ソヴィエツキー・ソユース(CCCP)から来た少女
黒川ケンキチ
第1話 2月5日 Союз Советских Социалистических Республик から来た少女
『ソヴィエツキー・ソユース(CCCP)から来た少女』の続きは「小説家になろう」で執筆中です。
@krokawa
『東洋学者で日本の民俗学を研究していたニコライ・ネフスキーがソヴィエトへの国家反逆罪で逮捕された』
(ソルジェニーツィン『収容所群島』より)
つらい食事もしたし
うっとりと食事も終えた
おなじ片隅で
ひっそりと今日も
食事をとる
生き死にのその
証しのような
もう生きなくても
すむような
(石原吉郎『レストランの片隅で』より)
第1話
いつものようにその日も、おれは大学に行かないで、アパートの部屋に一人でいた。
冬の二月、黄昏時の寒気が、窓ごしにじんわりと伝わってきて、室内の温度を下げる。おれは、ぽかぽかと暖かいこたつの中に全身を潜り込ませて寒さを避けて、居眠りを、そう、甘美なまどろみを味わい続けていた。
しかし、入学して以来、まともに大学の授業など出ていなかった。
なぜか、勉強する気が起きない。
いわゆる五月病という言葉がある。おれの場合、その病が五月だけでなく、一年中続いているのだった。
大学に行くのが面倒くさい。行きたくない。行く気にならない。
このままでは進級単位がたらず、留年という、想像するだに恐ろしい状況に突入するのは明白なわけであり――実際、つい先週終わった学年末試験も、受講している講義の半分近くが出席日数不足だった為、はなから試験そのものを受けられなかった科目がかなりあったりした。
そんなふうだから、部屋で一人いる時、おれは突如激しい不安感に襲われたりして、「勉強しなきゃ! 大学行かなきゃ! このままじゃだめだ! 学校卒業できないし、就職もできなくなる!!」と、自己の日頃の怠惰さを猛省したりする。
その後で、ひょっとしてこの生活のあまりの堕落っぷりは、何か五月病なんかよりもずっと重い、深刻なココロの病にかかっているせいではないのか? などと疑問を抱いたりするのだが、しかししばらくたてば、ころっとそんな事も忘れ、大学には行かず、かといって、アルバイトやサークル活動に励むわけでもなく、
「だるい。何もやる気しない。息をするものおっくうだ」
とひとりごちて、今日もきょうとて東京の片隅にあるこのボロアパートでごろごろと過ごすのだった。
この日もいつもの日課どおり夕方まで眠りこけていたおれだった。二月に入り、大学はちょうど今日から春休み。だから、何のうしろめたさも無く、堂々と怠惰に一日を送ることができる。
――ああ、ぬくぬくして気持ちいい。
コタツの布団の中、猫のように身体を丸めて多幸感にひたっているおれ。
が、突然、ピンポーンという玄関のチャイムの音がして、そんなおれのうたたねを邪魔したのだった。
――誰だ? 宅配便か? 田舎から母さんがまた米とか味噌とか送ってきたのかな?
あれほどそんなモン送らなくていいと言っておいたのに、めんどくさいな……寝ぼけまなこをこすり、こたつからもそもそと這い出して、ドアを開けにいく。
「はい……」
おれはいくぶん不機嫌そうな声を出しドアを開けて顔を出した。部屋の外はもうほとんど夜に近く、雪が降っていた。室内に、凍てついた小雪交じりの空気が流れ込んでくる。
ドアの前には、一人の少女が立っていた。
地味なベージュ色のロングコートを身にまとった少女だった。
彼女の髪はブロンド、金色の髪で。
そして、青い瞳。
年は、十七、八ぐらいだろうか。
日本人ばなれした、その美しい容姿――。
外見からすると、少女はヨーロッパ系の出身のように思われた。
冬の寒さの中に立ち、白い吐息をもらしている少女――。彼女の足元には、小さな皮製の
……要するに、ドアを開けたらそこに、見知らぬ金髪外人美少女が立っていたのである。
おれは、突然の、異国の少女の出現にとまどった。
おれには、外国人の女の子の知り合いなんていない。(悲しいことに、田舎を出てから今までの大学生活二年間、外国人だけでなく日本人の女の子の知り合いも一人もいないが)
まだ眠気が覚めない呆けた顔のまま、とりあえず、「あの、なんでしょう」と、おれは言おうとした。だがその前に、少女のほうが先に口を開いた。
「すみません、ここは、ホンダ・マモルさんのお宅ですか?」
変なアクセントのない、かなり流暢な日本語で、少女は問い尋ねてきた。夕刻の空から舞い落ちる雪が、少女の肩までの金髪に冷たくまとわりついている。端正な顔立ちの中に並ぶその二つの青い瞳が、向かい合ったおれに向けて、微笑するように優しく細められていた。
「え、ええ、そうですけど。わたしが本田守ですが……」
いったい何の用だろう? おれは当惑しながら答えた。
すると、突然、いきなり。
彼女は自分のロングコートのボタンを襟元から外し始めた。ほっそりとしたその白い指で、一つ一つ、ゆっくりとボタンを外して行く。
目の前でいきなり外套を脱ぎ始めた少女――。
そして、コートの前ボタンを外し終わると、今度はその下に着ていた白いブラウスのボタンをまた上から一つずつ外し始める。少女はすぐそばにいるおれの視線も気にせずに、ブラウスを胸元の辺りまではだけさせた。彼女の胸のふくらみを隠す下着のスリップがちらりとブラウスの下に現われ、その白さが、おれの目を釘付けにした。
少女はおれに胸元を見られてれいることもおかまいなしでいた。そうして彼女は、自分の下着のスリップの中、胸の間に右手を差し入れてゴソゴソとやると、不意に、そこから、一通の小さな茶色い油紙に包まれた封筒を取り出した。その封筒を大事そうに、右手の人差し指と中指の間にそっと挟み持つと、ブラウスのボタンをゆっくりと戻していき、少女は着衣の乱れを整え直した。
少女の突然の行動にあっけにとられたおれは、アパートのドアノブをにぎりしめたまま玄関口に立ちすくんでいた。が、ここにいたってようやく我にかえった。
――なぜにおれの部屋の前でいきなり見ず知らずの外国人少女が、服を脱ぐ? この冬空の下、かすかにとはいえ下着まで見せて……。
それを嬉しいとか恥ずかしいとか思う前にまず、その光景は、おれにとって非常にショッキングなものだった。
一体この子は何者なんだ? わけがわからん。
「あ、あのう……」おれは口を開きかけた。しかし、彼女の言葉がそれをさえぎった。
「
今までのどこかしら柔和な雰囲気から一変して、急に真剣な厳しい語調になった少女。 その白皙の頬がきりりと緊張に引き締まっている。
少女は自分の胸元から取り出した油紙に包まれた封筒を、うやうやしく両手で持ち直した。そしてそれをおれの前に差し出し、言葉を続けた。
「同志ホンダ――。偉大なる最高指導者、我らが同志スターリンからの直々の密書をお届けに参りました。どうぞお受け取りください」
――はい?
おれの頭は完全に混乱し始めた。
一方――パニくってるそんなオツムとは別に、身体の方は、条件反射的に動いてしまい、彼女が目の前に差し出した封筒を思わずそのまま受け取ってしまったのだった。
「えっと、これ」
一体なんなのですか、そう喉元まで出掛かった瞬間。
冬の冷たい大気の中、少女は美しい顔を緊張に引き締めたまま、すうっと息を小さく吸うと、靴のかかとをぴしっと打ち合わせて直立不動の姿勢を取った。
そうして、少女は、おれに向かって、さっと右手をあげ、敬礼姿勢を――顔をぽかんと馬鹿みたいに呆けさせている、彼女なし、友人もなし、ついでに金もない、ダメダメ三流私大生のおれに対して、少女は、右腕の二の腕を水平にし、
それは、東京の二月の始め、とある雪降る日のこと。
夜の暗さが近づく夕刻の中で、おれと彼女の、それは初めての出会いの瞬間だった。
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