第14話 2月6日 再び本田千紗


 昼過ぎになると、今まで空に出ていた太陽は厚い雲に覆われ、あたりは薄暗くなり、天気は今にも雪がちらつきだしそうな寒々としたものに変化し始めた。

 外からうっすらと冷気が染みこんできて、アパートの室内の温度を下げる。

 おれは部屋のエアコンの暖房をオンにし、いま足を入れているこたつの温度もさらに上げて、身体を暖めることにした。


「ソーニャ、寒くない?」


 さすがにロシア人の彼女に正座はできないようだが、両足はきちんとそろえた上品な姿勢でこたつの向かい側に腰をおろしている彼女に、おれは尋ねる。


「お気づかいありがとうございます」


 こたつのテーブルの上に視線を落としていた彼女は顔を上げ、瞳をおれの方に向けた。


「でも、これくらいの寒さ、全然平気です。私は、ロシア人です。ロシアの冬に比べれば、日本の冬なんて……」


 そうつぶやきながら口元をそっとゆるめ、穏やかなほほ笑みをしばしの間おれに向けると、彼女は視線を再びこたつの上、自分の手元に戻した。

 ソーニャの前には、分解された拳銃――トカレフの各種パーツが並べて置かれていた。彼女は旅行用鞄かばんから取り出した布きれで、むき出しになった銃身の、内部の煤すすを丁寧にぬぐっていた。やがてすすをふき終わると、今度はその銃身を右手で頭の上に掲げ、部屋の蛍光灯の明かりにかざした。そして銃口に片目を当てて、銃身の内部をじっとのぞき込む――。しばらくたってから、彼女は銃身をこたつのテーブルに戻した。どうやらチェックはそれで終わったらしい。

 そしてソーニャは、今度は分解されていた各種部品を手の中で組み合わせ、結合し始めた。それは実に手慣れた手つきで、ものの一分もしないうちに彼女はバラバラだった部品を元の銃の形に組み立てあげてしまった。それから、完成したトカレフの各部をあれこれといじくり、その動作を確認するのだった。

 彼女はトカレフを右手に構え銃口を畳に向けると撃鉄をあげ引き金を引いた。カチン! という硬質の音が部屋の中に響いた。

 こたつの上には、部品が一つだけ残されていた。それは拳銃の弾が入っている部分、マガジンだった。

 ソーニャは何十発もの弾丸が垂直に並べて詰め込まれた紙の箱(これも旅行用鞄の中から出してきた)、その箱から二発、たまを抜き取ると、一発ずつ、 ゆっくりと、左手に握ったマガジンの中に詰めて入った。

 そんな目の前の光景を、おれはこたつで背を丸めながらぼーっと眺めていた。


「……本当は、弾倉に弾をずっと装填したままでいるのは、良くないことなのですが」 


 おれと目を合わすことなくうつむいて手元の作業に集中したまま、ソーニャは言う。

 彼女の華奢な手の、その白く細い指に力が込められ、最後の弾丸がマガジンに詰め込まれた。


「長い間、弾を詰め込んだままでいると、弾倉のスプリングの力が弱まってしまい、射撃中まれに薬室への装填不良が発生することがあるんです」


と、言い終わると、彼女は右手に握ったトカレフに、左手のマガジンを勢いよくたたき込んだ。にぶい鉄の音が耳を打つ。


「でも、まあ、これから一ヶ月ぐらいの間だったら、スプリングの問題は大丈夫でしょう……。予備の弾倉もいくつか持ってきていますし」


 不意にソーニャは顔を上げ、こちらの目を真っ正面から見つめてくると、そうつぶやいた。


 ――シュールな光景だ……


 おれは思った。

 冬の日の午後、東京の片隅にある、ボロアパートの肌寒い一室。そこでおれは、実弾が装填された拳銃を片手に握りしめた外国人――ロシア人の少女と、こたつをはさみ二人きりで対座しているわけで……。


 ――何も起きず、無事に一ヶ月が過ぎればいいけど……


 今朝のソーニャの発砲事件を思い出しながら、おれは心の底から切にそう願った。


 これから先のことを考えると、なんだか非常に暗い気持ちに陥りそうになったので、おれは畳の上に転がっていた週刊漫画雑誌に手を伸ばしページを開いて、お気に入りの格闘技マンガを読んで気分転換することにした。一方ソーニャは、手入れの終わった拳銃を、両手で自分の胸の前にそっと掲げ持ち、その黒光りする鋼鉄のボディーをじっと眺め始めた。

 数分が、たった。

 ふと、おれは、ソーニャの態度が奇妙なのに気づいた。彼女は相変わらず先ほどと同じ姿勢のまま、両手の中のトカレフを凝視し続けているのだった。 

 おれは漫画をめくる手を止めると、盗み見するように、ちらりと上目づかいで彼女の様子をうかがった。

 ソーニャは、ひどくぼんやりとした表情をしていた。その身体は座布団の上でまるで凍り付いたように固まり、微動だにしない。瞳をのぞき見れば、さっきまでそこにあった光――彼女の性格を表すかのような明朗で力強い輝きは完全に失われており、今は何か虚無の陰に覆われたように暗かった。そうして視線は目の前の拳銃ではなく、別の物、ここではないどこか遠くの何かを視ているかのようだった。


 急に体調でも悪くなったのか? そう思ったおれは彼女に声をかけようとした。

 その時、突然。

 アパートのドアのチャイムが鳴り響いた。

 チャイムの音が鳴り終わるや否や、勝手にガチャリとドアが開かれて、室内に誰かが無断で上がり込んできた。何か重い物を運ぶガラガラという車輪の音が台所の方からしてきて、何事かとおれが身体をひねってそちらを見れば、目の前に現れたのは馬鹿でかい海外旅行用スーツケースを両手でひきずる若い女の姿だった。


 それは誰あろう、他ならぬ千紗姉ちゃんその人であった。

 タートルネックのセーターにジーンズという、昨夜のビジネススーツ姿とはうって変わって今日はラフな格好をしている千紗姉ちゃん。彼女は海外旅行用スーツケースをドアからの通路の上に置いたままにすると、六畳一間の室内にゆっくりと足を踏み入れてきて、そこにいたおれとソーニャの姿を鋭い目つきで交互に見やった。


「ど、どうしたの、千紗姉ちゃん、いきなり」


 おれは千紗姉ちゃんの突然の出現に慌てながら、うわずった声で尋ねた。

 だがこちらの問いかけはあっさりと無視された。千紗姉ちゃんはおれとは一切目線を交わさず、ソーニャの方だけを見て口を開いた。


「おはよう……というには、もう遅すぎるか。こんにちは、ソーニャ。昨日はよく眠れた?」


 相手を見つめながらそっと微笑む千紗姉ちゃん。


「はい。夕べはお布団を使わせて頂き、ありがとございました。おかげで、ぐっすり眠れました」


と、ソーニャも微笑みを浮かべながら返事した。先ほどまでの「心ここにあらず」といった感じの不自然な状態はいつのまにか消えて無くなり、彼女は今はもう元の姿に戻っていた。

 千紗姉ちゃんはソーニャの返答を聞くと、満足そうに小さくうなずきながら歩を進めて、空いているこたつの席に腰を下ろした。そしてこたつの中にその長いすらりとした両足を伸ばす。その際、先に入っていたおれの足がガンと蹴飛ばされた。苦痛の表情を千紗姉ちゃんに向けておれは無言の抗議をしたが、向こうは相変わらずこちらには目もくれない。

 ソーニャの手の中にはまだトカレフが握られたままだった。だが千紗姉ちゃんはそれを見てもまったく平然としていた。一瞬ちらりと拳銃に一瞥をくれただけで、それ以上特になんの興味も抱かないようだった。

 こたつに入った千紗姉ちゃんは、異国からやって来た少女の顔を改めて間近から見つめ直すと、


「ソーニャ、私がいない間、守にヘンなことされなかった?」


と、その切れ長の瞳を悪戯っぽく細めながら問いかけるのだった。


「ヘンなことってなんですか?」

「ヘ、ヘンなことってなんだよ!」


 おれとソーニャは同時に言葉を発した。

 それを聞いて、喉の奥でくくっと小さく笑い声を立てる千紗姉ちゃん――。

 何の後ろめたいところもないのに、なぜかあわててしまうおれ――。

 きょとん、とした表情のソーニャ――。

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