第13話 2月6日 青いプラトーク
オムレツとベーコンがフライパンの上でジュージューと焼ける音が、台所から響いてくる。耳をすませば、かすかにその音に混じって、ソーニャの鼻歌らしきものも聞こえてきた。
スーパーへの買い出しから部屋に戻ってくると、ソーニャは当然のごとく自分から進んで、遅めの朝食を作る準備を始めた。
――お部屋に
と、ソーニャ。
おれは料理に取りかかっている彼女とは別に、一人こたつに入ってぼんやりとテレビを観ていた。
今、部屋には千紗姉ちゃんはいなかった。
おれとソーニャがアパートに戻ってくると、すでに千紗姉ちゃんの姿は寝床になかった。どうやら、おれたちがスーパーに行っている間に目を覚まして部屋から立ち去ってしまったらしい。
――勝手に訪問して来て酔いつぶれて泊まっていったあげく、挨拶もなしに出て行って……。まったく、千紗姉ちゃんらしいや
おれはこたつで頬杖をつき、ぼけっとテレビの画面を眺めながら思った。
「マモルさん、朝食ができました」
なぜか妙に機嫌のいいソーニャが、嬉しそうに微笑みながら、朝食の皿をこたつのテーブルの上に並べた。
ふわふわとろとろの半熟オムレツに、肉厚のベーコン。こんがり焼けたバター塗りのトースト、ジャムの乗った小皿、そして湯気を上げる紅茶のカップ。
ああ。
おれは目の前に並べられた料理を見てある種の感慨深いものおぼえた。
こんなまともな朝メシ食べるの、田舎から一人で上京してから初めてじゃないだろうか……。
「ごちそうさま」
おれはかすかに恍惚とした表情で言った。たかがオムレツ一つでも、作る人間の料理の腕によってこうまでも美味くなるものだろうか。材料が、特別すごいというわけでもないのに。それとも、最近まともな朝食(朝食抜きの日がほとんだが)を取っていなかったため、彼女――ソーニャの作った食事がひときわ美味く感じられたのだろうか。
今日のこの遅めの朝食に大いに満足していたのは、おれだけではなく、ソーニャも同様のようだった。
彼女はティーカップを口に寄せると、すっと目を細め、瞬間、何かを思い出し反芻するようにカップを持つ手の動きを止めたのち、やがて一口、喉の奥に紅茶を流し込む。
「ソーニャ、ありがとう。朝食、とっても美味しかったよ」
おれが礼を言うと、
「あんな私の下手な料理で喜んで頂けたのなら……。きっと、食材が新鮮だったからですよ。特にベーコン。あんなに脂身の豊かで厚いベーコンの肉、私は生まれて初めて口にしました……」
どうやら、今朝の食事に対する感動は、彼女の方がおれなんかよりも、数段激しかったらしいことが、その語調からうかがえた。
「……そういえば、チサさん、自宅に戻られたのでしょうか?」
今朝まで千紗姉ちゃんが寝ていたおれの万年床――今はもぬけの殻になっている――を見やりながら、ソーニャが言った。
「ああ、そうだね。今は自分のマンションに戻って一人でなんかしてるんじゃない」
特に関心なさそうな雰囲気でおれは応える。おれはにとっては、あのおっかない千紗姉ちゃんが部屋からいなくなってくれた、ただそれだけで満足だった。
「チサさん、なんで急に会社を辞められたんでしょうね」
ソーニャが尋ねる。
「知らない。すごく給料もいい、大企業に勤めてたのに、いきなり辞めるとは……まあ、時々あの人、何考えているかわからない時があるから。ちょっと変わってるんだよ、性格が」
おれはつぶやく。やれやれという感じの、軽い疲労感を声に漂わせながら。
それからしばらくの間、会話がとぎれた。こたつをはさんで対座する二人の間に沈黙が横たわる。シーンとした時間が続く。少々、気まずい雰囲気。
おれはなにかをしゃべらなきゃと思ったが、何も会話の話題を思いつかなかった。そりゃそうだ、二人は昨日会ったばかりで、何の共通点もない見ず知らずの者同士、しかもお互いが外国人ときている。
どんな話題をすればいいというのだ?
しかも――おれはこうして改めて、狭い部屋の中ソーニャと一緒になってから、困ったことに、ある事実に気がついたのだった。
こんな美人の女の子と、間近で二人きりになったのなんて――生まれて初めてのことだった。そう、生まれて初めて。今までの人生、情けないことに、とんと異性と縁がなかったおれである。それがこんなそばで、誰にも邪魔されずに、綺麗な少女と二人……。しかも相手は、おれの発する言葉を待ち続けて、青い澄んだ瞳をじっとそらすことなく、真っ直ぐに向けてきている。
――おい、ちょっと待てよ。彼女がこれから一ヶ月、この部屋に同居するということは、今の状況がこれからもしばらく続くわけだよな。……ど、どうしよう。女の子と二人きりの生活なんて。き、緊張する。
我ながら情けないが、白状すればそれが今のおれの嘘偽りのない感情だった。
おれはしばらく、もごもごと声にならない声を口の中で出したのち、とりあえず当たりさわりのない話題を切り出した。
「あのさあ――。さっき、料理を作りながら鼻歌唄ってたみたいだけど――なんていう歌?」
とってつけたような、唐突とも言えるおれの発言に対し、彼女はかすかに照れ笑いを浮かべて答えた。
「ああ、聞こえてしまいましたか。料理が楽しかったので、つい、鼻歌交じりになってしまいました。恥ずかしいです……。唄っていたのは、『
おれはふーんとうなずいた。
「どんな歌詞の内容なの?」
それほど興味もなかったが、会話をつなぐためにそうおれは尋ねた。するとソーニャは、瞳に何か楽しげな輝きを浮かばせながら、「ロシア語と日本語、どちらがいいですか?」とすぐに聞いてきた。おれはその問いかけに対し、反射的に、「日本語で」と、答えた。するとソーニャは口からすうっと息を吸い込んだ。白いブラウスの胸元がかすかにふくらむ。そうして彼女はささやくように柔らかく小さな声で歌を唄い始めた。
憶えてるよ今も 最後のあの夜
君の白い うなじすべり 落ちた青いプラトーク
いま 遠く 遠く離れても
のこり香に 君しのぶ この青いプラトーク
いとしい君の便り 胸に押しあて
よみがえるやさし声 熱きまなざし
戦さ 果てぬ 兵舎の窓辺に
今宵また君の名を 指でたどらん
それはすこし切なげな曲調で、どことなく懐かしい雰囲気を漂わせる歌だった。
ソーニャはその歌、「青いプラトーク」のロシア語の歌詞を日本語に訳して唄ったのだった。途中、つっかえたりする様なこともなく、流暢な、美しく明朗な発音の日本語で、最後まで唄い終えた。
おれはそっと拍手した。
揶揄でもお世辞でもなく、純粋に彼女の歌の上手さに感動して拍手していた。
唄う者の感情が本当にこもっている――その事実に、胸を打たれた。芸術とかそういうものに対する素養なんてこれぽっちもないし、音楽とかにもまったく興味はないおれだったが、がらにもなく、今の歌にはなぜかひどく感動してしまったのだった。
一方歌い終えたソーニャはというと、今までのしっかりとした態度を一変させて、急に顔を真っ赤にしてうつむき、押し黙ってしまった。 恥ずかしそうに、座布団の上で身体をそわそわさせている。
「……すごく上手いよ。ソーニャ、ロシアでは音楽学校にでも通っていたの?」
おれが賛嘆の念を込めた声で尋ねると、ますます彼女は赤面し、身の置き所がなくて困ったといった感じでもじもじとして、横座りしているスカートのすそを右手でつかみ、いじくり始めた。
「……私、調子に乗ってしまって……すごく、恥ずかしいです……」
消え入るような声で言うソーニャ。
「そんなことないよ。ほんと、びっくりした。なんと言ったらいいのかなあ……陳腐な表現だけど、まるで天使の歌声のような……」
まさにそれは陳腐な表現以外のなにものでもなかったが、その単純な言葉は彼女をある意味ますます効果的に追いつめてしまったようだった。よく見れば、彼女の下くちびるはぎゅっと噛み締められていて、それは真っ赤に充血していた。
おれはそんなソーニャの姿を、ただ黙って、眺め続けていた。ソビエトだとかスターリンだとか、かなり電波な発言を強情に繰り返す外国人の少女の、意外と純情な一面を発見できたことがなんだか不思議と嬉しかったのだ。
「課外活動で……」
聞き取れない小さな声。おれは対照的に大きな声で、「えっ?」っと尋ね返す。
「……モスクワの、ヴォロシーロフ名称大学付属・外国語専門学校……そこでの課外活動で、合唱のサークルに……いたので……それで……」
再び、口をつぐんでうつむいてしまうソーニャ。
ためらうことなく街中で拳銃を発砲するのも彼女なら、半熟オムレツを美味しく作るのも彼女だし、歌が上手だとほめられると赤面し恥ずかしさに身を固めてしまうのもまたソーニャの真実の姿の一つだった。
本当に、不思議な少女だな。そう、おれは思った。
ふとその瞬間、おれの心の中に今まであったソーニャへの精神的へだたりが、ずっと小さくなったような気がした。
要するに、彼女のことを、17、8才という年齢相応の普通の少女として心理的に受け入れることができるようになったのである。
――とりあえず、『ソビエト』だとか『スターリン』だとかを、しきりと連発する彼女のイデオロギー的な側面は、まあ、ひとまず置いておくとして……。
※「青いプラトーク」訳詩 山之内 重美(敬称略)
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