人の章 17.陸賈来復


「一陽来復」とは、『周易本義』にいう「陰がきわまって陽が生ずること」である。陰暦十一月の冬至または新年をさす。転じて、「物事の苦しい時期がすぎて、春の季節がはじまること」をいう。陸賈の南越再訪は、まさにこの「一陽来復」であった。

 前一七九年、漢の文帝劉恒が即位した。かれは、呂氏集団の壊滅をもって終息した激烈な内部闘争を収拾し、天下の人心を休ませ安定させる必要のあるときに皇帝となった。

 だから劉恒は穏健な社会環境の構築に留意し、一族連座制や四肢切断の酷刑を廃止し、農地の租税を減免した。対外的には、匈奴の侵入にそなえ北方の守りをかためたが、諸侯や四夷に進言させる懐柔政策を実施した。ちなみに四夷とは、古代漢民族が中国の周囲に隣接する未開の異民族をさしていうことばで、東夷とうい西戎せいじゅう南蛮なんばん北狄ほくてきの総称である。転じて服従しない四方の民をいう。とうぜん、南越は南蛮にふくまれる。

 趙佗は皇権の交代期に的を絞り、越城嶺に駐留中の漢軍将領周竈をつうじて、

「長沙両将の軍兵を退き、領地を真に定めたる持ち主に返還していただければ、漢との講和協議におうじる」

 と朝廷に上書した。さらに長沙国の嶺南側にある領土を南越国に編入することを要求した。長沙国と南越国とのあいだは自然の境界線によったものではなく、作為的に分けられていた。犬の歯のように入り組んで不揃いな状態である。かつて劉邦が意図して引いた伏線によって、五嶺以南の一部の土地を不自然な形で長沙国に編入していたのである。

 劉恒は賢明な天子であった。趙佗の上書と要求をうけとると、ことの是非を的確に判断し、ただちにみずからこの大事に対処した。

 まず劉邦が南越にたいしてとった慰撫政策は継承することに決し、呂太后の対南越政策の誤りを正した。さらにかれは、人を遣わして趙佗の父祖の墓を修復し、一族を見舞い安撫した。族誅を免れた趙氏の眷属を探し出し、官職につけ禄高をあたえた。こうしたやりかたは、趙佗の心に大きく響いた。

 南越辺境にある漢の二軍団のうち、周竈の軍隊は留めおいたものの、博陽侯陳濞の軍勢は撤退させた。

 さらにそのすぐあと文帝は、陸賈をふたたび起用した。太中大夫に封じ、南越国へ遣いすることを命じたのである。このとき陸賈は七十五、六歳、とうに古希をこえていた。とうてい遠路の旅にたえうる年齢ではない。辞退して非難されるいわれもない。しかし陸賈は敢然として遣使の任を受命したのである。

 いま漢越両国は、五嶺の国境で一触即発の対峙をつづけている。平和裡に双方の戈矛かぼうを収めさせ、南越にはふたたび玉帛ぎょくはくを貢納する臣属関係に服してもらわなければならない。

「干戈を化して玉帛となす」(戦争を友好に化す)

 陸賈の決意である。ちなみに玉帛とは玉と絹織物のことで、諸侯の朝覲ちょうきんや天子への謁見を比喩することばである。

 呂太后の悪行は、趙佗のプライドを真っ向微塵に切り裂いた。親族の多くを誅殺され、趙佗の面子は丸ごと潰された。その種は、もとはといえば高祖劉邦が蒔いたにひとしい。だとすれば、後始末を担えるものは、じぶんをおいてほかにいない。じぶんが講和の使者に立たないでどうする。陸賈はすでにほぞをかためていた。

「一死をもって趙佗にわびる」

 己がいのちを賭ける覚悟であった。

 文帝即位の年、老陸賈は一名の副使をともない、再度、嶺南へ赴いた。前回の旅から十六年の歳月がたっていた。

 一方趙佗は、こんど来る漢の使者はやはり陸賈だろうと予想していた。しかしこんなにすばやく文帝が反応するとは、思ってもみなかった。漢にたいする怒りが和らいだ。

それにもまして、陸賈がなつかしかった。使節の到着を聞きつけるや、前回とは異なり、趙佗は大急ぎで城門を開け、みずから群僚の隊列をひきつれて迎えに出た。

 旅の疲れのせいもあろうが、陸賈はひどく老いてみえた。

「すまない」

 趙佗は陸賈の手をとって、小声でわびた。

「いや、わびるのは老生わたしのほうだ」

 陸賈が屈託のない笑顔でこたえた。心が通いあった。ときの隔たりが一気に遠のいた。

 陸賈は漢文帝の『南越王趙佗に賜る書』を携えていた。

 高祖劉邦の人を威圧する高飛車な口調とはうってかわり、文帝の詔書はつつましくへりくだった調子でつづられていた。


 まず冒頭の書き出しは、「皇帝謹問南越王、甚苦心労意」とある。趙佗を南越王とよびかけ、領地経営の苦心をねぎらっている。属国に君臨する皇帝としての居丈高さはかけらもなく、おだやかで親身な文致である。終始、友好的な姿勢でつらぬかれてあった。

「わたしは南越王趙佗卿にたいし、これまでのご苦労を謝し、親しくごあいさつ申し上げる。わたしは高祖劉邦の側室が生んだ子で、北方の守りを命じられ、長く代州(山西太原)に居住していた。道のりははるかに遠く、交通は不便だったから、これまであなたとはおつきあいできなかった」

 文帝は呂太后の嫡子ではなく、側室薄姫の子である。辺境に近い代に封じられたのも、高祖劉邦の嫡系でなかったことによる。この一句は、呂太后との血縁関係がないことの強調になっている。呂太后の制裁にたいする、趙佗の怒りを鎮めるための卑下である。

「高祖が亡くなったあと、恵帝が即位され、高后(呂太后)が聴政されたが、常軌を逸した治政がおこなわれていた」

 その間、呂氏一族が天下の大権を握り、暴虐にふるまったが、いまやすべて誅滅させられた。自身もまた群臣に擁立され、やむなく帝位を継いだ。その後、

「あなたが将軍隆慮侯周竃に書信をお出しになったことを聞き、訴えにもとづき将軍博陽侯陳濞を罷免し、人を遣わして真定にいるあなたの兄弟宗族を見舞わせ、あなたの祖先の墓を修復した」

 趙佗は二将軍の罷免を求めたが、文帝は陳濞将軍を解職するにとどめた。譲歩の限度を示したともいえる。

 つづいて文帝は、南越が長沙の辺境を侵犯したことに触れ、つよく戦を否定した。

「過日、あなたは国境地帯に兵を出し、長沙の辺境を撹乱した。長沙国、とくに郡南部の民がこうむった被害は少なくなかった。このため人民は、いまも戦禍の後始末に追われている。わたしは争いを好まない。戦争は南越にとっても、よいことはなにもない。漢越が干戈を交えれば、かならず多くの将兵が死傷する。妻は夫を失い、子は父を亡くす。残された老父母の面倒はだれがみるのだ。わたしもこのようなことをするに忍びない」

 南越国と長沙国との領地をめぐる問題について文帝はこういう。

「わたしは本来、南越と長沙の境界線が、犬の歯のように入り組んでいる情況を調整したいと思っていた。しかし境界は高皇帝がお決めになったもので、わたしが勝手に変更することはできない」

 そこで、紛争の解決策をさし示した。

「五嶺以南の統治は、あなたにまかせる」

 高祖劉邦の決定した境界線は動かさないが、実質的に南嶺の自然の地形によって南越国の北部境界線としたのである。英断といえる。

 問題は帝号をなのることである。文帝は帝号の取消しを強調する。

「あなたが帝号をなのると、帝が並立する。あなたが帝位にこだわり朝見せず、争って譲らないのは、賢明なやりかたではない。いまからでも遅くはない。たがいに旧怨をわすれ、これまでどおり、いつでも使節をかわしあおうではないか」

 趙佗だけを一方的に非難するのではなく、漢朝も一歩譲ることで、趙佗の譲歩を婉曲にうながしたのである。趙佗が帝号を放棄すれば、それ以上は追求しない。高祖の時代にもどし、南越が帝国ではなく、漢の王国の地位に甘んじてくれるなら、それでよしとしたい。

「そのため陸賈を特使とし、わたしの意見を代弁させる」

 文帝は、詔書をつぎの文言で結んだ。

「あなたがわたしの意をくんでこれを受け入れ、ふたたび戦場で相まみえるということの絶対にないよう、せつに希望する」

 紛争を終息し、和解する意思を、文帝みずから表明したのである。

 文帝が帝位に登ったのは、二十三歳のときである。政治的にこれほど成熟し、老練であるはずはなく、このような恩威ならび施す大文章を文帝みずから書き記したとは考えにくい。おそらくは外交特使陸賈の手になるものであろう。

 文帝は使者に、上 褚衣しゃい五十着、中褚衣三十着、下褚衣二十着をもたせた。褚衣は絹製の綿入れで、上中下は厚さのちがいを示す。

 文帝は趙佗が憂いを忘れて楽しむよう願い、隣国との友好関係を保つようくれぐれも依頼した。いわゆる隣国とは、近隣の王国以外に東甌・西甌・駱越など百越族をふくむ。かつて高祖のときも、趙佗に「和輯わしゅう百越」の希望を託したが、漢の朝廷は、趙佗に臣属を希望しただけでなく、さらにかれが南方の蛮夷をうまく管理し、漢朝の国土として平穏無事を保つよう希望したのである。

 趙佗にはよく分かっていた。わずか数十年の開拓の歴史しかない南越である。数千年の歴史をもつ中原と肩をならべるだけの実力は基本的になく、漢越が対抗すればとうてい持ちこたえられない。ひとたび中原に「賢天子」が出れば、勢いに乗ってまたたくまに南越国を抹殺できよう。

 趙佗とて、もはや一介の武将ではない。百万を越える人民の生命と財産をあずかる政治家の立場で、趙佗はことの理非を判断した。皇帝だの王だのという執着はなかった。

 劉恒の詔書は南越を慰撫し、督励することに多くの文言を割いていた。一方的に責めることを極力慎んでいた。漢側の非を認めることで趙佗に救いの手をさしのべていた。情をもって心を動かし、理をもってことを明らかにしたのである。

 趙佗は感動した。叩頭こうとうして恩を謝した。

「明詔を奉り、永久とこしえに藩臣となり、貢職奉らんことを願う」

 漢朝に臣属し、貢納することを約した。

 即日、帝政の撤廃と漢の皇帝への帰順を、南越全土に宣告した。

「老夫の死骨は腐らず、あえて帝号を称さず」

 重ねて誓いをたてた。

 趙佗は文帝に上書して、ことのしだいを釈明した。

「以前、呂太后が讒言を信じて、南越を藩属からはずしたことがありました。それでやむなく帝号を自称したのです。けっして漢朝に対抗しようとしたのではありません」

 また文帝の配慮にたいし深く謝辞した。

「いま陛下は老夫を哀れんで、南越王の封号を回復してくださいました。そして南越が諸侯国のひとつとして、漢の朝廷とたがいに使節を派遣しあうことをお許しになりました。まことにありがたいことと感謝しております。使節の往来が復活し、交易がもとのように活発化すれば、あえて威を張る必要はなくなります。向後、老夫がふたたび帝号を称することはありません」

 こののち趙佗は漢朝にたいして、恭しく藩臣の礼をとった。

 しかし、南越国内ではいぜんとして皇帝をなのっていた。

 その理由として、趙佗は文帝にあてた文書のなかで、王と皇帝との格のちがいをあげている。南越の周囲には蛮夷がおり、それぞれが王と自称している。西の西甌王、東の閩越王、西北の長沙王、いずれも卑俗な蛮夷にすぎない。なかには裸同然で暮らしているものもいる。それが王となのっているのである。「じぶんはそれとは違うだろう」と、暗に同意をうながしている。文帝は黙認した。


 年齢こそひとまわり以上離れてはいたが、趙佗は陸賈を生涯の友として親しみ、また人生の師として尊んでいた。陸賈も無二の友として趙佗を敬っていた。

 じつは始皇帝の「琅邪ろうやちかい」については、前回の使節のおり、趙佗の口からじかに聴かされていた。始皇帝の壮大な理想に陸賈は賛同し、しきりに感嘆した。呂太后が趙佗の一族を誅殺したとき、救援に駆けつけた趙始らを陰で援助したのは陸賈である。

 趙佗と陸賈、気心は知れている。話のうまがあって、話題はつきなかった。夜を徹して、いつまでも語り合った。

「老夫はまだ始皇帝陛下との約束を果たしておらぬ」

 さいごに趙佗はしみじみ述懐した。

「老生とてこたびは一命を賭けてまいった。このいのち、その夢に託そう」

 陸賈は、趙佗への支援を明快に約した。

 趙佗が漢文帝にあてた返信を懐にし、陸賈は長安へ戻った。

 陸賈の帰朝にさいし、趙佗は多くの嶺南の特産物を貢納した。

『史記』にはこう記されている。

「白璧一双・翠鳥かわせみ千・犀角十・紫貝たからがい五百・桂蠹けいとつ(モクセイの木につくキクイムシ)一器・生翠四十双・孔雀二双を文帝に献ず」

 こののち、南越と漢は以前の関係を回復し、「関市」も再開した。文帝を継承した景帝の統治期間も、趙佗はもとどおり臣職を授かり、不定期に使者を長安に送って皇帝に伺候し、献上品を貢納した。


 陸賈の著した『南越行紀』に、素馨花そけいかが紹介されている。

「海外からもたらされたもので、中原では目にしない艶やかさがある。嶺南の人びとにその芳香を愛され、競って栽培されたが、ことに女子の髪飾りとして珍重された」ということなどが記されている。珠江南岸、芳村ファンツゥン花地ホアディの素馨花は、ジャスミンの一種である。

 古代、この芳村の花市はないちは、羅浮らふ薬市くすりいち合浦ごうほ珠市たまいち東莞とうかん沈香じんこういちとあわせ南越の四市とよばれており、その盛況振りが喧伝された。これもまた陸賈が後世に残した足跡のひとつといいうるのである。

 陸賈は博学多才で知られている。かれは広州へ来る途次、あるいは趙佗に誘われ広州郊外に遊んださい、好んで山に登り川を渉った。

 博羅(いまの恵州)への道すがら、みずから命名した山もある。「羅浮山らふさん」である。広州の東九十キロに位置し、中国道教十大聖山のひとつに挙げられている。かつて秦の始皇帝が信じたという羅山伝説にもとづく博羅のいわれを趙佗から聞かされて浮かんだ発想だろうといわれている。太古、蓬莱島の一山、浮山が漂流して合体したというものである。

 徳慶とっけい、古称 端渓たんけいすずりで有名だが、秦漢時代、中原から番禺に進入するさい、かならず通らなければならない要地であった。ここに、陸賈の第二次南越出使の興味ある事跡が、いまもなお残されている。

 徳慶をへて流れる西江の北岸に石頭山がある。草木が生えず、みごとに禿げているので和尚石山といわれる。伝承では、陸賈が再度南越に出使したさい、西江沿いに番禺へ東下し、船でこの地を通ったとき、かれはこの山に向かい黙々として祈りをささげたという。

「われもし、よく越王を説得し、漢室の臣と称させることかなわば、かならずや錦繍きんしゅうを用いてこの石山に報いん」

 陸賈は使命を果たした。さきの祈りのことばを実行するため、陸賈は石山に各種の草花をくまなく植え、錦繍にかえた。

 のちの人がこの事跡を記念して山の名を錦石山とあらためた。また徳慶の人は、錦石山に漢の太中大夫陸賈の祠をたて、長くかれの功績を偲んだ。

 この善隣外交使節であり、また気心の知れた朋友でもある陸大夫への歓迎の意を表わすため、趙佗は番禺の西、船澳の珠江沿いに越華楼(別名越華館)をたてた。陸賈をここに寄寓させ款待したのである。命名の由来は、陸賈の威儀や文采(華やかな色彩)が、百越の精華となったためだという。この越華楼は広州史上はじめて、中原人士の眼福にたえうる結構の迎賓館となった。


 前一七九年、使命を終えた陸賈が嶺南を去った。趙佗はかれを徳慶まで見送った。 なごりはつきなかった。陸賈の年齢から推して、この世でふたたびまみえることは至難に思えた。趙佗自身すでに還暦をこえている。

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