第29話 2月11日 戦闘赤旗勲章授与リャザン歩兵学校


 ――広島、長崎は遠すぎて無理だとしたら、どこか近場――そう、急行列車とかで日帰りで行けるぐらいの距離だったら問題ないでしょ。……どこか東京近郊あたりで希望地は無い? と、千紗姉ちゃんが尋ねる。するとソーニャはちょっと押し黙ったあと、――海が……太平洋が見られる場所に行きたいです、と静かに答えた。


 ――ふむ。そうねえ、それなら、鎌倉なんかがベストかな。あそこは湘南の海も見られるし、古い神社仏閣とか外国人向けの観光名所もいっぱいそろってるから。新宿からちょうどJRのグリーン車一本で行けるし


 ――カマクラですか……。同志マモルに異存がないのでしたら、私はそこでかまいません……。同志マモルの判断に従います、と、無表情のまま答えるソーニャ。


 次の瞬間。いきなり千紗姉ちゃんが恐ろしい形相でおれの方をじっとにらみつけてきた。


 ――ああ、鎌倉かあ、いいね鎌倉、ソーニャがそれでいいならおれも鎌倉でいいよ、うん、うん、はい、わかりましたええそうします、そうしましょう


 年上のいとこから向けられてくる、有無を言わさぬ殺気混じりの鋭い眼光。それに思わずびびったおれは、あわてて目を伏せると、ひざ元を覆うこたつ布団の布地を見つめながら何度もコクコクとうなずいてみせた。


 ――では、明日。ソーニャと守で鎌倉観光に行ってらっしゃい。私は酒飲みながらこの部屋で留守番して帰りを待ってるから。……ねえ、二人とも。たくさん、楽しんできなさいね


 千紗姉ちゃんはにらみつけてくるのをやめた。それから、今までの険しい表情を一変させ急にぱっと笑顔になったかと思うと、なんだかとても嬉しそうな声で おれたち二人に向かって、「気をつけて行ってくるのよ」とつぶやいた。




 鎌倉駅東口バスターミナル広場から歩いてすぐの所に、大きな赤い鳥居が立っていて、そこをくぐると500メートルぐらいの一直線の参拝道が続いている。その未舗装の土の道(『段葛だんかずら』というのがその道の正式名称だそうだ。ガイドマップにそう書いてあった)の先に、鶴岡八幡宮の社殿が建っている。

 社殿に着くまでの道の幅はそれほど狭くはないのだが、お互い大勢すれ違い行き来していたためしっかり注意して進まないと反対方向からやって来る人と肩がぶつかりそうになってしまう。


 鳥居をくぐり参拝道に入ってから、ソーニャは横に並んで歩くのを止め、おれの右前、半歩先の位置へと移動し、そのポジションをキープしつつ神社へ向けて足を進めた。時折、前を行く彼女の背中と後ろに従うおれの胸が接触しそうになる。ほとんど密着状態に近かった。

 ソーニャは、この通行人の混雑の中で、突然おれが襲われたりしないようにボディーガードの体勢を取っているようだった。そして絶えず左右に視線を走らせ てすれ違う参拝客を警戒しいるらしい様子が、背後からうかがえた。


 目の前すぐの所で――ソーニャの肩までの長さの後ろ髪、さらさらの美しいブロンドヘアーが彼女の歩調に合せて揺れている。ぼんやりと そのきれいな光景を見つめながらおれも足を進めつつ、こんなふうに思った。


 ――政治家とか大物財界人みたいな重要人物の外出になら、警護のSPなんかが付くのはわかるけど……。おれみたいなただの平凡な三流私立大学生の観光旅行に、ボディーガード付きだなんて……。なんか笑っちゃうよな、大げさすぎて。しかも、その護衛役は、まだはたち前の、ロシア人の女の子だもん。客観的にみたら冗談みたいな状況だよな、これ


 心の中でにが笑いしつつ、ソーニャの後につき従っていく。


 混雑のためちょっと時間がかかったが、やがて、500メートルの参拝道は終わりをむかえ、おれたちはもう一つの大きな赤い鳥居をくぐり、あたり一面に玉砂利の敷かれた社殿前の広場へとたどり着いた。

 ようやくせまい参拝道から抜けだし神社の広い境内に到着すると、ソーニャは歩を止め、高い背丈の身体をくるりと回転させた。そうして、背後のすぐそばに立っていたおれの姿を確認すると、不意に、こう言った。


「マモルさん、私は一応、心がけました。周辺警戒をげんにするあまり緊張しすぎたりしないよう、リラックスして平常心で行こうと試みましたが……だめでした、まわりに人が多すぎて、つい、肩に力が入りすぎました」


 そうして微苦笑を浮かべるソーニャ。

 確かにあの参拝道の途中、突然誰かに襲われたら対処するのは難しいだろう。ソーニャが緊張したのも理解できる。


「さきほどまでのような状況――脅威対象者との距離があまりにも接近しすぎているような場合では、ふところから拳銃を抜いて応戦する時間的余裕もありませんし……。ええ、無事に神社に到着できて本当に良かったです」


 ……おれは、ソーニャのロングコートの前ボタンが全部閉められたままでいることに気がついた。

 これはつまり、誰かの襲撃を受けた際、ソーニャは脇の下のトカレフをホルスターから抜くつもりが最初からなかったということだろう。


「ふーん……。じゃあさ、拳銃が使えないなら、どうやって相手――もしおれを襲ってくるような相手が実際にいたとしての話だけど……撃退するつもりだった の?」


 心の中にわいた素朴な疑問をおれはそのまま口に出した。

 それに対し、ちょっと真面目な表情をして、数瞬黙りこむソーニャ。

 神社の境内にいた他の観光客の集団が、『源平池』と看板の立っている大きな池の前で固まって記念写真を撮った。曇り空のため、カメラのフラッシュが光る。すぐそばの玉砂利の上にいたハトの群れは、慣れているのかカメラの閃光も気にせず、そのまま平然とエサを探してくちばしで地面をつつき続けていた。


「……あのような拳銃が使えない非常に接近した間合いでは、ナイフの使用が有効的です」


 そう返答してきたソーニャの声は落ち着いて淡々としたものだった。


「……ナイフってあの?」


 おれはバカみたいに聞き返す。


「ええ。小型の護身用の物です」


 今度はおれが数瞬黙りこむ。そして、ちょっとしてから、聞き返す。


「ソーニャ、ひょっとして、外出時には拳銃以外にもナイフも身につけてるの?」


 そんなおれの問いに対し、ソーニャはただにっこりと微笑み返してきただけだった。

 言葉は戻ってこなかった。いや、しばらくしてから、返答があったが、それはまるでひとりごとをつぶやくような抑揚のない静かな口調だった。そして、彼女の視線はおれではなく、境内の奥に見える社殿の建物の方に向けられていた。


「……モスクワのヴォロシーロフ名称大学付属・外国語専門学校時代のことです。軍事教練の時間、リャザン空挺学校から特別に派遣されてきた教官が、私たちに実戦射撃術や徒手格闘技の訓練を行いました。生徒が男だろうが女だろうが訓練中区別しない、ひどく厳しい教え方の軍事教官でした。でも、私たちは畏敬の念を込めてその人のことをヴォルク――ロシア語で狼という意味です――というあだ名で呼び、彼の過酷な訓練に耐えました。――だってヴォルクは、大祖国戦争でスターリングラード攻防戦からベルリン占領まで戦い抜き、ソ連邦英雄称号とレーニン勲章を授与されたような偉大なサルダート――真の赤軍兵士だったんですから。そのような人物から訓練を受けられる光栄に勝るものはありません」


 そして、ソーニャはそこで長々とした言葉をいったん区切った。

 わきでは、記念写真を撮り終えた観光客達が、ざわざわざと神社の奥の方へと移動し始めた。


「……へえ、それで?」


 ソーニャにしては珍しく、もってまわった言い方するなあと思いつつ、おれは話の続きをうながした。


「……そんなヴォルクが訓練中語った数々の言葉の中でも強く私の記憶に残っているものがあります。それはこうです。『――ナイフとは隠し持つものだ』と」


 そこまでしゃべり終わると、ソーニャはゆっくりと唇を閉ざし、目線を自身の足元へ落とした。

 彼女の言う事の内容がいまいちピンとこなかったおれは、とりあえず、


「ソーニャも、その教官が言ったように、ナイフを隠し持ってるの?」


とたずねてみる。


「――マモルさん、それは回答を求める命令ですか? それともただの好奇心からの質問ですか?」


 自身のつま先から静かに目線を上げおれの方を見つめ直すと、ソーニャはわずかに首をかたむけ問い返してきた。おれはちょっととまどい、


「いや、ただ聞いてみただけで、命令とかそんなおおげさなものじゃないよ」


と、いささか困惑気味に答える。


「そんなにナイフの所持が気になるのでしたら、身体検査でも――?」


 そう言ってソーニャは自分の両腕を水平に伸ばし、身体の前面をすっとこちらへ向けてボディーチェックの姿勢を取った。

 その反応に対しおもわずあわてて、何か言うとしても、口がどもって言葉にならないおれ。

 すると、クスリと笑みを浮かべるソーニャ。


「すみません、私、少し調子に乗りすぎました」


 伸ばしていた二本の腕をひこっこめて、脇の横に戻し、両手を背中の後ろに回して指先を軽く組みながら、もういちどクスリと小さく上品に笑うソーニャ。


「さあマモルさん、神社の建物の方へ向かいましょう」


 そう言ってソーニャがにっこりとした。


 ここ鎌倉に来て、彼女もだいぶ心がリラックスし始めたらしい。明るいその表情を見ながら、おれはそう思った。

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