第12話 2月6日 Anti-Stalinism


「すごい! 食料品が山のようにあふれている……。こんな光景、生まれて初めて見ました! Мясоミャーサが……肉が、こんなにたくさん……牛肉も豚肉も鶏肉も……あっちには、パンがいっぱい置いてありますね。なんて豊かな……。オーチン・ハラショー! モスクワの百貨店グムにだって、こんなに物はあふれていません。すごい、本当にすごい!」


 心底から感動したらしく、ソーニャはあたりをはばかることなく店内で大声を出した。そんな外国人の彼女の姿を、ショッピングカートを押した主婦が怪訝そうにちらりと眺めながら、かたわらを通り過ぎていく。 


「私は日本は戦争の結果、荒廃して復興途上だと聞いていましたが……敗戦から半世紀以上過ぎた今では、こんなに豊かになったのですね。……ああ、資本主義に、負けてはいられません。我が祖国ソヴィエトも、きっと社会主義計画経済の理念を実現させて、今の日本をはるかに上回る豊かな国家になっているはずです……」


 スーパーの棚にずらりと並んだ商品を興奮気味に眺めながら独り言を続けるソーニャを、プラスチックの買い物かごを持ったままおれは見つめていた。


 あのあと――自動車に向けて拳銃を発砲したソーニャの手を引っ張って、現場から数百メートル走って逃げ去ったあと、おれはぜいぜいと息を切らしながら大声を出した。


「ソーニャ、なんで撃ったの!」


 目の前の彼女は険しい表情をしていた。何かを警戒するように、頭を左右に振ってあたりをくまなく見回している。

 よく見れば、右手にはまだトカレフが握られたままで、左手の中にはソーニャが銃撃現場で雪の中から自身で回収した二発の空薬莢があった。


「はやく、その拳銃しまって!」


 おれが言うと、ソーニャは首を動かして背後の様子を用心深くうかがいながら、トカレフからマガジンを抜きそれをボタンが開かれたロングコートの中にしまう。そして、その銃のスライドを引き、薬室内に装填されていた一発が宙に舞うのを器用に左手でキャッチすると、ようやく彼女はロングコートの内側の左胸のあたりにゆっくりとトカレフを突っ込んだ。


「どうやら、追跡はされていないようです、マモルさん。でも、まだ警戒が必要です」


 真剣な口調で言いながら、おれの目をまっすぐに見つめてくるソーニャ。

 彼女は数百メートルを走ったあとでも息切れ一つしていなかった。その顔には、緊急事態に対応する際の警官か兵士のような厳しさ――ある種の訓練を受けた者独特の雰囲気、とでも言ったような硬いものが張り付いていた。


「やはり、日本は西側陣営の国です。いわば、私たちは共産主義陣営を攻撃する反動勢力があふれた敵地の真っ直中にいるようなものです。――マモルさん、今後、十分注意してください。さっきあなたを轢き殺そうとした車が何者の手先か――アメリカや日本の治安当局、または他の反革命的グループか、どの実行組織かは判りませんが、マモルさん――あなたの命が狙われているのは確かなようです――。でも、安心してください。私が、あなたを、常に護衛しますから。ソヴィエト共産党中央委員会の命令――いえ、我らが祖国の偉大なる英雄、最高指導者・同志ヨシフ・スターリンの命令を、私はこの命に代えても遂行します。マモルさんを、かならずやお守りしてみます」


 そんな彼女の言葉に対し、おれは沈黙を守ったままでいた。

 それはなぜか。

 ――あきれてものが言えなかったのである。

 押し黙ったままじっとしているいる、そんなおれの姿を見たソーニャは勝手に勘違いしたらしく、


「大丈夫です、マモルさん、おびえないで。たとえ何者が襲撃してこようとも、私がそばにいて絶対防ぎますから。あなたは我がソ連邦にとって重要な人物です。誰にもマモルさんに危害を加えたりさせませんから」


 おびえないで、マモルさん、と、彼女は繰り返し言った。今までの厳しい表情を意図的に和らげて、おれを安心させるようににっこりと柔和な笑みを浮かべながら。


「ソーニャ……」


「はい、なんでしょう?」


「さっきの車は、おれの命を狙ってなんかいないよ。ぶつかりそうになったのは単なる偶然だよ……」


「それはわかりません! 私が密書を携えてきたすぐ翌日に、このような事が起こったのです。何者かの計画的犯行と考える方が自然です」


「そんなことありえないよ」


「警戒を怠るわけにはいきません」


「――とにかく。拳銃を部屋の外に持って出歩くようなことはやめてくれ」


「それはできません。これはあなたを守るために必要な物です。現に、さきほどもこれが役に立ちました。――『常に警戒し打撃せよ』――私の軍事教官が繰り返し言っていた言葉です。その言葉の通り、私は行動します」


「ともかく……」


 おれは大きく頭を振った。


「町中でいきなり発砲するようなことはもう二度としないでくれ。お願いだから」


「しかし……」


「あの車の運転手に……弾が当たってるかも……ケガですんでればいいけど、もし死んでたりしたら……取り返しがつかないじゃないか。 人に向けて発砲するようなことは絶対止めてくれ」


「ああ、それなら大丈夫です。車の後部ガラスが日の光を反射していたので、運転手を狙うことはできませんでした。ですので、車のタイヤを射撃してパンクさせ、走行を制止しました。運転手には弾は当たっていません。……ただ、初弾でタイヤに命中させることができなかったため、結局2発も撃ってしまいました。すみません、マモルさん。これからはしっかりと狙いを定めます」


と、ソーニャ。


 彼女の言葉を聞いているうちに、おれは耳の奥底でかすかにキーンと音がしているのに気がついた。

 間近で聞いた銃声のせいで、耳鳴りがしているらしかった。

 その耳鳴りは、拳銃の残響が頭にこびりついてずっとずっと離れないかのような錯覚を、おれに与えた。



「それでマモルさん、何を買われるんですか?」


 無邪気な表情をしてソーニャが尋ねてきた。


「そうだなあ……」


 おれは店内を見渡した。


「とりあえず、パンと卵と牛乳と、あとベーコンでも買おうか」


「はい、マモルさん」


 どこかしら弾んだ雰囲気の声を出すソーニャ――。



 買い物を終えてスーパーを出る時、三人組の主婦とすれ違った。主婦の一人が、さっき近所で起きたという自動車事故の話を他の二人に報告していた。彼女は、タイヤがパンクしてスリップした四輪駆動車が電柱にぶつかり、乗っていた運転手が近くの交番から来た警察官に事情聴取されている光景を見てきたという。「えっ、あの細い通りで? まあ、危ないわねえ……」と、その話を聞いた他の主婦の一人が言った。


 本当に危ないよなあ――


 と、おれは強いため息混じりの独白を心の中でしつつ、ソーニャと一緒に店をあとにしてアパートに戻った。

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