人の章 14.趙佗帰漢


 前二〇六年、秦を滅ぼした劉邦は、項羽から漢王に封じられた。中国の歴史では、この年を漢の高祖元年としている。ただし、じっさいには項羽を倒したあと、漢の高祖五年(前二〇二年)、劉邦は天下を統一し、はじめて帝位についたのである。劉邦四十六歳、遅咲きの姥桜うばざくらならぬ翁桜おきなざくらである。

 おりしも戦乱に明け暮れた秦末いらい、国土は疲弊し、人民は困窮にあえいでいた。田畑に休耕期間が必要なように、人にも休養期間が求められた。ことに漢初の人口は、秦代にくらべ大幅に減少していた。人口の激減は、経済の凋落に直接影響する。楚漢の五年にわたる戦争で、多くの農民が離農し、農本経済の根幹が崩壊していたのである。人心はささくれ立ち、国内外に不穏な空気が蔓延した。乱れた社会秩序の再建と、荒廃した社会経済の再興という困難な問題をかかえて、漢王朝劉邦政権はスタートしたのである。

 それを象徴するのが平城 白登山はくとうざん(いまの山西大同)の敗戦である。

 新都を長安に定めた前二〇〇年、劉邦は二十万の大軍をひきいて匈奴征伐のため北上した。厳冬酷寒のさなかの雪中行軍である。寒さに慣れない劉邦の先鋒隊は降りしきる雪のなか、白登山上で七日のあいだ、敵軍に包囲されてしまった。敵方の主将は、こののち匈奴の全盛期を現出する英主 冒頓ぼくとつ単于ぜんうである。 ちなみに単于は匈奴のことばで王を意味する。

 あわや全滅という危機にさらされた七日目、謀臣陳平の機略でこの場はからくもきりぬけた。劉邦軍をとり囲んだ冒頓の精兵四十万を、奇策を用いて解かせたのである。

「英雄、色を好む」は古典的真理といえる。稀代の英雄冒頓単于にして、「また然り」である。陳平の奇策とは画工に飛び切りの美女の肖像画をかかせ、「単于が勝つと漢にこんな女性を要求する」といって単于后のえん氏にみせて嫉妬心を煽り、単于の兵をひかせたのだという。策は功を奏し、匈奴は兵をひいた。またしても劉邦は、危うい命を拾ったのである。

 もっとも女性の提供はのちに和睦の条件にもふくまれているから、このときすでに内定していた可能性もある。

 匈奴の実力のほどを骨身にしみて味わった劉邦は、以後、匈奴とは不戦和睦の方針に転換する。しかし不戦条約の基本は匈奴を兄、漢を弟とする屈辱的なものであった。さらに漢は毎年匈奴に金品を貢納する義務を負ったが、そのなかには和蕃公主とよばれる内親王もふくまれていた。人身御供ひとみごくうにほかならない。恥だの屈辱だのといっておれない歴然たる力の差を、中国の歴史に刻みつけたのである。

 この不名誉の挽回のためには、武帝の登場まで八十年耐えねばならない。武帝は大将軍衛青と驃騎将軍 霍去病かくきょへいを登用し、前一一九年、宿敵匈奴を北のかなたへ駆逐するのである。

 建国の初期、高祖劉邦は多くの功臣を諸王に封じた。新たに封じられたのが楚王韓信・梁王彭越・長沙王呉芮・韓王信らで、既存王の再任が淮南王英布・燕王 臧荼ぞうと・趙王 張敖ちょうごうらである。燕王はまもなく盧綰ろわんにかわった。盧綰は劉邦と同年同月同日生まれのいわば竹馬の友である。陰日向なく劉邦を支えてきた同郷出身者のひとりである。蕭何・張良ら有力な謀臣も厚遇された。

 とうぜんのことながら、漢は劉邦ひとりでできたのではない。建国当初、劉邦のよってたつ政治的基盤はきわめて脆弱であった。拮抗する諸王の思惑を牽制しつつ、各個勢力を分散し、そのバランスのうえに乗って、かろうじて立脚しえたという劉邦の危うさがある。多くの功臣にたいする政治的配慮は、建国当初に劉邦がおかれた政治的立場の脆さを、如実にものがたっていた。その反動であろうか、わずか数年後に、粛清というかたちで取消しにまわる。

 前一九七年、楚王韓信・梁王彭越・淮南王英布ら建国の功臣がつぎつぎに降格・粛清された。盧綰はのちに匈奴の地に逐電し、張良はみずから身を引くことで難を逃れた。皇族以外の諸王のうち天命をまっとうしたのは長沙王呉芮のみという、凄まじさである。

 劉邦が秦を亡ぼした二年後、つまり項羽を倒す二年前の前二〇四年、趙佗は嶺南で割拠自立した。南越国を建て、みずから南越武王と号したのである。ときに趙佗三十六歳、任囂没して五年目であった。

 任囂をひきついだ趙佗が武勇一辺倒の荒武者ではなく、治世においては民を慈しみ、経済振興においては中原の人や技術を積極的に導入しようとする文武兼備の智将であることは、劉邦にも伝わっていた。みずからも建国の緒についたばかりで、嶺南にまで手の回らない劉邦は、南越国を暫定的に黙認し、嶺南を趙佗の経営するに任せていた。それが前後八年におよんだのである。その間隙をぬって、趙佗は嶺南をみずからの手で磨きあげた。

 高祖十一年(前一九六年)、漢朝は謀臣陸賈を南越国へ派遣し、趙佗が漢室に臣服するよう諌め勧告させることを決議した。前年に建国の功臣の粛清があり、前門の災いはとりのぞかれていた。このさい一気に後門の憂いもとりのぞき、漢王朝の礎を磐石にかためるべきだとの対南越強硬策が、王朝内部で論議された結果である。

 劉邦は群臣とはかり、南越国が割拠した局面の打開策を検討した。軍事決着が大勢を占めた。しかし劉邦は戦に倦んでいた。できれば戦火の再燃は回避したかった。そんな劉邦の心情をくんで陸賈が、「おそれながら」と膝をすすめたのである。

「天下はすでに漢朝に帰し、万民はいま休養を欲しています。いたずらに軍を出動し、民の安らぎを妨げるべきではありません。拙者は、出兵征討には反対です。みずから嶺南に遣いし、趙佗を説き伏せ、朝臣として入貢させましょう」

 群臣は目をむいた。名にし負う蛮夷の勃興国を、素手で攻略しようというのである。

 陸賈は平然として劉邦を仰ぎみた。劉邦は相好をくずして歩みより、わが意をえたりとばかりに陸賈の手をとった。

「よくぞ申した。もはや戦に頼らずとも、和平の道はひらかれよう」

 劉邦はこの翌年、崩御する。生涯を戦争に費やしたが、晩年におよび、平和の尊さをしきりに口にするようになった。

大風たいふうの歌』がある。劉邦の作と伝えられている。

 淮南王英布を討って帰還する途次、故郷のはいに立ち寄り、大宴会を張った。そのおり興にのって作り、こどもたちに歌わせたのだという。


  大風起こりて 雲 飛揚す

  威、海内にくわわりて 故郷に帰る

  いずくにか猛士をえて 四方を守らしめん


 どうすれば、勇猛の士をえて国土を守らせ、平和を維持することができるのだろう。 故郷にもどり、平和のありがたさを痛感した劉邦は、歌にあわせ、みずから舞った。 感きわまって涙が落ちた。

「高祖すなわち起ちて舞う。慷慨して懐いを傷ましめ、涙数行下る」(史記・高祖本紀)


 前一九六年、漢朝は大夫たいふ(高官)陸賈を南越国に派遣した。皇帝劉邦直々の使節である。

 印綬・詔書と宝刀を持参した。趙佗を説得し、漢室の臣であることを承知させたうえで賜与することになる。条件は「南越を諸侯国待遇とし、南越王の称号を承認する」というものである。国家統一の大事がかかっていた。この条件を趙佗が容認すれば、平和裏に決着する。拒否すれば、嶺南への出兵は避けられない。陸賈は命を奉じて南下した。

 古代の交通は、こんにちの想像を絶する。行く手は山河渓谷に隔てられ、断崖絶壁が幾重にもさえぎっていた。くわえて治安の手薄な辺境の街道では、匪賊強盗が跋扈した。西安―広州間、いまの鉄道路線でほぼ二〇〇〇キロ、容易に辿れる道のりではない。

 道中の難易とはべつに、この時代、都城長安から全国各地に四通八達する幹線道路ネットワークが整備されていた。漢初すでに、「南幹国道」ともいうべき長安―番禺直通道路が通じていたのである。

 長安から東南に向かい、「関中」四関のひとつ武関をへて河南の南陽郡に出る。さらにつづけて南下し、とう県(湖北 襄樊じょうはん)・南郡(荊州)・武陵郡(湖南常徳)・長沙国 れい県(衡陽こうよう)・桂陽郡(ちん州)を通過し、騎田嶺を越えれば南海郡にいたる。あるいは酃県から西南に向かい、零陵郡(広西全州)に出て,そこから南下すれば、蒼梧郡(梧州)にいたる。蒼梧郡の東が南海郡で、番禺は南海郡治である。

 路程によっては、地勢におうじて河川を上下する内航船も併用できる。長江と合流するあたりから湘江に浮かび、霊渠の運河を通じて西江を下れば、珠江に出る。番禺は珠江のほとりにある。

 当時、陸賈は水路に沿って来、番禺城外西郊に上陸した。

 城内に進んだかれの眼前には、緑にかこまれ、落ち着いた佇まいをみせる瀟洒な街並みが広がっていた。瘴癘の蛮地のイメージは、脳裏から消し飛んでいた。陸賈到着の急報が、趙佗にとどいた。

「漢朝特使がお着きです。いかがとり計らいましょう」

「来意が読めぬ。いましばし待たせておけ」

 趙佗はすぐには接見せず、城西に宿舎をあてがった。

 そこで陸賈は、西場シーチャンの一角に土城を築造し、この地で趙佗接見の日を待った。この土城は、いまの西村シーツゥンにある。のちに人びとは、泥城とも陸賈城ともよんだ。かつてはその地に石碑いしぶみのあるあずまやがたち、石碑のうえに「陸賈南来之地」と六文字で大書してあった。陸賈と趙佗が厭かず語りあい、利害を通じあった場所である。


 接見の日、趙佗はあたかも越族に見紛ういでたちで現れた。頭巾はつけず、越族特有の槌型の髷を、頭髪の真上で結いあげていた。

 両足を投げだしたまま座り、傲岸不遜な風である。

 ほどなく案内役にみちびかれ、陸賈がはいってきた。陸賈は臆することなく、ふつうに歩みより、まず趙佗に一礼してから、向かい側に腰を下ろした。

 このときのことを、のちに陸賈は述懐している。

「そのお姿は、この趙佗はもはや越地の王であり、中原のことなぞ知らぬ、とでも申されているかのようで、威厳に満ちたものでした。情の人だと伺っていましたので、本音であたりました」

 陸賈は出された湯を干すと、ゆっくりと語りだした。

「嶺南は瘴雨しょうう蛮煙ばんえんの地などと、なかば脅されてまいりましたが、なかなかよいところですな。道中の川旅でも、桂林など山紫水明の絶景あり、興趣はつきませなんだ。食もまた味わい豊かにて―」

 嫌味のないくつろいだ雰囲気である。座の緊張感が和らいできた。それでも趙佗は、まだおし黙って陸賈の語るにまかせていた。

 やがて頃合いをみて、陸賈は本題にはいった。いきなり正論できた。

足下そっかにしても、もとはといえば中国人ではありませんか。ご先祖の墓は、真定にあるとうけたまわっております」

 陸賈は趙佗をよぶのに、「足下」と表現した。同輩にたいする敬称である。国王に向かって使う言葉ではない。

『史記・酈生れきせい陸賈列伝』には、「足下中国人、親戚昆弟墳墓在真定」とある。この時代、「中国」という語にはまだ国家概念はない。地域の範囲を示す語にすぎなかった。一般には春秋戦国いらいの「中原」で通用するが、厳密にいえば秦以降、領土は飛躍的に拡大している。あえていえば「漢」である。しかし、あいにく趙佗は「南越」国王を自称し、「漢」の範疇にあることを拒否している。このばあい、現在でも通用する汎用語としては「中華」があてはまるだろう。

「いま足下は身のほどもわきまえず、中国の文化や儀礼をすて、区々たる南越をもって天子と張りあい、敵対しようとされている。それが災いを己が身にもたらすことだと、なぜ気付かれません」

 秦が衰退し、諸侯豪傑が割拠した。漢王だけが真っ先に関中入りし、咸陽を解放した。項羽は盟約に背き、西楚覇王となった。諸侯はことごとく覇王に属し、天下一統なるかにみえた。しかし漢王は巴蜀で決起、天下を叱咤し、不利な形勢を逆転した。諸侯を各個撃破し、ついには項羽を誅滅した。この楚漢が争った五年の乱世をおさめ、漢帝国をうち建てたのは、まぎれもなく劉邦である。

「海内平定、此非人力、天之所建也」(海内かいだいを平定したるは、これ人の力にあらずして、天の建てるところなり)

 天命を受けた高祖劉邦なればこそ統一が実現したのである、と陸賈は趙佗を牽制した。しかし趙佗は不快に思わなかった。

「しかるに足下においては、南越王となっても、陛下を助けようとされず、ともに暴虐の項羽を討とうともされず、嶺南に居座りつづけておられる。あまたの将軍・宰相はこれを不満に思い、南越王討つべしと息巻いているのです。ところが陛下におかれては、ことを構えて民に新たな労苦をあたえるに忍びず、かく拙者を足下のもとに遣わし、足下の漢への帰服を説かせたもうたのでございます」

 漢への帰服を、「帰漢」という。

 漢の皇帝ご下賜の南越王印綬をありがたくおしいただき、帰漢を誓う。ときに使節を遣わし貢納して、漢朝への忠節のあかしとする。従属を強いるきびしい束縛はない。

「漢の使節が訪れたさいは、足下ご自身が郊外まで迎えに出、北面して臣と称するのです」

 形式的な儀礼にすぎない。さらに陸賈は、「帰漢」したばあい、「帰漢」しなかったばあいの利害得失についても、諄々と説いた。あえて拒めばどうなるか。

「できたての南越国では、なにもできないでしょう。帰漢の意思なしと漢朝がみなせば、十万の兵をもって、南越を攻めたてます。さすれば、たちまち民は周章狼狽し、王を殺し漢に降伏することになりましょう。故郷にあるご先祖の墓やご一族についてもそのままではすまされません。そうはお思いになりませんか」

 問われるまでもない。総力戦になれば、南越は漢の敵ではない。

「一見したところ、貴国は赤土の肥沃な領土に恵まれ、緑あざやかな山野は、豊かな河水でくまなく潤されています。農業を主とし、手工業を興し、対外交易を拡大すれば、経済発展の道はおのずとひらけましょう。殖産上、有利に展開できる可能性がございます」

 趙佗は顔を上げて、陸賈を直視した。趙佗の考えもおなじである。

「ただ残念なことに、漢の手助けあってこその可能性です。それがなければ、まさに絵に描いた餅。画餅で国は養えません」

 図星である。農業ひとつとってみても、技術・農耕具・種子、さらには牛馬の輸入など、中原の力を借りずにやっていけるものはない。手工業にしても、中原依存がほとんどだ。

 ようやく趙佗は、口をひらいた。

「わが南越国は、対外交易の伝統を受けついでいます。海洋をわたり、遥かなる異国と交易しているのです。象牙・真珠・香薬など持ち帰った珍しい貴重な物産は、中原でも評判のものばかり―」

「それとて中原あってこその交易価値。南越国にしまっておいても、交換利益は生まれません」

 陸賈はしずかに断言した。趙佗は反論せず、瞑目した。

総じていえば、南越は広大な後背地(ヒンターランド)あってこそ真価が発揮できるということである。南越一国だけで生きられるものではない。ましてや漢は、南越の存在までも否定しようとするものではない。

 ひと息ついたあと、陸賈が趙佗に返事をうながした。

 趙佗は居住いをただし、陸賈にむかって深々と頭をさげた。

「じぶんは蛮荒のなかでの生活久しく、中国の礼儀を忘却し、ご無礼つかまつりました」

 趙佗は己が非を悟り、「大義は漢にある」ことを認め、漢朝への帰属に服した。漢高祖より賜った南越王の称号をおしいただき、南越王の印綬と宝刀を拝受した。

「帰漢」を誓ったのである。

 陸賈は漢の皇帝を代理し、絹織・刺繍・綾絹・薄絹・蒲桃ほとうなどを賜った。趙佗は、海産物・蜂蜜・乾燥荔枝・珍貴な鳥を返礼とした。

 以後、漢朝は南越国に鉄器と耕作用牛馬などの物資を供応することを約束した。南越国も不定期に漢朝にたいし、馴養した象やことばのできる鳥(オウム・インコ)などの貴重で珍しい品を貢納することに同意した。そこで新道を拓き、国境貿易を公式に開始することになる。

 漢の高祖の南越慰撫政策は、軍事発動によらず、双方の合意にもとづいてすすめられた。趙佗の政策は、対外和平を厳格に履行し、国内の経済開発を優先する内政重視型であったから、漢の利益に合致した。漢は平和裏に南の国境線を確保し、北の守りに専念する。

 南越の農民は、鉄製の農機具を求めて殺到した。はじめ漢側は、武器に鋳直されるのではないかと危ぶんだ。しかしその懸念は杞憂であった。実用価値を知った農民が、手離すわけはなかった。農業生産が飛躍的に向上した。新開地の開墾に拍車がかかった。

 この時期、嶺南は高祖という最良の理解者を得て、西にまた南に向かって開発がすすめられた。域内の各方面で、国土建設の槌音が高らかに鳴り響いた。

 嶺南と中原との通商往来は、双方が平等に利益を享受した。両地域の経済的発展や文化的交流が促進された。


 趙佗は、漢の高祖にたいする尊崇の念を明確に表わすため、象崗山の頂上に土のうてな(臺)を築いた。吉日を選び、漢の高祖がかれを南越王に封じた詔書を、あらためて拝受した。

「台」は「壇」ともいい、人工で築いた高台をさす。これが、「朝漢台」である。趙佗は農歴(旧暦)の一日と十五日には欠かさず朝漢台に立ち、漢帝を遥拝した。

 朝漢台は宋代まで存在していた。その規模は、「園基千歩、高さ百丈、頂上三畝」であったという。いまの単位なら、周囲一・三五キロ、高さ二二五メートル、頂上平地五四六平方メートルである。

 広州駅付近、中国大酒店をふくむ象崗山全体が、「朝漢台」だったとみてとれる。「雄偉壮観」を絵にしたような規模である。のちの話になるが、この象崗山の山腹に、二代目南越王趙胡の陵墓が造営され、二三〇〇年後に発掘されることになる。

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