人の章 15.別異蛮夷


 広州市中山四路の一角に、かつて「開越かいえつ大夫たいふ」があった。これは漢初に、漢の大夫陸賈を記念して設けられたほこらである。

 陸賈は、漢の高祖の命を奉じて、南越王趙佗に漢への帰順を説得するため、南下したのである。才華は衆に抜きん出、弁舌の巧者の誉れも高い陸賈は、二度、南越に足をはこび、趙佗を適時に帰漢させる使命をまっとうし、さらに中原の新しい文化を嶺南にもたらした。

 後世の人は中国を統一し、嶺南の進歩のために大きな貢献をした平和の使者を記念し、かれを「開越大夫」と賞賛したのである。

 陸賈は楚(いまの湖北)の人である。漢初の政論家であり、また文学者でもある。 劉邦が沛県で決起し、項羽と天下を争ったとき、劉邦のもとに身をあずけた。かれは言辞の達人で、能弁家であった。衣冠文采(文章や衣服の立派なこと)で、一世を風靡した。

 劉邦はときに陸賈をかたわらによび政務を問い、あるいは諸侯への使者として厚く遇した。当時、一流の外交家と目されていた。

 劉邦が皇帝になってからは、ご意見番といった役回りで政治顧問をつとめた。つねに劉邦の側近くにあり、『詩経』『書経』を進講した。漢の高祖は日ごろからことばづかいが乱暴だったが、不機嫌になると、ことさら口汚く罵倒していうことがあった。

寡人わしの天下は馬上で取ったものだ。『詩経』や『書経』など寡人には屁のようなものだ」

 陸賈は平然として答える。

「馬上で天下は取れても、馬上で天下は治められますまい」

 かれは歴史上の事例を引いて証明してみせる。

「かのとう王・武王にしてからが、けつちゅうを武力で討伐こそしましたが、天下を得てからは文の力で治めたのです。文武の併用こそが長く天下を保つ秘訣です。その昔、呉王夫差や晋の智伯は圧倒的な武力をもちながらついには滅び、秦は厳法をもってしても長く命脈を保つことはかないませんでした。もし秦の始皇帝が天下を統一したあと仁義をおこない、先聖の政治にならっていたなら、陛下ははたしてこの天下を手に入れることができましたでしょうか」

 言い方は丁寧だが、皮肉が利いている。鼻息荒くまくし立てていた劉邦は、一瞬むっとしたものの、急所をつかれておし黙る。本音をいえば、劉邦もまた秦朝の短命のてつを踏むことだけは避けたい。

 もともと農民あがりで、若いころにはやくざまがいの無頼生活をおくってきた。まともに学問をうける環境になかったし、やる気もなかった。昔は自分の名さえ、うまく書けなかったものである。いま皇帝といわれる位についても、天衣無縫の性格はかわらない。

 わからないことは人に聞く。できないことは人にやらせる。

 かつて劉邦は酒宴の席で、群臣に問うたことがある。

「寡人が天下を取ったゆえんはなにか。項羽が天下を失ったゆえんはなにか」

 酒席での戯れの問いである。群臣はここぞとばかり口々に、項羽のあらをさがしだし、とがを責めたて、往事の鬱憤晴らしをした。

「項羽は吝嗇りんしょくで、猜疑心や嫉妬心が強く、了見が狭かった。功臣を害し、賢者を疑った。勝利しても人に功利を分けあたえなかった」

「それにくらべ陛下は、敵地攻略に成功すると、かならずそれを味方内で分け、独り占めすることがなかった。これが最大の理由である」

 いならぶものは劉邦をもちあげた。やんやの喝采で、座が沸いた。

「まあ待て」

 劉邦は一同をみまわし、静まらせた。

 以下は、『史記・高祖本紀』の本文にある一節である。

籌策ちゅうさく(はかりごと)を帷幄いあくのうちにめぐらし、勝ちを千里の外に決するは、われ子房(張良)にしかず。国家をしずめ、百姓ひゃくせい(たみ)をで、餽饟きじょう(兵糧)を給し、糧道を断たざるは、われ蕭何しょうかにしかず。百万の軍をつらね、戦えばかならず勝ち、攻むればかならず取るは、われ韓信にしかず。この三者はみな人傑なり。われよくこれを用う。これわれの天下を取りしゆえんなり」

 適材活用の極致といっていい。劉邦の得意や思うべしである。

 その劉邦が陸賈の政論に一目おいている。

 陸賈を用い、秦が天下を失い、漢が天下を得た理由はなにかと、臆面もなく問いかけている。陸賈は、古の国家の成功と失敗、興亡の歴史を書きあげ、劉邦に献上した。

 全部で十二編の国家存亡論『新語』である。かれの政治家としての抱負と優れた見識を充分にしめしている。劉邦は得心し、「なるほど」と大仰おおぎょうにうなずいてみせた。

 陸賈は、武力で天下を平定した高祖劉邦に、武力を用いずに天下を治める効用を説得した。かれはさらに「無為にして治む」(あるがまま自然に天下を治める)という基本理念を主張した。戦争が収束したのち、戦後復興で人を駆りたてることをさせず、万民に静かな休養をあたえる政策をとらせたのである。

 陸賈の方策は、漢初、うちひしがれた人や社会を、瓦礫のなかから立ち上がらせるために、自助の精神を培うことにあった。

 そんな陸賈である。趙佗との初会見においても、趙佗が己の非を認め、陸賈の帰漢説得に応じるころには、ようやく話が噛合いはじめていた。丁々発止のここちよいテンポにのって、忌憚なく話がはずんだのである。戯れに、趙佗は陸賈に問うてみた。

「じぶんと漢の諸将、たとえば蕭何・曹参そうしん・韓信といった重鎮とくらべて、いずれがより賢能でござろう」

 陸賈は、「王似賢おうまさるごとし」、つまり「王の才徳はかれらを越えるだろう」と丁重に答えた。足下ではなく、趙佗を王と呼びあらためている。

「で、張良どののことじゃが。どのようなお方か」

「王は、かつて秦帝におつかえしておられましたな。博浪沙での鉄槌襲撃事件は憶えておいでか」

「お側近くで警護をしておった。投擲の方角へ騎馬で、賊を追った。途中、見目形みめかたちよきご婦人を追い抜いたことを憶えている」

「それが、張良どのにございます。女装にて逃走直後、追っ手に発見されそうになり、道路脇の崖下に身を投じてやりすごした、と聞いております。肝が冷え、生きた心地がしなかったとも」

「あれから二十余年になろうか。わしもまだ若く、粗忽であった」

 鉄槌襲撃の主犯は、劉邦が天下取りの功労者に挙げた三傑のひとり、智謀の名参謀張良である。

「壮大魁偉な豪傑と思うておったが、かのご婦人に化けるほどの手弱女たおやめぶりであったとは、これはいっぱい食わせられた」

 往時の恩讐を越え、ひとしきり張良談義がはずんだ。

「ところで、漢帝とくらべてみて、わしはどうか」

 陸賈はまじめな顔つきで趙佗をみやり、理路整然とはねつけた。

「皇帝陛下は豊沛で決起され、暴秦を討ち、強楚を誅しました。天下のために利を興し、害を除かれ、中国を再統一されたのです。漢の民は億をもって数え、国土は広大かつ肥沃、馬匹の数もおびただしく、万物は豊かに栄えております」

「一方、このわしは未開の化外にあって、たかだか百数十万の民と開拓の緒についたばかりだ。漢の一郡にも値しない国の王なぞと、なんでくらべることができようか、こう仰せになりたいのであろう」

「ようく、ご存知ではありませんか」

 趙佗は晴ればれと笑った。それにつられ陸賈も声に出して笑った。

「奇異なものよのう。趙の国で生まれ、武霊王の胡服騎射の話を聞いて育ったわしが、北方の草原どころか、中原ならぬ嶺南の地で兵を挙げ、南越王をなのっておる。もし中原で兵を挙げておれば、天下を取っていたかも知れぬぞ」

「いやまこと、そうかもしれませんな。しかし、人にはそれぞれ、もって生まれた運命さだめというものがございます。それがしも百家争鳴の世にあれば、三寸不爛の舌をふるって天下を煙に巻いていたものをと、よくいわれます。しかるに現実は、楚人でありながら項王ではなく漢の皇帝につかえ、かくは王の説得にまかりこしてございます。これまさに天命のいたすところ」

 はからずも陸賈は、虚心坦懐に内心を吐露してみせた。中原の人士との交流に欠ける嶺南で、ともすれば孤高の人になりかけていた趙佗は、ますます陸賈にひきつけられた。

 趙佗は陸賈の機智と弁舌の才に敬服した。当時、陸賈は五十八、九である。ひとまわり以上離れていたが、趙佗は陸賈をよき師よき友として、数ヶ月間留め、親しく交遊した。これまで耳にしたことがなかった世間の事情や楚漢興亡の裏話を聞いて興にのり、ときのたつのを忘れた。しかし、陸賈は漢帝劉邦の使節できている。復命の時期をいつまでも延ばしておくわけにはいかなかった。

 陸賈の去る日がきた。趙佗は千金に値する珠玉を贈りはなむけとした。

 帰路の随行に任謐じんひつと羅伯をつけた。任謐は任囂が嶺南でもうけた遺子である。まだ十六、長安で学びたいという。恩ある義兄の子である。趙佗の養子とし、国王代理で都に留めることにした。羅伯には、陸賈など漢朝内に親越派を募る政治工作を命じた。

 劉邦は、陸賈が使命をまっとうしたことを悦び、かれを太中大夫(筆頭高官)に封じた。任謐はその属官に任じられる。

 陸賈帰朝後、漢越両国は正式な外交関係を樹立した。

 その翌年(前一九五年)、高祖劉邦が長楽宮で崩御した。太子 劉盈りゅうえいが位をつぎ、恵帝をなのった。劉邦の妻呂后は皇太后となり、呂太后とよばれる。恵帝の時代、南越国は藩臣待遇で友好的な交流がはかられた。「趙佗帰漢」効果である。趙佗にとっては、南越国育成のため、貴重な播殖はしょくのときを得ることができたのである。


 呂后は劉邦にとって、いわば糟糠の妻であり、決起以来の同志ともいえる。父の呂公が、沛県亭長時代の劉邦の人相にひと目惚れし、むすめ呂雉りょちを嫁がせたいわくつきでもある。同志としては、人並み以上の苦労を積んでおり、ここ一番で劉邦を助けてきた実績も人後に落ちない。劉邦をこんにちの地位に押し上げたのはひとえに自分の功であり、劉呂そろえばこその漢王朝だと、広言してはばからなかった。そのため、漢の行く末にたいしては、ひと一倍神経を使ってきた。障害となりそうな建国の功臣らの粛清にもっとも熱心だったのは、呂后である。韓信・彭越が犠牲になった。

 劉邦亡きあと歯止めが外れ、常軌を逸した残虐な性格が露呈する。

 高祖の寵愛した戚姫せききにたいする陰惨な仕打ちが、余さずものがたる。

 高祖は呂后の生んだ、のちの恵帝を太子に立てていたが、「人となり仁弱」(情にもろく、からだも弱い)のため、戚姫の生んだ如意じょいにかえようとしていた。戚姫が夜ごと涙まじりに訴えたことにもよる。結局、交代は実現しなかったが、妻としてのプライドを傷つけられ、わが子廃嫡の危機にさらされた呂后は憎悪し、報復の機会を狙った。

 劉邦が亡くなった。復讐のときがきた。

 趙王如意が鴆毒ちんどくを盛られ殺された。次のターゲットは戚姫である。その仕打ちが、『史記・呂太后本紀』に生々しく描かれている。

「太后、ついに戚夫人の手足を断ち、眼を去り、耳をいぶす。喑薬いんやく(声をなくす薬)を飲ませ、厠中しちゅうに居らしめ、名付けて人彘じんていという」

 呂太后は戚姫の手足を断ち切り、目玉をくりぬき、耳をやき、薬を飲ませて声がでないようにし、便所のなかに放り込んで人豚ひとぶたといった。古代は便所のなかで豚を飼っていたのである。

 数日後、あろうことか、なにも知らない恵帝にこの光景をみせたからたまらない。事実を知った帝は、ショックのあまり寝こんでしまった。回復するまで一年余を要したという。

「これ人のなすところにあらず。臣、太后の子となり、ついに天下を治むることあたわず」(これは人のすることではありません。わたしはあなたの子として、天下を治めることなぞできません)

 十七歳で即位した世間知らずの恵帝は、それでなくとも気の弱い性格である。母親が悪鬼にも夜叉にもみえ、夜昼わかたず悪夢にさいなまれた。それを振り払おうと、毎日酒を飲み、淫楽にふけり、政務につかないまま八年目に亡くなった。その後、恭、弘と少帝が立ったが、劉邦崩御の直後から十五年間、漢の実質的な政権は呂太后が握っていたのである。

 ただし呂太后は、まだ南越国には容喙ようかいしていない。宮廷内部での奪権闘争に忙しく、ほかのこと、ましてやはるかかなたの嶺南のことまで構っていられなかったのである。

 この間、陸賈などが中心となり、故劉邦の遺志をくみ、南越国のために奔走した。むろん劉漢のために有益と踏んでの行為である。

 はたしてこの十数年で、南越国は農業生産を飛躍的に向上させた。中原から南遷した人びとの熱意と知恵が越人を動かし、漢越が一体となって励んだ力と流した汗の結晶である。金属製の農機具の存在は、ことに貴重であった。

 しかし、南海郡では鉄は産出せず、鉄の器具は全面的に中原・楚地・蜀地からの輸入に頼っていた。したがって、数量や使用範囲は大きな制限を受けていた。鉄器はきわめて高価な道具であり、大多数の地区についていえば、農業生産はまだ原始的粗放耕作の段階にあったのである。嶺南全体の農業発展に、鉄器の導入が急がれた。

 しかし、導入には資金が必要だ。財源はどこに見出すか。

 幸いなことに、対外交易が実績をあげていた。

 初期には東南アジアや南アジア、のちには中東やアフリカへの遠洋航路の開拓をつうじて、主として漢土の絹織物を輸出した。「海のシルクロード」とよばれる海路の寄港地域が交易市場である。その一方で、南洋や西洋の特産物を輸入し、漢王朝にもたらした。はるかかなたのアフリカやペルシャ湾地域から、象牙・香薬・琥珀・瑪瑙・水晶・瑠璃製品・銀の小箱など中国では得られない珍しく高価な財物さえも取引されたのである。

 その交易利益が、鉄製農耕具や牛馬を南越へもたらしたといっていい。

 起源とはべつに、水稲栽培の普及は、中原よりも広東の方が早かったとみられる。漢墓から出土する多くの炭化した稲などの穀物や穀物倉庫の模型から、その情況がうかがえる。

 南海郡では一般的に水稲を栽培し、家禽や家畜を飼育していた。条件がわりとよい番禺の郊外などでは、水稲の生産に鉄器を使用し牛耕するだけでなく、灌漑にも留意し、施肥を重視していたことが、漢墓の出土品から分かる。二期作の記録もある。仏山から出土した漢代の水田模型は、夏の田植えの情景を反映している。一方では牛犂で田をおこし、また一方では四方に灌漑用の排水溝があり、堆肥をまんべんなく田に撒いているのである。

 こんな嶺南が、とつぜん人為災害に見舞われる。

 呂太后の専横なふるまいが、降って湧いたように嶺南を直撃したのである。まさに「晴天の霹靂」である。

 呂太后は、野心をむき出しにし、日ましに大胆さをあらわにした。劉邦との盟約「白馬の誓い」に違背して、呂姓の多くを王に封じた。朝政を壟断し、劉姓諸王と劉邦旧臣の権力を剥奪した。とても喧嘩にならないと形勢をみてとった陸賈は、病と称して引きこもった。趙佗がかれにおくった財宝を用いて、田地を買いいれ子女に分けあたえた。そして、だれ憚ることなく、じぶんは逍遥自在の日々を送った。韜晦にほかならない。

 諸呂(呂氏一族)が権力をほしいままにし、非呂派にとっては厳しい冬の時代がやってきた。その影響は、嶺南にも波及した。


 恵帝は、前一八八年、在位七年で崩御した。在位中、政務らしい政務はとらなかったが、祖法を遵守することだけは忘れなかった。趙佗が劉邦とむすんだ交易の約定は履行されていたのである。ところが恵帝崩御の五年後、漢越関係に重大な変化がおこった。

 前一八三年、「別異蛮夷べついばんい隔絶器物かくぜつきぶつ」(南越を差別し、鉄器の貿易を禁止する)という政令が発布された。

 南越の関市の国境貿易で、銅鉄製の農工具などの南越への輸出を禁止する法令が下されたのである。牛・馬・羊は雄だけは交易を許可したが、雌は許さなかった。蛮夷として南越を蔑視し、中原との自由な交易に制限をくわえるものであった。いまでいう「経済封鎖」である。背景には政治的意図が隠されていた。

「別異蛮夷、隔絶器物」の発令は、中原における呂太后の政治的思惑から発せられた政策であったが、その裏にはとうぜんこれによって利益を得る立場の人間が存在した。

 南越と国境を接する長沙国の王である。初代長沙王の呉芮はすでになく、孫の呉回の時代になっていた。長沙王もまた、自己の国益の拡大を策謀していた。讒言を弄し、南越国を陥れ、これにとってかわろうとした。


 死を目前にして、劉邦は臣下を集め、「白馬の誓い」をたてさせた。

「劉氏にあらずして王となるものは、天下ともにこれを撃つべし」と、明文で誓わせたのである。しかし、呂太后は政権を握るや、諸呂を王にし、「白馬の誓い」を踏みにじった。呂氏集団の勢力拡大を企図し、多数派工作を展開した。その対象のひとつが長沙国である。

 呂氏集団の手厚いひきをうけて長沙国も、ここを先途と臍をかため、宿敵南越国打倒の好機ととらえた。かつて高祖が長沙王に名義だけ封じた嶺南三郡の奪回を条件に、呂氏の一味に加担した。いわば期限切れの証文を担保に「架空の封土」を現実に手に入れようとの魂胆である。事情を知らない呂太后は、実現を請合った。

 呂太后にとって、いままさに達成すべき大事は、漢帝国の制覇である。はるか南方の国ぐにの領土争いなど小事にすぎない。

 歴代にわたり、封国取り潰しの危機をたくみにすりかわしてきた古強者の長沙王である。白を黒と言い張ることなど造作もない。目先のことしか念頭にない呂太后にすりよって、南越国を誹謗した。いわれるままに呂太后は、南越国にたいする場あたり的な「経済封鎖」政策を発令したのである。


 趙佗は呂嘉ら重臣を糾合し、対策を練った。

「別異蛮夷の交易差し止めは、聞いておろうな。十三年まえ、高帝(劉邦)はじぶんを信じて、物資の交易を認めてくれた。それがいま、高后(呂太后)は讒臣の妄言を聴いて、鉄器の交易禁止のご沙汰じゃ。なんとしても再考を願わなければならぬ。方策はあるか」

 呂祐将軍が応えた。

「これはまさしく長沙王の謀計でございます。漢朝を後ろ盾に、南越国の弱体化を画策、あわよくばわが国を併呑して王を兼ね、対外交易の利益を掠め取らんとの企てかと愚考つかまつります。かくなるうえは長沙国に攻め入り、力で撤回を迫りましょうぞ」

 強硬意見である。座はいろめきたった。

「理不尽きわまりないご発令ではあるが、長沙に武力威嚇すれば、漢朝にたてつくことになる。外交に武力は用いぬ。高帝とのお約束もある。われらからさきに、南嶺山脈を越えることはならぬ」

 丞相の呂嘉が、趙佗の思いを代弁した。

「いまこの時点で反漢を表明し、対決姿勢をとるのは得策ではありません。まずは理によって非を訴えるのが穏当かと思われます」

 武力行使は避けたい。国内で強硬論が生じるのを事前に押さえておきたい。趙佗の意向をくんだ、呂嘉兄弟の連係プレーである。

 趙佗は議を決した。嘆願のための使者が朝廷に伺候した。人をかえ、使者は三度におよんだ。内史藩・御史・中尉高、丞相につぐ南越国の高官が使者にたったのである。

しかし、いずれの嘆願も朝廷まで届かなかった。嶺北に踏み込んだ時点で長沙王の手のものに察知され、都に入るやたちまち捕縛され、牢内に拘束されてしまったのである。趙佗から陸賈にとりなしを依頼する密書や朝廷への訴状はとりあげられ、廃棄された。三名とも謀反人同様のあつかいである。牢から抗議の訴えも無視された。

 一部始終を、在京の任謐と羅伯が確認していた。趙佗に急使をたて、陸賈にとりなしを依頼した。陸賈も、動きようがない。

「南越王には、思案がおありのようだ。ご指示を待つことだ」

 一方、南越の国内はいきり立った。

 拘束された重臣三名の眷属を中心に、南越国は呂太后政権にたいする激しい抗議で満ち溢れた。南越の官吏や民衆は、呂太后政権が尊敬に値しない非道な政権であるとみてとり、武力抗議をも容認する過激勢力が日に日に数を増していった。建国いらい、はじめてといってよい国難に、国人は反呂太后で心をひとつにした。

 呂太后の「経済封鎖」は、南越国に致命的な打撃をあたえた。鉄器や牛馬羊の交易禁止にとどまらず、国境の関市が閉鎖されたので、南越政府の財政の来源が断たれてしまった。自由だった中原との往来が規制され、人の交流が途絶え、一般物資の動きも滞った。これによる経済的影響は南越全土におよんだ。

「あまりにも中原への依存に頼りすぎた結果だ。偏ってはいかん。自力更生をはかりつつ、中原にかわる第三国との共存を考えておかねばならぬ」

 呂嘉ら重臣をまえにして、趙佗はあくまで辞を低くし、恭順の姿勢をくずそうとはしなかった。嘆願に頼り、ひたすら釈明の機会を求めたのである。

「はて、王にはいかなるご存念か」

 呂嘉は、首をひねった。


 中原には親族がいた。ことに中原出身の首脳陣は、主だった親族を長安においていた。情勢が緊迫化するにつれ、かれらの安否が気遣われた。趙后とよばれる趙佗の妻も、そのひとりである。趙后は秦が漢にかわってもなお都に留めおかれていた。人質である。

 趙佗は趙始と媚珠を呼び、人質救出作戦を命じた。

「長安に潜行し、母を救え。任謐と羅伯が手引きする」

 趙佗の命により、趙始と媚珠は十名の手練れをひきい、隠密裏に漢土に潜入した。 長沙王に察知されてはならぬ。かれらはけもの道をえらんで、国境をぬけた。陸賈を頼り、長安に向かったのである。趙始は、劉邦下賜の宝刀を背に負うていた。

 趙始は秦の嶺南統一後、母のもとを去った。幼児のころである。媚珠にとっては、まだ見ぬ義母しゅうとめである。心が急いた。街道をはずし、一行は原野を騎馬で疾駆した。捲きあがる砂塵を隠れ蓑とした。

 馬の交換、食事、休息、ひとつとして公然とはできない。ゆく先々で、趙佗のかつての盟友の係累があらわれ、内密に調えた。関越えの間道はかれらが先導した。かれらは多くを語らず、黙々と任務にあたった。しかしその所作には、同胞なかまを気遣ういたわりが感じとられた。趙始はひそかに驚愕した。父王から聞かされていた琅邪の盟友の手配である。始皇帝の死から二十七年、誓いの絆はなお生きていた。

 入京の途次、羅伯が駆けつけ、事態の急変を告げた。母をふくむ眷属が、郷里へ護送されたという。かれらは馬首を北に転じ、真定に向かった。長安を追われた一族の郎党が、一行にくわわった。

 しかし、かれらの到着を見透かすかのように、すでに刑は執行を終えていた。呂太后の仕打ちは、残忍をきわめた。

 趙佗ら旧趙国出身者の先祖代々の墳墓は、すべて破壊されていた。土を掘り起こし形あるものは丹念に打ち砕かれ、樹木でおおわれていた小高い丘は、平らな更地に変形していた。むきだしの土地はなかば砂漠化し、灰褐色を呈していた。そのうえに、処刑した眷属の遺骸が放置されていた。野犬や野鳥が食い散らかし、もはや原形をとどめていなかった。

 薄暮のなか、趙始らが駆けつけたとき、警護の漢兵が目ざとく認め包囲した。

「かかるご時世に一味徒党を組むは、ご法度である。すみやかに武器を棄て、縛につけ」

 隊長とおぼしき男が、趙始に槍を突きつけつめよった。趙始の馬が一声いななき、棹立ちになった。趙始は馬上で矢をつがえ放った。矢は音を立てて飛翔し、隊長の胸に深々と突き刺さり、背にぬけた。これが戦闘の引き金になった。殺戮が開始された。

 趙始は無言のまま、漢の兵団に立ち向かった。あまりの怒りに声が出なかった。数十人からなる趙始軍団のうち十人の手練れは、実戦の巧者である。敵の先陣を切り崩し、漢兵の気勢を削いだ。そこへ郎党らが飛びこみ、一族の復仇とばかり、怒りにまかせて雑兵を薙ぎ倒した。烏合の漢軍は、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

 趙始は南越で育ち、趙国を知らない。趙佗が始皇帝の近侍をつとめて巡幸に随行していた当時、咸陽で生まれ、幼年で父趙佗のもとに引き取られた。母の記憶は失われていた。しかし、漢兵の去ったこの静寂のなかで、脳裏に母は紛れもなく蘇えった。母の笑顔は若かった。母は趙始に手をさしのべた。

 天を仰いで、趙始は号泣した。暮れはじめた夜空に、星がまばらにまたたいていた。趙始は大地を掻き抱いた。真っ赤に目をはらした媚珠がそのうえに折重なった。

 かれらはだれのものともわからないほど毀損された遺骸のかけらと肉片を、ひとつひとつ丹念に拾い集め葬った。無地の碑を立て、劉邦より賜った宝刀を墓上に突き刺し、抗議の証とした。

 翌朝、漢の軍勢が押し寄せたころ、殺戮の現場は無人の墳土と化していた。宝刀の抜き身の刃が朝日に反射し、光の矢となって漢軍将士の眼を射った。


 趙始は羅伯を急使に立て、ことの顛末を父王に報告した。追っ手を避け、東路山東に逃れ、南越国の出方を見守った。

 呂太后は、趙佗ら南越国首脳の中原にいる宗族を誅殺し、あげくのはてに父祖の墳墓を根こそぎ叩き壊してしまった。この報が伝わるや、日ごろ怒りを表に出さない温厚な趙佗が、呂太后にたいする復讐を口にした。これは同時に、中原との訣別をも意味した。

「われらはもはや中原人ですらない。女狐めぎつね、ただではすまさぬ。思い知るがよい」

 始皇帝の死報以来、枯渇していた涙が、趙佗の頬によみがえった。

 一度は捨てた武器を、趙佗はふたたび手にしたのである。

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