第3話 2月5日 従姉(いとこ)・本田千紗
救いの主はすぐにやってきた。
ピンポンピンポンピンポンという、ドアのチャイム音のかしましい連打とともに。
その人物は、部屋の住人の返事も待たずに、勝手にドアを開け、ずかずかと室内へと侵入してきた。
玄関からの足音が近づき、そして、おれとソフィアの目の前に姿を現したのは、若い一人の女だった。
コートとバッグを小脇に抱えた、タイトスカートのビジネススーツ姿の女――。
「ああ」
女は、
「お邪魔だったかしら」
おれとソフィアの姿を交互に見やる彼女。
それは、おれの年上のいとこである、
「相変わらず汚い部屋ね」
そう言って、千紗姉ちゃんは持っていたコートとバッグをおれの方に乱暴に放り投げてよこすと、腰をおろして、こたつの空いている席に足を突っ込んだ。その際、かたわらにいるソフィアの方には目もくれない。彼女の存在を特に意識していないらしい。
よく見ると、千紗姉ちゃんの顔は真っ赤で、吐く息には強い酒の匂いがまじっていた。どうやら、したたか飲んで酔っぱらっているようだった。
――まだ、夜の六時だぞ? なんでこんなに酒飲んできたんだ?
おれは部屋の万年床の、目覚まし時計の針と千紗姉ちゃんの赤ら顔を見比べた。当の千紗姉ちゃんはというと、こたつの中に両足を伸ばしたまま、ぼんやりと視線を宙にさまよわせている。
かなり、酔っているらしい。
一方、ソフィアは、突然の乱入者に対してもこれといって動じること無く、きちんとその場に座ったままでいた。ただ、横目ですこしうかがうような感じで、となりでぼんやりとしている酔っ払い女の姿を、ちらりと眺めていた。
よく見ると、こたつの上にさっきまで置いてあった封筒が無くなっていた。どうやら、千紗姉ちゃんが部屋に入ってきたと同時にソフィアが自分の手元に隠したようだった。
しかしそれにしても――。千紗姉ちゃんが、おれのボロアパートをわざわざ訪ねてくるなんてことは、めったに無いことだった。
おれより七歳年上の、いとこの千紗姉ちゃん。彼女は東京の某有名一流国立大学の商学部に現役合格すると、単身田舎から上京。卒業後は、一部上場の外資系コンサルティング会社に入社し、以来、第一線でハードな仕事をこなしてきたと聞く。
おれなんかのような、三流私大生とは、まったく格が違う、いわゆるエリートコースを歩んできた、「できる女」なのだ。
正直言って、おれはこの千紗姉ちゃんが苦手だった。
理由は簡単。
千紗姉ちゃんが田舎の学校に通っていた頃――そう、十数年前、おれがまだあどけない子供だった時――おれはこの千紗姉ちゃんに、さんざんイジメられたのだった。
千紗姉ちゃんの家は、おれの実家からほんの数分の所にあった。自然、両家の親戚づきあいもひんぱんで、おれと千紗姉ちゃんもしょっちゅう顔をあわせることになったのだった。お互い一人っ子同士だった為、周囲からは、いわば本当の姉弟のように扱われ、育てられた。
彼女には、おれをイジメているなんていう自覚はこれっぽちもなかったようだ。むしろ、年下のいとこと遊んで面倒を見てやってるぐらいの気持ちだったらしい。しかし、おれはしょっちゅう千紗姉ちゃんにいじめられて泣いていた。千紗姉ちゃんは、七歳も年上なのに、お姉さんらしい優しさなどみじんもなく、横柄かつ攻撃的だった。彼女によって植え付けられた、幼少期の数々のトラウマ。成長して大学生になった今でも、千紗姉ちゃんに対しては、恨み半分、恐れ半分といった感情を抱いている。
おれが東京に出て暮らし始めてから、千紗姉ちゃんがこの部屋にやってきたのは、今までに正確には三回。
最初は、上京したおれのために、アパート探しを手伝ってくれた時。実家の母親の方から、おれの面倒を見てやって欲しいと頼まれた為だ。
『この部屋なんていいじゃない。決まりね』
不動産屋に案内された最初の部屋、つまり今のこの部屋に入ったとたん、千紗姉ちゃんは即決した。
『いや、たしかに大学には近いけど、すこしボロすぎないかな……。もうちょっと他の部屋も見てから……』
おれが恐るおそる意見具申すると、彼女はきつい口調で、
『おばさんの頼みだから仕方なく、こっちはせっかくの休日を潰してつきあってるのよ。なに、人の善意を、協力を、むげにする気なの、あんたは』
と言い捨てた。
はいごめんなさいぼくが悪かったです、ということで、その場ですぐに不動産屋と契約。部屋探しはわずか三十分で終わった。
次に部屋に来たのは、千紗姉ちゃんの仕事が深夜までかかって、自宅のマンションに帰るよりもうちのアパートに泊まる方が楽だというので、タクシーでやって来た時。夜中の二時頃、むりやりたたき起こされて、千紗姉ちゃんを部屋に迎え入れた。
シャワーを浴びた千紗姉ちゃんは、「七時に起こしてね」とだけ言って、すぐに寝てしまった。翌朝、七時になって、おれがなんども千紗姉ちゃんを起こそうとしても、一向に目を覚まさない。身体をゆすっても、大声で呼んでも、「……もうちょっと」という返事を繰り返すだけ。やっと千紗姉ちゃんを起こすのに成功したのは、八時になってからだった。
『七時に起こしてって言ったでしょうが!』
そう大声でおれに怒鳴り、さんざん悪態をつきながら、「こんな場合があるかもしれないから」とおれの部屋の押し入れに準備して閉まっていた新しいビジネスツースを取り出し身支度を整えると、大急ぎでタクシーを拾って出社していった千紗姉ちゃん。
そのあまりの理不尽さ。おれは子供の頃から受けたさまざまなひどい仕打ちを思い出して、一人涙ぐんだ。
一番最後に来たのは、去年の十二月だった。
その頃、新聞の勧誘がうるさかったので、ドアのチャイムが鳴ってもすぐに開けないようにしていた。
ある日、チャイムの音がしたので、ドアの小さなのぞき窓から外を見ると、なんとそこには、千紗姉ちゃんが立っていた。
水曜日、平日の午後、千紗姉ちゃんがおれの部屋の前に立っている。
訪問の理由は不明。
おれは激しく恐怖した。非常に嫌な予感がした。警戒心で手にべっとりと汗をかいた。
――一体なんの用で、おれの所に?
しばし
息を殺し、一切の音を出さないようにして、部屋の中ちじこまって、千紗姉ちゃんが立ち去るのを待った。
十分後、恐る恐るドアののぞき窓から外を見る。
人影は無し。
おれはほっとして、大きく息をもらした。
念の為、ドアをそうっと開けて、周囲をうかがう。誰もいない。ああ、助かった。安堵感から笑顔を浮かべ、ガチャリと大きくドアを開け、外の空気を吸う。勝った。おれの勝ちだ。千紗姉ちゃんをだます事に成功したぞ。
そう思った瞬間。
おれの部屋はアパートの二階にあるが、一階の、自転車置き場、ちょうど階段の陰のあたりに、見慣れた人の顔が。
自転車置き場のコンクリの壁に背中をもたれかからせて、両腕を組んでいる、千紗姉ちゃんの姿が。
じっと、こちらに視線を合わせたままでいる。
にっこりと、千紗姉ちゃんが微笑んだ。
部屋の中。
おれは何十分も、正座したままでいた。
対する千紗姉ちゃんは、その場に腰をおろして身体を動かさず、おれの方を見つめ続けている。
冷徹な視線。酷薄な口元。腹立たしげな眉根。
やがて、今まで無言だった千紗姉ちゃんがきっかり一時間後に左手の腕時計にちらりと目を走らせてから口を開いた。
「今日、たまたま会社休みでね。で、守くんがちゃんと大学に通ってるか、優しいお姉さんは心配になって、ちょっと訪ねて来てみたわけなんだけど。ほら、君、あんまり真面目に講義に出てないって聞いてたから……」
感情の一切排された声。
「ねえ、今度やったら」
しばしの沈黙。
「……殺すわよ」
おれは恐れおののき、その場で思わず土下座した。
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