地の章 12.南越建国


 安陽国覆滅後、趙佗は象郡を交趾こうち・九真の二郡に分けた。南海・桂林の二郡とあわせ、いまの広東・海南・広西とベトナムの北部地域一帯を、自己の支配下においたのである。

 秦末、各地で群雄がならびたち、中原の権力争いは佳境に達していた。しかし嶺南に注目するものはいなかった。

 劉邦が漢朝を建てた年の二年後(前二〇四年)、趙佗は支配する嶺南の地に南越国を建て、南越武王と号して自立した。王都は番禺、いまの広州に定めた。

 嶺南戦争で動員した五十万の将士は、五嶺を越えて嶺南の要所に駐屯した。秦軍は消耗分をたえず補充していたから、実数はかわらなかった。これら秦軍将士と、嫁入りのため送られた一万五千人の女子、さらに配流された官吏と逃亡者・奴隷・入り婿・賈人ら強制開拓移民団、そして南遷した難民に自由意思による移民をくわえると、この時期七、八十万をこえる中原人が移住してきたと推定される。当時、南越の人口は、移住人口とほぼひとしかったと見られる。つまり、秦が征服した当時、嶺南全体の推定総人口は百五十万から百六十万人である。南越建国時には、なお漸増していたとみてよい。


 自立して王となった趙佗は、国都番禺を拡張した。東はいまの広州図書館付近の中山四路芳草街一帯まで、西は人民公園手前の華寧里まで、北は越華路(倉辺路以西・清真寺前をすぎ広州市政府庁舎にいたる)まで、城の全周約五キロである。これを趙佗城という。

 一九九五年と一九九七年に、中山四路で秦漢南越国宮署と御花園の宮殿園林遺跡四〇〇〇余平方メートルが発掘された。彫刻彩色がほどこされた玉殿 瓊宮けいきゅうである。また園林中には、「一池三山」の景観を思わせる石構建築物が出土した。池は東海を、山は蓬莱・方丈・瀛州の三神山を模したものである。この宮殿園林建造の端緒をひらいたのは陸賈である。 かれが趙佗城の城門をくぐる日は、目睫に迫っていた。


 南越武王の治世下、統治は日ましに実力をつけていった。占有する領土は最盛期、東は閩越と隣接する汀江ていこう以東地域まで、北は五嶺山脈が長沙王 呉芮ごぜいの領土に接する地域まで、西は広西の西境までと句町こうちょう国・夜郎やろう国(いまの貴州西部)との国境まで、南はベトナム中部の大嶺に達し、マレー人の原始部族と隣接する地域にまでおよんだ。ほとんど漢代中国の南方国境線の基礎を形作っていた。


 趙佗の南越国は、秦の制度にならって郡県制を維持しつつ、一部郡国制を併用する政府機構を構築した。中央と地方の両管制に封国をくわえた統治システムである。のちの漢の制度に近い。国土は広い。宗族の趙光を蒼梧(いまの広西梧州)の王に任じ、交趾地域に西于王(西甌王)を配した。交趾・九真・桂林などの地域の統治を強化し、西江中流の西甌・駱越の背反を防ぎ、漢軍が灕江沿いに南下する防備としたのである。

 中央には、丞相・内史・御史・中尉・大傅を重臣とし、以下文武百官をつらねた。

 地方には、仮守・郡監・使者・県(令)長・嗇夫しょくふなどの官職を設け、「百官表」に細かく規定した。ちなみに嗇夫とは小吏・小臣のことで、農事や家畜の世話をする田嗇夫、倉庫係の倉嗇夫、厩の世話をする厩嗇夫など職務に対応して最下層官吏の官職を網羅し、職責を明確に規定している。

 南越国は、軍の規模が突出していた。秦朝以来の駐留軍総数五十万、じつに総人口の三分の一である。歩兵・舟兵・騎兵の三軍に分けた。戦時における戦闘任務はとうぜんだが、平時においては軍務としての治安防衛以外に、さまざまな生産業務と商業交易業務を課した。軍の維持には、自力更生を前提とした。

 歩兵は全土の要衝にくまなく配備され、道路・城砦・関の建造保全など工兵の役割を担っていた。屯田兵として食糧を自給しつつ、辺境の開拓・殖民にあたるのもかれらの任務のひとつである。

 舟兵は水上交通の安全な運行確保と霊渠の開削にみられる水利事業と造船所の運営、さらに新造船による航海など多様な任務を負っていた。秦の駐留将兵に、現地伝来の海人グループが経験をかわれてくわわっていた。国内の水運と沿海の海運、やがては「絹海道」といわれる海のシルクロードの開拓という国際海運事業が、かれらの任務となる。

 騎兵は「胡服騎射」、いわずと知れた趙武霊王の末裔グループが主力を担い、配下には南遷した胡族がしたがった。南船北馬とはいうが、広大な南越国の百越中にも騎射を善くする越族が存在し、旧趙人に負けじと兵員の過半を占めた。陸上交通の整備と管理、牧場の経営、山岳丘陵地帯の開発任務に従事した。

 いずれにせよ膨大な費用を食う軍の存在は、国家経営の癌といえる。戦時はともあれ、戦後の軍縮は必須ではあったが、実現には漢朝や近隣諸国との国際関係の好悪が左右した。

 南越建国にさいし、他に特筆すべき政策には、戸籍制度の整備、漢字の普及、中原の度量衡制度の導入、礼式葬制の漢化、敬老政策の実行等があげられる。

 南越の国家運営の要は、軍に直結する部分をべつにしても、なお総数十万人規模の膨大な官僚システムにある。後宮の妃嬪・内官・侍従の要員、郡県の官吏、辺境保衛の文官らに従者がくわわる。城郭建設、道路工事、集合住宅建築・公園建設などの官営公設事業、造船工場・陶磁器工房・農場・果樹園・牧場・養魚池など官営と名のつく生産機関はすべて、政府役人の采配の下、運営された。

 一方、全人口のおよそ半数が新来の南遷移民である。治安対策や就業保証、食糧の確保など、社会の安定を早期に確立するためには、官業が多面的計画性をもって率先して動かなければならない。南越国の初期段階は、末端の小吏と中原からの南遷移民が実務の現場で、多くの役割を担った。官営工場で生活用品を製作し、官営農場で農作物を生産した。官営市場に公定価格で提供するのが仕事である。市場は早朝から人で賑わった。屯田経験のある士卒は武器を捨て、容易に帰農した。腕に職のあるものは、技能を生かし、工房をひらいた。商才に長けるものは商賈に転じた。民営の事業も機に応じ、市場に溶けこんだ。

「わしは治政にはむかぬ」

 操船の巧みな趙始は媚珠とともに商船隊を組み、南海を往来する南洋交易をはじめた。趙始と媚珠は結婚し、番禺に住んだ。ふたりとも治所で執務することを嫌い、趙佗の名代と称してつねに他出した。趙佗もまたこれを認め、南越国の後継にはなかば諦めていた。

 商船隊は官に属し、舟兵を総括する趙成に後見させた。

 趙佗にはまだやり残したものがあった。悲願といいかえてもよい。

琅邪ろうや)のちかい」である。

 民族の垣根をとりはらい、広く海外に智識を求め、始皇帝の意図した通商交易事業を、世界の果てまでもくまなくおよぼそうという壮大な盟約の実現が、残されていた。

「琅邪の盟」は、趙佗の心のなかでいまも生きていた。趙佗は、始皇帝との「魂の誓い」を承継させる決意で、趙始の太子を廃嫡した。始皇帝との盟約を優先し、その実現を趙始に託したのである。

「趙始の名は、始皇帝より賜りし御名である。同時にご遺志の実現をも託されている。ふたりには、わしにかわってこの『琅邪の盟』の実現のために、働いてもらいたい。二代かかるか、三代かかるか知れぬが、四海をひとつにむすぶ大事業だ。全面的に任せたい」

 ふたりは臆する色もなく、嬉々として承諾した。趙始は南海を自在に航行し、交易のかたわら新たな航路の開拓を模索した。南海航路の先ざきに未知の世界がひろがっていた。 

 媚珠は懐妊の一時期、船を離れた。やがて双子の男児を出生した。


 ときに趙佗は呂嘉ら新政権の首脳陣と、国の方針を語らった。

「富国興産は建国の国是だが、そのために軍は動かさない。近隣とは友好的交易を基本にする。海外から希少性の高い貴重な財物を輸入し、中原で高価にさばく。その利益で嶺南では入手できない、中原の先進的な鉄製工具や牛馬を購入し、農業振興にあてたい」

 趙佗は戦を否定した。貿易立国をめざし、善隣外交を基本においた。建国まもない南越国であったが、上々の滑り出しといえた。一方、問題がなかったわけではない。

 広東地域の南越族とは、比較的早い時期から融合がすすんでいた。しかし百越族のなかにはまつろわぬ土着の民もいた。かれらはみなそれぞれ人里はなれた山洞に閉じこもってしまい、いっこうに出てこようとしなかった。南越国の盛衰に、かれらは無関心をよそおった。

 趙佗は、呂嘉にかれらの説得を委託した。呂嘉は配下のものを動員し、山洞を一軒一軒ていねいに訪ね、根気よく説いて回った。

 呂嘉は趙佗に心服していた。趙佗がつねづね語る、「事在ことはひとの人為なすにあり」(事の成否は人の努力にかかっている)という道理を愚直に実践した。頭も使った。かれらの顔をこちらへ向けさせるため、さまざまな工夫を凝らしたのである。

 山間部にとつじょ銅鑼どらが打ちならされた。チャルメラの軽快なメロディが鳴りひびいた。派手な民族衣装に身を包んだ一行が、腰鼓ようこをたたき、舞い踊り、唄い囃した。鳴り物入りで賑やかにはじまった催しに、なにごとかと人びとは、山洞から首をのぞかせた。

 さしずめ「文明展」とでもいうべき実演会(デモンストレーション)がスタートした。

 かれらの目のまえで、青銅の刀や鉄製の剣の試し切りをしてみせた。鉄の斧で立ち木を伐採してみせた。鉄の鋤・鉄の鍬で田畑を掘り起こしてみせた。事実は雄弁に勝る。論より証拠である。服わぬ民は、この不思議な光景にようやく関心を示しだした。身を乗り出し、興味をもって、新来の道具に見入ったのである。

 剣が一閃し、鳥の首が吹っ飛ぶと、歓声があがった。樹齢百年の太い古木がメリメリと音をたてて倒れると、拍手が起こった。田が容易に掘り起こされると、固唾を呑んで、鋤・鍬をしげしげと見やった。手を伸ばして鉄の斧にも触れてみた。牛車や馬車を牽き、重量物を運んでみせた。帆のある船を操って河川を逆流してみせた。石斧や竹の矢しかもたず、丸木舟を手で漕ぐことしか知らないかれらは驚嘆した。馬車に乗せると腰を抜かさんばかりに、大騒ぎした。慣れてきたころには羨ましがり、つぎにはしきりにねだった。頃合いをはかって、呂嘉は族長に全員を集めさせた。趙佗が姿を現わした。

 趙佗は越人の才槌髷さいづちまげを結い、越人の衣服を着用していた。越人の共通語でかれらを慰労し、ともに生きようと熱心にすすめた。手ずから鋤鍬と種籾をわたし、使い方をおしえた。

 かれらがはじめて接した統治者は、同じ仲間にみえた。人を殺し収奪するだけの侵略者ではなかった。かれらは感動した。

 趙佗は、かれらに山洞をはなれ、平野部に出るよう説得した。部落同士で仇敵視しあう悪習をあらため、交流し協力して生活することをすすめた。若い男女には、部落の垣根をはずして集団見合いする機会を作ると約束した。

 やがてかれらは、連れだって山を降りた。趙佗は平野部に新開地を分け、住居を提供した。しかしかれら土着の百越人は、新たな養魚池や立派な宿舎を喜ばなかった。武威を誇示する旌旗・儀仗などにも関心を示さなかった。かれらは銅の匕首やあるいは銅戈、鉄斧、鉄鍬に興味をもった。交換してほしいといって、大量の米穀、ツバキ・トウモロコシ・栗・クルミなど山の産物、カワセミ・孔雀、はなはだしきは得がたい象牙・犀角などを倉の奥からとりだし、惜しまずに山と積んだ。

 趙佗は呂嘉や謀臣にはかり、各郡県や市鎮に「市官」(官営市場)を設置し、官府が直接、現地の土着居民とのあいだで物々交換をおこなう流通システムを構築した。

 交換で得た象牙・犀角・翡翠・珠玉・香薬など、中原地域ではきわめて貴重な財物を、北方の領界に設けた関市へまとめて輸送し、漢帝国の南端まで出向いてきた商人と交易した。そして漢の商人からは、大量の牛・馬・羊に銅鉄の道具と器皿や衣料品を購入して持ち帰った。その後、またこれらの商品を土着の居民と交換した。

 百越族人のあいだでは、昔から物々交換が交易取引の基本になっていた。貨幣は嶺南では流通しなかった。低価値のものから高付加価値のものまで、地域単位で交換の相場が立っていた。以前なら、極端に高価なもの、たとえば真珠・ムラサキ貝・玳瑁たいまいなどといった珍しい海産物は、交換する同価値の対象物がみつけにくいため、持主には不利な相場ではじまり、順次、数度の交換を経て、ようやくまともな相場で嶺北の商人の手にわたった。もとの交換価値の数十倍ということも稀ではなかった。いまは、南越国が統一して地域ごとに官営市場を設けているから、交換する商品の相場も妥当である。種類も量も豊富になり、嶺南地域と中原との貿易往来が拡大発展しただけでなく、嶺南の域内市場の流通も大いに活発化したのである。

 百越族人はかれらが好んだ銅鉄製の加工具や農耕具を、必要に応じて入手した。そしてこれらの工具はそれぞれの生産の現場で大いに威力を発揮し、生産の向上促進に貢献した。

 政府が、この交易で豊かな利益を得たことはいうまでもない。たとえ住民から租税を徴収しなくとも財政の欠乏に悩まされることがないほどに、手厚い利益を確保したのである。

 政府は生活の安定を住民に保証した。住民は飢渇の不安から解放され、文化レベルの向上に意欲を向かわせることができた。住民にゆとりが生まれ、国全体も安定した。近隣国の「化外の民」さえも、山洞の垣根をみずから取り払い、南越との交易に参加した。

 趙佗の南越国政府は、秦朝の国家統治を基本において、中央集権・郡県分治の政府を組織した。しかしみだりに刑罰を課し、労役に駆りたてるという「暴秦」のような冷酷非情は、まねなかった。その一方で、かれは任囂の政策にしたがい、嶺南の百越族にたいして安撫政策を採用した。一部の越族はすすんで漢化に協力した。

 また中原からの移民にたいして、差別待遇を一掃した。秦朝から流刑されてきた人びと、分配されて土着民と雑居する犯官・賊徒・商人・入婿など、犯罪者あるいは不当に貶められて移民した中原人を解放した。従来の差別を撤廃、一般の戸籍台帳に編入し、みなと同等の権利を有する平民の身分をあたえたのである。

 この時代、趙佗は中原地域の先進的な文化と技術に依拠し、領内の開発整備をすすめていた。しだいに西方から南方に向かい、合浦・交阯・九真・日南そして海南島の儋耳たんじ)・珠崖しゅがいなどの地の百越族を帰属させていったのである。これによって南越国の開発地域は二倍以上に拡大し、同時に対外通商の範囲もしだいに伸張した。


 前二〇二年、五年にわたる楚漢の争いが終結した。項羽は垓下で敗死し、劉邦が皇帝の玉座をしとめた。かれにしたがった開国の功臣が王侯に封じられた。前 陽令ようれい・鄱君 呉芮ごぜいも滅秦に尽した功によって長沙王に封じられた。ところが漢の高祖は、長沙王に封じた詔書のなかで、南海・桂林・象郡など旧秦朝に属した三郡を長沙国に与えてしまったのである。実体のともなわない空手形である。趙佗にたいする警告のメッセージにほかならない。

「朕はなんじの南越国とやらは認めておらぬ。嶺南の三郡はわが劉漢の国土の一部である。いついかなるときであれ、ひとたび兵をくりだせば、容易にわが手中のものとなるからだ」

 趙佗も愚昧の徒輩ではない。劉邦の意図は痛いほどわかっていた。しかしここで弱みをみせるわけにはいかなかった。ひそかに北方の警戒を強化した。長沙国側の国境防衛軍を増派し、事態の趨勢をみまもったのである。

このころ劉邦は、漢帝国内部の社会秩序の整備と生産の回復に忙しかった。さらに漢の北辺では、あいかわらず戦がつづいていた。叛臣征伐、侵入してきた匈奴にたいする防衛戦と、休むまもなく兵をくりだしていた。そのじつ劉邦には、南方をかえりみる余裕などまったくなかったのである。

 一方、長沙王呉芮にも面子がある。かれにとっては、嶺南三郡は己が封土である。それが長期間、他人に占領されたままとあっては、沽券こけんにかかわる。

 さらに趙佗がひそかに辺境に兵を増員したことは、すでに探知していた。南越軍の越境侵入にそなえ、桂陽郡(郡治は五嶺の南、いまの広東省連県)に大軍を出動し、南越軍とあい対峙したのである。


 高祖劉邦は、つねづね趙佗を評してこう語っていた。

「南方に治世に長けたものがおる。文武にすぐれ嶺南を統一した。中原からの移民を上手に用い、族同士で抗争の絶えなかった百越に、内紛の無益なることを教え和解させ、その力をあわせて南越国を建てたというが、なかなかできることではない」

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