人の章 13.和輯百越


 南越国の民族政策をひとことでいうと、「和輯百越わしゅうひゃくえつ」である。「輯」には集める・寄りあうという意味とともに、和らぐ・睦まじいという意味もあるから、「和輯百越」とは、百越を和らぎ、これと睦まじくすることである。この政策は、任囂じんごうの「撫綏安輯ぶすいあんしゅう」(人民を安んじいたわる)政策を引きつぎ、さらに発展させたものといえる。

 秦が嶺南を征服したときは、すべて中県人(中原出身の華夏人)の力に頼った。しかし南越建国の過程、さらには建国後の運営において、円滑な遂行と安定維持をはかろうとすれば、越人の理解と協力なしにはやってゆけない。かれらは表面的にはしたがっているようにみえても、腹のそこから中県人を認めているわけではない。まず信頼感を得るために、新政府の側から働きかける必要があった。

「では、どうすればよいか」

趙佗ちょうたりょにたずねた。

「越人の主だったものを、新しい国の政府機構に取りこんでしまうことです。南越国は、中原の国の属国ではありません。中県人と越人がともに治める、じぶんたちの国だという意識を具体的にもってもらうには、これがいちばん分かりやすいのではないでしょうか」

「わしも同感だ。仕事を分担し、国家利益を分けあうということを事実で示せば、理解もはやい。中原との対外折衝や南方航路の開拓はわしがやる。南越国内の統治は呂嘉よ、お主にまかせたい」

 趙佗はその場で、呂嘉の丞相起用を決断した。思いつきではない。

 ――広汎な越人をひとつにまとめるには、この男しかいない。

 かねてより考えていたことである。

 呂嘉とは順徳 むらでの出会い以来、「おれ、おまえ」の仲である。臣下というよりは盟友に近い。ましてや呂嘉は、「越人の雄」と目される、越人中の大丈夫だいじょうぶ(ますらお)でもある。越人の信望は厚い。

「じぶんはまだ若いので、その任ではない」

 呂嘉は辞退したが、三拝して丞相にむかえた。さらには呂嘉の実弟 りょゆうを将軍に任じた。  

 趙佗に二言はない。国家の中枢を越人のかれらにあずけたのである。

「わしはもと趙国人だが、もはや趙国はない。かつて嶺南を侵略した秦もいまはない。漢はあってもわしらは漢人ではない。らくえついま南越に国を建てたからには、南越国人といってよかろうが、南越には百越がおり、もとからの南越人もいる。中原からきたわしらが入るには、はばかりがある。もともと嶺南にいたお主ら越人こそまことの南越国人ではないか。南越国の丞相として、将軍として出自、身分に不足はない。今後、わしらは嶺南人といおう」

 先秦時代から嶺南には「百越ひゃくえつ」といわれる、さまざまな越族が同居していた。主だったものに南越・西甌せいおう駱越らくえつがある。呂嘉一族は南越族である。

 呂氏ふたりの要職就任は、越人各族に衝撃をもたらした。無関心をよそおっているばあいではない。かれらはあらためて南越国を支持する積極姿勢を明らかにし、地域を代表する多くの族長が趙佗政権に参加する意向を示した。

 趙佗は象郡を分けて、交趾・九真の二郡をおいた。いまの広西南西部からベトナムの北部にかけてと、中部にあたる。そして交趾郡に西于王を配した。古代、「于」と「甌」は同義である。つまり西于王は西甌族の王である。この西于王に、かつて秦の指揮官 屠睢としょを殺した西甌君せいおうくん譯吁宋えきうそうの遺子 譯呼宋えきこそうを抜擢したのである。この地における西甌君の威望はいまなお健在である。「越をもって越を制する」ためには過去の事跡にこだわらない、趙佗の大胆かつ奔放な人事といえる。とうぜん西甌族は趙佗に好感をいだき、南越国に期待した。

 さらに趙佗は、その他多くの越人を王侯に册封し、軍の要職あるいは政権の中枢に登用した。馳義侯何遣、帰義侯鄭厳・田甲、甌駱佐将黄同、桂林監居翁、越郎都稽、掲陽県令史定など、『史記』『漢書』中に具体的な人名が残されている。

 史定は霊渠れいきょを開削した史禄の後裔である。かれらの祖先はもともと越人であったが、史禄は中原で育ち、秦軍にしたがって南越に戻った。霊渠開削ののちは、掲陽に居を定めた。史禄亡きあと、趙佗は史定を、嶺南東部の重鎮たる掲陽令に任じたのである。

 また趙佗は、嶺南に居ついた中原の人士を重用することも忘れなかった。たとえば畢取ひつしゅである。かれの祖先は春秋時代、魏国において畢の王侯に封じられたとき畢姓をなのった。その後、封をとかれ庶人におとされ、子孫は四夷を流浪した。畢取は南方に落ちのびた一族の後裔である。趙佗はかれの異能をみいだし将軍にとりたてた。

 旧趙国から招いた趙一族のものも新政府の要職に就いたが、かれらは趙佗の意をくみ、越人長官の副官たる地位に甘んじた。実務経験に長けた中県人の立場で長官を補佐し、応分の才覚を発揮した。

 越人上層部の政権参与をつうじて、百越族人に南越政権にたいする参加意識をもたせた。政権の利益を共有することで、かれらの懐疑心や不安感を解消した。さらに南越国人としての一体化を醸成することで、これまで絶えなかった越族同士の内部紛争を吸収した。

 これが南越国の統治基盤を強固にする要因となった。趙佗に侵略を糊塗する意識はない。「越をもって越を制する」のは、必要な方策であったにすぎない。大事なときに、的確な人を得て、南越国は上々のすべりだしで、中華の歴史に割り込んだのである。


 嶺南の越族各部には、独特の文化体系と風俗習慣があった。蛇・カラス貝を好んで食する飲食嗜好、断髪 文身いれずみし、貫頭衣を着するファッション文化、高床式住居に住み、川で仕事し、舟を操る生活様式、巫女が祈り、鶏卜を用いる土俗宗教などである。

 これら越族の風俗習慣は民族共通の深層要素であり、越族人はつねにこれをおこない伝統とし、このなかに越族人特有の強烈な民族感情を注入した。越の風習にたいし、もしこれを軽侮し、あまつさえ否定しようものなら、疑いなく広範な越族人の民族感情を逆なですることになる。その結果、先住の越族と外来の中県人(華夏族)とのあいだに溝ができ、安定した統治には不利に作用する。ぎゃくに、この習俗にしたがい、かれらの文化を容認することができれば、統治には有利にはたらく。

 趙佗は、ものごとにこだわりがない。入越いらい十余年、日常坐臥の間において、越の風俗文化をしぜんに取り入れていた。

「むかし趙の武霊王は、騎馬で弓を射る胡族の風を取り入れるため、みずから胡服を着用した。実用的で便利だったからだ。わしも武霊王にならい、越の風俗で生活に便利なものは、どんどん取り入れる。ただし悪しき風俗は、ときにこれをあらため、あるいは全面的に禁止する」

 越人は地面にむしろをひき、じかに腰をつけて座った。中原では正座が礼であるが、越人は箕踞ききょする。足を交差させて座る、つまり胡坐あぐらをかくのである。これは礼に反するといって、ことに孟子らが激しく憎んだ座り方である。ところが胡坐は、作業をするのに楽なのである。網を繕ったり、矢羽根や鏃を取り付けたりするとき、きわめて便利である。礼でしばる必要はない。

 引き摺るほどの着物の裾を、短く切った。越族は川で仕事し、舟を操る生活習慣がある。裾が長くては仕事にならない。中原の美意識には反するが、実用性が優先した。ゆうしょう

 趙佗は孔孟の教えを放棄した。南越に中原の衣冠束帯の制は似つかわしくなかったからである。いや、むしろ有害無益とさえいえる。

 越人は家畜・家禽・養殖魚とともに生活している。孔子のいう、「鳥獣はともに群れを同じくすべからず」では、生活は成り立たない。

 越人は自然環境のおもむくままに暮らしている。飢饉・旱魃は、ときとところを選ばない。蓄えが枯渇すれば、ときに飢えることもある。飢えたときには、なんでも食べる。生きるためである。孟子のいう「魚をすてて熊掌ゆうしょうをとる」、優先順位の余裕はない。孟子の教えは、「生をすてて義をとる」ことにある。義をとるまえに、生を優先させてはならないというのである。ならば、死ねということか。

 孔子にはじまる儒家の思想は、漢の武帝のときに国教と定められ、ようやく嶺南にも普及する。しかし知識や教養は、食が足りてはじめて語ることができる。仁道を知り、性善を認めるまでに、嶺南では百年待つ必要があった。趙佗の啓蒙した百年があってはじめて、南越国は中原並みの文明を受容できるレベルに、達したのである。

 趙佗は越族にならい、「その風俗を同じくした」。のちにはじめて陸賈と対面したとき、「才槌型の髷」(前・後頭が突き出て木槌の形をした髷)を結い、「箕踞した」さまは、あたかも厳然たる蛮夷の大酋長をみずから任じているかのようであったというが、ことさら奇をてらったものではない。すでに日常化してしまっていたのである。

 国君が率先して垂範するからには、群臣に否やはない。軍議につらなるその他「蛮に居ること久しい」中原出身の将士官吏も、つぎつぎに越族の風俗習慣を受け入れていった。

 一方で、悪習を禁ずる定めも明確にした。

 たとえば「越人好んで相攻撃する」悪習は、排除につとめた。

 この遠因は、じつは嶺南における越人各族の社会経済発展のテンポが不揃いだったことにある。頑固に旧習にとらわれる部族は、進取の気性に富む部族が気に食わない。事あるごとに、口を挟む。ゆきすぎるとつかみ合いの喧嘩から武力紛争に発展する。とうぜん所有する武器の種類や性能には差がついているから、遅れた側はかなわない。一方、勝った側にもさしたる益はない。しかし弱みをみせれば、他の部族がまた黙っていないから、受けて立つ。かくて部族の数だけ紛争が絶えない。もしこの紛争を、悪しき習俗のまま放置していたら、南越は永遠に未開蛮習の国で終っていただろう。

 趙佗は禁止令を出し、政府の主導で、越人同士が攻撃しあう悪習を止めさせたのである。

 かねて任囂は、若い趙佗や呂嘉をまえに、説いて聞かせていた。

「貧しさや憎しみに歯止めをかけるには、ゆとりが必要だ。ゆとりは、腹がくちくなれば自然に生まれる。また、性格の異なるふたつの民族を融合させる秘訣は、文字どおり和合につきる」

趙佗は任囂の教えにもとづき、困窮した里に食糧を援助し、開発の遅れた邑に農業を指導し、角突きあう部族間には婚姻を奨励した。

 これによって嶺南越族各部のあいだにゆとりが生まれ、争いを忌む動きが見えだした。やがては和睦わぼく共生や社会経済の安定発展に向けて嶺南を一体化する方向に導くのである。

 婚姻をつうじてわだかまりを解消し、融合関係を築く、この方法は越人同士だけでなく、華夏人(中県人)と越人とのあいだにも適用された。

『史記・南越列伝』に、呂嘉の一族は「男はことごとく王のむすめを娶り、女はことごとく王の子弟宗室に嫁いだ」とある。趙佗は呂嘉の妹英を夫人にし、幼い趙始の養育を託した。その趙始もすでに成人となった。呂嘉が媚珠を見て、しきりに悔しがった。

「媚珠がいなければ、呂一族のむすめらが放っておかなかったところだが、これではとてもかなわない」

 結局、孫の代で一緒になった。二代目国王趙胡と夫人趙藍である。趙藍は趙姓だが、呂嘉の孫にあたる。

 趙佗一族の多くが呂嘉の一族と通婚した。相互に血の絆を太くし、「ツーチィレン」(自己人)といわれる身内の関係を構築した。趙佗の一族と呂嘉の一族の関係は木の根がからみあい、枝が交錯するように幾重もの太い絆でむすばれ、共同の利益に向かって邁進した。

 趙氏統治集団の率先垂範と奨励のもと、旧秦の官吏兵卒とその他の中原からきた移民群は、挙って越人との通婚を受け入れた。もっとも成行き上とうぜんのことだったから、それがいっそう拍車をかける結果となったといったほうが正しい。

「わしら秦兵は五十万からいる。せっかく中原から来てもらっても一万五千の花嫁では、しょせん高嶺の花だ。望んで得られるものではない。わしの伴侶は、なじんだ越のむすめに決めてある」

 漢越双方の通婚は、両民族の相互理解と融合に適格な効果をもたらし、嶺南の社会発展を促進した。多民族国家中国の古代史に、新たな一行をくわえることになったのである。

 趙佗は旧秦の象郡を兼併したあと、地域の実状に照らし、越人による「自治」の方策を実行した。交趾一帯は、西甌族の部族勢力がかなり強大で、統制された部落組織がすでに形成されていた。

 その西甌族に「族人同士が攻撃しあう悪習」がくすぶりだしているという。知らせをもたらしたのは、探子しのびの羅伯である。

「交趾郡には西于王を配してある。譯呼宋では力不足と申すか」

「相手が悪うございます。火種は、おなじ西甌族の傑俊」

「傑俊といえば、屠雎郡尉を殺害した当時の譯吁宋とならび称された一方の雄であったな。また、なにゆえの闘争じゃ」

 西甌族人のなかでいまだに高い声望と幅広い影響力を有しているのが、西甌君譯吁宋である。安撫の策で、遺子譯呼宋を西于王として民族の自治を委ねてある。

 その西于王の父吁宗と抗秦ゲリラの竜虎を競ったのが、往時の傑俊である。ふたりは義兄弟の契りをむすび、「最期の一兵になるまで、抗秦闘争をともに戦い抜こう」と誓いあった仲だと耳にしている。

「どうやらじぶんをさしおいて、譯呼宋どのが西于王に封じられたのが気にいらぬ由にて、郡内の不平分子を煽り立てております」

 抗秦時期、譯呼宋はまだ幼児である。とても歯の立つ相手ではない。

「ご妻女はいかがした。母御ならば、侮られはすまい」

「それが―」

 きょうの羅伯は、歯切れが悪い。

「なにがあった。ご妻女が、危害を被ったのではあるまいな」

「いかにも、仰せのとおりにございます」

 白昼、傑俊側の襲撃を受け、矢を射られたという。幸い矢は右肩を掠めただけで大事にはいたらなかった。

「鏃に毒は塗ってなかったか」

 殺害を意図するばあい、附子ぶしを塗る。トリカブトの塊根である。猛毒のアルカロイドをふくむ劇薬で、かすり傷でも致命傷となる。

「命に別状はないと承っております」

「ならば、これは警告だ。わしの出方を探っている」

 趙佗は直感した。「和輯百越」を標榜する南越国への挑戦である。

「出動する。わしがみずから出向き、傑俊を糺す」

 交趾・九真二郡の統治を強化しなければならない。西甌族人の南越国にたいする求心力を高める機会にもなる。趙佗の決断は早い。

 軍は現地に配備してある。趙佗は、呂祐と将軍麾下の精鋭数名のみで、海路交趾郡へ向かった。羅伯が随行した。珠江河口から海岸沿いに南下し、海南島との境、瓊州けいしゅう海峡をぬければ合浦につく。港はいまの防城港である。全航程約一〇〇〇キロ。上陸後は、旧象郡の郡治 臨尖りんせん県まで騎馬で駆ける。いまの南寧の南西一〇〇余キロにある崇左である。港から直行で一三〇キロ、指呼の間といっていい。

 船を降り、一気に駆けた趙佗の騎馬隊は、郡治所の門前で呼ばわった。

「出会え出会え、西于王はおるか。傑俊の片をつけにまいった」

 あまりにとつぜんの国王到来に、西于王母子は驚いた。久闊を叙し、妻女の見舞いもそこそこに、趙佗は数騎の手勢のみで、傑俊の砦へ躍り込んだ。軍はそのあとを追う恰好になった。あわてたのは傑俊である。早くても一、二ヶ月さきと高を括っていたところへ、いきなり趙佗が現れた。度肝をぬかれ、声もない。

「傑俊か、そこへなおれ。西于王をないがしろにしたるは、南越国にたいする反逆もおなじこと。一族は誅滅、その身は車裂きの刑なるぞ。そうと覚悟のうえの所業であるか。返答やいかに」

 気迫がちがう。勢いにのまれ、配下ともども傑俊は、その場にひれ伏した。そこへ西于王ひきいる軍勢が、どっと押し寄せた。またたくまに傑俊の叛乱軍は、鎮圧されてしまったのである。

 もともと羅伯の戸惑いがちな表情から、趙佗は傑俊の叛意を疑っていた。また妻女の受傷のいきさつからも、殺意のないことは分かる。戦場を失ったゲリラ(非正規兵)の悲哀を、傑俊に感じとったのである。古いゲリラ仲間であり、亡き夫や父の義兄弟でもある。母がとりなせば、まだ若い西于王にとって傑俊は、またとない師傅となる。

 南越国は発足したばかりである。理屈や情熱だけでは国は動かぬ。多くの経験に学び、すぐれた叡智を結集しなければならない。趙佗はためらわず、傑俊の縛を解いた。

 事後の処理は西于王にまかせ、趙佗は九真郡へ向かった。

 ――まず、信じることだ。

 ベトナムの紅土を蹴立てて、趙佗は駒を奔らせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る