第26話 2月10日 駐在武官


「あ、ここですね、頭皮が少し赤くなっています」


「痛っ! ソ、ソーニャ、あんまり触らないで、痛い」


「あっ、すみません……。でも、治療の必要があるか、ちゃんと確認しませんと……。マモルさん、少しの間、我慢していて下さい」


「うん……。あ痛っ!」


 座布団にへたり込んだおれのすぐそば、ソーニャは両足をきちんとそろえた横座りの姿勢をしている。彼女はそのほっそりとした指先でおれの頭髪を慎重にかきわけ、引き抜かれる寸前だった髪の毛の根元の状態を調べてくれていた。


「あ~、はいはい、ごちそうま、新婚さんいらっしゃい。――『妻をめとらば 才たけて みめ美わしく 情あり』……って、昔の人も言いましたとさ」


 こたつで寝転がったまま陽気な調子の声を出して、おれとソーニャをからかってくる千紗姉ちゃん。


「んっ。よいしょ、と」


 千紗姉ちゃんが片ひじをついて畳からゆっくりと上半身を起こす。それから、こたつの上の新しい酒瓶――国産のウイスキーへ手を伸ばすと、その封を開けた。


――瓶の中の琥珀色の液体が、空のグラスにたっぷり注がれる。


 千紗姉ちゃんは指先全体でグラスのふちを包み、持ち上げると、そのつかんだグラスをけだるげにゆらゆら動かした。

 濃い緑色の、タートルネックのセーターを着ている千紗姉ちゃん。セーターの胸のふくらみの前で、グラスの中の液体が静かに揺れ続ける。


「うん。ほんと仲むつまじい姿ね。はたから見てるとあなたたち」


 そう言って千紗姉ちゃんは黒い両目を何やら楽しげに細め微笑みながら、おれたち二人の方をしばしの間じっと眺めてくる。


「……良かった。多少皮膚が充血していますが、内出血というほどではありません。この程度の頭皮の腫れでしたら、特に冷やす必要はないと思いますが……。でも念のため、台所から氷を持ってきますね」


 ソーニャがほっとしたように明るい表情を浮かべ、その場から立ち上がろうとした。おれは片手を左右に軽く振り彼女の動きを止めると、


「いいよいいよ、そこまで心配してくれなくても。痛みも、かなり引いてきたし。ほんと気を使ってくれてありがとう、ソーニャ」


と、心からの礼を述べた。


「いえ、そんな……。当然のことをしたまでです」


 ソーニャは、すぐとなりに座っているおれの顔から不意に視線をそらすと、少し照れたような表情を浮かべてうつむいた。スカートのひざの上、彼女が両手のこぶしを、きゅっと握り締めるのが見えた。


「あー、えっと、もうOK? なんかいい感じのところを邪魔するようで悪いんだけど」 


 千紗姉ちゃんが声を出し、


「――さて、そろそろ始めましょうかね」


 ポツリと、そうつぶやく。


「余計な前置きは嫌いだから……単刀直入に聞くわ。――ソーニャ。あした、隣にいるそいつ、バカ守と、どこに観光に行きたい?」


 先ほどと同じ姿勢、胸の前のウイスキーのグラスを片手でつかみ持ち、中の琥珀色の液体をゆらめかせながら、千紗姉ちゃんはゆっくりとした口調で尋ねた。その瞳の奥の光は優しげで、口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。……今の千紗姉ちゃんは、アルコールの酔いのせいか、それとも単なる気まぐれかわからないが、ともかく、なんだか非常に機嫌が良さそうな雰囲気だった。


 ――ここ最近の千紗姉ちゃん、毎日酒びたりで、ほんのついさっきまでやたら不機嫌そうにイライラばかりしてたのに……。急に何が起きたんだ一 体?


 おれは年上のいとこの態度の、突然の変化に、奇妙な違和感を覚えた。

「……Чтоシトー?  ――カンコウ……。――ああ、観光、ですか?」


 いきなりの問いかけに対し、思わずきょとんとした目をして、それから、相手に確認のため聞き返すソーニャ。


「そう、観光旅行。すなわち、Sightseeing。行きたいか行きたくないか。――答えは?  ダー or ニェット?」


「……いきなりそう言われましても。私は、極秘任務で日本に来たのであって、観光旅行など、そのようなことは……」


「ダーメ。そういう反論は一切聞かないから」


 千紗姉ちゃんは小さく笑いながら、ソーニャの言葉をさえぎった。


「あなたにとってその任務とやらが何よりも重要だという事、それは充分承知してるわ。でも、ね。せっかく日本に来たのに、一ヶ月間ただこのアパートにいるだけなんて、あまりにも寂しすぎる話だとは思わない? ……守に案内させるから。ソーニャ、どこへ行きたい?」


 おれはちらりと目を脇にやった。ソーニャの横顔にかすかに困惑の色が浮かんでいるように見えた。


 ソーニャはしばらく言葉をためらっていたが、やがてこたつの向こうの千紗姉ちゃんに対しいつもの丁寧な口調でもって答えた。


「――チサさん、ご厚意は大変ありがたいのですが……。しかしやはり、私の任務の重大さを考えれば――資本主義陣営の最前線拠点である国、ここ日本において、わざわざ見知らぬ土地に観光に行くなどという行為は――どのような危険がそこで待ち受けているか大変予測困難であり……そしてま た、同志マモルの長時間にわたる外出行動は、反革命勢力に絶好の襲撃の機会を与える結果を惹起じゃっきし……」


「本当に強情な子ねえ」


 明るい口調で、再度相手の発言をさえぎる千紗姉ちゃん。その目はソーニャを見つめにっこりとしている。


 相変わらず穏やかな態度のままでいる千紗姉ちゃん。

 おれの心の中にあった奇妙な違和感――それは、いま徐々に、ある種の『不安感』とでも言うべきものに変質し始めていた。


 ――ひょっとして……。千紗姉ちゃん、何か、企んでる……?


 おれは嫌な予感がした。

 ちょっとの間があってからロシア人の少女が、口を開いた。


「ニェット。……先ほどのご質問ですが、チサさん、私の回答は――ニェットです。私は観光へ行くことを拒否させて頂きます。ご配慮、申し訳ありませんが」


 きっぱりとした口調でソーニャは言った。


 室内に沈黙が訪れる。


 無言の、時間――それは一、二分程の間だったろうか。


 グラスの、コツンという音が室内に響きわたった。

 口をつけていない、満たされたままのウイスキーのグラス、それを千紗姉ちゃんがこたつの上に静かに置いたのだった。

 こたつをはさみ向き合って座っているソーニャから、千紗姉ちゃんは目線をゆっくりと横にそらし、そうしてこたつに右手で頬杖ほおづえをつくと、ぼんやりと室内の壁の方を見やる。


 一方のソーニャはというと。

 彼女もまた同様に一言も発せず押し黙ったまま、相手の反応を待っている。落ち着いた表情を崩さず、座っている姿勢はぴしりと背筋が伸びていて。


 やがて――千紗姉ちゃんは頬杖をやめた。そして、空いた右手で自分のショートカットの前髪を――細いまゆ毛を覆うひとふさの黒髪を、少々演技がかった退屈そうな態度でもって、指先でいじくり始めた。目線は相変わらず壁に向けられたままだった。


「……私さあ。大学時代、ゼミで会計学を専攻してたんだけど、そのゼミの同期でね、今、国税局に勤めている奴が一人いるの……」


 壁に向かって淡々と話しかける千紗姉ちゃん。


「――それが観光旅行の件と一体どのような関係が?」


 努めて冷静さを保つような抑制の効いた声色で聞き返すソーニャ。


「うん。そいつね――父親が大手都市銀の外為畑で働いてたから、家族でアメリカに住んでいたわけ。もう子供の頃から、何年もずーっとね。だから英語ペラペラ。ほとんどネイティヴ。彼女――ああ、そいつ、女なんだけど、そいつから私こんな話を聞かされた事があって。彼女、夜、よく悪夢にうなされる事があるらしいんだけど、夢の中では日本語ではなく、絶対英語で大声をあげ助けを求めるんだって。――つまり日本語ではなく英語が本当の母国語なわけ、彼女にとっては……」


 そこまで言うと千紗姉ちゃんは前髪をいじくるのをやめ、壁から視線を戻し、ソーニャの顔を真っすぐのぞきこんだ。


「私、留学経験とかないけど、英語には昔からそれなりに自信あった。でも、やっぱり帰国子女には絶対かなわない。だってそいつ、大学時代、TOEICで970点も取ったのよ? ……まったくねえ」


 ため息交じりの声。


「ところで、ソーニャは日本語ペラペラだけど、英語も得意? あと、他にも外国語何か話せる?」


「……マモルさんには以前お話しましたが、私はモスクワの外国語専門学校を卒業しています。――私は日本語学科専攻でしたが、学校ではどの外国語学科の教程でも、仮想敵国である相手の言語――英語は必修科目になっていました。生徒は在学中皆、徹底的に英語の教育を受けました。ですので、私もそれなりに、自信はあります。……それ以外の言語では、スペイン語、フランス 語、ドイツ語、イタリア語を話せます」


「ふーん。びっくり。語学の天才ね。日本語を流暢に話せるだけでもすごいのに。その上さらに何ヶ国語も。……その外国語専門学校とやら、よっぽど厳しい授業内容だったんじゃない? それと、ソーニャ、あなた自身がもともと生まれつき、とても優れた語学センスの持ち主だったんでしょうねえ、きっと」


 真面目な表情になってふむふむと一人うなずいてみせる千紗姉ちゃん。


「……あの、チサさん」


 ソーニャがそっと口を開く。


「今までの話と観光旅行の件、一体どのような関係が?」


 ソーニャはさっきから変わらない同じ格好、こたつでピシッと背筋をのばした姿勢のままでいる。


「まあまあ、先をあせらない」


 唇の端に小さく笑みを漂わせながら千紗姉ちゃんが言う。


「――そのね、さっき話したゼミの同期の帰国子女だけど、彼女、アメリカにいた時はニューヨーク郊外の高級住宅街に住んでいたそうなの。で、そこの隣の家に、アメリカ陸軍の将校が住んでいて、お互い隣同士、家族ぐるみで親交があったんだって」


「……それが何か?」


 千紗姉ちゃんにわざと会話をじらされても、それに対するソーニャの声と表情はいたって冷静そのものだった。


「うん、でまあここから先が一番重要なんだけど、その隣の家に住んでた将校、なんと偶然にも一昨年おととし、在日アメリカ大使館付きの駐在武官 ――えーと、英語で言うと駐在武官ってなんだっけ? ソーニャ?」


「Military Attacheです、チサさん」


「うん、で、その将校がアメリカ大使館のアタッシェとして日本に着任して来たんだって、家族連れて、一昨年。それ以来、ここ東京において再び仲良く両家の親交が復活したというわけ」


「……ですから?」


「でね、その駐在武官の将校だけど、普通の軍人ではなく、いわゆる『情報将校』らしいの。私が彼女から秘密に聞いた話では。――ああ、ソーニャそういえば貴女あなた、たしかお父さんはソ連の職業軍人だったと言ってたっけ。 ――職業軍人の娘なら、情報将校の本来の任務がどのようなものかぐらい、知ってるわよね?」


 ニコニコと明るい笑みをロシア人の少女へ向ける千紗姉ちゃん。


「……もちろん知っています。……それから、はい……ようやくわかりました。チサさんが一体私に何を伝えたがっているのかを。ここまで話をお聞きして、おおよそ推測する事ができました」


「本当、あなたは頭の回転が速いわねえ。――賢くて、そして、すごくキレイな子。冗談抜きでそこにいるバカ守とソーニャを交換したいわ。ソーニャみたいな、かわいい妹が欲しかった、私」


 千紗姉ちゃんは愉快そうに口元をゆるめ、黒い両の目を細めて笑ってみせた。

 それから続けて、


「……いいわ、ソーニャがあくまで観光旅行を嫌がるならしょうがない、じゃあ明日は私がこの守のバカと一緒に外に遊びに出かけてくるから。六本木ヒルズにでも連れて行って、展望フロアでソフトクリームでも食べさせてやればそこにいる田舎者のバカ守も大喜びすると思うし。で、その帰りにでも、赤坂にあるアメリカ大使館へ立ち寄って、例の将校さんと面談でもしてこようかしら。ゼミの同期の名前を出せば、警戒しながらも会ってくれるだろうから。――でね、もちろん、ソーニャはその間ちゃんとこのアパートでお留守番しててくれるわよね? ……独りで。……部屋から勝手に外に出たりしないで。……きちんとお行儀よくして。いいわね、ソーニャ?」


と、優しげな声で、ゆっくり教え説明するように千紗姉ちゃんは言った。


 数秒後、小さなため息がひとつ。

 それはソーニャがもらしたため息だった。

 視線を落とし、こたつの布団をじっと見つめているソーニャ。


「――チサさん……」


 ソーニャが抑揚の無い声で言う。


「はい?」


「……同志マモルと一緒に、私たち二人、どこか観光へ行かせてもらってもよろしいでしょうか?」


「当然! 私の許可なんか必要ないわよ! 嬉しい、やっとわかってくれたのね! じゃあさっそく明日にでも二人でいってらっしゃい!」


 声を弾ませて少々大げさにはしゃぐ千紗姉ちゃん。

 今までの間、一口も口をつけていなかったコタツの上のグラスに千紗姉ちゃんは片手を伸ばすと、それをぐいとあおり、一気にグラスの中身全部を体内に流し込んだ。アルコールを摂取する喜びのせいか、千紗姉ちゃんはグラスのふちに唇をつけながら表情をぽわんと無防備にゆるめ、瞳をうっとりとさせている。


「――ひとつ、確認させて頂いてもよろしいですか?」


 顔を伏せたまま、小声でソーニャがつぶやいた。


「なあに?」


 あっというまにカラになったグラスへ瓶から新たな酒を注ぎつつ、ご機嫌な様子の千紗姉ちゃん。


「チサさんが同志マモルと私をなぜそこまでして外出させたいのか、目的、真意はわかりませんが――」


「別に深い理由なんてないわ。ただ二人とも、気分転換が必要そうに見えたから、ね」


「――ともかく。チサさん、あなたは、自身の目的達成のため私を脅迫した――いえ、この際私のことなどはどうでも良いのです。――チサさん、あなたは、偉大なる最高指導者・同志スターリンからの指令により与えられた重要任務の遂行、それを妨害しようとした――私とこの密書の存在を、アメリカ占領軍の情報局の将校へ通報しようとした……。そして今回はあなたは行動を思いとどまったが、しかし依然として、まだそのカードを手の内に留保し続けている……。今後、いつでもまた使えるように……。このことに、間違いはないですね?」


「ソーニャがそう判断したいなら、それでいいわ別に。どうとでも、あなたのお好きなように~」


 アルコールがかなり効いてきたのか、多少ろれつの回らない口調になり、陽気な表情を浮かべながら千紗姉ちゃんが答える。


「あー、美味しい」


 千紗姉ちゃんは二杯目のグラスもすぐに飲み干して、はあっと、満足げに深々と吐息を漏らした。


「ならば」


 伏せていた視線をゆっくりと上げ、千紗姉ちゃんの目を真正面から見すえると、ソーニャは静かにつぶやいた。


「私はあなたを許しません。あなたは今から――私の敵です」


 その声は冷たく、厳しいものだった。


「……そうね。それもまた、面白いかも」


 ウイスキーのグラスに口をつけつつ、千紗姉ちゃんは酔いが回って赤くなった顔で、ロシア人の少女に対しにっこり微笑みかけた。

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