人の章 18.百年の夢


 漢越の対立は解消した。帝位にこだわる気は、趙佗にはない。王として南越国内の経営に専念できれば、それでよしとした。

 ただし南越の領土は広い。西に南に、開拓の余地はまだまだ残されている。国内外の世論対策もある。国内と、国境を接する一部の外国にたいしてだけは、あくまで皇帝と称しつづけた。

 方便である。漢の存在を知らない地域や国も多い。統治と対外折衝に便利だったのである。趙佗は現場を重視した。建前は建前として、ときに融通無碍な対応にでた。治世の安定を先行させた。漢を無視したわけではない。漢にたいする尊崇の念は忘れていない。文帝も暗黙のうちに了解し、深く追求はしなかった。

 秦の始皇帝は西方の秦国から出て、東方世界を制覇した。

 さらに海を隔てた東海に浮かぶ蓬莱島の開拓に意欲を燃やしていた。その夢は徐福に託したが、吉報を待たず他界した。北は長城で線引きし、化外の地として政治的な関与は望まなかった。ただし越境したときは打擲ちょうちゃくし、長城の北へ追い返した。南にたいしては、これも趙佗の南越建国を知らず、不帰の人となった。

 いまにして、趙佗は思う。

 ――嶺南においては領土そのものよりも、その先にあるものを望まれたのではないか。

 かつて始皇帝は、嶺南侵攻軍五十万をまえになにを下知したか。

「南越には中原では手にはいらない、犀角・象牙・翡翠・宝珠など、優れて珍しい異国の財宝がある。みなのもの、朕がためにその地を占領してまいれ」

 始皇帝は異国の財宝が南越にいたる渡来ルートの、そのまた先をみていたのかも知れぬ。

 趙佗はしばし回想にふけった。

 始皇帝の時代、嶺南に南海・桂林・象の三郡がおかれた。いずれもいまの広東から広西にかけての地域である。趙佗の時代になってベトナム北部まで版図を拡大した。安陽王国を征服したのである。しかしベトナムとていまのインドシナ半島の一部にしかすぎない。

 ――そのさきに大海がある。大海のさきにまた国がある。

 趙佗の眼はさらにはるか遠くを見つめていた。

 趙佗は越秀台にのぼり珠江を望んだ。珠江のさきに南海が広がっている。南海のはるかかなたには、まだ見ぬ異国が数限りなく存在しているのだ。

 始皇帝没後三十一年、南越建国から二十五年の歳月が流れていた。始皇帝の没年は五十歳である。いま趙佗は始皇帝よりも十年、余分に生きたことになる。

 ――それでなにをなした。このさき、なにを残せるか。

 かつて始皇帝が琅邪台でいつまでも厭かず海を眺めていたように、趙佗もまた陽の落ちた珠江を食い入るように見つめていた。またたくまに夜のとばりが広がり、静寂が孤独な老王を包んでいった。

 趙佗はあたためて決意した。群臣をまえに決意を披瀝した。

 呂嘉と趙成が最前列にならんだ。趙成は船団の統括者である。

寡人わしは本格的な商船団をつくろうと思う。大きな帆船をいくつも建造して、いまの規模をさらに拡大し、南方から西方世界の果まで通商航路をのばすのだ。かつて秦の始皇帝が、なそうとして中断されたもうひとつの事業を継承するのだ」

 始皇帝の事業は、戦争による中原の征服だけではない。中国以外にも、幾多の異国との交易をつうじて、友好的に交流することを渇望していた。いまのことばで通商帝国といったニュアンスの国際交易組織を構築することを念頭においていた。

 始皇帝はつねづね「因習をうちやぶり、民族の垣根をとりはらい、広く海外に智識を求め、秦の文化と技術を伝播する」と、血盟の有志に洩らしていた。それを可能にするのが西方への航路開拓と寄港する港市での交易活動である。

 趙佗は、趙成に問いかけた。

「いま、わが南越国の船隊はどこまでの航海が可能か」

「条件さえ整えば、いずこまでも航海は可能です。ただし―」

 そこでひと呼吸おいて、趙成はゆっくりと説明した。

 航路を延ばすためには、長期の航海に適した耐久性と経済効率にかなった積載量をもつ大型帆船が必要である。これまでの航海実績では、北はべつにして、南はインドシナ半島からマレー半島にいたる東海岸沿いのコースは、目をつむっていても往来できる。

 しかしそこからさきに問題がある。マレー半島とスマトラ島とのあいだのマラッカ海峡である。風が少なく波のたたない穏やかな海峡のため、手漕ぎで越えることになる。あまり速度が出ない。そこを狙って海賊が出没する。この危険を避けるには、マレー半島を陸路で横断する。川道をさかのぼるので大型船は不向きである。

マレー半島の西側にはベンガル湾があり、そのさきは印度である。印度南端の島スリランカを過ぎるとインド洋に出る。さらにアラビア海を跨げば、ペルシャ湾にはいる。すでに中東である。南下すればアフリカにいたる。

「海峡越えが難所であり、小型船による印度までの航海経験はあっても、交易実績としての経験は乏しいのが現状です」

 趙成はついと顔を上げ、趙佗を直視した。目が訴えている。

「分かっておるわ。軍船なみの商船、で、なん艘入用か」

「とりあえず百人乗りを十艘。合わせて人は千人。さらに―」

 たたみかけるような応答に、趙佗は苦笑した。

「さらに、なんじゃ。趙始がことにあろう」

「ご明察いたみいります。こたびの大船団、千人もの海の荒くれが動くとなれば、並みのものでは総大将はつとまりません。高い識見、豊かな経験、優れた技術をもち、しかも千人が命をあずけるに足る信頼と統率力をそなえていなければなりません。無事に大海を乗りきるには絶対の支配者、海の帝王の君臨が必要です。されば、まこと趙始さまこそ最適任と、愚考つかまつります」

 かたわらでふたりのやり取りを聞いていた呂嘉が膝を乗り出した。

「いや、ご賢察。趙始さまなら申し分ござらぬ。同意でござる」

そのじつ呂嘉は、はらはらしながら成りゆきを見守っていた。

「じぶんがゆく」といいかねない、趙佗の海にたいする願望を感じとっていたからである。

 国王が長期間不在では困る。

始皇帝も在任中の過半を巡幸にあてたが、まだしも陸上であり、幕僚をともなってのいわば司令部ごとの移動だったから、執務に大きな影響はなかった。これが海上だと、日常の連絡はほとんど途絶える。南越建国いらい、越人の大丈夫として二人三脚で趙佗を支えてきたといっても、呂嘉は趙佗のいわば影であり、日向ひなたで代理代行はできない。趙始ならもうひとりの帝王となっても、異存はない。

「始皇帝の事業を継承し、南越にも国益をもたらす。さらには漢にも満足をあたえる、それはなにか」

「地域や時代をまたがって交易できるそれぞれの地の特産品や貴重物資、たとえば―」

漢の絹・陶磁器を印度・中東に輸出し、印度の白畳もめん・胡椒を西方に仲介する。中東の瑠璃器、非州《》の象牙などを輸入し、漢越国境の関市で漢に売る。海外を自由に行き来し、アフリカ東西の垣根をとりはらうことができれば、交易対象となる物産は無限に存在する。

「琅邪の盟」から三十七年経っていた。血盟の友の多くは、すでに物故するかつぎの世代に引きつがれていた。趙佗もまた趙始に托する決意である。かれは筆をとった。一人ひとり友の顔を思いうかべつつ、意中をつづった。書信は百通にのぼった。ゆくえの知れぬ相手も少なくなかった。それを承知のうえで、趙佗はあえて己の覚悟を告げたのである。

老夫わしらの時代は終った。しかし次の世代がいる。かれらに始皇帝との血盟の事業を継承してもらうのだ。波濤万里のかなたに立ちむかう、勇猛果敢な有為の青年男女を推薦してもらいたい」


 おりしも、趙始が媚珠ともども帰港した。

 呂太后の「別異蛮夷」政策で軟禁された中原の母后を救出するため南嶺山脈を越えていらい、三年ぶりの帰国である。三艘の帆船に分乗してきたかれら船団三百名の乗組員は、みないっぱしの航海者だった。

「趙始も媚珠も、よう戻った」

 久しぶりに見る趙始は、逞しい海の男に変貌していた。母のこともあり、精神的にも成長のあとがしっかりと見てとれた。

 媚珠は中原の現実に触れ、幻想をすてた。「趙始とともに海に生きる」決意は、女の自覚をもうながし、美貌麗姿は以前にました。

 お英はふたりから母后の最期を聞き、涙した。嶺南の素馨花を手向け、その一輪で媚珠の髪を飾った。ジャスミンの香りが漂った。

 祝宴を張り、趙佗は全員をねぎらった。

辛苦了シンクーラ(ごくろうだった)。今宵は、心ゆくまで飲みかつ食べてくれ。からだを休め、寛いでくれ。みなの話を聞きたい。寡人も思いをかたろう」

 趙佗は己が構想を語った。大型帆船を十艘建造し、千人からなる交易船団を組んで、一年後、南から西に向かって遠征する構想である。


 まず趙始と媚珠が立ちあがって賛意を示した。つづいて帰ったばかりの海の男たちがわれもわれもと立ちあがり参加を訴えた。地元で海事にたずさわる若者たちも、臆せずになのりをあげた。各地から推奨された派遣者もあり、またたくまに千人の候補者が出揃った。万里かなたのつ国を遠しとせず、操船技術と度胸をかねそなえた荒武者が勢ぞろいした。

 すでに趙始は南越国後継者の地位を捨てている。無名の海の男で生きる覚悟のいさぎよさは、だれの目にも明らかである。媚珠もまた、父を裏切り、祖国を捨て、趙始に託した命である。安穏に暮らす人生など思いも寄らない。海の果てまで趙始とゆく、決意は揺ぎない。

 一年後、冬の季節風に乗って、かれらは番禺の港を出航した。

 成長した双子の男児は、ふたたび趙佗とお英にあずけることになった。上が趙蘇ちょうそで、のちに交趾こうし郡尉につき、実質的にかつての甌駱アウラク国を引き継ぐ。媚珠が甌駱国安陽王の公主むすめだった縁で、跡継ぎとしたのである。下が南越国二代目国王となる趙胡《ちょうこ)である。


 その後、毎年三月から八月にかけて、南海に南からの季節風が吹くころには、交易物資を満載した帆船が、一艘また一艘、帰港した。

 犀・象牙・玳瑁・銀・銅など貴重な物産の交易利益は、南越国を繁栄にみちびいた。


 少年時代の趙佗は、武芸に打ち込み、騎射をよくした。王を称したのちもなお軍旅生活を忘れず、秋には狩猟を楽しんだ。北の草原をぞんぶんに駆けた趙の武霊王に負けじと、南の緑野を思うままに馳せた。

 近くは白雲山の山野を奔り、ときにははるか臨允りんいん(広東雲浮市)の高山峻嶺まで遠出し、獲物を山積した車を引いてたち帰った。広州の西郊、肇慶新興県の南十五里にうてながある。白鹿台という。ここで白鹿を射止めた、記念の高殿である。

 晩年の趙佗は遊楽を好んだ。城西の歌舞崗に高楼を築き、毎年三月三日には群僚をひきつれ、酒を酌み交わし、楽器を奏でた。

 管弦楽器のしらべは夜を徹し、おりからの春風にのって趙佗城を包んだ。


 その翌日、お英はある企みをもって、趙佗のめざめを待っていた。

 お英は夫人とよばれている。皇后に次ぐ身分である。趙佗は建国当初から、皇后には正妻を立てていた。趙后である。しかし趙后は、秦が漢にかわっても咸陽あるいは長安の都に留めおかれた。人質にほかならない。立場は厳しい。「別異蛮夷」のあおりを受け、呂后によって虐殺された。不在ではじまり、その後も空席のまま、こんにちにいたっている。

 趙佗がめざめた。お英は着替えを用意していた。中原の衣服、厚く綿を入れた広袖のいわゆる褞袍どてらである。嶺南は南国だったから、入越いらい趙佗は久しく着用していない。

「これは―」

 春さき、中原はまだ冬の名残もあろうが、嶺南は初夏のきざしである。

「なんでしょう。お当てください」

 お英は口で仕付け糸をはずしながら、楽しそうにいった。

 とっさに趙佗は思い出した。幼い趙始を引き取ったとき、母からといって寄こした衣服にちがいなかった。なん十年も経つが、まだ手も通したことさえなかった。

「せっかくのお心づくしでございます。せめてお手なりとお通しせねば、奥方さまに申しわけがたちませぬ」

 趙后といっても名ばかりの皇后である。結婚いらい仕事にかまけて、碌にことばもかけてやっていない。あげくが長期の嶺南入りで、家を空けたままである。趙始を救出に送ったが、ときすでに遅かった。

 厚手のあわせの背中が冷えた。はじめて後悔した。

 ――すまぬ、あの世でつぐなう。いましばし待っていてくれ。

 朝食のあと、趙佗はまた横になった。徹宵の疲れが残っている。

「――」

 夢に出たものか、趙后の名を呼んだらしい。

 お英は、そっと趙佗の褞袍の胸元を合わせた。趙佗はいびきを掻いて寝入っていた。

 お英の手をまさぐった。

「どなたの手とおまちがいですか、大王さま」

 お英は、もう片方の手でかるく叩くふりをして、両手を重ねた。


 漢の武帝建元四年(前一三七年)、南越王趙佗は、臨終を迎えた。寿齢百三歳である。

 死に臨んで、趙佗はお英に別れを告げた。

「お英、ありがとう。長い歳月、よくついてきてくれた。わしは満足している」

 お英は首を振っていないなをした。

「だめですよ、そんなことをおっしゃっては。わたしならどこまでもお供しますからね」

「いや、それは許さん。わしのあとを追ってはならぬぞ。南越国はまだもろい。呂嘉を助け、趙胡を見とどけてやってくれ」

 さいごに趙佗は「痛快トォンコヮイ」とつぶやいた。人生痛快だった。武霊王の辞世にならった。

「えっ、なにか」

 お英が趙佗の口元へ耳を近づけたが、聞きとれなかった。

 傍らに侍した呂嘉が、全身を震わせて嗚咽した。

 呂嘉とて高齢である。しかし後事を託された呂嘉に、歳なりの安逸な日々は許されない。こののち呂嘉は、南越国の最期までみとることになる。


 南越国は、五代九十三年におよぶ。趙佗の在位は、そのうちの六十七年である。

 嫡子趙始の消息は記録にない。嫡孫の趙胡が、二代目南越王を継いだ。

 のちにお英は、この趙胡に殉じることになる。

 一九八三年六月、広州市内象崗山腹で、「西漢(後漢)南越王墓陵」が発見された。二代目趙胡の墓陵である。墓室から十五名の殉葬者が確認されている。四名の妃嬪のうち、ひとりが趙佗夫人と見られている。同じ棺から出土した印璽から推定されたものである。


 南越国滅亡後、南越の国人は南越王宮を南越王廟にあらため、趙佗を供養くようし、廟内に尉佗楼をもうけた。

 この廟宇は千余年後の唐代、なお存在した。著名な詩人許渾きょこんは南越国へ出使したおり、南越王廟へ詣でた。国人の趙佗にたいする崇敬を知り、その感懐を『尉佗楼に登る』七言律詩一首に詠んだ。


  劉項兵を持つも鹿はいまだきわめず

  みずから黄屋に乗る島夷のなか

  南に来りて尉とるは任囂の力

  北に向かいて臣を称すは陸賈の功

  簫鼓なお今世の廟につら

  旌旗なお昔時の宮に鎮める

  越人いまだかならずしも虞舜ぐしゅんを知らず、

  ひとたび薫弦を奏でれば万古の風


 劉項は劉邦と項羽、鹿は帝位をさす。黄屋は天子の車、島夷は南方に住む未開人の意。虞舜は帝舜、ここでは虞舜に代表される中原の文明。南越の国人がまだそれを知らなかったとき、趙佗が中原の文明をこの地に伝播し、嶺南の面貌を一新したのである。

 しかし、嶺南にはなお古の伝統が息づいている。


 趙佗は嶺南人として死んだ。そんな趙佗を、侵略者とそしる人はいない。


          (天・地・人の章 全章 了)

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南越王伝奇 ははそ しげき @pyhosa

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