺南は、はじめて中国の中央政権に帰属したのである。

 嶺南に、南海・桂林・象の三郡をあらためて設置した。いまの広東省の大部分は南海郡に属し、その下に番禺ばんぐう・四会・竜川・博羅の四県をおいた。郡の役所にあたる郡治の所在地は番禺(いまの広州)である。このほか広西の大部分は桂林郡に、海南島と広西南路一帯は象郡に属した。郡県制下における嶺南の地方政権は、郡守・郡尉・監御史が郡の政務・軍事・監察を分掌した。県には県令あるいは県長をもうけた。ただし嶺南に新たにおいた三郡は発足から日も浅く、官制はまだ整備されていなかった。南海郡尉に任じられた任囂が、ほどなく南海郡尉の名のもとに嶺南三郡を統べることになる。

 趙佗は、竜川県令を拝命した。


 嶺南における郡県制導入は、より具体的な波及効果をもたらした。

 領内の奥深い渓洞に居住する越人各部族には、対秦抵抗戦の一時期をのぞき、部落間の連帯とか一体化とかの意識がまったく欠けていた。かわりに部落間のいがみあいや小競りあいが絶えなかった。

 それが新たな制度の実施で、いやでも従来の生活習慣を変更せざるをえなくなった。単刀直入にいえば、「こもった穴倉から引きずり出された」のである。かれら部落の民にとっては、はじめて現実の世界にふれたにひとしい画期的な体験であったといえる。やがて自分たち以外の世間を知ることで、観念的な敵対心が消え、部落間のいさかいがすこしずつ水に流されていった。新たな支配者の出現で、となりにかまう暇がなくなったといえば分かりやすい。

 行政管理以前の問題として放置されていた長期にわたる政治的空白状態は、しだいに秦朝政府のもとで整頓され、原住の人びとはいやおうなく封建政府の郡県の民に編入されていった。その後、さらに南下して定住した「中県人」(中原人)とともに、地域の特色を生かした多様な嶺南社会を構築してゆくことになるのである。

 秦の嶺南統治は、前二一四年の統一から前二〇七年に秦が滅びるまでの七、八年間にすぎない。しかし嶺南地域の社会経済的発展にたいし、きわめて大きな意義をもっている。


 趙佗がはじめて県令に任じられた竜川県は、いまの広東省河源市竜川県佗城鎮である。赴任後、趙佗はまず竜川県城を築城した。竜川故城はのちに佗城と改名される。周囲約八百メートル、いまの佗城鎮に遺址が現存している。

 当時の竜川県の管轄範囲はひじょうに大きく、現在の河源全体とその近隣の韶関・恵州・梅州の一部を包括した。管轄地域の総面積は約二万平方キロ、四国四県をこえる広さである。趙佗はこの竜川県に六年間駐在し、県内の治世につとめた。

 佗城内に「越王井えつおうせい」という井戸が残されている。水深十一余メートル、当時の遺構といわれる。水質はなお清冽で、二千余年にわたり住民に飲料用水を供給しつづけている。この井戸から百メートルほど離れたさきに、趙佗の故居宅があったと伝えられている。

 趙佗は毎朝この井戸で水を汲み、竜川県の治所で執務し、郊外の馬箭崗ばせんこうで軍事訓練した

「竜川県の広大な領地は越東の宝の地だ。豊富な鉱物資源があり、山紫水明の自然の恵みをじゅうぶんに享受している。ことに域内を縦横にはしる河川は、耕作に不可欠な水をはこんだうえに、水上交通の要路としても大役を担っている。これを活用して、富国興産の礎を築くのだ」

 任囂のことばは、示唆に富んでいる。

 竜川県の中央をつらぬく東江は、山間部をぬって珠江につらなり、番禺に通じていた。内航船をしたてて、趙佗は郡治所のある番禺への参勤を欠かさなかった。任囂に治世の方策を問い、現況を報告し、指示を受けるためである。趙佗は任囂に兄事し、かれの一挙手一投足を見守り、一言隻句も聞き逃さず、すべてを教えとした。

 その往来のおりふし、また閑暇をぬすんでは領内を見てまわった。

「今年の作柄はどうか、疫病はないか」

「暮らし向きに不都合はないか、年寄りは息災か、子らは元気か」

 ときとして領民に、気さくに声をかけた。

 はじめはことばが通じなかった。北方ではかなり広範に各地を移動した趙佗である。どこへ行っても、意思の疎通に不自由はなかった。ところが南方では勝手がちがった。方言の差というより、ほとんどべつの言語に近い。しかし若い県令は、覚えも早かった。三ヶ月もしないうちに、通事を煩わさず、気ままに動き回れるようになった。

 領民もはじめは身構えて、ろくに返事を返さなかった。しかしときの経つうち、趙佗の率直さに警戒心を解き、ポツリポツリと重い口を開くようになった。

「まえの暮らしより良くなった。刈り入れが楽しみだ」

「生きているうち、親やこどもに番禺の都を見せてやりたい」

 かれらは新しい体制のもとで、積極的に生きる目的をもった。喜々として仕事に励んでいるようすが、趙佗にも伝わった。趙佗はよりいっそう領民の暮らしぶりが上向くよう、心をくだいた。

 県城内に「南越王廟」が祀られてある。

 現存のものは、清代康煕・乾隆年間に改築されたものである。その「南越王廟」の石碑に、かつては趙佗の施政の大要が刻まれていたという。伝承をもとに復元すればこうなる。

「山を削り、道を通した。川底を浚い、堤を築いた」

 水陸の交通路を整備し、交易の活発化をさらに促した。洪水の氾濫にそなえ治水工事をおこない、灌漑用水路を引いた。

「刀耕火種を改変し、中原の農耕具を移入した」

 旧趙国などから中原の文化と先進的な耕作技術を導入し、焼畑農法の原始耕作をあらためた。すぐれた農耕具を数多く移入し、農業生産効率の向上をめざした。

「移民を奨励し、民族の融合をはかった」

 石家荘の趙一族と連絡し、技術者を誘致した。鉱山を開発し、初歩的な冶金業をひろめた。ことに移民を奨励した。移民した中原人を積極的に活用し、土着の領民との平和共存をはかった。通婚を促進し、民族の融合をすすめ、地域の共同開発をおこなった。


 結局、父母の消息は知れなかった。叔父の子を養子にもらいうけ、郷里に趙家を再興し、父母や祖先を祀った。じぶんが戻ることはまずなかろうと判断したのである。

 そのころの話である。

 治安防備に手抜かりはなかったが、将兵の士気が落ちていた。戦争が終わって数年経っていた。攻めの軍隊は、もはや守りの軍隊にかわらざるをえない。目的の変更についていけず、戸惑う兵士も少なくなかった。

「嫁をもたせることだ」

 趙佗は始皇帝に上書し、中原の未婚の女子三万人を無心した。こともあろうに「集団見合い」の媒酌を始皇帝に願い出たのである。この顛末については、いずれ稿をあらためる。


 秋晴れの一日、趙佗は舳先にたって前方を凝視していた。塗りたての甲板の匂いも初々しい生まれたての帆船は、珠江をくだり、外海へと突き進んでいた。南海―南シナ海である。風をいっぱいに孕んだ帆が音をたてて、速力をとりこんでいた。帆を操るのは趙成である。幼い趙始の守役もりやくとして、学問と武芸の師傅しふ(師匠)の役を担わせてある。趙氏の一族に連なる若者で、よくその任に堪えている。騎馬はもとより、帆船の操作にかけても人後に落ちない。

 設計から建材の吟味、船板の張り合わせなどは、趙佗の指導によったが、船の建造作業については、竜川県令の職務に追われる趙佗にかわり、趙成がみてきた。この日は最初の大型外航船の進水式兼処女航海で、舵取りの趙成をのぞき、だれもが浮きたっていた。

「趙成、わしがかわる。すこしやすめ」

 船が南海に乗り出したのを見定めて、趙佗が声をかけた。

「なんのこれしき。まだ動き出したばかりではござらぬか」

 趙佗は苦笑した。強情を絵に描いたような男で、弱音を吐いたのをみたことがない。

「趙成どの。まもなく食事を仕度しますゆえ、そのときにはおやすみくだされ」

 お英が合いの手をいれた。十歳になった趙始の介添えで、お英も乗船していた。趙始は嶺南に来て三年たつ。小さなジャンク(帆かけ舟)で珠江を上下することはすでにひとりでもできるが、大型外航船に乗るのははじめてである。趙始ははしゃいで甲板を駆けまわった。同乗したおなじ年まわりの子たちも、趙始につられて甲板をはしった。 船は海南島をひとまわりして、帰路についた。遊びつかれた趙始が、お英の膝で眠りこけていた。

「都生まれのこの子が、よくここまで育ってくれた」

 趙佗はそのときのことを、ふと思い出した。

 趙始を引き取ったのは、始皇帝が亡くなり、世情が不穏になりかけるころであった。 妻は人質として咸陽に残され、趙始だけが趙成に連れられ、はじめて番禺に入った。

 対面の席で趙始は趙成にうながされ、おずおずと挨拶した。そのとき母から託されたといって、書信と着物をさしだした。

 ――あの着物、

 まだ手を通していなかった。どこへしまったか。

 お英が怪訝な顔をして、趙佗を見上げた。

「いや、なんでもない」

 趙佗はあわてて思い出を封じ込めた。


 秦の始皇帝が嶺南を統一するまえから、南越の海人《かいじん)は海外と交易をおこなっていた。当時、すでに広州一帯は海外からもたらされる犀角・象牙・翡翠・珠玉の集散地として名を馳せていたのである。

 一九八九年、先秦時代のものと思われる岩に刻んだ海上航行船の線刻画が、珠海高欄島の宝鏡湾で発見されている。船の中央部にマストが立ち、帆が描かれてある。錨もみえる。早い時代からの東南アジア交易の可能性をほうふつとさせるものがある。

 秦代の大型船の造船所遺跡が、広州市で発掘されている。この造船所は、秦の嶺南統一のころに建造されたものとみなされている。

 ドックには枕木を敷いた二本の並行した滑道があり、両側の支木で船体を支える構造になっている。滑道の幅は一・八メートルと二・八メートル、長さは一〇〇メートル以上ある。番禺こと広州は、古代の造船基地である。出土した造船所遺跡から、当時の造船技術がかなり高度な水準にあることが推測される。当時の技術をもってすれば、幅八メートル、長さ三〇メートル、積載量五〇―六〇トンの大型外航船の建造が可能であったろうとみられている。甲板に数層の楼を重ね、帆・舵・錨・櫂・櫓などの設備が完全にそなわれば、遠洋航海にも十分適応できるのである。

 漢代、南越国のころには、太陽や星を航海に利用する経験を積み重ね、貿易風や海流の知識もくわわり、航海技術は一段と向上していた。

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