第2話 2月5日 異国の客
畳の上に敷かれたままの万年床の周りには、洗濯物やマンガ雑誌、ゴミくずが散乱している。その汚い室内の中央に、こたつが一つ置いてある。ちゃぶ台兼勉強机として使われているこたつを挟んで、今、おれと少女は向かい合って座っていた。
――どうしてこんなことになったんだろう
さきほどから、沈黙が室内を支配していた。
外の寒気が、窓ごしにじんわりと伝わってくる。
部屋の中には、アパートの屋根から崩れ落ちる雪の音と、電気こたつのちいさな音だけが響いていた。
少女と対座して向き合っているおれは、見ず知らずの外国人、しかも突然わけの分からないことを言う女の子と二人っきりという状況に緊張して、自然と正座姿勢になったままでいる。一方少女は、おれが敷いた座布団の上に、女の子らしく両足を斜めにちょこんと折り曲げて座っていた。ロングコートはきちんと折りたたまれて、旅行鞄と一緒にかたわらに置かれている。ロングコートを脱いだ彼女は今、白いブラウスに紺のスカートという地味ないでたちになっていた。
少々肌寒い室内、少女はおれの方を見つめたまま、にこりと微笑んでいる。そんな彼女に対し、おれは何を言ったらいいかわからず、押し黙ったままでいた。
こたつのテーブルの上には、彼女がおれに手渡した茶封筒が置かれている。
目の前にあるその油紙に包まれた封筒――スターリンからの密書とかいうやつに視線をおろすと、おれは心の中で大きなため息をついた。
――いったい、この子は何者なんだ?
『同志スターリンからの直々の密書をお届けに参りました』
そう言って、いきなりおれに敬礼してきた少女。
彼女の行動に気が動転したおれは、もごもごとくちごもり、やっと口から出た言葉が、
「た、立ち話もなんですから、とりあえず部屋にでも上がってください。あ、少々、いや、かなりちらかってますが」というものだった。そうしておれは、わけのわからないまま、少女を室内に入れてしまったのだった。
座布団を出してこたつの前に座ってもらい、向かい合っておれも腰を下ろした。そしてそれからすでに十分間、お互い何も言わず、押し黙ったまま座り続けている。
その間、少女は、きちんと背中をのばして姿勢を正したままでいた。おれからの言葉を待つように、自分からは何も言わないでいる。先ほどの敬礼姿勢の時の緊張感は今は無く、こちらを見つめる彼女の青い瞳には穏やかな光が浮かんでいた。
――あ!
おれは、突然、大事なことに気づいた。
「あの、お茶でも入れますね。すみません、気がつかないで。ええっと、コーヒーと紅茶、どちらがいいですか?」
おれはその場から立ち上がった。そうだ、お客さんにお茶も出さないなんて、非常識ではないか。
「いえ、そんな、お気遣いなく」
丁寧な日本語で少女は答えた。
おれはひとり勝手にあせりながら小さな台所をあさった。
「すみません、コーヒー切らしてるんで、紅茶しかないんで、それでいいですか?」
「あ、はい、ありがとうございます」
少女の澄んだ声がおれの背中から聞こえてきた。
戸棚からカップを二つ出し、インスタントのティーパックを入れお湯をそそぐ。それからそのカップを受け皿に載せ、スティックシュガーとスプーンと共にこたつへと持って行く。彼女の前にお茶を差し出すと、「ありがとうございます」という言葉とともに、にっこりと明るい笑顔が返ってきた。
おれもこたつに腰をおろす。そしてお互い向かい合ったまま、無言で紅茶のカップに口をつける……。
彼女に対して聞きたいことは山ほどあった。だからこそおれは、何から聞いていいかわからず、言葉が出なかった。
しかし、紅茶を飲み干してひとごごちがつくと、おれはなんとか精神的余裕を取り戻すことができた。
彼女がお茶を飲み終わるのを待って、おれは、口を開いた。
「あの……失礼ですが、あなたはどなたですか?」
おそるおそるといった感じで、一番疑問に思っていたことを尋ねる。――しかしまあ、部屋の中にまで相手をあげておいた後で、「どなたですか?」などと聞くのも滑稽きわまりないと、我ながら思った。ほんと、おれは馬鹿か。
「あっ……! 申し遅れました!」
少女はその場から立ち上がらんばかりの勢いで声を出した。
「申し訳ありません。自己紹介を忘れていました。ああ! わたしったら何を……。すみません、あなたにこの密書をお渡しすることばかりに気を取られていて、肝心のご挨拶を怠っていました」
そう早口に言うと、彼女は背筋をさらにぴんと伸ばして居ずまいをただし、こたつ越しにおれの目をじっと見つめてきた。
「はじめてお目にかかります、同志ホンダ。私の名は、ソフィア・ウラジーミラヴナ・リピンスカヤと申します。偉大なる最高指導者、我らが同志スターリンの
そうして彼女は、こたつの上の茶封筒に視線を下ろした。つられておれも封筒を見る。
表に何も書かれていないそれは、一見普通の封筒にしか見えなかった。
――スターリンの密使?
――ソビエトからやって来た?
さっぱり訳が分からなかった。彼女は一体何を言っているのだろうか?
このーーソフィアという名の外国人の少女は、ひょっとして、おれをからかっているのではないか――。理由はわからないが。
または、彼女は、その、頭が……少しおかしいのではないか。何か勝手な妄想を一人信じ込んでいて、それをおれに対して一方的にしゃべっているだけではないのか……。その可能性も無きにしもあらずなわけであって、それを考えるとおれの背筋はすこし寒くなった。
ともかく、真実はどうであれ、どうやらおれはかなり面倒くさいことに巻き込まれたらしい。
「あのう……。あなたは、この封筒をおれに渡すために、わざわざ、その……ソ連……から、来た、と、いうことなんですか?」
おれは茶色い封筒を見つめたまま、こたつの中に突っ込んでいる
「はい。極秘裏の密命を受けて、あなたにこれを届けに来たのです」
曇りのないまっすぐな瞳をこちらに向けて、少女が言う。
「おれ宛に?」
「ええ、同志スターリンからあなた宛の書簡です」
「すいません、ちょっと質問してもいいですか……」
「はい。なんなりとおっしゃってください」
「その、まず、ソビエトだのスターリンだの言ってるけど、一体いつの時代の話をしてるんですか。今は、二十一世紀ですけど」
「すみません……質問の意味が、よくわかりません」
少し困ったような表情をして、首をかすかに傾けるソフィア。
「スターリンって、あの世界史の教科書に載ってるスターリンでしょ。……スターリンはとっくの昔に死んでるし、ソ連も二十数年ぐらい前に解体されて無くなって、今はロシア連邦だか共和国だかになってるはずだけど」
「なんですって!!」
ソフィアが突然大きな声を出して座布団から立ち上がったので、おれはびっくりして、
「同志ホンダ、それは一体どういうことでしょうか。説明してください!」
今にも詰め寄ってきそうな勢いの激しい語調だった。座布団の上にすっくと立ったまま、ソフィアはこちらの瞳の奥をじっと覗き込んでくる。
「いや、その、歴史的事実を……」
「同志スターリンもソヴィエト連邦も永遠に不滅な存在です。同志、軽々しい発言は慎んでください!」
憤懣やるかたないといった感じで一気にしゃべるソフィア。どうやら彼女は人をからかったりするのが目的ではなく、本当にソ連やらスターリンやらについて信じて語っているらしい。
とりあえず、おれは自身の狼狽をなんとか抑えながら、目の前の興奮しているロシア人少女に対し、もう一度その場に座るようにそっと手つきでうながした。ソフィアはスカートの
「……その……君は、あなたは、ともかくソ連から来たと言うんですね?」
「はい、そうです」
確固とした口調のソフィア。
「はあ、そうですか……。ええと、いつ日本にやってきたんですか」
「昨日、キョウトのマイヅル港に貨客船で着きました。ナホトカからの船です。それから国鉄の列車を乗り継いで、トウキョウにある、この、あなたのお部屋までやってきました」
「へえ……飛行機で来たんじゃないんだ……わざわざ船で」
ちらりとソフィアの顔色をうかがう。彼女の頬は少しこわばっていたが、瞳に激情の色は無い。どうやら一時の興奮からさめて冷静さを取り戻したらしい。それに安心して、おれは質問を続けた。
「船なんか、時間がかかるでしょ。なんで飛行機で来なかったんですか?」
「飛行機ですか?」
ソフィアはおれの言葉を聞くとちょこんと小首をかしげ、何やら不思議そうな表情をした。
「1953年現在、日本とソ連邦の間の移動手段は船しか有りません。両国を結ぶ国際路線の飛行機など、就航していませんし、たとえあったとしても、密書を確実にあなたの手元にお届けするには、墜落の危険性が高い飛行機よりも、船で日本に渡った方が安全です。そして、目立つ外交封印袋を利用する方法よりも、普通の少女にしか見えない私が下着の中に隠し持って来たほうがより安全で……」
「ちょ、ちょっと待って。今言った『1953年現在』っていうのは? さっきも言ったけど、今は、21世紀で……」
おれはあわてて口をはさんだ。
「ああ、すみません。説明不足でした。私が密命を受けて首都モスクワを立ったのが、1953年の1月の終わりだったのです。それから、シベリア鉄道に乗って極東のナホトカまでやって来て、船で日本海を渡りました。そうしてトウキョウにようやくたどり着いたのが今日なのです」
彼女の話を聞いているとますます頭が混乱してきた。誇張表現ではなく、本当におれは頭を両手で抱えて、考え込んだ。
「……1953年にモスクワを出発して、今日、東京に着いた?」
「はい。本当に、長い長い旅でした」
そう言って、ソフィアは微笑んだ。その美しく整った顔立ちには、彼女が言う『長旅』とやらの疲労の影は特にこれといって見あたらなかったが……。
おれはしばらく自分の
「つまり」
顔を上げて小さな声で言う。そんなおれを、ソフィアは柔らかな視線で迎える。
「あなたは、1953年のソ連から旅立ち、60年ちかくもかかって、ようやく日本に着いたと。しかも、それはスターリンの密書とやらをおれに渡すためにだと」
「はい、そのとおりです。やっとわかっていただけましたか」
にっこりと、花のほころびのようなほほ笑みを浮かべるソフィア。
彼女の愛らしい笑顔に対し、ははは、と、おれは引きつった笑みを返した。
狂ってる。
彼女は狂人だ。
本物の頭がおかしい人だ。
しかも、外国人の。
そんな人物と、このアパートで二人っきり。
びくつきながらソフィアの瞳をのぞき見る。相変わらず彼女はニコニコと柔和な表情でこちらを見つめてきている。
特にその青い瞳に、『狂気』の光、精神異常を示すようなものは見当たらなかった。――流暢な日本語をしゃべる、ロシア人の少女、ただそれだけにしか見えなかった。しかし、異常さがまったく見当たらないことが、逆にますますおれの恐怖心をかきたてた。
真っ直ぐな純粋な瞳で、
「ソビエトからやって来ました」
と言う少女。
おれに一体どうしろというのだ。
誰でもいいから、この状況から助け出してもらいたかった。
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