第7話 2月5日 泥酔
ううーん、というちいさなうめき声がした。
かたわらの千紗姉ちゃんが寝返りをうったのだった。
おれはこたつから頭を上げ、年上のいとこの寝姿にちらりと視線を走らせると、ソフィアの方に向き直って、
「ともかくですね、同居という話は」
と、声を出した。すると、同時に、もう一人の声が重なった。
「いいじゃない」
それは、千紗姉ちゃんの声だった。
「この部屋にしばらくいたいと言うのなら、置いてあげればいいじゃない」
おれは驚いて千紗姉ちゃんの方を見た。千紗姉ちゃんは目をつむったままこたつにもぐりながら、口だけを動かしていた。
「スターリンの密書とかを開封するまで、いてもらえばいいじゃない」
はっとなって、ソフィアが身を硬くする。どうやら二人の会話は筒抜けだったらしい。千紗姉ちゃんはただ横になっていただけで、眠ってはいなかったようだ。
「ねむ。さむ。ああ、だるい。ううーん。……まあ、ともかく、別に同居人が一人ぐらい増えても困んないでしょ、守」
いきなり自分の名前が呼ばれたので、瞬間びくっとした。
――しかし、千紗姉ちゃんはいきなり何を言い出すんだ。まだ、かなり酔っ払っているのだろう、ひどく無責任なことを言う。彼女と、同居しろだって? そんな無茶な。
「えーっと、ソフィア……さんだっけ? あなた、今夜どこか泊まるあてはあるの?」
腕枕をしながらこたつに寝転がり、目は相変わらずつむったままで、千紗姉ちゃんは問いかける。
「あ、いえ……。宿をどうするかとかは、全然決めていませんでしたので」
ソフィアはおずおずと答えた。千紗姉ちゃんとソフィア。それは今日出会った二人が、始めて言葉を交わした瞬間だった。
「守、わざわざ外国から来たお客さんを、それもこんないたいけな女の子を、冬の寒空の下に追い出すって言うの? それはあまりにもひどすぎる……わ、よ」
しゃべりながら、ゆっくりと、おっくうそうな動作で上半身を起こすと、こたつのテーブルの上に両手を置く千紗姉ちゃん。ぼんやりと開かれたその瞳がアルコールのせいで、赤く充血しているのが見える。
「3月5日までだっけ? 一ヶ月ぐらい、このボロアパートに住まわせてあげても、問題ないでしょ」
千紗姉ちゃんのおれに向かって吐く息が酒臭い。
「いや、でもね」
おれも必死だ。反論する。
「いきなり見ず知らずの女性と、一緒に暮らすなんて、常識から考えておかしいでしょうが。それに、彼女、自分のことを――」
そこまで言ってから、続きの言葉は小声でささやいた。
「ソ連から来たなんて言ってるんだよ。絶対、普通じゃないよ。やばいって。早く帰ってもらったほうが……」
バン!
突然、こたつのテーブルが叩かれた。千紗姉ちゃんが酔っ払った目でにらみつけてくる。
「あんた、義を見てせざるは勇なきなりって言うでしょう!
わかんないよと、小声で答える。――酔っ払いの言ってることなんて。
「彼女はねえ、寒い寒いソ連からはるばる日本までやって来たのよ。それを大したもてなしもせず、追い出すなんて。この人でなし。薄情者。わたしは、あんたを、そんな男に教育した覚えは無いわよ」
べらべらと一気にまくし立てられる。悪酔いした千紗姉ちゃんがこんなにたちが悪かったとは、今まで知らなかった。
「というわけで、ソフィアさん」
千紗姉ちゃんはくるりと視線をソフィアの方に転じて口を開いた。
「遠慮なく、この部屋で一ヶ月間過ごしてちょうだい。横にいるこいつには」
そう言って左手の人差し指をこちらに向けてくる。
「文句は言わせないから」
勝手に話を決められてしまったおれは、千紗姉ちゃんの勢いのよさに数瞬ためらったのち、
「……あの、誰もOKなんて……」
と、横から口をはさんだが、その瞬間、千紗姉ちゃんに服の
「今、私は、酔ってて自制心が無いの。これ以上、グチャグチャ言わないでくれる?」
顔を近づけてきてすっと両目を細める千紗姉ちゃん。おれはその目が、『本気』だということを瞬時に理解した。心に、恐れの感情がわいた。びびって、すぐに相手から目をそらした。
「そういうことでえ」
おれの襟首からぱっと手を離すと、千紗姉ちゃんはわざとらしいぐらい明るい声を上げて、ソフィアの方を見つめた。
「これから一ヶ月間よろしくね、ソフィアさん」
「あっ、はい……! こちらこそ、よろしくお願い致します!」
本当に嬉しそうに、朗らかに、笑顔を弾けさせて、ソフィアはおれと千紗姉ちゃんにぺこりと頭を下げた。
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